第三章 スーパーチャージデバイス
――社長室。
加納社長が応接ソファーの上座に座って資料を見ている。
三人が社長に挨拶をして応接ソファーの下座に座ると、加納社長は資料から目を離して前を向いた。
「島君、俺はこの契約に社運を賭けてみようと思うんだ。本当に出来そうかね? もし失敗したら会社の信用を一気に失ってしまうから、実はちょっと不安なんだよ、みんなの前では言えなくてね」
「任せて下さい、我社の優秀な若手技術社員で半導体製造工法開発チームを編成すれば、何とか行けると思います」
「そうか、君がそう言ってくれると心強いな。で、どんな作戦で行くかね」
「この案件を成功させるには、製造プロセス技術と生産設備技術のアプローチが必要です。半導体製造工法開発メンバーは解析技術課と設備技術課から精鋭を募ります。それから我社は基本的に半導体評価装置の製造メーカーですから、半導体の製造ラインがありません。半導体の試作は国内のファンドリーメーカーに製造委託して設備投資を抑え、出来上がった開発サンプルを技術評価して製造工法を検討する方法がベストだと考えます。それと、半導体製造工法開発チームのリーダーなんですが、解析技術課の神崎君にやってもらいます」
「よし分かった。頼むぞ、神崎君!」
「社長、本当に私でいいのですか?」
社長が神崎を指差すと、神崎は胸の前で両手を広げて社長に訪ねた。
「いいとも、実は俺も神崎君が適任者だと思っていたんだよ」
「えっ? なぜですか?」
「由香里が君の話をしていてな」
「由香里?」
「田町由香里だよ」
「田町がですか? どうして社長に?」
「由香里は俺の姪っ子なんだよ、俺の姉の娘だ」
「えっ、加納社長は田町の叔父なんですか? そんな話は聞いていませんよ!」
「神崎君が聞いていなくても、俺は由香里からよく話を聞いているぞ、天才だってな」
「中村課長、田町が社長の姪だなんて知ってましたか?」
「いや、知らない、俺も初耳だよ」
中村課長と神崎は振り向いて顔を見合わせた。
(そう言えば、会議メンバーは重役ばかりだったな……平社員の俺が会議に出席するなんて、おかしいと思ったんだ)
神崎が心の中でぼやく。
「神崎君、責任は重大だが君の様な若手社員が、これからの事業をリードして欲しいんだ。ぜひ頼むよ」
「加納社長、非常に有難いお話なのですが……」
「何だ駄目かね」
「いえ、仕事は引き受けます」
「そうかね」
「実を言うと既にCMD社の真田さんから評価サンプルの解析依頼を一件受けています。真田さんは私の知り合いで大学の先輩なんですよ」
「それは凄いじゃないか、神崎君、彼が君の知り合いであれば、契約執行も有利になるし好都合だよ」
「真田さんは信頼出来る人物ですが……」
「何か問題があるのかね?」
「依頼された評価サンプルが問題なんです。評価サンプルはブラックチップのCSPなんですよ」
「ブラックチップ? もしかして、それは例のブラックウエハの個片チップかね?」
「そうです。ブラックウエハをダイシングして作ったCSPです」
中村課長が二人の会話に割り込む。
「何だって? ブラックウエハ? おい、神崎マジか?」
「マジです。中村課長」
「そりゃかなり危険な代物だぞ、俺もブラックウエハの件では懲りているからな」
中村課長は無意識に左肘を右手で摩りながら神崎に話し掛けた。
「その評価サンプルが例の一件と同じ代物なら確かに危険だな。加納社長、湾岸倉庫爆発事件は社外秘にしていますが、うちの社員は事件の事をみんな知っていますよ」
島本部長が加納社長に話し掛ける。
「そうだな、あの事件は社内に警察の捜査も入ったからな」
「これは神崎君が言う通り、契約の見送りも有り得ますね」
「しかし、島君、一千億円の契約を見送るのも勇気がいるぞ」
「そうですね、社長、まずはCMD社の説明を聞いてからにしましょう」
「よし、そうしよう」
島本部長が社長に意見を述べると、社長は右手で膝を軽く叩いて立ち上がった。
「ちょっと休憩しよう。小百合ちゃん、コーヒー入れてくれる?」
「はーい」
