夢を諦めた彼が、最後に私へ残した手紙
三年ぶりに届いた朝倉陽介からの連絡は、住所を尋ねるものではなかった。
『引っ越しの片づけをしていたら、昔、花音にもらった手紙が出てきました。伝えておきたいことがあります。手紙を送ってもいいですか』
休憩室でそれを読み、私は弁当箱の蓋を閉じた。
まだ半分、残っていた。
向かいの席では、同僚が来月の勤務表を見ている。休憩室には、誰かが温めたカレーの匂いが残っていた。
「三崎さん、希望休もう出しました?」
「出した。第二土曜」
「了解です」
同僚は丸をつけ、携帯電話を鞄へ入れた。
私もそうしようとして、もう一度画面を見た。
陽介と別れたのは、二十五歳の冬だった。
今の私は二十八歳で、彼も同じ年になっている。
この三年間、連絡は取っていなかった。連絡先は消さなかったが、誕生日に何かを送ったこともない。彼の名前を画面で見るのは、別れたあと、貸していた本を返してもらう約束をしたとき以来だった。
私は売り場へ戻った。新刊を平台へ出し、注文の本が届いたお客様へ電話をかけた。
家へ帰ってから、陽介へ返事をした。
『手紙は受け取ります。ただ、返事ができるかは、読んでから考えさせてください』
しばらくして、分かった、と来た。
『住所、前に住んでいたところとは違うよね』
『違う。これから送るね』
自分で住所を入力してから、部屋番号を確かめた。
送信すると、彼は、ありがとう、と返してきた。
そのあとに質問はなかった。
*
二十一歳の陽介は、いつも鞄に薄いノートを入れていた。
表紙が曲がり、四隅が丸くなったノートだった。
付き合い始めて間もない頃、喫茶店で彼がそれを開いた。注文を終えてすぐだったので、仕事の用事かと思ったら、私を見て照れたように笑った。
「今のうちに書かないと、忘れるから」
「何を?」
「さっき、駅で見た人。切符なくして、ポケット全部裏返してた」
「駅員さんに聞けばいいのにね」
「でも、あと一個だけ、まだ見てないポケットがあるかもしれないじゃん」
私は笑った。
陽介は短くメモをして、ノートを閉じた。そのあとで、私が注文した飲み物の名前を聞き直した。
「ゆず茶。陽介が、おいしいって言ったから」
「ああ、そうだ」
届いたものは思ったより甘かった。彼も一口飲んで、首を傾げた。
会社員をしながら小説を書いていると聞いたのは、その少し前だった。
私がアルバイトをしていた書店で、共通の知人と三人で話したのがきっかけだった。私が読んでいた作家の昔の作品を、彼も持っていた。
本の話をしているうちに、二人で会うようになった。
陽介が自分でも書くと知って、私は読んでみたいと言った。
「人に読ませるようなものじゃないから」
「じゃあ、読ませられるのができたら」
「うん。そのときは」
約束を果たしてくれたのは、一年ほど経ってからだった。
私はその頃、書店で社員になっていた。
遅番の翌日の休みに、彼から預かった原稿を読んだ。印刷した紙をクリップで留めただけで、表紙の隅に、まだ仮の題名だと書いてあった。
年を取った父親と、弁当屋を継ぐつもりのない息子の話だった。
途中で何度も、父親が炊飯器を買い替える話が出てくる。最後まで読んでから、その場面をもう一度探した。
次に会えるのは一週間先だった。
長い感想を携帯電話で送ろうとして、何度か書き直し、便箋を出した。
私には面白かった。けれど、書店で働いているからといって、売れる作品が分かるわけではない。その二つをどう書き分けるかで、ずいぶん迷った。
結局、炊飯器の場面について書いた。
父親が古いものを捨てられない理由が分かったとき、腹が立っていたのに、少し困った、と。
手紙は、原稿を返すときに挟んだ。
陽介は私の前でそれを読み、途中から、ほとんど喋らなくなった。
「何か、変なこと書いた?」
「いや」
「読み違えてたら、ごめんね」
「違ってない。そういうふうに読んでもらえたらいいなと思ってた」
便箋の上端を揃えながら、彼は言った。
「これ、もらっていい?」
「陽介に書いたんだから、いいよ」
私は笑った。
彼は畳んだ手紙を封筒へ戻し、原稿とは別に、鞄の内側のポケットへ入れた。
そのあとも、彼は書いた。
書き上がらなかったものもあったし、応募した賞の一次選考に残らなかったこともあった。
落ちると機嫌が悪くなる日もあったが、いつまでも私に黙ってはいなかった。
「今日は、何聞いても嫌な返事しそう」
「じゃあ、本の話はやめようか」
「花音の棚の話は、聞きたい」
私が担当する棚は、その頃、児童書になっていた。
