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夢を諦めた彼が、最後に私へ残した手紙

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/24

 三年ぶりに届いた朝倉陽介からの連絡は、住所を尋ねるものではなかった。


『引っ越しの片づけをしていたら、昔、花音にもらった手紙が出てきました。伝えておきたいことがあります。手紙を送ってもいいですか』


 休憩室でそれを読み、私は弁当箱の蓋を閉じた。


 まだ半分、残っていた。


 向かいの席では、同僚が来月の勤務表を見ている。休憩室には、誰かが温めたカレーの匂いが残っていた。


「三崎さん、希望休もう出しました?」


「出した。第二土曜」


「了解です」


 同僚は丸をつけ、携帯電話を鞄へ入れた。


 私もそうしようとして、もう一度画面を見た。


 陽介と別れたのは、二十五歳の冬だった。


 今の私は二十八歳で、彼も同じ年になっている。


 この三年間、連絡は取っていなかった。連絡先は消さなかったが、誕生日に何かを送ったこともない。彼の名前を画面で見るのは、別れたあと、貸していた本を返してもらう約束をしたとき以来だった。


 私は売り場へ戻った。新刊を平台へ出し、注文の本が届いたお客様へ電話をかけた。


 家へ帰ってから、陽介へ返事をした。


『手紙は受け取ります。ただ、返事ができるかは、読んでから考えさせてください』


 しばらくして、分かった、と来た。


『住所、前に住んでいたところとは違うよね』


『違う。これから送るね』


 自分で住所を入力してから、部屋番号を確かめた。


 送信すると、彼は、ありがとう、と返してきた。


 そのあとに質問はなかった。


     *


 二十一歳の陽介は、いつも鞄に薄いノートを入れていた。


 表紙が曲がり、四隅が丸くなったノートだった。


 付き合い始めて間もない頃、喫茶店で彼がそれを開いた。注文を終えてすぐだったので、仕事の用事かと思ったら、私を見て照れたように笑った。


「今のうちに書かないと、忘れるから」


「何を?」


「さっき、駅で見た人。切符なくして、ポケット全部裏返してた」


「駅員さんに聞けばいいのにね」


「でも、あと一個だけ、まだ見てないポケットがあるかもしれないじゃん」


 私は笑った。


 陽介は短くメモをして、ノートを閉じた。そのあとで、私が注文した飲み物の名前を聞き直した。


「ゆず茶。陽介が、おいしいって言ったから」


「ああ、そうだ」


 届いたものは思ったより甘かった。彼も一口飲んで、首を傾げた。


 会社員をしながら小説を書いていると聞いたのは、その少し前だった。


 私がアルバイトをしていた書店で、共通の知人と三人で話したのがきっかけだった。私が読んでいた作家の昔の作品を、彼も持っていた。


 本の話をしているうちに、二人で会うようになった。


 陽介が自分でも書くと知って、私は読んでみたいと言った。


「人に読ませるようなものじゃないから」


「じゃあ、読ませられるのができたら」


「うん。そのときは」


 約束を果たしてくれたのは、一年ほど経ってからだった。


 私はその頃、書店で社員になっていた。


 遅番の翌日の休みに、彼から預かった原稿を読んだ。印刷した紙をクリップで留めただけで、表紙の隅に、まだ仮の題名だと書いてあった。


 年を取った父親と、弁当屋を継ぐつもりのない息子の話だった。


 途中で何度も、父親が炊飯器を買い替える話が出てくる。最後まで読んでから、その場面をもう一度探した。


 次に会えるのは一週間先だった。


 長い感想を携帯電話で送ろうとして、何度か書き直し、便箋を出した。


 私には面白かった。けれど、書店で働いているからといって、売れる作品が分かるわけではない。その二つをどう書き分けるかで、ずいぶん迷った。


 結局、炊飯器の場面について書いた。


 父親が古いものを捨てられない理由が分かったとき、腹が立っていたのに、少し困った、と。


 手紙は、原稿を返すときに挟んだ。


 陽介は私の前でそれを読み、途中から、ほとんど喋らなくなった。


「何か、変なこと書いた?」


「いや」


「読み違えてたら、ごめんね」


「違ってない。そういうふうに読んでもらえたらいいなと思ってた」


 便箋の上端を揃えながら、彼は言った。


「これ、もらっていい?」


「陽介に書いたんだから、いいよ」


 私は笑った。


 彼は畳んだ手紙を封筒へ戻し、原稿とは別に、鞄の内側のポケットへ入れた。


 そのあとも、彼は書いた。


 書き上がらなかったものもあったし、応募した賞の一次選考に残らなかったこともあった。


 落ちると機嫌が悪くなる日もあったが、いつまでも私に黙ってはいなかった。


「今日は、何聞いても嫌な返事しそう」


「じゃあ、本の話はやめようか」


「花音の棚の話は、聞きたい」


 私が担当する棚は、その頃、児童書になっていた。


 小さなお客様に、探している本の題名を聞いたら、おばあちゃんの家にある本、と返された。そういう話をすると、陽介は笑った。祖母の家には何冊あるんだろうと言い、すぐ、その子には一冊なのか、と言い直した。