社長が部屋のドアを開けて秘書にコーヒーを頼むと、ドアの向こう側から女性の声が聞こえた。そして、しばらくすると女性秘書がコーヒーを持って部屋の中に入って来た。
彼女の年齢は二十代後半だろうか。背が高くてモデルの様に美しいスタイルをしている。髪は綺麗なロングストレートで気品のある美人だ。
秘書は四人分のコーヒーカップをテーブルに置くと、振り向いて神崎の顔をチラッと見た。
(あれっ、誰かに似てるな……)
神崎と彼女の視線が合う。
「神崎さん、いつも由香里がお世話になっています」
「はっ?」
「小百合ちゃんは由香里の姉だよ」
神崎が彼女の言葉に戸惑って固まると、社長はコーヒーを飲みながら神崎に話し掛けた。
「えっ、田町は男兄弟だと言ってましたよ」
「私の下に弟が二人いて、妹の由香里は末っ子なんですよ」
「マジで!」
「『マジっすよ神崎さん!』って、由香里はいつもこんな調子でしょう?」
「はい、そんな調子です」
「うふふ……」
彼女が微笑んで部屋から出て行くと、神崎は部屋のドア見つめてポカンと口を開いた。
「神崎君、おい、神崎君!」
「えっ?」
神崎が振り向くと、社長は口元を緩めてニヤニヤと笑った。
「気を付けろよ」
「はっ、何がですか?」
「小百合は肉食系だからな」
「肉食系? 彼女は肉が好きなんですか?」
「ははは、違うよ、男好きと言う意味さ、ぼやっとしてると食われるぞ」
「えっ!」
社長の言葉を聞いて神崎は一瞬自分の耳を疑った。
「ブラックウエハの件で思い出したんだが、相川君は元気にやっているかい?」
島本部長が神崎に相川の近況を尋ねる。
「相川ですか?」
「そう、相川真理だ」
「島本部長は、なぜ、相川を知っているんですか?」
「知っているも何も、俺が口説いて入社させたんだよ」
「島本部長がですか?」
「そうだよ、正しく言えば『俺と加納社長が』だけどな」
「例の女子高生ハッカーかね」
「そうです。我社のネットワークに進入して、神崎君の技術データーを根刮ぎ持ち出した娘です」
「中村課長、相川君の仕事ぶりはどうかね」
社長が中村課長に相川の勤務評価を尋ねる。
「彼女の情報処理能力は抜群ですから、田町と並んで有望な人材です」
「そうだろう、彼女は島本部長の特別推薦者だからな」
(そうか、だから真理ちゃんは大学に進学しないで、うちの会社に高卒で入社したのか……)
神崎が心の中でつぶやく。
「中村課長は相川が島本部長の推薦で入社した事を知っていたのですか?」
「ああ、知っていたよ、新入社員の配属連絡を受けた時に人事から採用情報を聞いたんだ」
「何だ、中村課長、それなら私にも言って下さいよ、水臭いじゃないですか」
「神崎、それは言えないよ、人事の採用情報は機密事項で、信頼のある部下と言えども情報の開示は出来ないんだよ」
中村課長は神崎に返答すると、振り向いて島本部長に視線を向けた。
「島本部長、相川は来月から神崎の部下に付ける予定です」
「そうか、神崎君はいい部下を持ったな」
「はい」
神崎は島本部長の言葉に笑顔で答えた。
――午後三時。
「社長、そろそろ会議の時間です」
秘書の田町小百合が部屋のドアを開けて社長を呼ぶ。
「よし、それじゃあ、CMD社と一戦交えるか」
社長は自分の顔を小さく平手打ちして気合を入れると、ソファから腰を上げて立ち上がった。
「みんな行くぞ、いざ戦場へ」
「はい、社長」
社長が部屋を出ると三人はその後に続いた。
最後に神崎が部屋を出ようとした時、田町小百合が神崎のユニフォームを後ろから軽く引っ張った。そして、神崎が振り向いた瞬間、彼女は小さく折ったメモ用紙を神崎の掌に素早く押し込んだ。
「行ってらしゃいませ」
彼女がみんなに一礼をして、社長室のドアを閉める。
神崎が振り返ると、彼女は片目を閉じて腰の下で小さく手を振った。
「…………?」
神崎が歩きながらメモ用紙をこっそりと開く。
《神崎様、週末は空いていますか? 携帯番号 XXX―XXXX―XXXX 妹には内緒よ! 小百合より》
「うわっ、噛まれた!」
神崎がメモを読んで思わず声を上げる。
「んっ、神崎、どうした?」
「いえ、何でもありません」