小さなお客様に、探している本の題名を聞いたら、おばあちゃんの家にある本、と返された。そういう話をすると、陽介は笑った。祖母の家には何冊あるんだろうと言い、すぐ、その子には一冊なのか、と言い直した。
思いついたことを何でも小説へ持ち帰ろうとするところはあった。
ただ、私の話の途中でノートを開いたとき、一度、嫌だと伝えた。
「最後まで聞いてからにして」
「ごめん」
彼は閉じた。
その日から、私と話しているときは、書いてもいいかと聞くようになった。
二十五歳の秋、彼の書いた長編が、新人賞の最終選考に残った。
仕事帰りに聞いて、私は駅の階段を下りるのを止めた。
「本当?」
「うん。連絡来た」
「おめでとう」
「まだ、決まってないよ」
「うん。でも、おめでとう」
その週末、二人で少し高いケーキを買った。
皿が一枚しかなかったので、私は厚紙ごと自分の分を受け取った。
フォークでケーキの端を切りながら、彼は、発表まで別のものを書いていると言った。
机の上に、新しい原稿があった。
「それ?」
「うん。まだ途中。前のと、だいぶ違う話」
「どんな?」
「下宿してる人たちの話。一人、部屋から出てこない人がいて」
私は続きを聞こうとした。
彼は、最後まで書けたら、と原稿を裏返した。
賞は取れなかった。
結果が出た日の夜、私は彼の部屋へ行った。
連絡をもらって、電話より会って話したいと伝えると、来てもいいと返ってきたからだった。
買っていった惣菜を二人で食べた。陽介は私の仕事の話を聞き、何度か頷いた。
食べ終わっても、原稿の話はしなかった。
帰る前、私は、今日は眠れそうかと聞いた。
「分からない」
「明日、休みだよね」
「うん」
「じゃあ、朝はゆっくりして」
私は、次もあるよ、とは言わなかった。
彼が今回どれほど期待していたか、知っていた。
靴を履いていると、陽介が廊下に来た。
「もう、書くのやめる」
私は振り返った。
「今は、決めなくてもいいんじゃない?」
「もう決めた」
「そっか」
彼は私を見ていた。
何を返してほしいのか分からず、私は靴の踵を直した。
「おやすみ。また連絡するね」
ドアが閉まったあとも、しばらく廊下に立っていた。
*
それから陽介は、本の話をしなくなった。
私のほうも、棚の話をする前に、話していいか迷うようになった。
休日に会う回数が減った。
会っても、どこに行きたいか、何を食べたいかを、彼はほとんど言わなかった。
「花音の好きなところでいい」
そう言われて選んだ店の前で、今日は重いものは食べたくないと言われた。
「じゃあ、何なら食べられる?」
「何でも」
私は看板を見上げた。
店員が入口の内側からこちらを見ていたので、少し脇へ寄った。
「お蕎麦にする?」
「うん」
その日は蕎麦を食べた。
帰りに彼が、悪かった、と言ったので、私は、食べたくないものがあるなら先に言って、と答えた。
次に会ったときも、何でもいい、と彼は言った。
私は一度、彼の部屋で尋ねた。
「私に、どうしてほしい?」
陽介はテレビを消した。
「何が?」
「話したくないなら、今は話せないって言って。会うのがしんどいなら、休んでもいい。でも、会ってる間ずっと、私だけ喋ってるのは、つらい」
「聞いてるよ」
「聞いてるのは、分かってる」
「返事が、うん、しかないと、もう話さないほうがいいのかなって思う」
陽介はリモコンを机へ置いた。
「悪い。気をつける」
それから、最近どうだった、と聞いてくれた。
私は児童書の棚替えの話をした。彼は、前に聞いたお客様がまた来たかと尋ねた。
私は、その子は来ていないけど、と答え、少し長く話した。
帰り道、寒いねと言ったら、彼が自分のマフラーを首から外しかけた。
「いい。陽介が寒くなる」
「そっか」
二人で笑った。
まだ戻れるのだと思った。
十二月に、水族館へ行く約束をした。
二人とも休みの日で、行くことを決めたのは十日前だった。私が見たい展示があると話すと、彼は、それなら、と頷いた。
前の晩、待ち合わせの時刻を確認する連絡をした。
返事が来たのは、翌朝だった。
『今日、やっぱりやめてもいい?』
私は出かける服を着ていた。
それでも、画面を見たまま、しばらく動けなかった。
電話をかけると、陽介は出た。
「具合、悪い?」
「いや。あんまり、そういう気分じゃなくて」
「昨日から?」
「ずっと」
私は椅子へ座った。
「だったら、昨日言ってほしかった」
「ごめん」
「いつなら会える?」
少しの間、音がしなかった。
「分からない」
陽介の声を聞きながら、玄関に出した靴を見た。