 思いついたことを何でも小説へ持ち帰ろうとするところはあった。


 ただ、私の話の途中でノートを開いたとき、一度、嫌だと伝えた。


「最後まで聞いてからにして」


「ごめん」


 彼は閉じた。


 その日から、私と話しているときは、書いてもいいかと聞くようになった。


 二十五歳の秋、彼の書いた長編が、新人賞の最終選考に残った。


 仕事帰りに聞いて、私は駅の階段を下りるのを止めた。


「本当?」


「うん。連絡来た」


「おめでとう」


「まだ、決まってないよ」


「うん。でも、おめでとう」


 その週末、二人で少し高いケーキを買った。


 皿が一枚しかなかったので、私は厚紙ごと自分の分を受け取った。


 フォークでケーキの端を切りながら、彼は、発表まで別のものを書いていると言った。


 机の上に、新しい原稿があった。


「それ?」


「うん。まだ途中。前のと、だいぶ違う話」


「どんな?」


「下宿してる人たちの話。一人、部屋から出てこない人がいて」


 私は続きを聞こうとした。


 彼は、最後まで書けたら、と原稿を裏返した。


 賞は取れなかった。


 結果が出た日の夜、私は彼の部屋へ行った。


 連絡をもらって、電話より会って話したいと伝えると、来てもいいと返ってきたからだった。


 買っていった惣菜を二人で食べた。陽介は私の仕事の話を聞き、何度か頷いた。


 食べ終わっても、原稿の話はしなかった。


 帰る前、私は、今日は眠れそうかと聞いた。


「分からない」


「明日、休みだよね」


「うん」


「じゃあ、朝はゆっくりして」


 私は、次もあるよ、とは言わなかった。


 彼が今回どれほど期待していたか、知っていた。


 靴を履いていると、陽介が廊下に来た。


「もう、書くのやめる」


 私は振り返った。


「今は、決めなくてもいいんじゃない?」


「もう決めた」


「そっか」


 彼は私を見ていた。


 何を返してほしいのか分からず、私は靴の踵を直した。


「おやすみ。また連絡するね」


 ドアが閉まったあとも、しばらく廊下に立っていた。


     *


 それから陽介は、本の話をしなくなった。


 私のほうも、棚の話をする前に、話していいか迷うようになった。


 休日に会う回数が減った。


 会っても、どこに行きたいか、何を食べたいかを、彼はほとんど言わなかった。


「花音の好きなところでいい」


 そう言われて選んだ店の前で、今日は重いものは食べたくないと言われた。


「じゃあ、何なら食べられる?」


「何でも」


 私は看板を見上げた。


 店員が入口の内側からこちらを見ていたので、少し脇へ寄った。


「お蕎麦にする?」


「うん」


 その日は蕎麦を食べた。


 帰りに彼が、悪かった、と言ったので、私は、食べたくないものがあるなら先に言って、と答えた。


 次に会ったときも、何でもいい、と彼は言った。


 私は一度、彼の部屋で尋ねた。


「私に、どうしてほしい?」


 陽介はテレビを消した。


「何が?」


「話したくないなら、今は話せないって言って。会うのがしんどいなら、休んでもいい。でも、会ってる間ずっと、私だけ喋ってるのは、つらい」


「聞いてるよ」


「聞いてるのは、分かってる」


「返事が、うん、しかないと、もう話さないほうがいいのかなって思う」


 陽介はリモコンを机へ置いた。


「悪い。気をつける」


 それから、最近どうだった、と聞いてくれた。


 私は児童書の棚替えの話をした。彼は、前に聞いたお客様がまた来たかと尋ねた。


 私は、その子は来ていないけど、と答え、少し長く話した。


 帰り道、寒いねと言ったら、彼が自分のマフラーを首から外しかけた。


「いい。陽介が寒くなる」


「そっか」


 二人で笑った。


 まだ戻れるのだと思った。


 十二月に、水族館へ行く約束をした。


 二人とも休みの日で、行くことを決めたのは十日前だった。私が見たい展示があると話すと、彼は、それなら、と頷いた。


 前の晩、待ち合わせの時刻を確認する連絡をした。


 返事が来たのは、翌朝だった。


『今日、やっぱりやめてもいい?』


 私は出かける服を着ていた。


 それでも、画面を見たまま、しばらく動けなかった。


 電話をかけると、陽介は出た。


「具合、悪い?」


「いや。あんまり、そういう気分じゃなくて」


「昨日から?」


「ずっと」


 私は椅子へ座った。


「だったら、昨日言ってほしかった」


