8
教室内に酷い咳の音が響く。優真は瑠璃に寄り添いながら俺を睨みつける。
「お前はあいつらに噛まれても化け物にはならない。そういうことか」
頷く。紅い結晶を纏った右腕に触れる。
「厳密には化け物にはなっているのかもしれないな。血がガラスみたいになるなんて、どう考えたって異常だろ。俺はそこらの動く死体とは別の化け物なのかもしれないな」
腕の結晶は鈍い紅色で、強度に関してはあいつらの歯を通さない程に硬い。もっと強度があるかもしれないが、今は確かめる方法がない。結晶化するタイミングは出血してすぐだった。出血した部位から徐々に結晶化していった。
「本当になんともないの」
不安気な顔で鶴飼が訊く。
「なんともなくはない。異常だ。あいつらに噛まれても痛みをそれほど感じなくなった。それに身体も軽い。だから一人でここまで来れた。十人くらいに囲まれて、全員殺してこれたんだ、自分でも信じられないけどな」
乾いた笑いが毀れる。怖いんだ、俺の身に起こっていることが。口で説明するのは簡単だが、俺の身体に異変が起きているのは間違いない。俺は俺の身体が気持ち悪いし、怖い。
化け物が。そう言い優真が俺を睨みつける。
「出て行けよ化け物。あいつらに噛まれたんだろ。それも一回だけじゃなく何度も、何か所も。それに、お前が言うように空気感染するってんなら、お前が一番あいつらと接してたんだから、感染してるんだよな」
俺は自分の両手を見つめながら、何度か頷いた。
自分が感染者であるという恐怖。異常な自分への恐れ。仲間を失ったことへの後悔と無力感。自らが殺した仲間の身体。罪悪感と怒り。俺の中には黒い感情がドロドロと流れ続けていた。不安と恐怖が加速する。行き場のない怒りが、俺の中で暴れている。
暫く黙り込んだ俺は、自分がどうするべきか考えていた。
――化け物としてここを去るか。人間として皆と脱出するか。
口を開く者はいない。雨の音がバチバチと校舎を叩く。時折苦しそうな咳が繰り返される。そしてとうとう血を吐いた。
「瑠璃、しっかりしろよ。大丈夫だ、俺が助けるから。絶対に助かるから」
優真の励ましは、励ましになっているのだろうか。俺が助ける。絶対に助かる。それらは優真自身が自分を励ましているだけなんじゃないだろうか。優真は自分の為に励ましの言葉を並べているんじゃないだろうか。
「畜生! なんでこんなことになったんだよ。わけわかんねえよ! 誰でもいいからどうにかしてくれよ」
誰も何も言わない。本能的にわかるのだろうか、瑠璃の状態が極めて異常であって、もう取り返しのつかない状態であることが。
「優真、ごめんね」
瑠璃が血を吐き出しながら言う。
「なんで謝るんだよ。瑠璃はなにも悪い事してないだろ?」
「だって、皆に心配かけちゃったし、不安にもさせちゃってるでしょ。だから、皆にもごめんなさい」
床に血が吐き出される。もう長くはない。俺は腰に隠していた短刀に手を伸ばす。
「桐谷の言う通り、私はもう駄目みたい。自分が自分じゃなくなるもたいな、自分がどんどん離れていっちゃうみたいな、そんな感じがするの。苦しいし、気持ち悪いし、もう、辛いよ」
優真は泣きながら瑠璃を抱き締める。そんなこと言うな。諦めるな。
「桐谷、私が死んじゃったらちゃんと殺して、ね?」
短刀に伸ばしていた手が止まる。仲間の身体を殺す。俺はまた、仲間の身体を。
「ふざけんな! そんなこと俺がさせねえ。瑠璃はこれからも俺と一緒にいるんだよ。二人でこのわけわかんねえ世界から助かるんだよ。そうだろ、瑠璃」
馬鹿だなあ。雨の音にかき消されそうな声。優真の頭を撫でる。