「私と会いたくないってこと?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
「うまく言えない」
その日は、それ以上話せなかった。
私は一人で水族館へ行った。
少し意地になっていたのかもしれない。けれど、見たかった魚が水槽の奥から出てきたときには、携帯電話を取り出すのも忘れた。
帰りに、お土産の菓子を買った。
陽介の分ではなく、翌日の職場へ持っていく分だった。
一週間後、私から会いたいと伝えた。
今度は、話すために会いたいと、先に言った。
陽介は駅前の喫茶店に来た。約束の時刻には、もう座っていた。
「この前は、ごめん」
「うん」
私はコートを脱ぎ、畳んだ。
「あのね。小説をやめたことは、私、怒ってないよ」
彼は顔を上げた。
「会社の仕事をして、休みの日は何もしない。そういう生活でも、一緒にいたいと思ってた」
声が大きくならないように、少し間を置いた。
「でも、私と会うことまで、どうでもよくなったみたいなのは、嫌だ」
「どうでもいいとは、思ってない」
「じゃあ、これからどうしたい?」
陽介は答えなかった。
私は彼の前に置かれたコーヒーを見た。もう、湯気は上がっていなかった。
「すぐに元気になって、とは言わない。でも、約束を変えるなら連絡してほしいし、決められないときは、私もずっと待てない」
「分かってる」
「本当に?」
彼は口元に手を当てた。
「俺といても、つまらないと思う」
私は、違う、と言いかけた。
実際、この二か月は楽しくない日が多かった。けれど、それを聞きたくて話しているのではなかった。
「つまらないから、別の人にしたほうがいいって?」
陽介は黙っていた。
「私、それを決めてって頼んでないよ」
彼は目を伏せた。
隣の席で椅子が引かれた。通る人に当たらないよう、私は鞄を足元へ寄せた。
戻した手を、膝の上で重ねた。
「陽介は、私と付き合っていたい?」
「……今、何も約束できない」
「結婚の約束をしてるんじゃないよ」
「分かってる」
その返事が、もう苦しかった。
私は自分の飲み物を一口飲んだ。喉が詰まりそうで、ゆっくり飲み込んだ。
「私から連絡しなかったら、このまま会わなくなる?」
陽介の唇が動いたが、声は出なかった。
私は待った。
彼が何も言わないまま、隣の席へ店員が水を注ぎに来た。
「別れよう」
自分の声が、思いがけずよく聞こえた。
陽介は顔を上げた。
「花音」
「うん」
私はもう一度待った。
彼は私の名を呼んだきり、何も言わなかった。
「もう、私から会う日を聞くのは、やめる」
私は膝の上のコートを持ち上げた。
立ち上がってから、足が震えていることに気づいた。
「本、返すね。借りてたの」
陽介が言った。
「うん。あとで、連絡する」
会計は、それぞれで払った。
店を出て、私は駅へ向かった。彼がどちらへ歩いたのかは、見なかった。
ホームに上がってから、電車が来るまで、ずっと鼻をかんでいた。
*
陽介の手紙は、送っていいと返した四日後に届いた。
宛名の字を見て、すぐに分かった。
数字の七に、短い横線が入る。
昔、彼の部屋で宅配便の伝票を書いてもらったとき、同じことを思った。
差出人の住所は、私の知らない町名だった。
同じ市内だが、前の部屋とは違う。
私は夕食を済ませ、テーブルを拭いてから、封を開けた。
便箋が三枚、入っていた。原稿も、写真も、何も挟まっていなかった。
『花音へ。
手紙を受け取ると言ってくれて、ありがとう。
荷物を片づけていて、炊飯器が出てくる話の感想を見つけました。あのとき、何度も読みました。捨てたつもりはなかったけれど、どの箱に入れたのか、分からなくなっていました。
花音に謝りたいことがあります。
賞に落ちてから、会う約束も、花音の話を聞くことも、ちゃんとしなくなりました。自分では何も決めないで、誘ってくれた花音にも、嫌な思いをさせました。
水族館の日、前の晩に連絡が来ているのは見ていました。断ることも、予定どおり行くことも考えたくなくて、そのまま寝ました。朝になって、返事をしなければならなくなってから送りました。
あのとき言った「ずっとそういう気分じゃなかった」は、事実でも、直前まで黙っていた理由にはなりません。ごめんなさい。
別れる前に、何度も話してくれたことも、覚えています。
俺が聞かなかっただけなのに、最後に、何も約束できないと言いました。花音に悪いことを言われたわけでも、無理なことを頼まれたわけでもありません。
途中でやめた下宿の話を、先月、最後まで書きました。
ずっと書いていたわけではありません。一年以上、原稿を開くのもやめていました。一昨年の秋、会社の昼休みに少し読み直し、そのあとも、何度も止まりました。