「ごめん」


「いつなら会える?」


 少しの間、音がしなかった。


「分からない」


 陽介の声を聞きながら、玄関に出した靴を見た。


「私と会いたくないってこと?」


「そうじゃない」


「じゃあ、どういうこと?」


「うまく言えない」


 その日は、それ以上話せなかった。


 私は一人で水族館へ行った。


 少し意地になっていたのかもしれない。けれど、見たかった魚が水槽の奥から出てきたときには、携帯電話を取り出すのも忘れた。


 帰りに、お土産の菓子を買った。


 陽介の分ではなく、翌日の職場へ持っていく分だった。


 一週間後、私から会いたいと伝えた。


 今度は、話すために会いたいと、先に言った。


 陽介は駅前の喫茶店に来た。約束の時刻には、もう座っていた。


「この前は、ごめん」


「うん」


 私はコートを脱ぎ、畳んだ。


「あのね。小説をやめたことは、私、怒ってないよ」


 彼は顔を上げた。


「会社の仕事をして、休みの日は何もしない。そういう生活でも、一緒にいたいと思ってた」


 声が大きくならないように、少し間を置いた。


「でも、私と会うことまで、どうでもよくなったみたいなのは、嫌だ」


「どうでもいいとは、思ってない」


「じゃあ、これからどうしたい?」


 陽介は答えなかった。


 私は彼の前に置かれたコーヒーを見た。もう、湯気は上がっていなかった。


「すぐに元気になって、とは言わない。でも、約束を変えるなら連絡してほしいし、決められないときは、私もずっと待てない」


「分かってる」


「本当に?」


 彼は口元に手を当てた。


「俺といても、つまらないと思う」


 私は、違う、と言いかけた。


 実際、この二か月は楽しくない日が多かった。けれど、それを聞きたくて話しているのではなかった。


「つまらないから、別の人にしたほうがいいって?」


 陽介は黙っていた。


「私、それを決めてって頼んでないよ」


 彼は目を伏せた。


 隣の席で椅子が引かれた。通る人に当たらないよう、私は鞄を足元へ寄せた。


 戻した手を、膝の上で重ねた。


「陽介は、私と付き合っていたい?」


「……今、何も約束できない」


「結婚の約束をしてるんじゃないよ」


「分かってる」


 その返事が、もう苦しかった。


 私は自分の飲み物を一口飲んだ。喉が詰まりそうで、ゆっくり飲み込んだ。


「私から連絡しなかったら、このまま会わなくなる?」


 陽介の唇が動いたが、声は出なかった。


 私は待った。


 彼が何も言わないまま、隣の席へ店員が水を注ぎに来た。


「別れよう」


 自分の声が、思いがけずよく聞こえた。


 陽介は顔を上げた。


「花音」


「うん」


 私はもう一度待った。


 彼は私の名を呼んだきり、何も言わなかった。


「もう、私から会う日を聞くのは、やめる」


 私は膝の上のコートを持ち上げた。


 立ち上がってから、足が震えていることに気づいた。


「本、返すね。借りてたの」


 陽介が言った。


「うん。あとで、連絡する」


 会計は、それぞれで払った。


 店を出て、私は駅へ向かった。彼がどちらへ歩いたのかは、見なかった。


 ホームに上がってから、電車が来るまで、ずっと鼻をかんでいた。


     *


 陽介の手紙は、送っていいと返した四日後に届いた。


 宛名の字を見て、すぐに分かった。


 数字の七に、短い横線が入る。


 昔、彼の部屋で宅配便の伝票を書いてもらったとき、同じことを思った。


 差出人の住所は、私の知らない町名だった。


 同じ市内だが、前の部屋とは違う。


 私は夕食を済ませ、テーブルを拭いてから、封を開けた。


 便箋が三枚、入っていた。原稿も、写真も、何も挟まっていなかった。


『花音へ。


 手紙を受け取ると言ってくれて、ありがとう。


 荷物を片づけていて、炊飯器が出てくる話の感想を見つけました。あのとき、何度も読みました。捨てたつもりはなかったけれど、どの箱に入れたのか、分からなくなっていました。


 花音に謝りたいことがあります。


 賞に落ちてから、会う約束も、花音の話を聞くことも、ちゃんとしなくなりました。自分では何も決めないで、誘ってくれた花音にも、嫌な思いをさせました。


 水族館の日、前の晩に連絡が来ているのは見ていました。断ることも、予定どおり行くことも考えたくなくて、そのまま寝ました。朝になって、返事をしなければならなくなってから送りました。


