5
風を切る音が廊下を駆ける。空を切った鉄串は感染者の眉間に突き刺さり、元の動かない死体へと還す。
「進みましょう。もたもたしていると感染者に囲まれてしまいます」
俺達は二階の廊下を走っていた。ほとんどの感染者に対して茉莉さんの弓で先制攻撃し、俺とチャンさんで各個撃破していく。
「奴らの数少なくないですか?」
「ええ、やはり下の階に移動しているのかもしれませんね。ここから先はさらに警戒しながら進みましょう」
階段に差し掛かる。下の階の様子を茉莉さんが確認して、突破するか迂回するかを判断していたのだが、今回は選択肢がないようだ。
「なんだあの数、これじゃ通れない」
「これは迂回するしかありませんね」
階段には感染者が密集していた。踊り場に固まっているところを見ると、もしかしたら生存者が襲われた後なのかもしれない。
「でも向こうの階段も危険だったじゃないか。どう降りるんだ」
「非常階段という手もありますが、あそこにも平常時は鍵がかかっていたはず」
茉莉さんが腕を組む。
――非常階段は、確か…。
「俺の記憶が正しければ非常階段に出られるかもしれませんよ」
二人の視線が俺に向く。
非常階段は校舎の外側に取り付けられた鉄製の螺旋階段だ。各階の扉には避難訓練の時以外は鍵がかかっているのだが、扉の横に位置している男子トイレの窓から非常階段に出ることができる。
「課題を家に忘れた時にそうやって学校を抜け出したことがあったんですよね」
俺はやれやれと首を振ってみせた。
「普段の生活では褒められた話ではありませんが、緊急時ではそれも先見の知恵ですね。試してみましょう」
三人で頷き廊下を駆けだした。
茉莉さんが弓を構え、チャンさんが非常階段の扉、ドアノブを回す。しかしガチャガチャと音が鳴るだけで開く気配はない。
「やはり駄目ですね。トイレの中から進んでみましょう」
廊下から男子トイレの中まで血痕が続いている。狭所で複数を相手にしたら確実に殺される。
「僕が先に様子を見ましょう」
茉莉さんが暗いトイレへと進んでいく。
「こんな状況でトイレになんて近づきたくなかったな」
「同感ですよ。ホラーと言えばトイレですもんね」
こんな場違いな会話をしてはいるが、チャンさんは顔面蒼白で身体を小刻みに震わしている。俺も心臓が耳にあるんじゃないかと思うくらい鼓動している。極度の緊張で目眩がしてきた。
トイレ内でなにか音がした。その直後トイレから弓だけが滑ってきた。
俺はトイレに突っ込む。薄暗いトイレの中で、茉莉さんが感染者と組み合っていた。茉莉さんの名を叫び、助けようと駆け寄る。
「僕のことはいい! それよりも早く外へ!」
「それじゃ茉莉さんが」
「個室の中にまだ何人も隠れているようです。個室のドアが壊れれば僕達全員助かりません。僕がここで押さえますから、二人は早く外へ!」
――そんな。
三つある個室のうち閉まっているのは二つ。どちらも中からドアを叩いているようだ。片方の扉は蝶番が一つ外れて開きかかっている。
「畜生!」
俺の頭より少し高い位置にある窓を開く。ここをよじ登って外に出られれば階段に降りられる。
「チャンさん、先に外へ」
その場で屈んで足場になる。チャンさんの足を肩に乗せ、壁に頼りながら立ち上がる。
「よし、いけそうだ」
チャンさんの姿が窓の外に消える。
「茉莉さん!」
「僕のことはいい! 早く行って下さい」
茉莉さんの言葉と同時に個室の片方のドアが吹っ飛んだ。中から感染者が二体現れ、茉莉さんに襲い掛かる。
悲鳴。
頭の中が真っ白になる。俺はなにをしているんだ。目の前ではいったいなにが起こっているんだ。お前たちはなにをしているんだ。
「桐谷紅弥君! 妹を、舞衣を頼みます!」
茉莉さんはトイレの床に押し倒され、喰われ始めた。
「そんな、茉莉さん! 嘘だろ!」
「桐谷! どうしたんだ、なにが起こってるんだ!」
心臓が破裂しそうなほどに脈打っていた。頭が割れるんじゃないかと思うくらい酷い痛みがした。呼吸が乱れ、視界が歪む。その中で、さっきの言葉が何度も何度も頭の中に響く。
――妹を、舞衣を頼みます!
「こんなところで死んでたまるかよ」
窓の向かいに位置する水道に立ち、そこから窓に飛び移る。外の世界とチャンさんの姿が視界に入る。
「早く降りて来い!」
狭い窓から身体を出し、窓枠に片脚をかける。後は飛び降りるだけ。
――いてえ。
窓枠にかかっていない左足に感じたことのない痛みが広がる。熱いのか、痛いのか、感覚とは曖昧なもので視認できていないと感覚の種類すらわからなくなってしまう。まあ、この場合は”痛み”であって、その原因は”噛まれる”なんだろうけど。
左足をバタつかせ、壁を蹴って感染者に抗う。ブチっという音と激痛が俺の頭に届き、同時に窓の外へと転落した。
「桐谷、大丈夫か」
「俺は、どうなったんですか」
「悲鳴を上げた瞬間落っこちてきたんだよ」
鉄製の螺旋階段。雨風に曝されろくに手入れもされないここはボロボロで、歩くたびに、いや強い風が吹くだけでギシギシと音を鳴らす。
チャンさんの肩を借りて立ち上がる。しかし左足の痛みで満足に歩くことができない。
「俺、噛まれちゃいましたね。これで奴らの仲間入りです」
「そんなこと言うなよ。桐谷はまだ生きてる。俺と同じ人間だ」
チャンさんの肩を借りながらゆっくりと階段を下りていく。
「茉莉さんが、やられました。助けようと思えば助けられたのに」
「いや、彼が時間を稼いでくれたから俺達二人は生きていられるんだ。そうでなかったら今頃俺達もトイレで食べられていたさ」
ギシギシと階段が軋む。塗装は剥げ、錆びだらけの階段は、俺達を希望のある場所に導いてくれているとは到底思えなかった。