第二章 契約
――駅前の居酒屋。
「あっ、神崎さん、いらっしゃいませ!」
神崎が暖簾をくぐって店の中を覗くと、顔馴染みの店員が神崎に声を掛けた。
「神崎さん、今日は座敷にしますか?」
「そうだね、田町、今日は奥の座敷にしよう」
みんなが靴を脱いで座敷に上がる。
「お兄さん、取りあえず生四丁!」
「田町、真理ちゃんは、まだ飲めないよ」
「あっ、そっか! ねえねえ、お嬢、本当はちょっと飲めるでしょう?」
「田町先輩、私、ビールは飲んだ事ないですよ」
「嘘、私なんか小学生の時から家族と一緒に毎日飲んでたわよ!」
「マジですか?」
「お譲、ちょっと飲んでみる?」
「はい、田町先輩、私、頑張ります!」
相川が嬉しそうに右手を上げる。
「だめだよ、真理ちゃんはソフトドリンクだからね」
「えへへ、ちょっと、お嬢に修行させてあげようかと思ったのに、神崎さんは堅いっすね」
「田町の修行は酒の行だろう。明日、真理ちゃんが仕事出来なくなったら困るからね」
「じゃあ、お嬢はノンアルコールビールね」
「はい、田町先輩、それでOKです」
「お兄さん! ノンアルコールビール一丁と生ビール三丁に変更でお願いしあっす!」
田町が店員に注文を出し直すと、店員はビールと突き出しの料理を直ぐに持って来た。
「それじゃあ、みんな、乾杯しようか、乾杯!」
神崎が乾杯の音頭を取ると、田町は生ビールを美味そうにゴクゴクと飲んで、いきなりジョッキを半分開けた。
「うーん、美味いっすね! これが無いと仕事なんてやってられないっすよ!」
「田町さんの飲みっぷりは凄いですね!」
石川が田町のジョッキを眺めて感心する。
「うふ、そっすか、石川ちゃん、私に惚れた?」
「はぁ?」
「ところで、石川ちゃんは何処の部署なんっすか?」
「私は中国の上海工場から帰って来たばかりなんですけど、先程、本社の配属部署が決まりました。神崎さんの部署に配属される予定です」
「えっ、じゃあ、私達と同じ部署じゃないっすか!」
「ええ、部署は同じですね。私は神崎さんの部下になるんですよ」
「神崎さんの部下って?」
「神崎さんは、主任技師に昇格されたんです」
「マジっすか? 私、そんな話、聞いて無いっすよ!」
田町が身を乗り出して神崎の顔を覗き込む。
「そうみたいなんだ」
「『そうみたい』って、何っすか?」
「いや、会社の帰り際に中村課長から内示を受けたんだよ」
「そうなんだ、神崎さん、おめでとう御座いあっす! それじゃあ、みんな、もう一回乾杯っすよ! 神崎さんの昇進を祝して、乾杯!」
田町が大喜びして生ビールのジョッキを一気に開ける。
「おいおい、田町、まだ料理の注文もしてないぞ」
「神崎さん、今日はハイテンションで行きますからね、覚悟して下さいよ。石川ちゃん、倒れるまで一緒に飲みましょうね。倒れたらお持ち帰りしてもいいっすからね」
「マジですか?」
「マジっすよ!」
「ははは、田町さんって面白い人ですね」
石川が楽しそうにゲラゲラと笑う。
「田町のスイッチが入っちゃったな、石川君、可哀想に……」
「えっ、神崎さん、何ですか?」
「いや、何でもないよ、石川君、田町は面白いだろう。ははは、病気出たか……」
「んっ?」
神崎が言葉尻を濁すと、石川は首を傾げた。
「取りあえず、料理を注文しよう」
神崎は店員を呼んで料理の注文を適当に頼み終えると、みんなの紹介を始めた。
