お食事中
「……っ、はぁ……」
薫り高き海苔の佃煮。ご飯を立てつつ磯の香が鼻腔を、いや脳内を駆け巡り一口だけでは物足りないとご飯を更に運ばせる。相川が作った醤油が海苔を海苔ではない何かへと変貌させておりやはり、これだけでもお茶碗の半分は軽く食べてしまい、気付けばもう一杯をよそっていた。いけない。まだおかずはたくあんあるのだ。
「お代わり……」
次に待ち構えるのは甘エビの塩辛。濃厚な海老味噌が、塩麹が、甘エビと言うその存在を変化させてご飯を気付けば一杯空にしてしまう存在へと移し替える。甘エビと言えば少々生臭さがあるものだが、これにはその欠片も存在しない。脳に伝えられるのはこれが海老であること。そして、強烈な旨味と甘みだ。
これでもやはり、ご飯茶碗一杯。軽く平らげてしまう。
「るぅ~っ……本当はまだ後の方がよかったけど……なくなる前に!」
瑠璃が箸を伸ばした先はコトハがやたらとお気に召したらしく自分の分を確保した上でさっきからずっと食べているミニバーグ。
さて、ミニバーグと言えば肉が薄いために肉汁が少ない。火の通りが早いために手抜きになりがち。肉と言う感じがしないなどという微妙なラインナップだ。しかし、ここにいる相川がそんな愚を犯すわけがない。
取り皿に分けて、それを開くと溢れ出る肉汁。それと絡むご飯用の特製和風タレ。もう、これだけでもご飯がいただける。しかし当然中身があるのだからそれと共にいただくことで威力は倍増。ここで更なる追加攻撃。噛めば噛むほど肉の味がする、肉の繊維を噛み千切っているという実感がわく固さ。
「っっっ~! っはぁ……」
ミニだというのに普通のハンバーグを食べているかのような、いやそれ以上の満足感を味わうことが出来る瑠璃だが、コトハが自分の縄張りを示すかのようにこちらを見ていたのでその戦線からは撤退する。
まだ、美味しいものはいくらでもあるのだ。
例えば、豚肉の生姜焼き。生姜のアクセントによって脂っこさの強い豚肉を抑えつつ独特のタレの味が豚肉の潜在能力を引き出し、ご飯を掻き込む手に力を入れさせる。また、同じタレで炒められた玉ねぎも忘れてはならない存在だ。これだけでもご飯が止まらない。
例えば、牛肉のしぐれ煮。同じく生姜を使うが、こちらは煮るという調理によって生まれる。甘く、固く、肉であることを激しく主張する一方で、ご飯の前では一歩引いて白米を口内になだれ込ませる役目を負う。同じくその味を一身に受け止めるゴボウの存在も忘れてはならない。
砂糖と醤油、みりんと調理酒。それから各々に少しだけ加えた昆布出汁やちょっとしたテクニック用の隠し味。細部は異なるものの大まかには同じ調味料を使っているのに、これほどまでに結果が異なるのは素材がいいからだろう。
そんな彼女たちの前に覇権、現る。
「はーい! お刺身と酢飯できたよー!」
「全く……せっかく奥に飯持ってきたのに酢飯出来るの遅すぎ。まぁ温度調節とかあるから仕方ないかもしれんが、魔術の使い方がなってないから……」
「ごめんなさい。きゃぁっ!」
お寿司だ。
刺身とご飯。当然、いける。しかし刺身と酢飯。前者に足りなかったものを補い、合わせ、足し算ではなく掛け算としてその存在を合わせる。この匂いを嗅いだ時、瑠璃は既に略奪者になっていた。
「うわ……こんなに美味しいお魚食べたの初めて……っ!」
「あれ? コトハさんって生魚食べられるの? そういう文化なさそ、ぁむっ……」
「……ごく自然に食べてたわ……なんてものを食べてるのかしら私……うん。美味しいからいいわね。」
「うわうわ。あるじ様のお魚がなくなるよー! 新しいの準備しなきゃ!」
こりこりとした弾力のある刺身。濃厚なクリームの如きウニ。口の中でとろけるようなトロ。全て、鮮度が命なのだろう。しかし、あまりに新鮮すぎると細胞死が起きていないため、食卓に上がっている刺身に感じられる仄かな甘みというものが生まれない。その相反する条件を、これは完全にクリアしており瑠璃は、コトハは、口を食べる以外に。脳を味覚の受容器以外として使うことを放棄した。
「はっ……いけない。こればっかりに夢中になってた……次!」