細い腕、短いスカートから伸びる太もも。流行りのメイクなのだろうか、で盛った童顔。どこも灰色に変色してきていた。身体のあちこちに青い血管―太い静脈か―が浮き上がってきている。
「皆、迷惑かけてごめんね。私が、死んだら、優真のこと、よろしくね。本当はもっと、馬鹿で、単純で、短気だ、けど、良い奴、なんだ、よ」
「ああ、知ってるよ」
俺は出来る限り笑顔を作ってそう言った。瑠璃も小さく微笑んだ。
「優真、あんまり、皆に迷惑、かけちゃ、ダメだから、ね。ちゃんと、きょうりょ、く、して、たすか、てね」
「もうやめてくれ、そんなこと言わないでくれ!」
「たのし、かよ。ありがと、ね。ゆう」
言葉の途中で激しく咳き込みだす。血を吐き出して、吐き出して、暴れて、のたうち回り、そして動かなくなった。
「嘘、だろ」
優真が何度も瑠璃の身体を揺らす。言葉を投げかける。何度も何度も、泣き叫ぶ。後ろで鈴元と鶴飼の泣く声も聞こえる。
短刀を握る。鞘から刃を抜く。
「優真、離れろ」
瑠璃の身体を抱き締めた優真は動かない。何度呼びかけても相手にされない。
「優真、頼む。そのままじゃお前も喰われる」
「それでいいよ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、さっきまでとは別人にも見えるその顔で、優真が言う。
「こんなことってあるかよ。目の前で恋人が、あんなに苦しみながら死んだんだぜ。でさ、この後この身体は動きだすんだろ。俺を喰う為に、外の化け物と同じみたいにさ。もう、俺はダメだ。生きてるのか死んでるのかわかんねえ」
「瑠璃はお前に助かってくれって、そう言ってたろ」
「こんな化け物だらけの世界で生きてたって、良い事ねえよ。それに、俺だってもう感染してるかもしれねえんだろ。もう生きる希望なんてねえ」
それはこの場にいる全員も同じだ。おびただしい数の化け物が徘徊し、自分もいつその列に加わるかわからない状態。確かに、この世界で生き延びることに意味なんてあるのだろうか。
「私は、生きたいです」
声の主は、今まで床に座り込んで泣いていた鈴元だった。
「私の大事な家族。お兄ちゃんはもう帰ってきません。これから先、辛い事がたくさん待っているかもしれません。確かに希望なんてないのかもしれません。でも、私にはまだ大切な人がいるんです。その人が生きている限り、私も生きていたいんです」
「鈴元はそうかもしれねえ。でも俺は今、その大事な人を失ったんだよ」
「優真君にだって家族や友達はいます。今は瑠璃ちゃんを失ったショックで全部が嫌になってるかもしれません。でも、それで他の大事なものまで捨てていいんですか?」
――大事なもの。
その場にいる全員が考えただろう。自分の大事なもの。自分の生きる意味。生きる希望。
――俺にはあるのだろうか、大事なもの。生きる意味。
「優真君は私たちの仲間です。さっきまでは喧嘩していたかもしれませんが、一緒に生き延びている仲間です。そうですよね?」
「そうだよお。仲間がいるんだから、それが生きる意味なのさあ」
「まあ、仲間は多い方がいいんじゃない」
マケトさんは微笑み、鶴飼は明後日の方向を見ながら、そう言った。
仲間、優真が呟く。瑠璃をその場に寝かせて立ち上がる。
「そうだな。俺にも生きる意味はあるんだよな。お袋と親父、妹もどっかにいるんだろうし、それに瑠璃の為にも、生きなきゃな」
――家族、大事な人。俺には。
「そうです。だから一緒に助かりましょう。屋上への鍵は手に入っていますし、後は救助を待つだけです」
鈴元が明るく言う。茉莉さんを失って悲しみに暮れていたはずなのに。イメージとは裏腹に、鈴元はとても強い人間なんだ。
教室の中に明るい雰囲気が広がっていく。鈴元の作りだした明るさが、優真を救ったんだ。