中村課長が振り返ると、神崎は慌ててメモ用紙を握り潰した。
――午後三時十五分。
特別応接室に経営幹部が再び集まると、しばらくして村田課長が部屋に入って来た。
「社長、CMD社の真田様が来社されました」
社長が背広の袖を少し引っ張って、自分の腕時計で時間を確認する。
「よし、入室してもらえ」
「分かりました」
村田課長が応接室のドアを開くと、三人の来客が部屋に入って来た。
新光技術工業社の経営幹部が椅子から立上がって来客に頭を下げる。
「こちらにどうぞ」
「失礼します」
村田課長が三人を来客席に案内すると、来客者は一礼して席の横に鞄を置いた。
「社長の加納で御座います。よろしくお願い致します」
「CMD社の真田です。よろしくお願い致します」
社長と真田の挨拶が終わると、経営幹部の挨拶が始まり、名刺が次々と交換された。
「神崎です。真田先輩、お久し振りです」
「おお、神崎、よろしく頼むで」
神崎が名刺を渡すと、真田はニコッと笑った。
「CMD社の村上です。よろしくお願い致します」
「CMD社の北堀です。よろしくお願い致します」
「神崎です。よろしくお願い致します」
神崎がCMD社の村上と北堀から名刺を受け取る。
名刺には、《主任技師 村上考博》、《技術秘書 北堀博美》と書いてある。
二人はスーツ姿で共に銀縁のメガネを掛けていて、とても理知的な容姿をしている。
しばらくして名刺交換が終わると、会議メンバーは自分の席に座った。
「それでは会議を始めます。CMD社様、よろしくお願い致します」
村田課長が来客席に向かって頭を下げる。
「皆様、本日はお忙しい中、会議に御参集頂きまして、真にありがとう御座います」
CMD社の真田は冒頭の挨拶を述べると、会議メンバーに深々と頭を下げた。
「本日、私共は御社と技術提携契約を結びたく来社致しました。まずは、弊社のプレゼン資料と商品サンプルを皆様に御提示させて頂きます」
真田が部下の北堀にプレゼン資料の準備を指示すると、北堀は鞄からモバイルPCを取り出して、PCのモニター画面にプレゼン資料を表示した。
※モバイルPCは持ち運びが可能な軽量PCの事。
「村田様、御社の会議システムに無線接続してよろしいでしょうか?」
「許可致します。この応接室の会議システムはスタンドアロンですので、問題ありません」
「アクセスコードは、XXXXです」
北堀が特別応接室の会議システムに無線でアクセスすると、天井プロジェクターの高輝度LEDが自動点灯して、スクリーンにCMD社のプレゼン資料が瞬時に表示された。
「それでは、弊社の技術提携案と新規開発商品の説明をさせて頂きます」
真田がスクリーンに表示されたプレゼン資料の説明を始める。
「弊社の技術提携案に付きましては、既に電子メールにて御社へ事前打診しておりますので、内容は皆様既に御承知の事と存じます。技術提携案の骨子は、高エネルギー蓄電半導体の量産技術確立支援で、開発契約金として一千億円の支払いを御提示させて頂きます。また研究開発に掛かる費用は弊社が全額負担致します。弊社の技術提携案は以上で御座いますが、何か御質問があれば承ります」
真田は契約内容の概要を話し終えると、会議メンバーの顔を見渡して契約執行についての質疑を求めた。
「真田様、一件質問があります」
「はい、何でしょうか?」
島本部長が真田に手を上げると、真田は島本部長に右手を差し出して質問内容を尋ねた。
「契約内容は理解致しましたが、御社はなぜ弊社に共同開発を提案されたのですか? 御社の様な一流企業であれば、本件は自社の研究開発部門でじゅうぶん対応可能な案件かと思いますが」
「いい質問ですね、正直にお答えしましょう。半導体にはウエハーを処理する前工程と、チップを加工組立する後工程がありますが、弊社は元々、後工程の加工組立に特化して成長した会社ですので、ウエハーの処理は別の会社に委託していました。ウエハーの開発には膨大な研究開発費用が掛かりますからね。弊社がウエハーの処理を内製化し始めたのはつい最近で、製造技術力が同業他社のレベルに追い付いていません。特に歩留を上げる為の解析技術力のレベルが低いんです。まあそれでも、即在の製造技術であれば中小企業を買収すれば何とかなりますが、今回の開発案件は話が全く違います。世の中の何処にも無い製造技術を生み出さなければ成功は無理です。そこで、日本トップレベルの半導体解析技術力を持つ御社と組みたい訳です」
