6
「俺だって泣きたいさ」
チャンさんにそう言われて、俺が涙を流していることに気が付いた。
「あれ、なんで俺」
涙を拭う。けれども涙は次から次へと零れてくる。俺の意志に反して、俺の身体はなにかを訴えているかのようだ。
「助けを呼ぼう。マケトに連絡してみる」
チャンさんがスマホを取り出して画面に触れる。
「待って下さい。ここでそんなことしたって皆を危険な目に遭わせるだけですよ」
「ならこれからどうするって言うんだ。頼りだった茉莉はもういないし、桐谷だって脚を怪我した。武器も無くしたし、どうにもならないだろ」
チャンさんの口調はあくまで優しかった。諭すようなその言い方は、感情に任せて訴えるよりもよっぽど説得力があった。
だが、それでも俺は。
――妹を、舞衣を頼みます。
「俺は、一人でも行きますよ」
チャンさんが俺の顔を見る。お前はなにを言っているんだ、そんな表情だ。
「職員室に行って鍵を手に入れる。そして皆の所へ戻る。俺は自分の目的を果たしますよ」
腰掛けていた踊り場から立ち上がる。左足が痛むが、少し安静にしたおかげで大分マシになった。
「一人で行く気なのか。そんな状態じゃ無理だ。桐谷だってわかってるだろ」
「チャンさんはここにいて下さい。俺が鍵取ってきて渡すんで、そしたらここを上って皆と合流して下さい」
チャンさんの呼びかけには応えずに、一段ずつ軋む階段を下りていく。
周りにも感染者は徘徊している。幸い一回の非常階段には俺の背よりもかなり高い柵状の扉が取り付けられている。腕くらいなら通ってしまうが、捕まらないように気を付ければ問題ないはずだ。
一階の扉の前に立つ。後ろに外へ出る為の扉。
「桐谷、本当に一人で行くつもりなのか」
「どうせ助からない命です。もうなにも怖くありませんよ」
嘘だ。俺が次第に感染者のように変わっていく姿なんて、想像しただけで気がおかしくなりそうだ。身体は動くのに、その中に俺はいない。俺が化け物に変わっていく。
――俺が、ゾンビに。
背後の扉が大きく音を立てる。いつの間にか感染者が集まってきていた。何本もの腕が俺に向かって伸ばされる。
――俺が、こいつらみたいに。
目の前の光景から目を逸らすように、俺はドアノブに手をかける。
「チャンさん、鍵だけは必ず届けますから待っていてください」
それだけ言って、逃げるように扉を開いた。
「チャンさん、鍵だけは必ず届けますから待っていてください」
扉が音を立てて閉まる。
――桐谷、すまない。俺は臆病者だ。
鍵を閉める為に階段を下りていく。桐谷の姿を見失った感染者達は、また次の獲物を探して徘徊し出した。
鍵をかける。
――待ってるからな、桐谷。絶対戻ってきてくれよ。
足の下でなにかを踏んだようだ。ジャリジャリと音が鳴る。
――赤いガラス?
足をどけると小さな円形に赤いガラスのような破片があった。屈んで近くで見ると、どこまでも真っ赤な、黒が少し混じったような、そんな色をしている。中々に鋭利だ。触れたら怪我をしてしまうだろう。
――なんでこんな綺麗なものが?
階段を見上げる。すると一段に一ヵ所赤いガラスの破片があった。俺達の座っていた踊り場から続いているらしい。
――桐谷の、血痕?