――救った? いや、まだだ。
気が付いた時には遅かった。優真の脚に、動き出した死体が喰らいつこうとしていた。優真の名を呼ぶが、遅かった。
悲鳴。肉が噛み引きちぎられる。倒れる優真。その上に仲間だったものが覆い被さる。
「やめてくれ、瑠璃! お前はもう、死んでるんだよ!」
覆い被さる死体を蹴り飛ばす。床を転がった死体は、驚くことにすぐに態勢を立て直し立ち上がった。
――外にいた連中とは違う。この動きは、チャンさんの時と似ている。
チャンさんも緩慢な動きから、突然飛び付き襲い掛かってきた。空気感染。身体に外傷がないから。理由はわからないが、明らかに動きが違う。
「そんな、瑠璃」
優真はマケトさんに引きずられて離れていく。
「二人も離れろ」
鶴飼が鈴元の手を引く。鈴元が涙目で俺を見ていた。
「随分と元気に動くんだな。本当に死んでるのか疑惑もんだな」
刃を向ける。前傾姿勢で俺を見据えるその身体は、どうも今まで見てきた連中とは様子が違う。これも化け物の一種ってことなのか。
様子を窺っていると死体が跳躍した。机の上に飛び乗り、すぐさま隣の机に移動する。早い。その場で留まっていたのが間違いだった。机から跳んだ死体は俺に向かってきていた。床を転がり飛び掛かりをかわす。だが次の瞬間背中に衝撃を受けて吹き飛ばされた。態勢を立て直すのは向こうの方が早かったらしい。飛ばされた拍子に短刀が右の太腿に突き刺さった。鈍い痛みが広がる。
「やめてくれ瑠璃!」
死体は標的を変えたようだ。マケトさんと優真に飛び掛かっていく。
「逃げろ優真!」
叫ぶ。しかし優真はマケトさんを庇うように立ち塞がっている。
――嘘だろ。
死体の一撃は完璧に首を狙っていた。右腕で薙いだ後から、血が噴き出た。
鶴飼と鈴元の悲鳴が重なる。優真はその場で力を失い視界から消えた。
焦りと怒りが鼓動を早くする。宙に舞い、教室を汚した紅い飛沫が恐怖を掻き立てる。死体は腰を抜かしたマケトさんに迫っていく。
思考は停止していた。太腿から刃を引き抜く。痛みなど構っていられなかった。俺の血で濡れた刃を死体に向けて水平に投げる。宙を切る刃の動きがスローに見える。刃から飛ぶ血も、鮮明に見える。刃は死体に向けて飛んでいく。が、その脇を通り過ぎて壁に突き刺さった。
致命的なミスだった。マケトさんも死ぬ。
俺は目を閉じていた。目の前で起こる凄惨な光景から目を背ける為に。自らの失態で救える命を失ってしまうことに。
床に何かが落ちる音がした。恐る恐る目を開き、床を這ってマケトさんたちに近づいていく。
床で折り重なっていたのは、首から血を吐き出し続ける優真の身体と、同じく首に何かが刺さり動かなくなった瑠璃だったもの、だった。
――誰が、これを。
死体の首には紅く小さな破片が突き刺さっていた。水晶のように煌く鋭利な紅い破片。まるで俺の結晶化した血のようだ。
――俺の、血。
立ち上がり辺りを見回す。壁や床には死体に刺さっているのと同じような紅い破片が幾つも突き刺さって、落ちていた。
「桐谷君、ありがとお おかげで助かったよお」
マケトさんが涙を流す。股から床にかけて水溜りができている。無理もない。
鶴飼と鈴元も恐る恐る近づいてくる。
「もう、大丈夫なの」
二人の身体を見下ろし頷く。
「ついさっき生きようって言ったばかりなのに、こんなのって酷すぎます」
鈴元が涙を流す。その涙の意味は、きっと怒りなのだろう。白く小さな拳が震えながらも握られていた。
「優真君はあっしを庇って」
「マケトさんのせいじゃない。元はと言えば俺がこいつを押さえられなかったからだ。俺がすぐに殺せていれば」
「誰のせいでもないでしょ。誰も悪くないわよ」
