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「こんなの、冗談だろ」
フラフラと歩み寄ってくるのはついさっきまで仲間だったものだ。会話をし、笑い、力を合わせてここまできた仲間だった。だったんだ。
「止まってくれ、チャンさん。目を覚ましてくれ!」
返事はない。代わりに口からは呻き声が漏れる。ダランと脱力した両手が俺に向けて伸ばされる。身体は動かない。俺の頭は目の前にある現実を受け入れたくないみたいだ。
――逃げろよ、俺!
遅かった。ゆっくりと距離を縮めてきていた身体は突然前傾姿勢になって飛び掛かってきた。力はそれほど強くない。振りほどいて突き飛ばすことは難しくないだろう。だが、ほんの数分前まで会話をしていた仲間の、こんな変わり果てた姿を目の前にして、俺は抵抗するのがやっとだった。
「頼む、こんなことやめてくれ」
俺の言葉は届いていないのだろうか。この身体の中に俺の知っているチャンさんはいないのだろうか。俺の仲間は、死んでしまったのだろうか。
――死んでるのか。
俺の目の前にいるのは、俺を食い殺さんとしているかつての仲間は、もう死んでいるのか。この身体の中には誰もいない。俺の仲間はもういない。
――俺の仲間は、死んだ。
混乱と悲しみ、受け入れがたい現実。それらが遠くに離れていく。代わりに俺の中に湧きだしたのは、悔しさと、言葉にしようがない苛立ち、ムカつきだった。
目の前の”死体”を睨みつける。白く淀んだ目、開きっぱなしで涎が糸引く口、灰色が混じったような体色。こいつはもう、俺の仲間なんかじゃない。何度も自分に言い聞かせ、腕に力を込めていく。
「お前はもう、人じゃない。人じゃないんだ!」
叫び、腹部を蹴り飛ばす。
「俺の仲間は死んだ! お前らに殺されたんだよ!」
よろけている身体をもう一度蹴り飛ばす。壁に追いやったところに、顔面を思い切り殴りつける。一度や二度じゃなく、何度も、何度も何度も。後頭部の打ちつけられる校舎の汚れた壁が赤くなるまで。何度も殴る。
「お前らのせいだ、お前らが俺の仲間を殺したんだ、お前らが世界をおかしくしたんだ!」
拳が痛い。交互に殴りつける両手が熱を帯びている。
「茉莉さんも、チャンさんも、他の連中だってお前らが殺したんだ!」
死体の膝が折れる。壁を背に、その場で崩れ落ちる。
「だから、俺はお前らを許さない」
脚で顔面を壁にねじ込む。脚をどけると、死体はその場に横たわった。後ろの壁には血が幾筋か流れていた。
目の前の死体を見下ろしながら荒い息を整える。仇を討った。俺が化け物を殺した。この手で、化け物を。
「俺が殺したのは、化け物なんだよな」
血で濡れた拳を握る。悔しさはなくならない。苛立ちも収まらない。虚しさだけが、俺の中のを流れる血を熱くする。
――怒りだ。
化け物共に対する怒り。仲間を奪われ、日常も奪われ、俺の命も奪われかけている。俺の中には、自分でも信じられない程の怒りが渦巻いていた。
頬に冷たいものが当たる。水だ、滴。雨が降ってきた。勢いはすぐに強くなり血で汚れた俺を洗っていく。今朝から続いていた曇天が、ようやく溜め込んだ水を吐き出したんだ。普段は鬱陶しい雨も、今だけは心地よく感じた。冷たさも、不規則な音も、熱くなりすぎた俺には丁度よかった。
「皆の元に戻ろう」
空を見上げる。雲は遥か上空にあるのか、それとも俺の目と鼻の先にあるのかわからなかった。暗い。いつの間にこんなに暗くなったのだろう。真っ黒な空と、真っ暗な世界が、俺の周りに満ちている。
足元で何かが光っている。チャンさんのスマホだ。マケトさんからの着信だった。
「鍵は手に入れました。今から戻ります」