我に返ったのは酢飯がきれいさっぱりなくなってからだ。しかし気を取り直して瑠璃が続けていただいたのは角煮。あまりに時間を置くとタレが固まり始めるため、味が濃くともそろそろ頂かなければならない時間だったのだ。
慌てて一口……もう、わかる。豚肉特有の脂の臭みが消えてなくなり、甘辛いタレと共にもはや最強の存在として名を馳せる至極の一品。一口目はそのトロけるお味をそのまま、そして急速に落ち着いた瑠璃は二口目には洋芥子を使うことで変化を楽しみつつご飯をいただく。頭の中まで蕩けるそのお味に瑠璃は完食すると同時にお腹いっぱいでもう満足し……
「~っ!」
鼻腔をくすぐるスパイシーな香りによって強制的に意識を覚醒させられる。その匂いの根源はやつだ。
冷めてきた瑠璃専用の飯櫃にあるご飯。飯櫃の保温性は非常に高く、長くご飯を頂くことが出来るが大量の食事を摂る基礎代謝の高い人物の存在のお蔭で空調が少々低く温度設定されており、ご飯やその他のおかずにも場所によってその影響が出てしまったようだ。
しかし、冷えてしまったご飯だからこそ活きる食べ物がある。全てのモノを自分色に染め上げるその存在を、人はカレーと呼んだ。
「お? 瑠璃、寿司終わったところですぐにカレーに行くのか? さっきちょっと冷えてたから強めに温めたしちょいと熱いかも。」
どうやらかの匂いが鼻腔をくすぐった理由は相川がカレーを魔術で温め直したかららしい。
つまり、目の前にあるのは少し冷えたご飯に熱々のカレーということだ。逆のパターンは許されない。カレーの舌触りをよくするために熱は不可欠の要素でありつつ熱さという口内の敵を包み込むご飯の温度。調和することでその威力は……もはや言うまでもない。
スプーンで一気にかき込むのみ……っ!
「はぁっ……」
ご飯に合うようにスパイスを調整されたそれ。様々な素材とスパイスの融合。とろみとコク。それらが混然一体となって瑠璃の口の中から胃まで占領し、鼻腔すらをも我が物とす。しかし、カレーと言う存在は単体だけでも十分だが、更なるポテンシャルを秘めている。
瑠璃は、食事を始める際に目を向けた彼の場所に今一度視線を向けた。
当然のように漬物のスペースに陣取っていた福神漬け、及びラッキョウ。決して主役として張ることは出来ないが、カレーと言う強烈な味に柔らかな甘みと酸味というアシストをつけて存在を昇華させる彼らの力を借りて瑠璃は最後の一掬いまで堪能した。
「満足したぁ……」
「ん? 鯛茶漬け準備してあるけど要らない?」
「くぅっ……要るっ! 仁ぃ……ボク太りそうだよぉ……」
「へー」
悪魔の囁き。濃い味は満足感を覚えさせるものだが、最後に口の中を洗い流すその存在。ご飯の〆……お茶漬けがそこに準備されていた。
「ふわぁ……」
徹底的な温度管理によって、決して出汁が出過ぎてえぐみまで出てしまわないように注意を払った鰹出汁。そして、ぬるま湯で極限まで味を引き出した昆布。勿論、両者ともに厳選に厳選を重ねた逸品。
カレーと言う存在とは別ベクトルに薫り高く、流し込むことが出来る和の一品。優しい香りの中に丁寧に炙られた鯛の白身、そしてしっかりと焼かれてパリッとした皮を乗せられて、ゴマ、焼き海苔、三つ葉を添えられて瑠璃の前に姿を現す。
思わず、食べる前からご馳走様でした。そう告げたくなるような圧倒的なオーラを纏う〆の風格。瑠璃は優しく手に取ってレンゲでそれを掬い口に運ぶ―――
出汁を啜り、一緒に口内に侵入した固形物を咀嚼し、飲み込み、余韻に浸る。
思考が羽ばたきそうだ。脳裏には鰹節が勝手に動いて鉋で削られ、削り節が生まれる光景が。そして桶の中で静かにその旨味を流している昆布の映像が蘇る。……別に見たことがあるわけではないが。
そして、無言だ。リアクションもない。ただ、ほとんど無心になってそれをいただく。ゴマの香、三つ葉のアクセント。気付けば、お櫃の中は空。代わりにお腹がいっぱいだ。
「……ご馳走様でした。」
甘美なる一時を終え……
「ん? デザートは要らないか?」
……まだ、戦いは終わらないようだった。