「石川君は俺と同期入社なんだ。彼は高専卒だから俺より二歳年下だけどね」
「私と神崎さんは新入社員研修で一年間一緒だったんですよ」
「じゃあ、二人は入社当時からの知り合いなんですね」
「そうなんだよ、彼は理工系で語学も相当に出来るから海外勤務になったんだ」
「凄いっすね、それじゃあ、エリート社員じゃないっすか」
「そうだよ、彼は超エリート社員さ」
「神崎さん、それは話を持ち上げ過ぎですよ」
「そんな事はないさ、石川君は確かに超エリート社員だよ。当時、新入社員で海外部門に配属された社員は君だけだったからね」
神崎が石川を褒め称えると、石川は少し照れて頭を掻いた。
「この二人は技術評価の進行管理と技術情報のデーター管理をしているんだ。田町は石川君と同じ理工系の高専卒で入社二年目、相川は情報高卒で入社一年目の新入社員なんだよ」
「二人とも凄い美人ですよね」
「石川君、それ、さっきも言ったよ」
「うん、でも本当に綺麗ですから」
石川が頭を掻きながら神崎に答える。
「石川ちゃん、中国の話してよ」
「いいですよ、どんな話がいいですか」
「うふ、由香里は夜のお話がいいっすね。アウトサイドなやつとか」
田町は色気を出して石川に酒をグイグイと飲ませた。
「ねえ、神崎さん、田町先輩って、いつもこんな調子なんですか?」
「そうだよ、田町は酒を飲むといつもこんな調子なんだ、彼女は夜の女王様だからね」
「うふ、真理も夜の女王様になろうかな」
相川が田町を真似て色気を出すと、神崎は飲みかけのビールを口から噴き出した。
――翌日。
定例の朝会が終わると、神崎は技術事務所のデスクで電子メールのチェックを始めた。
「ああ、気持ち悪い。やっぱり飲み過ぎたな」
神崎はペットボトルの水で胃腸薬を飲むと、振り向いて田町の様子を伺った。すると、彼女は鼻歌交じりの流行歌を口ずさみながら軽快に仕事をしていた。
「石川君は可哀想に予想通りノックダウンしてたな……」
神崎が振り戻ってメールの受信リストを眺める。
「自動配信の技術データーは取りあえず別のホルダーに収納してと……今日は会議案内が一件入っているな、議題はカスタマー対応会議か、場所は特別応接室、主催者は加納剛太だ。えっ、加納剛太? 社長じゃないか。メールの配信メンバーは誰だ? 副社長、専務、常務、開発本部長、部長、課長……これはかなり重要な顧客対応みたいだな」
神崎はカーボンコピーでメールの配信メンバーを確認すると、腕を組んでPCのモニター画面を眺めた。
――午後一時二十分。
神崎は人事棟の廊下を中村課長と一緒に歩いた。
「中村課長、カスタマー対応会議って、何でしょうね」
「何だろうな、俺も会議内容は聞いていないんだよ」
中村課長が特別応接室のドアを開いて二人が部屋の中に入る。
「失礼します」
「ああ、中村課長、こちらに座れ。君もだ」
部屋の中に入ると、開発本部長の島が窓側の席で手招きをして二人を呼んだ。
「久し振りだな、中村課長。そちらは神崎君か」
「はい、神崎です。よろしくお願いします」
神崎が島本部長に頭を下げる。
開発本部長の島は中村課長の元上司だ。
「島本部長、今日は何の会議でしょうか?」
「今日は大きな商談があるそうだよ、エネルギー関係のデバイス開発で、商談先はCMD社らしい」
中村課長が島本部長に尋ねると、島本部長は振り向いて中村課長に答えた。
(CMD社? もしかして、真田先輩の案件かな?)