マケトさんがなにか言う前に通話を切った。今の俺は満足に会話なんてできないだろうから。
スマホをポケットに突っ込み、短刀を手にして階段を上っていく。
世界が雨の音で支配されたようだった。他には何も聞こえない。他には何も感じない。少しでいい。俺を空っぽにしてくれ。
「しっかりしろ瑠璃、絶対に俺が助けるから。それまでもう少し耐えるんだ」
紅弥達はまだなのか、優真君が声を荒げます。三人が職員室に向かって二時間余りが過ぎようとしています。確かに心配ではありますが。
――お兄ちゃん、桐谷君。
「あんたいい加減にしなさいよ、いくら彼女が心配だからって勝手なこと言い過ぎなんじゃないの」
「大事な人を心配して何が悪いんだよ! そもそも勝手に出て行ったのはあいつらだろうが」
美咲ちゃんと優真君はさっきから言い合いを繰り返していました。元から優真君と瑠璃ちゃんは孤立していましたが、瑠璃ちゃんが胸の苦しみを訴えだして、酷い咳をするようになってからますます雰囲気が悪くなっています。
「一応桐谷君から返事はあったから、もうすぐで戻ると思うからさあ。ね、二人ともここは落ち着いて」
「こんな状況で落ち着いてなんていられるかよ! あんたらには大事な人がいないからそんな顔していられるんだ。誰も俺の気持ちはわからねえよ」
「あんたいい加減にしなさいよ! 私たちだって家族や友達が心配に決まってるでしょ、あんただけが辛い思いしてるんじゃないのよ!」
「落ち着いて美咲ちゃん。今はそっとしておこう?」
美咲ちゃんは窓の方に行ってしまいました。その横顔に涙が見えたのは、私の見間違いではないはずです。
「あの、マケトさん。お兄ちゃんたち、三人は無事だったんですよね?」
「う~ん、あっしが何か言う前に桐谷君が喋ってすぐに切れちゃったからなあ」
「そうですか」
嫌な予感がします。今も不安で不安で、心臓がどうにかなってしまいそうです。マケトさんは笑顔で励ましてくれますが、私の嫌な予感は良く当たるんです。
「もしかしてあいつら、俺達を置いて逃げたんじゃないだろうな。裏切ったんじゃねえのか!」
優真君が立ち上がりマケトさんに詰め寄ります。
「そ、そんな訳ないさあ。現に返事もあったわけだし」
「んなもんデタラメかもしれねえだろ! もう一度電話しろ、俺が話す」
マケトさんが急いでスマートフォンを操作します。優真君、目が怖いです。
呼び出し始めたスマートフォンを優真君が奪い取ります。いつもにこやかなマケトさんも悲しそうな目で優真君を見つめています。
「おい、今どこにいるんだ、逃げたりなんかしてたら」
言葉の途中で優真君が黙ります。そして数秒の後スマートフォンをマケトさんに返しました。
「な、なんて言ってたんだい」
「今階段を上ってる。すぐに来るんじゃねえか」
マケトさんと笑い合います。話を聞いた美咲ちゃんも近づいてきます。
「桐谷達、無事なのね」
「うん、よかったね、すぐに来るって」
マケトさんがドアのバリケードを動かします。私たちもそれを手伝います。
後ろでは瑠璃ちゃんの苦しそうな咳と優真君の必死の励まし、それと窓を叩く雨の音が続いています。
真っ暗な廊下。一つだけ灯の点いた教室がある。俺は雨と血で濡れた身体を引きずって家庭科室を目指す。
ここに入る前に茉莉さんと一緒に倒した死体を跨いで扉の前に立つ。ノック。マケトさんが呼びかけてくる。応えると扉が開き、電気の明るさで目が眩んだ。
「桐谷君無事だったんだねえ」
「なに突っ立てんのよ、早く入りなさいよ」
「お帰りなさい、桐谷君」
三人が俺を迎え入れてくれる。マケトさんはびしょ濡れの俺を見てタオルを持ってきてくれた。頭からタオルを被り、俺はその場で立ち尽くした。
マケトさんが問う。
――茉莉君とチャンは?