完成したものが面白いかは、まだ自分でもよく分かりません。ただ、登場人物をどうやって部屋から出すか、通勤中に考えて、乗り過ごしそうになった日がありました。
そういうことが、また面白くなりました。
花音の手紙を読み返したのは、書き上げたあとです。
あの感想を書いてくれた時間のことを、初めて考えました。読んですぐ、面白かったと言うだけでもよかったのに、場面を探し直して、言葉を選んでくれたんだと思います。
書いていてよかったと、あのとき思いました。今も、その気持ちはなくなっていません。
謝るための手紙なのに、自分の話も長くなりました。
受賞したわけではないし、何かが決まったわけでもありません。これを読んで、俺を許したり、原稿を読んだりしてほしいというお願いではありません。
あの頃、読んでくれてありがとう。一緒に過ごしてくれて、ありがとう。
こちらから連絡するのは、これで最後にします。
返事を待つために送ったのではないので、返さなくても大丈夫です。
朝倉陽介』
読み終えて、便箋を揃えた。
折り目のところを指で押し、もう一度、二枚目を開いた。
水族館の日のことを、覚えていた。
あの日、私がどんな服を着ていたか、彼は知らない。お土産の菓子を職場に持っていったことも。
手紙を読んだら、そのことまで急に戻ってきた。
私は袖口で目元を拭き、立ち上がってティッシュを取った。
机の上には、明日、店で使う棚替えのメモがあった。朝、同僚へ確認しなければいけないことが二つある。
手紙をその下へ置こうとして、やめた。
封筒へ戻して、引き出しに入れた。
すぐには返事をしなかった。
翌日は仕事へ行き、第二土曜日には、約束どおり友人と映画を見た。
帰りにパンを買いながら、陽介から手紙が来たことを話した。友人も、何度か彼に会っていた。
「会いたいって?」
「ううん。謝るのと、お礼。もう連絡しないって」
「そっか」
彼女は袋の持ち手をまとめた。
「花音は、会いたい?」
「分からない」
「うん」
「でも、今、どんなふうに喋るのかなとは思った」
友人は、じゃあ、また考えればいいね、と言った。
話はそれで終わり、そのあと私たちは、映画に出てきた犬の話をした。
陽介へ返事をしたのは、手紙が届いて六日後だった。
『手紙、読みました。謝ってくれたことは受け取りました。下宿の話、最後まで書けたんだね』
そのあとを、何度か消した。
許す、と書くのは違った。
もう気にしていない、とも書けなかった。
『今度、お昼を一緒に食べませんか。今の陽介と、少し話してみたいです』
送ってから、私は携帯電話を裏返した。
夕食を作っている間に返事が来た。
『ありがとう。会いたいです。休みの日、いくつか教えてもらってもいい?』
私は自分の休みを二つ送った。
彼は片方なら空いていると答えた。
場所は、二人がそれぞれ電車で行きやすい駅にした。
以前よく行った喫茶店のある駅ではなかった。
*
陽介は、私より先に店の外にいた。
入口の献立を見ていたが、私に気づくと、一歩脇へずれた。
「久しぶり」
「うん」
髪が短くなっていた。眼鏡も前とは違っている。
「外でも、かけるようになったんだ」
「うん。向こうの文字、読めなくなってきて」
陽介は入口の献立を指した。
店へ入ると、窓際の席に案内された。
料理を選び、注文してから、陽介が水を飲んだ。
「手紙、読んでくれてありがとう」
「うん」
そこで会話が途切れた。彼は水のグラスを持ち直した。
私もグラスを両手で持った。
「引っ越したんだね」
「うん。前より、会社に近くなった」
「会社は、同じ?」
「同じ。部署は変わった」
担当する取引先の種類が変わり、出張が少し増えたと、彼は話した。
私は、児童書と実用書を担当していると伝えた。
「児童書、まだやってるんだ」
「うん。一回離れて、戻った。前のお客様が、中学生になってて、びっくりした」
「小学生だった子?」
「そう。私に身長、追いつきそうだった」
陽介は目を細めた。
続けて、あの、おばあちゃんの本を探していた子、と言いかけ、別の子だよねと笑った。
「別の子。あの子は、さすがに覚えてないと思う」
覚えていたんだ、と言いそうになった。
代わりに、私は料理を運んできた店員へ頭を下げた。
食事の途中、陽介が聞いた。
「今日、何時くらいまで大丈夫?」
「三時には帰りたい。明日、早番だから」
「分かった」
「陽介は?」
「俺は、そのあと買い物して帰る」
彼はそれだけ答えて、魚の小骨を皿の端へ寄せた。