 あのとき言った「ずっとそういう気分じゃなかった」は、事実でも、直前まで黙っていた理由にはなりません。ごめんなさい。


 別れる前に、何度も話してくれたことも、覚えています。


 俺が聞かなかっただけなのに、最後に、何も約束できないと言いました。花音に悪いことを言われたわけでも、無理なことを頼まれたわけでもありません。


 途中でやめた下宿の話を、先月、最後まで書きました。


 ずっと書いていたわけではありません。一年以上、原稿を開くのもやめていました。一昨年の秋、会社の昼休みに少し読み直し、そのあとも、何度も止まりました。


 完成したものが面白いかは、まだ自分でもよく分かりません。ただ、登場人物をどうやって部屋から出すか、通勤中に考えて、乗り過ごしそうになった日がありました。


 そういうことが、また面白くなりました。


 花音の手紙を読み返したのは、書き上げたあとです。


 あの感想を書いてくれた時間のことを、初めて考えました。読んですぐ、面白かったと言うだけでもよかったのに、場面を探し直して、言葉を選んでくれたんだと思います。


 書いていてよかったと、あのとき思いました。今も、その気持ちはなくなっていません。


 謝るための手紙なのに、自分の話も長くなりました。


 受賞したわけではないし、何かが決まったわけでもありません。これを読んで、俺を許したり、原稿を読んだりしてほしいというお願いではありません。


 あの頃、読んでくれてありがとう。一緒に過ごしてくれて、ありがとう。


 こちらから連絡するのは、これで最後にします。


 返事を待つために送ったのではないので、返さなくても大丈夫です。


 朝倉陽介』


 読み終えて、便箋を揃えた。


 折り目のところを指で押し、もう一度、二枚目を開いた。


 水族館の日のことを、覚えていた。


 あの日、私がどんな服を着ていたか、彼は知らない。お土産の菓子を職場に持っていったことも。


 手紙を読んだら、そのことまで急に戻ってきた。


 私は袖口で目元を拭き、立ち上がってティッシュを取った。


 机の上には、明日、店で使う棚替えのメモがあった。朝、同僚へ確認しなければいけないことが二つある。


 手紙をその下へ置こうとして、やめた。


 封筒へ戻して、引き出しに入れた。


 すぐには返事をしなかった。


 翌日は仕事へ行き、第二土曜日には、約束どおり友人と映画を見た。


 帰りにパンを買いながら、陽介から手紙が来たことを話した。友人も、何度か彼に会っていた。


「会いたいって?」


「ううん。謝るのと、お礼。もう連絡しないって」


「そっか」


 彼女は袋の持ち手をまとめた。


「花音は、会いたい?」


「分からない」


「うん」


「でも、今、どんなふうに喋るのかなとは思った」


 友人は、じゃあ、また考えればいいね、と言った。


 話はそれで終わり、そのあと私たちは、映画に出てきた犬の話をした。


 陽介へ返事をしたのは、手紙が届いて六日後だった。


『手紙、読みました。謝ってくれたことは受け取りました。下宿の話、最後まで書けたんだね』


 そのあとを、何度か消した。


 許す、と書くのは違った。


 もう気にしていない、とも書けなかった。


『今度、お昼を一緒に食べませんか。今の陽介と、少し話してみたいです』


 送ってから、私は携帯電話を裏返した。


 夕食を作っている間に返事が来た。


『ありがとう。会いたいです。休みの日、いくつか教えてもらってもいい?』


 私は自分の休みを二つ送った。


 彼は片方なら空いていると答えた。


 場所は、二人がそれぞれ電車で行きやすい駅にした。


 以前よく行った喫茶店のある駅ではなかった。


     *


 陽介は、私より先に店の外にいた。


 入口の献立を見ていたが、私に気づくと、一歩脇へずれた。


「久しぶり」


「うん」