真田が島本部長の顔を眺めると、島本部長は腕を組んで加納社長に視線を向けた。
「真田様、御社の意向は良く分かりました。しかし、一千億円の契約金はあまりにも破格な金額だと思うのですが?」
「いえ、一千億円の契約金は決して高い金額ではありません。なぜならば、この商品の市場規模は年間十兆円以上と弊社は見積もっているからです」
「えっ、年間十兆円だって?」
加納社長が市場規模の大きさに驚いて声を上げると、会議メンバーも一斉に声を上げて特別応接室の中は一気にどよめいた。
「他に質問は御座いませんか? 質問が無い様でしたら開発商品の説明をさせて頂きます」
真田が振り向いて村上に指示を出す。
「村上君、商品サンプルを準備してくれるか」
「はい」
真田が部下の村上に指示を出すと、村上は手荷物のアルミトランクを開いて中から商品サンプルを取り出した。
「これが高エネルギー蓄電半導体セルの商品サンプルです」
村上が黒い包装容器を開けると、一枚のセル基板が出てきた。
セル基板には五十個程の大型半導体パッケージが片面実装されている。大きさはB5サイズ位でかなり薄い。
会議メンバーが身を乗り出して商品サンプルを眺める。
「それでは開発商品の説明をさせて頂きます」
真田が振り向いて北堀に指示を出す。
「北堀、技術資料を表示してくれるか」
「はい」
北堀がPCのモニター画面のアイコンを指で軽く叩くと、壁に技術資料が表示された。
「これが高エネルギー蓄電半導体セルの構造図です。この半導体セルの中央部はカーバイドと鉄で構成されていて、鉄の酸化還元反応を利用したチャージデバイスになっています。使用用途は電気自動車及び民生産業用の電源です。電気自動車の場合は、このセル一枚で約百キロメートルの走行が可能です」
「百キロメートルだって?」
「そうです、現在、電気自動車用としてセル十枚組で一ユニットとした商品を企画検討しています」
「と言う事は、一ユニットで電気自動車は一千キロメートル走るんですね! それは凄い!」
島本部長が真田の説明を聞いて唸る。
「充電時間はセル一枚あたり約三十秒、充電方式は非接触マイクロ波充電、使用電圧は――etc――」
真田が淡々と商品の説明を続けると、新光技術工業社の会議メンバーはポカンと口を開いて真田の説明を聞いた。
(なんて桁外れな商品なんだ。この商品が量産出来れば世の中の構造が一変するぞ。未来の新技術はもう目の前まで来ているのか)
神崎は背中がぞくぞくした。
「以上で弊社開発商品の説明を終わらせて頂きます。何か御質問があれば承ります」
真田はプレゼンを終えると、新光技術工業社の会議メンバーに質疑を求めた。
「真田様、一件質問があります」
「はい、何でしょうか」
島本部長が真田に手を上げると、真田は島本部長に右手を差し出して質問内容を尋ねた。
「高エネルギー蓄電半導体セルに使用される部品材料についての質問ですが、ウエハは御社で独自に設計開発されたのでしょうか?」
「それは企業秘密なので答えられません。御社との技術提携契約が成立した後であれば、秘密保持のクロス契約も成立しますので、回答は可能ですが……島様、その質問の意図は何でしょうか?」
真田は質問の返答に口を濁して、逆に島本部長に質問の意図を尋ねた。
「それは……こちらも企業秘密で答えられません」
「島君、まあ、その件はいいだろう」
島本部長が質問の返答に口を濁すと、社長が島本部長をなだめた。
「分かりました、真田様、これは素晴らしい開発商品です。弊社は御社の量産技術確立支援を喜んでお引き受け致しましょう。お互いに利益のある契約ですから何も問題はありません」
「ありがとう御座います、加納社長、契約成立ですね」
加納社長がCMD社の技術提携契約を了承すると、真田は右手を差し出して加納社長と握手を交わした。