私は味噌汁を飲み、それから手紙の話をした。
「下宿の人、最後は部屋から出たの?」
陽介の箸が止まった。
「出た」
「どこへ?」
「廊下」
「廊下まで?」
「うん。とりあえず」
私は少し笑った。彼も笑ったが、すぐに箸を置いた。
「読んでっていうつもりで、書いたんじゃないから」
「分かってる。話の続き、少し覚えてたから、聞きたくなっただけ」
「うん」
彼は箸を取り直した。
「前に書いてたところ、ほとんど書き直した。今読むと、主人公、何もしなさすぎて」
「部屋から出ない人だもんね」
「出なくても、することはあるんだよなって」
陽介はそこまで言って、ご飯を一口食べた。
私は、その先を待った。
「台所へ行くのが嫌だから、やかんを部屋に持ち込むとか。そういうことも、書いてなかった」
「台所、共同なんだ」
「うん。そこから直してたら、長くなった」
話し終わった彼が、少し困ったように私を見た。
「喋りすぎた?」
「今は、聞いてた」
「そっか」
私は焼き魚を食べた。
陽介も食事を続けた。
食後、駅まで歩いた。
まだ三時前だったが、寄り道をするかとは聞かれなかった。
私から、少しだけ川沿いを歩かないかと誘った。
駅の手前から降りられる遊歩道があり、二人で階段を下りた。
「ねえ」
「うん」
「あの手紙、あのときにもらいたかったって、ちょっと思った」
彼は足を止めかけた。
私はそのまま、ゆっくり歩いた。
「でも、今もらってよかったとも思った」
「うん」
「それと、やっぱり、腹が立った。水族館、前の日から見てたってところ」
「ごめん」
私は川を見た。
水面の近くを、小さな鳥が飛んでいった。
「私、あの日、一人で行ったよ」
陽介は私を見た。
「知らなかった」
「言ってないからね」
「うん」
「行ってよかった。見たかったもの、見られたから」
彼は頷いた。
羨ましいとも、次は一緒にとも言わなかった。
私は、出口へ続く階段の前で立ち止まった。
「今日来たの、よりを戻そうと思ったからじゃないよ」
「分かってる」
その返事に、指が少し冷えた。
陽介は私を見て、言い直した。
「分かってる、だけじゃだめだった。会いたいって言ってもらえたのは、嬉しかった。でも、それ以上の約束をしてもらったとは、思ってない」
私は息を吐いた。
「うん」
彼は階段を上がりながら、次に空いている日を聞かなかった。
改札の前で別れたあと、私は振り向いた。
陽介は反対側の出口へ歩いていた。
買い物、と言っていたのを思い出した。
二度目に会う約束は、私からした。
昼食のお礼を送ると、彼からも返事が来た。その数日後、近くまで行く用事がある日を伝え、夕方にお茶を飲まないかと聞いた。
陽介はその日、仕事だと答えた。
『何時に終わるか、今は読めない。別の日でもいい?』
私は、いいよ、と返した。
すぐに日付が二つ送られてきた。
私の勤務と合うほうを選んだ。
何往復かで約束が決まり、私は仕事へ行くために携帯電話を鞄へ入れた。
その日の朝、返事を待って出発が遅れることはなかった。
*
二度目は、お茶を一杯ずつ飲んで別れた。仕事の失敗の話をして、気づけば一時間経っていた。
帰り道、頬が緩んでいるのに気づき、私は一度、唇を結んだ。
三度目には、陽介から誘われた。
午前中に市民会館の展示を見て、そのあと昼を食べるという予定だった。
昔の街の写真と、使われていた道具を集めた小さな展示で、店に届いた地域の広報紙で、私も見かけていたものだった。
待ち合わせは十時だった。
前の晩、彼から電話が来た。
「ごめん。明日の午前中、会社で確認しないといけないことができた」
私は食器を拭いていた手を止めた。
「仕事?」
「うん。今日送ったデータに抜けがあって。先方が動く前に、差し替えたい」
布巾を畳み、流しの縁へ置いた。
「何時に終わるの?」
「それが、相手の返事次第で。午前中には終わると思うけど、何時とは言い切れない」
台所の時計を見た。
昔も、分からない、と言われた。
「じゃあ、明日はやめる?」
「花音がよければ、展示は来週にできないかな。土曜なら休める。無理なら、ほかの日でも」
「来週の土曜は、私が仕事」
「そっか」
陽介は少し黙った。
私は、電話を持っていないほうの手で、布巾の角を揃えた。
「展示は、明日見たいんだ。次の日に、店の人に話すって言っちゃったから」
「うん。じゃあ、行ってきて。俺は別の日に行く」
「うん」
「お昼は、待たせることになるから、約束しないでおきたい。もし早く終わっても、明日は、花音の予定で動いて」
私は、分かった、と答えた。
彼は、変更になってごめん、と言った。