血がこんな固まり方をするわけがない。そんなことはわかってる。だが、そうでないとこの赤い鋭利な破片の正体を説明することができない。
「感染者の血液はこんな風に固まるのか。いや、今まで見てきた中でそんな奴はいなかった。だとすると桐谷だけ?」
ふと鼻を突く臭いに咳き込む。
「なんだこの酷い臭い」
気付くと周囲が黄緑色に霞んでいる。霧のようなものが舞っているみたいだ。
胸が苦しくなる。咳が止まらない。
「なんだ、あいつは」
外をなんとも醜い化け物が歩いている。人間の面影はあるが、その姿は化け物だった。
――桐谷、早く皆の元へ帰ろう。
校長室、応接室、職員室。一階のこの一画には教師専用の部屋が集まっている。だからなのか教師の変わり果てた姿があちこちに転がっている。
奴らは生存者を求めているのか、昇降口や階段の方に集まっているらしい。職員室前の廊下には、奴らの姿は疎らだ。
――このまま見つからずに進めば、いける。
三人で一人を貪っている奴らや、壁に向かってひたすらぶつかり続けている奴を尻目に、静かに慎重に進んでいく。
息を殺す。
言葉の通り、息をすることを忘れてしまいそうだ。意識的に呼吸しないと酸素が足りずに意識が朦朧としてきてしまう。
半分まで開かれた職員室の扉には、幾つもの赤い手形がついている。教師たちが立て籠もろうとしたのだろうか。結局は抵抗虚しく開かれてしまっているわけだが。
半分まで開いているスライド式の扉から中を窺う。ここから確認できるのは二人だけ。他にも床を這っている奴もいるかもしれないが、そんなに多くはなさそうだ。
無理やり開けられたのか、扉はレールから外れて動きそうにない。俺は四つん這いで職員室に侵入した。姿勢を低くしていれば並んでいるデスクで見つからないはずだ。
――こんな心臓に悪い事、ゲームの中だけにしてくれよ。
敵に見つからにように進む。そんなステルスゲーは幾つかプレイしてきた。敵に見つからないように進む緊張感。いかに戦闘を避けて進むかという戦略。画面越しにプレイする分には素晴らしいジャンルのゲームだと思う。しかし、いざ自分がプレイヤーになってみると、この状況は地獄だ。生きた心地がしない。
俺の入った扉から対角の壁に鍵は掛けてあるはずだ。
慎重に床を這って行く。幾つもの血痕が残っている。中には引きずられたような血痕もある。爪の跡が残っている。剝がれた爪は恐らく女教師のものだ。
壁にフックが取り付けてある。幾つか鍵が落ちているが持ち出された形跡はない。屋上に出る為の鍵もあるはずだ。
――頼む、あってくれ。
落ちている鍵の中にはなかった。後は壁に掛かっているどれか。立ち上がらなくてはならないが、もう見つかっても構わない。鍵を手に入れたら走って階段に向かおう。
立ち上がる。念の為職員室内を確認する。
――奴らがいない。
廊下から確認した時は少なくとも二人はいたはずだ。その姿がない。
「あった、こいつだ」
とりあえず屋上の鍵は手に入れた。後は階段に向かってチャンさんと合流するだけ。
――あいつら、死んでるのか。
少し移動すると、血溜まりの中に倒れている感染者を見つけた。さっきまでフラフラと動いていた奴だ。
――どうして死んでるんだ。誰が殺したんだ。
なんとなく近づいてみる。首を刃物で切られたのだろうか。パックリ開かれた首から真っ赤な血が流れ出ている。
「お兄ちゃん、私たちと同じ匂いがするね」
背後からした声に俺は驚き、死体につまずいて転んでしまった。
「大丈夫、お兄ちゃん?」
「平気、お兄ちゃん?」
――この子達、いつの間に。
床に尻餅を着いた俺を、首を傾げながら、しかし無表情で見つめる二人の少女がそこに立っていた。身長は百五十もないだろう、白い肌に青みがかかった瞳は日本人ではないように思える。そして二人が着ている白と黒のフリルがふんだんにあしらわれたドレス―ゴスロリって言うんだっけ―がこの場との違和感を際立てている。
「君達、いつからそこに」
俺は尻餅を着いたまま問う。しかしゴスロリ少女は二人ともクスクス笑うだけだ。
「お兄ちゃんはいい感じだね」
「お兄ちゃんは上手くいくね」
この二人が何を言っているのかはわからない。だがここで生存者と会えたのはラッキーだ。
「二人も俺と来てくれ。屋上に行って助けを待とう」
立ち上がって埃をはたく。正面にいたはずの二人の姿がない。
「助けなんてこないよ」
「普通の人は死ぬんだよ」
俺の背後から二人が言う。
――いつの間に、瞬間移動でもしたのか。
「そんなことない。諦めるにはまだ早いよ。二人も助かるから、一緒に行こう」
二人へ手を差し出す。しかし二人はクスクス笑うだけ。
背後から何かが近付いてくる気配がする。デスクの上のノートパソコンを掴んで後ろに投げつける。
「お兄ちゃん、ざんね~ん」
「お兄ちゃん、はずれ~」
クスクス、クスクスと二人の笑い声だけが職員室に響く。俺の投げたノートパソコンは壁に叩き付けらて床へと落ちただけだった。
振り返ると二人の少女の姿はなかった。