 髪が短くなっていた。眼鏡も前とは違っている。


「外でも、かけるようになったんだ」


「うん。向こうの文字、読めなくなってきて」


 陽介は入口の献立を指した。


 店へ入ると、窓際の席に案内された。


 料理を選び、注文してから、陽介が水を飲んだ。


「手紙、読んでくれてありがとう」


「うん」


 そこで会話が途切れた。彼は水のグラスを持ち直した。


 私もグラスを両手で持った。


「引っ越したんだね」


「うん。前より、会社に近くなった」


「会社は、同じ?」


「同じ。部署は変わった」


 担当する取引先の種類が変わり、出張が少し増えたと、彼は話した。


 私は、児童書と実用書を担当していると伝えた。


「児童書、まだやってるんだ」


「うん。一回離れて、戻った。前のお客様が、中学生になってて、びっくりした」


「小学生だった子?」


「そう。私に身長、追いつきそうだった」


 陽介は目を細めた。


 続けて、あの、おばあちゃんの本を探していた子、と言いかけ、別の子だよねと笑った。


「別の子。あの子は、さすがに覚えてないと思う」


 覚えていたんだ、と言いそうになった。


 代わりに、私は料理を運んできた店員へ頭を下げた。


 食事の途中、陽介が聞いた。


「今日、何時くらいまで大丈夫?」


「三時には帰りたい。明日、早番だから」


「分かった」


「陽介は?」


「俺は、そのあと買い物して帰る」


 彼はそれだけ答えて、魚の小骨を皿の端へ寄せた。


 私は味噌汁を飲み、それから手紙の話をした。


「下宿の人、最後は部屋から出たの?」


 陽介の箸が止まった。


「出た」


「どこへ?」


「廊下」


「廊下まで?」


「うん。とりあえず」


 私は少し笑った。彼も笑ったが、すぐに箸を置いた。


「読んでっていうつもりで、書いたんじゃないから」


「分かってる。話の続き、少し覚えてたから、聞きたくなっただけ」


「うん」


 彼は箸を取り直した。


「前に書いてたところ、ほとんど書き直した。今読むと、主人公、何もしなさすぎて」


「部屋から出ない人だもんね」


「出なくても、することはあるんだよなって」


 陽介はそこまで言って、ご飯を一口食べた。


 私は、その先を待った。


「台所へ行くのが嫌だから、やかんを部屋に持ち込むとか。そういうことも、書いてなかった」


「台所、共同なんだ」


「うん。そこから直してたら、長くなった」


 話し終わった彼が、少し困ったように私を見た。


「喋りすぎた?」


「今は、聞いてた」


「そっか」


 私は焼き魚を食べた。


 陽介も食事を続けた。


 食後、駅まで歩いた。


 まだ三時前だったが、寄り道をするかとは聞かれなかった。


 私から、少しだけ川沿いを歩かないかと誘った。


 駅の手前から降りられる遊歩道があり、二人で階段を下りた。


「ねえ」


「うん」


「あの手紙、あのときにもらいたかったって、ちょっと思った」


 彼は足を止めかけた。


 私はそのまま、ゆっくり歩いた。


「でも、今もらってよかったとも思った」


「うん」


「それと、やっぱり、腹が立った。水族館、前の日から見てたってところ」


「ごめん」


 私は川を見た。


 水面の近くを、小さな鳥が飛んでいった。


「私、あの日、一人で行ったよ」


 陽介は私を見た。


「知らなかった」


「言ってないからね」


「うん」


「行ってよかった。見たかったもの、見られたから」


 彼は頷いた。


 羨ましいとも、次は一緒にとも言わなかった。


 私は、出口へ続く階段の前で立ち止まった。


「今日来たの、よりを戻そうと思ったからじゃないよ」


「分かってる」


 その返事に、指が少し冷えた。


 陽介は私を見て、言い直した。