電話を切ったあと、食器棚の扉を閉めた。
会いたかった。
明日の服も決めてあった。仕方がないと思っていても、気持ちまで、すぐに切り替わるわけではなかった。
私はもう一度携帯電話を取り、短く送った。
『予定変わったの、少し残念。展示、写真撮れるところがあったら撮ってくるね』
返事は、すぐ来た。
『俺も、残念。次に会う日は、改めて相談させて。明日の朝は、もう待たなくて大丈夫だから』
私は画面を閉じた。
翌朝、一人で展示を見た。
駅の写真に、今は建物のない場所が写っていた。子どもの頃、母と買い物に来た場所だった。
受付で撮影できる範囲を聞き、写真を二枚撮った。
昼は、前から気になっていた店でカレーを食べた。
仕事が終わったと陽介から連絡が来たのは、午後一時を過ぎてからだった。
私は食べ終わって店の外へ出てから、返事をした。
『お疲れさま。私はこれから帰って、昼寝する』
『いいね。俺も、ご飯食べる』
会おうとは言われなかった。
その日は、夕方まで携帯電話を見なかった。
その次の約束は、二週間後になった。
陽介から空いている日が送られ、私の休みと合わせた。
駅で会ったとき、彼がもう一度謝った。
「この前、ごめん」
「うん。仕事、大丈夫だった?」
「差し替えられた。確認もらえたの、昼過ぎだった」
「そっか」
私は鞄から、展示でもらった小さな冊子を出した。
「私の分、もう一冊あるから、これよかったら」
「ありがとう」
陽介は表紙を見て、それから私を見た。
「見てきたんだね」
「面白かったよ。写真送った駅のところ、覚えてる?」
「あの角、薬屋だったよね」
「そう。看板は写ってなかったけど、売ってた栄養ドリンクの旗、出てた」
彼は頁をめくりかけ、閉じた。
「座ってから、見てもいい?」
「うん。私、今日はパンのところ行きたい」
「駅の向こうの?」
「そこ」
二人で信号を渡った。
渡り終えたところで、私は彼を見た。
「陽介」
「うん?」
「前に似たことがあったから、電話のとき、ちょっと嫌な考え方した」
彼は歩く速さを落とした。
「また、会いたくなくなったのかなって」
「うん」
「でも、違ったね」
陽介はすぐには答えなかった。
歩道の脇へ一度寄って、私を見た。
「今回のことで、前のことも思い出させたのは、悪かったと思う」
私は首を横に振った。
「そこまで、謝ってほしいわけじゃない。仕事は、入ることあるから」
「うん。ただ、今日は会いたかったし、この前も会うつもりだった。それは、言っておきたい」
私は頷いた。
パンの店の前には、三人ほど並んでいた。
「あそこでいい?」
「うん。並べる」
列の最後に立ってから、陽介が言った。
「お腹、空いた?」
「空いた」
「俺も」
何を食べるか、二人で外の献立を見た。
*
陽介とまた会うようになって、二か月ほど経った。
週に何度も連絡することもあれば、私が棚替えで忙しい週には、一度しかやり取りをしないこともあった。
彼から原稿が送られてくることはなかった。
書いているかと聞くと、少しずつ、と答えた。
「下宿の話、もうどこかへ出した?」
「まだ。今、一度離してる。読み返すと、全部直したくなるから」
「直さないの?」
「直す。でも、今やると、前に戻しそうで」
私は仕事でもらった新刊案内を分けながら、電話で聞いていた。
「私も、棚の並び、変えて戻すことある」
「あるんだ」
「よくある。でも、置く場所なくて変えられないときもある」
彼が笑った。
「一冊、すごく大きい本が来たの。この前」
私はその本の寸法を、机の上で指を使って測った。電話では見えないと思い出し、手を下ろした。
「ごめん。今、手で、このくらいってやってた」
「分かんないよ」
「そうだよね」
二人で笑った。
書くことをまた楽しめるようになった彼を、よかったと思った。
ただ、それを見届けるために会っているのかと聞かれたら、違った。
彼が駅の売店で選ぶ菓子は、相変わらず地味だった。昔から好きだった硬いクッキーを、今も買っていた。
私は一枚もらって、やっぱり硬いねと言った。
陽介は、そこがいい、と笑った。
別れてから私が好きになった店へ、彼を連れていった。彼は帰りにその店のパンを買ったが、私と同じものにはしなかった。
「そっちは、ちょっと甘いよ」
「今日は甘いの食べたい」
「半分、交換する?」
「いいよ」
結局、両方食べて、次も自分が選んだほうにすると彼は言った。
私は、そうだね、と自分の包みを畳んだ。
ある日、店で返品する本を箱へ詰めていると、陽介の書いたものを読みたいと思った。
その場で連絡はしなかった。