鶴飼が二人の身体を整え、寄り添わせて寝かせる。鈴元は濡らした布で身体と床の血を拭いていく。
「女性は強いねえ」
強く頷く。この二人の存在は心強かった。いくら喧嘩が強くても、いくら痛みを感じなくても、いくら武器を持っていても、俺だけじゃ生きていけないだろう。皮肉な話だ。元の世界じゃ一人の方が生きやすく強がっていれたのに、いざ生死の境目に立ってみれば、人間としての弱さが露わになる。この壊れた世界に、仲間ってものを教えられたんだ。
「ねえ、なんだか臭わない?」
「はい、私もなにか臭いなって思ってました」
俺はマケトさんを見る。両手で顔を隠している。いや、それ意味ないでしょ。なにも隠れてないでしょ。
血を洗い、ついでにマケトさんの跡も洗い、俺達は久々に椅子に座った。暫くは無言だった。誰も何も言わない。俯き、ただただ時間だけが過ぎていった。雨脚は強くなる一方だった。窓の外は既に真っ暗だ。街の明かりも見えない。この空間だけが暗闇にぽっかりと浮いてるんじゃないか、そんな感覚に囚われる。
どれだけそうしていただろう。ふと見上げた時計は九時を過ぎていた。
「もうこんな時間なんですね」
「あっという間ね。嫌な時間の使い方」
鶴飼がわざとらしく溜息をつく。
「これからどうするのさあ」
「今日はここいましょう。外は暗いし、雨も強すぎる」
「ここで、一夜を過ごすんだ」
全員の視線が鶴飼に向く。
「いや、あの二人もいるし、居心地は良くないじゃない? そりゃ贅沢は言えないけど、でも、やっぱり怖いなって」
「もしもの時は俺が戦う。もう、誰も死なせない。俺が起きてて見張ってるから、三人は休んでくれ」
「そんな、桐谷君だけに大変なことさせられませんよ」
「そうよ、なにかっこつけようとしてるのよ」
別にそんなつもりはなかったのだが、しかしあいつらと戦って一番リスクが低いのは俺だ。いや寧ろこのメンバーでは俺しか戦えない。
「気にするな。鶴飼だって見たろ、俺のわけのわからない力」
――自らの血を結晶にする力。
強度もあるし盾になるとは思っていたが、まさか俺から離れた後も結晶の状態を維持して、それが殺傷力を持つなんて。
「でも、あんただって人間でしょ。眠たくもなるし疲れもする。屋上に行く為にもちゃんと休まなきゃダメよ」
「あっしと交代で見張ろう。いつも夜更かししているから、徹夜は得意なのさあ」
「そんなこと言って、私たちに変な事する気なんじゃないでしょうね」
鶴飼が鈴元を抱き寄せる。その目は完璧に疑いの目だ。
「そ、そんなわけないよお。あっしはとっても紳士なのさあ!」
静寂。
「ちょ、なんか言って欲しいのさあ。あっしのこと信じて欲しいのさあ」
「お漏らしするようは人に言われてもね、ねー」
鈴元に同意を求める鶴飼。困ったように笑う鈴元。全員の表情が久々に綻ぶ。
「とりあえず三人は休んでくれ。最初は俺が起きてる」
「きつくなったらあっしを起こしてくだされ!」
「気が向いたら、ですけど」
ガーン、と口で効果音。マケトさんは教室の隅で体育座りでいじけだした。
「でも本当に無理はしないでよ、一番疲れてるのはあんたなんだろうし」
「ああ、ほどほどにしとくよ」
「なにかあったらすぐに声をかけてくださいね」
「ありがとう、鈴元」
二人は窓辺に行き、肩を寄せ合い目を閉じた。
電気を消す。壁に取り付けられていた懐中電灯で視界だけを照らす。
――壊れた世界。
窓の外。灯を失った景色。この世界は壊れてしまったのだろうか。なにもわからないまま、人類は死んでいくのだろうか。今も戦っている人はいるのだろうか。俺はこれからどうなるのだろうか。俺の生きる意味は。大事なものは。
壊れた世界での初めての夜は、そんなことを考えながら更けていった。