――なんだ、どうなってる。俺の頭がおかしくなったのか。
周囲を見回してみても、どこにも二人の姿はない。代わりに、二人のいた場所に何かが落ちている。
「なんでナイフなんか落ちているんだ」
小さな短刀だろうか、柄にも鞘にも細かく美しい装飾がされている。刃を抜いてみると、細かい彫刻が赤く彩られていた。
――血、なのか。
ここにいた二体の感染者はあの子達が殺したのだろうか。いや、あんな幼い子に人殺しなんてできるはずがない。第一この短刀もあの子達の物かどうかわからない。
短刀は持っていくことにする。素人の俺でも分かる程その刃は美しく砥がれていた。普段見る包丁なんかとは大違いだ。
――武器として、ないよりはマシだな。見つからないことに越したことはないが。
手前の扉が勢いよく開け放たれる。そこから感染者が押しのけ合い入ってくる。
「嘘だろ、なんでこいつら」
俺が入ってきた壊れた扉へと走る。キャスター付きの椅子を感染者達へ蹴り飛ばし、デスクを押して奴らの進行を妨害する。
廊下に出る。すぐそこに感染者の血に濡れた顔があった。後ろに跳びつつ短刀を抜いて首の辺りを薙いだ。
鮮血が噴きだしそいつは仰向けに倒れた。何かを切ったような、そんな感覚もなかった。刃の彫刻がまた赤く染まっている。
――やっぱりこの短刀でさっきの奴も。
目の前の廊下から奴らが押し寄せてくる。踵を返し非常階段へ走る。
食事中だった三人をかわし、蹴り飛ばし、壁に突っ込んでいた奴の首には短刀を突き立て、先に進んだ。
「チャンさん開けてくれ!」
扉の数メートル手前から呼びかける。扉に辿り着きドアノブを回す。まだ鍵がかかっている。
「奴らがすぐそこまで来てるんだ、開けてくれ!」
扉を強く叩く。体当たりもする。感染者の群れが腕を伸ばして俺に向かってくる。
何度目かの体当たり。それと同時に扉が開き俺は外に転がった。後ろで扉が閉められ鍵がかけられる。すぐに扉が激しく叩かれる。
「助かった。ありがとうチャンさん」
チャンさんは扉の前で屈み、苦しそうに咳き込んでいる。
「どうしたんですか、大丈夫ですか」
「さっきから、こんな調子なんだ。胸が苦しくて、咳が止まらない」
激しく咳き込むチャンさんの様子は、とても普通の症状とは思えない。
「とにかくここに居続けるのも危険だ。上に向かいましょう」
腕を取って立ち上がらせる。身体が冷たいようだが、この症状はいったい。
「すまない桐谷。なにより無事でよかったよ」
「俺ならなんともないです。それに鍵もちゃんと手に入れました」
咳き込みながらも微笑むチャンさん。顔色も悪いし、目やにも酷い。それに鼻血も出ているようだ。俺と離れていた短時間でなにがあったんだ。
階段をゆっくり登っていく。扉は今も激しく叩かれている。
「桐谷はもう、脚は大丈夫なのか」
「そう言えばそうですね。無我夢中だったから忘れてました」
確かになんともない。痛みもなければ違和感もない。言われるまで噛まれたことを忘れていた。
「少し座らせてくれないか」
俺から離れて壁にもたれかかる。咳を繰り返し、血も吐いた。
「チャンさん、なにかあったんですか?」
「それが原因なのかはわからないが、異様な姿の感染者がいたんだ」
「と言うと」
「上半身が膨らんでて、身体のあちこちが膨らんでいる奴だった。そいつが通った後から、調子が悪くなったんだ」
そう言うと錆びた踊り場に血を吐いた。かなりの量だ。これは悠長に大丈夫か、なんて聞いてる場合じゃない。
「ここにいたってなにも変わらない。皆と合流しようチャンさん」
腕を取ろうとするが激しく咳き込み暴れるチャンさんに弾かれる。
「桐谷、お前だけでも行くんだ」
「なに言ってるんですか、そんな状態で置いて行けるわけない」
地面に手を突き、血と胃液を吐く。誰が見ても普通じゃない状態だ。
「きりた、に」
チャンさんが指で何かを示す。その先を追うと外を歩く異形がいた。
「なんだあいつ」
上半身が大きく膨らみ、水疱のようなものが幾つも身体に現れている化け物。距離があってわかりずらいが、あいつの周りには黄緑色の霧のようなものが立ち込めている。
「あいつが、とおったあと、から、だ」
「しっかりしろよ! なんでこんな」
「はやく、い、け。おれは、もう」
駆け寄るが腕を振るわれる。直後激しく苦しみだし壁にもたれかかって動かなくなる。
「なにが起きてるんだよ! しっかりしろよチャンさん!」
傍にいって肩を揺らすが反応はない。目、鼻、耳から血が流れている。
「こんなの、嘘だろ」
外を徘徊する醜い化け物を見る。
――あいつの発する霧みたいなものがチャンさんをこうしたのか。だとしたらあいつには接触しないようにしなければ。
この世界にはどうやら映画やゲームでおなじみの”動く死体”以外にも化け物が徘徊しているらしい。それにさっき会った二人のゴスロリ少女の存在も気になる。俺が思っている以上にこの世界は狂ってしまっているらしい。
チャンさんが立ち上がる。だらりと脱力した身体、口から垂れる涎。訂正しよう。立ち上がったのは、”チャンさんだったもの”だ。