次に会ったときも、別のことを話した。
それからもう一週間経って、私から尋ねた。
『下宿の話、まだ誰にも読んでもらってない?』
『学生の頃の友達に、一度読んでもらった』
『そうなんだ』
『途中、誰が喋ってるか分からないって言われて、そこ直してる』
私は少し笑った。
『直したら、私にも読ませてもらえますか』
返事が来るまで、少し間があった。
『読んでもらえたら嬉しい。でも、仕事で本を読んだあとに、無理して読まなくていいから』
『自分で読みたくなったから聞いたよ。急がせないでくれれば大丈夫』
『分かった。来週、会うときに持っていく』
私は、紙だと助かる、と返した。
細かい字でないほうがいい、とも添えた。
原稿は、二つのクリップで留めてあった。
陽介は紙袋に入れて持ってきた。
「結構あるね」
「うん。ごめん」
「長い小説なんだから、謝らなくていいよ」
「そうか」
私は袋を受け取り、底が曲がらないように持ち直した。
「読み終わるまで、しばらくかかると思う」
「いつでも」
「あと、面白かったところだけ言うとは限らない」
陽介は一度瞬きをして、頷いた。
「うん。分かった」
「それと、全部の原稿は読めないよ。次を書いたら、必ず私に、とは思わないで」
「うん。友達にも、毎回は頼めないって言われた」
私は彼を見た。
「そっか」
「でも、あいつが読みたいものが書けたら、また頼んでみる」
少し笑って、彼は紙袋から手を離した。
読むのに、三週間かかった。
仕事で疲れて帰った夜は、二頁でやめた。続きが気になり、休みの日の午前を使ったこともあった。
その間に一度、陽介と会った。
何頁まで読んだかとは聞かれなかった。
私が、まだ途中だから何も言わないで、と先に言ったので、彼は口を押さえて笑った。
「分かった。何も言わない」
私はその顔を見て、早く読み終えなければとは思わなかった。
次の休みに、また開こうと思った。
最後の頁を読んだのは、雨の午後だった。
部屋から出なかった人は、廊下に置かれた荷物を、隣の部屋まで運んだ。それだけの場面に、それまで読んだ百枚以上のことが重なった。
私は紙を戻し、途中の場面を探した。
父親が出てくる話を読んだときも、こうして頁を繰った。
けれど、今回は便箋を出さなかった。
次に会って、自分の声で話したかった。
*
原稿を返したのは、二人で会い直してから、四か月目のことだった。
駅から少し歩いた、図書館の向かいの店だった。
私は紙袋を机へ置いた。
「読み終わった」
「ありがとう」
陽介は受け取ったが、その場では中を見なかった。
私は、水を一口飲んだ。
「最初のほう、少し分からないところがあった」
「うん」
「下宿の間取り。台所が二階にもあるのかと思ってた。途中で、一階にしかないって気づいた」
彼は紙袋へ手をかけた。
「その辺、ちょっと見てもいい?」
「うん」
私が挟んだ細い紙を目印に、頁を開いた。
陽介は黙って読み、前の頁へ戻った。
「ここで、一階って書いてあるつもりだった」
「書いてない?」
「ない」
私は少し笑った。
彼も笑って、紙の端へ鉛筆で印をつけた。
「あと、最後に荷物を運ぶところ、好きだった」
陽介の手が止まった。
「自分の部屋に戻るとき、靴を揃え直すでしょう。あそこ、別に揃えなくてもいいのに」
「うん」
「あの人、隣の部屋の人に見られるかもって、思ったんだなって。前は、廊下を誰が通るかも気にしてなかったから」
彼は目を伏せた。
「そんなふうに読んでもらえるとは、思ってなかった」
「違った?」
「いや。書いてるとき、そこまでは、言葉にしてなかった」
私は、そっか、と言った。
「書き終わってよかったね」
私が言うと、陽介は頷いた。
「うん。読んでくれて、ありがとう」
原稿を揃えて袋へ戻してから、彼は言った。
「出してみようと思ってる。今、応募できるところ、調べてる」
「そっか」
「次のも、少し書いてる」
私は彼を見た。
「もう次を書いてるの?」
「うん。待ってるだけだと、たぶん、余計なことばっかり考えるから」
彼は水を飲んだ。
私は自分の指先を、グラスから離した。
「私ね」
陽介がこちらを見た。
考えてきた言葉があったのに、すぐには続かなかった。
店員が隣の席の水を注いでいた。私たちのところへも来たので、グラスを少し寄せた。
水の音が止まってから、私は彼を見た。
「陽介と、もう一度付き合いたい」
彼は何も言わなかった。
私が返事を待っていると気づいて、ようやく口を開いた。
「俺と?」
「ほかに、誰もいないでしょう」
そう言ったら、少しだけ笑えた。
陽介は原稿の入った袋を見て、それから私を見た。