俺は膝を突いて、両手を突いて、頭を下げた。
「ごめんなさい。俺だけが、帰ってきてしまいました」
ごめんなさい。ごめんなさい。すみませんでした。
鈴元が床に座り込む。マケトさんは俺の肩を叩いてバリケードを直し始めた。鶴飼は俺の傍に来て、濡れた頭をタオルでぐしゃぐしゃと拭いてくれた。
「まったくー、チャンは相変わらず約束にはルーズなんだあ。待ち合わせしても遅れることがしょっちゅうで、そのせいで手に入らなかったグッズが幾つあったかわからないんだよお」
でもさ、そう言いながらマケトさんが近くの席に座る。
「どんなグッズもいらないから、一緒に助かろうって、今回の約束だけは守って欲しかったなあ」
そして机に額をあてて泣き出した。
俺の髪をぐしゃぐしゃにした鶴飼は鈴元を抱き締めに行った。鈴元は鶴飼の胸の中で静かに泣き続けている。
泣き声の中に足音が近づいてくる。
「紅弥、鍵はどうだったんだよ」
優真が俺を見下ろす。ポケットから鍵を取り出し渡す。
「これで助かる。瑠璃を助けられる!」
優真の顔が綻ぶ。それに対して鶴飼が睨む。
「あんたこの状況でよくそんなことが言えたわね。仲間が二人もやられたのよ、大事な人を失ってるのよ? あんたはなにも感じないの?」
「うるせえよ。俺にとっては他人だ」
「自分の彼女には心配しろだの言っておいて、それ以外は他人? 身勝手なのもいい加減にしなさいよ!」
鶴飼を手で制する。立ち上がって優真の正面に立つ。
「茉莉さんもチャンさんも、俺達の為に死んだんだ。その鍵を手に入れる為に犠牲になったんだよ。それを他人だって言うなら、お前にその鍵は渡さない。お前に、あの二人に助けられる権利なんてねえ!」
「意味わかんねえこと言ってんじゃねえよ、こっちは大事な人が苦しんでんだよ。一刻も早く助けてえんだよ。その為の犠牲だろ。だったらあいつらも本望だろ!」
俺は目の前の友人を殴り飛ばした。落ちた鍵を拾い上げる。
「空気感染するかもしれない」
全員の視線が俺に向けられる。
「チャンさんは非常階段にいる時に噛まれずに感染したみたいだ。上半身が膨らんで、水疱まみれの化け物が外を徘徊してた。そいつのまき散らす霧みたいなのを吸って感染したらしい」
「そんな、じゃあ私たちも」
「わからない。だが可能性はある。チャンさんは胸の苦しみと酷い咳をしていた。血も吐いたし、身体は異常に冷たくて灰色に変色していっていた。ちょうど優真の大事な人みたいにな」
教室が静まり返る。強さを増した雨が窓をしきりに叩いている。
「適当なこと言ってんじゃねえよ。瑠璃が感染してる? ふざけんじゃねえ、そんな話信じるかよ。俺と瑠璃に嫉妬してるんだろ、嫌がらせなんだろ。その手には乗らねえよ」
「どう取るかはお前の事由だ。これ以上俺は何も言わない。変わり果てた自分の彼女に喰われるのも、ありなんじゃないか」
優真が拳を握って近づいてくる。俺もそれを迎え撃つ。
「まってまって、仲間割れしている場合じゃないよお。ちょっと冷静になろうよお」
「そうよ、それにその話が本当だったらこのままにしてるのもマズいじゃない」
マケトさんと鶴飼が俺達の間に入る。
「チャンさんは三十分もしないうちに死んで俺に襲い掛かってきた。確かに時間はないな」
「それどういう意味だよ。まさか瑠璃を殺そうだなんて言うんじゃないよな。そんなことしようもんなら俺がてめえを殺すぞ」
俺は近くの椅子の上に左脚を乗せ裾を捲ってみせる。
「一時間以上前に噛まれた傷だ。最初の頃こそ痛みはあったが、暫くしたらなんともなくなった。逆にこの結晶みたいなのが瘡蓋になってくれている」
それに、と俺は非常階段からここまで来るまでに噛まれた右腕と右肩の傷も見せた。その場にいる全員が固まる。
「どこも痛みや違和感はない。そしてどこも血が結晶化してる」
「だから、なにが言いてえんだよ」
「感染しても発症するかしないか、二種類の人間がいるんじゃないか」