神崎は真田の案件を思い出した。
――午後一時三十分。
「村田君、会議を始めようか」
「はい、それでは、会議を始めます」
加納社長の指示を受けて、技術営業課の村田課長が会議を始める。
「昨日、CMD社様から大口の商談が入りましたので皆様に御報告致します。商談内容は半導体パワーデバイスの共同開発です。このデバイスは高エネルギー蓄電半導体という全く新しい分野の商品で、CMD社様は一千億円の開発契約を御提案されております」
村田課長の報告を聞いた役員達が一斉に声を上げて、特別応接室の中は一気にどよめいた。
「何だって、一千億円の開発契約? こりゃ凄いな、ビッグビジネスじゃないか!」
島本部長が興奮して声を上げる。
「尚、研究開発に掛かる費用はCMD社様が全額御負担されます。当社は高エネルギー蓄電半導体の製造工法を開発し、その技術をCMD社様に提供致します」
村田課長が追加報告すると、特別応接室の中は更にどよめいた。
「研究開発費用はCMD社の全額負担?」
中村課長と神崎が顔を見合わせる。
「又、CMD社開発プロジェクトチームの真田様が契約執行の為、本日、来社される予定で御座います」
(やっぱり、真田さんの案件だ、これは大変な事になって来たな……)
神崎が不安そうに心の中で呟く。
「村田課長、一件質問があるのですが」
島本部長が手を上げる。
「はい、何でしょうか」
「CMD社は、なぜ、我社に共同開発を提案してきたのですか?」
「それはCMD社様の御都合なので……」
村田課長が島本部長の質問に答えられず言葉尻を濁す。
「島君、共同開発提案の目論見は分からないが、この商談がビッグチャンスである事は確実だよ」
加納社長が腕を組んで島本部長の顔を見る。
「社長、それは承知致しますが、我社は基本的に半導体評価装置の製造メーカーです。半導体製造は経験していませんので、半導体製造工法の開発技術力がありません。ただし、我社の半導体解析技術は日本トップレベルです。CMD社は我社の半導体解析技術部門に目を付けたんじゃないでしょうか?」
「そうだな、我社の半導体解析技術部門は物理解析の事業部として独立しているからな」
「社長、この案件を受諾する為には、半導体製造工法開発チームの新設が必要です」
「よし、分かった、それでは半導体製造工法開発チームを発足しよう! 島君、メンバーの人選は君に任せるぞ!」
「了解しました。近日中に人選を致します」
島本部長が半導体製造工法開発チームの人選を了解する。
「とは言うものの、うちの会社に半導体製造工法の開発が出来る奴なんていたかな……?」
「いますよ、ここに」
島本部長が腕組をしながら下を向いて小さな声で呟くと、中村課長は神崎を指差した。
「えっ、神崎君か?」
「そうです、神崎は半導体の物理解析から製造工法の検討まで全て出来ます」
「よし、じゃあ決定だ! 神崎君をチームリーダーに任命しよう!」
「島本部長、マジですか?」
「マジだよ、頼んだぞ、神崎君!」
「ちょっと待って下さい。私は平社員ですし、管理職の経験もありません」
「島本部長、大丈夫です。神崎は主任技師に昇格しますので問題はありません」
「そうか、それならいいじゃないか、人事規定でチームリーダーは主任職以上になっているからな」
「そうですね、ぜひ、神崎にやらせて下さい」
(参ったな、いきなりチームリーダーなんて出来るのかな……俺)
中村課長が島本部長に神崎を推薦すると、神崎は心の中でぼやいた。
「村田君、CMD社の会議は午後三時三十分だったな」
「はい、そうです」
「よし、それじゃあ、事前会議はこれで終了だ。島本部長、中村課長、神崎君、君達は社長室に来てくれ」
社長は事前会議の終了を告げて席から立ち上がると、特別応接室のドアを開けて退室した。
「それでは、午後三時三十分から本会議を始めますので、皆様、御参集の程、よろしく御願い致します」
村田課長が頭を下げると、会議メンバーは一旦席を立って解散した。