「この話、読んでくれたから?」
「それも、今日話したかったことの一つだけど」
私は首を横に振った。
「この前、電話で大きい本の話したでしょう」
「うん」
「そのあと、まだ話してたいなって思った。もう寝なきゃいけなかったけど」
彼の顔を見ていたら、急に耳が熱くなった。
「あと、パンの店、付き合ってくれてるのかなと思ってたら、一人でも行ってたって聞いて、ちょっと悔しかった」
「あれは、会社の帰りに近くを通ったから」
「うん。分かってる」
自分でもおかしくなって、私は笑った。
「また誘ってほしかったなって。そういうこと、考えるようになった」
陽介は私を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
「俺も、付き合いたい」
彼の声は少しかすれていた。
「でも、仕事の予定が変わることも、また書けなくなることも、あると思う」
「予定、この前も変わったよ」
「うん」
「会いたかった。でも、私、次の日、普通に出かけられた」
私は机の端の紙袋を見た。
「賞に落ちて、落ち込んでもいい。ただ、会うのがしんどいなら、言ってほしい。私が元気にしてあげなきゃって頑張っても、どうにもならなかったから」
陽介は頷いた。
「うん。花音だけに聞いてもらうんじゃなくて、友達にも話すようになった。原稿を読んでくれたやつ。あいつも今、書いてるから」
「そっか」
私はグラスを持ち上げ、少し飲んだ。
「私も、嫌だって言う。付き合うって言ったから、全部我慢するわけじゃない」
「うん。俺も、言う」
彼が頷いた。
私はようやく、椅子の背へ少し体を預けた。
陽介はまだ、まっすぐに座っていた。
店を出ると、雨は降っていなかったが、舗道に濡れた跡があった。
来る途中、少しだけ降ったらしかった。
私たちは並んで歩き、図書館へ向かう人とすれ違った。
陽介の手が、私の手に一度触れた。
何も言わずに離れたので、私から持ち直した。
「あ」
彼が小さく言った。
「嫌だった?」
「違う。持ってくれると思わなくて」
「さっき、付き合いたいって言った」
「うん。そうだった」
彼は原稿の袋を反対の手へ持ち替えた。
私はその端が足に当たらないよう、少しだけ寄った。
駅まで、二人とも急がなかった。
*
陽介が原稿を応募したのは、それから一か月ほどあとだった。
送った、と連絡が来た夜、私は明日買っていくパンの希望を聞いた。
『甘いほうの、まだあったら』
返事を見て、財布の横にメモを置いた。
結果が出るのは、まだ先だった。
付き合い直して二か月目、二人で水族館へ行った。
私から誘った。
昔、見たかった展示はもう終わっていたが、別の魚が来ていた。
陽介は、前の日の夜に、明日は九時半だね、と連絡をくれた。
当日は駅の改札で落ち合い、バスに乗った。
水槽のガラスに近づくと、彼の顔が私の隣に映った。
「あれ、ずっと同じところにいる」
陽介が言った。
「今、来たばっかりでしょう」
「そうだけど」
私は笑って、説明の札を読んだ。
魚は岩の陰へ入ってしまい、そのあと、しばらく出てこなかった。
私が次へ行こうかと言うと、彼は、あと少し見ていい、と聞いた。
「いいよ。私、向こうの見てる」
「うん」
離れた水槽を眺めていると、少しして、出た、と声をかけられた。
私は戻った。
魚はさっきと違う向きにいた。陽介は満足したようで、次の水槽へ歩いた。
出口の近くで、お土産の菓子を見た。
私は職場へ持っていく箱を一つ取り、彼にも選ぶかと聞いた。
「自分の分、買う」
陽介が取ったのは、魚の形のクッキーだった。
「硬いかな」
「そこ、気にするんだ」
「柔らかくても食べるけど」
彼は箱を裏返して、表示を読んだ。
私は店の外へ出て、鞄の中からバスの時刻表を出した。
次までは二十分あった。
陽介が、外のベンチで待とう、と言ったので、二人で座った。
私は自分の買った箱を鞄へ入れ、彼の膝の上の箱を指した。
「もう開けるの?」
「一枚食べたい」
陽介は蓋を開け、個包装を二つ取り出した。
片方を受け取ると、思ったより大きかった。
「これ、何の魚?」
彼が箱を見た。
「マンボウ」
「今日、いなかったよね」
「いなかった」
私は笑って、袋を開けた。
一口かじると、薄い尾のところが折れ、膝に落ちた。
「あ、落ちた」
陽介が自分のハンカチを出しかけた。
「大丈夫。拾える」
私は尾を取り、残りと一緒に口へ入れた。
彼も一口食べた。
「柔らかいね」
「うん」
「おいしい?」
陽介が、私を見て聞いた。
私は頷き、もう一口かじった。
~完~