「分かってる、だけじゃだめだった。会いたいって言ってもらえたのは、嬉しかった。でも、それ以上の約束をしてもらったとは、思ってない」


 私は息を吐いた。


「うん」


 彼は階段を上がりながら、次に空いている日を聞かなかった。


 改札の前で別れたあと、私は振り向いた。


 陽介は反対側の出口へ歩いていた。


 買い物、と言っていたのを思い出した。


 二度目に会う約束は、私からした。


 昼食のお礼を送ると、彼からも返事が来た。その数日後、近くまで行く用事がある日を伝え、夕方にお茶を飲まないかと聞いた。


 陽介はその日、仕事だと答えた。


『何時に終わるか、今は読めない。別の日でもいい?』


 私は、いいよ、と返した。


 すぐに日付が二つ送られてきた。


 私の勤務と合うほうを選んだ。


 何往復かで約束が決まり、私は仕事へ行くために携帯電話を鞄へ入れた。


 その日の朝、返事を待って出発が遅れることはなかった。


     *


 二度目は、お茶を一杯ずつ飲んで別れた。仕事の失敗の話をして、気づけば一時間経っていた。


 帰り道、頬が緩んでいるのに気づき、私は一度、唇を結んだ。


 三度目には、陽介から誘われた。


 午前中に市民会館の展示を見て、そのあと昼を食べるという予定だった。


 昔の街の写真と、使われていた道具を集めた小さな展示で、店に届いた地域の広報紙で、私も見かけていたものだった。


 待ち合わせは十時だった。


 前の晩、彼から電話が来た。


「ごめん。明日の午前中、会社で確認しないといけないことができた」


 私は食器を拭いていた手を止めた。


「仕事?」


「うん。今日送ったデータに抜けがあって。先方が動く前に、差し替えたい」


 布巾を畳み、流しの縁へ置いた。


「何時に終わるの?」


「それが、相手の返事次第で。午前中には終わると思うけど、何時とは言い切れない」


 台所の時計を見た。


 昔も、分からない、と言われた。


「じゃあ、明日はやめる?」


「花音がよければ、展示は来週にできないかな。土曜なら休める。無理なら、ほかの日でも」


「来週の土曜は、私が仕事」


「そっか」


 陽介は少し黙った。


 私は、電話を持っていないほうの手で、布巾の角を揃えた。


「展示は、明日見たいんだ。次の日に、店の人に話すって言っちゃったから」


「うん。じゃあ、行ってきて。俺は別の日に行く」


「うん」


「お昼は、待たせることになるから、約束しないでおきたい。もし早く終わっても、明日は、花音の予定で動いて」


 私は、分かった、と答えた。


 彼は、変更になってごめん、と言った。


 電話を切ったあと、食器棚の扉を閉めた。


 会いたかった。


 明日の服も決めてあった。仕方がないと思っていても、気持ちまで、すぐに切り替わるわけではなかった。


 私はもう一度携帯電話を取り、短く送った。


『予定変わったの、少し残念。展示、写真撮れるところがあったら撮ってくるね』


 返事は、すぐ来た。


『俺も、残念。次に会う日は、改めて相談させて。明日の朝は、もう待たなくて大丈夫だから』


 私は画面を閉じた。


 翌朝、一人で展示を見た。


 駅の写真に、今は建物のない場所が写っていた。子どもの頃、母と買い物に来た場所だった。


 受付で撮影できる範囲を聞き、写真を二枚撮った。


 昼は、前から気になっていた店でカレーを食べた。


 仕事が終わったと陽介から連絡が来たのは、午後一時を過ぎてからだった。


 私は食べ終わって店の外へ出てから、返事をした。


『お疲れさま。私はこれから帰って、昼寝する』


『いいね。俺も、ご飯食べる』


 会おうとは言われなかった。


 その日は、夕方まで携帯電話を見なかった。


 その次の約束は、二週間後になった。


 陽介から空いている日が送られ、私の休みと合わせた。


 駅で会ったとき、彼がもう一度謝った。


「この前、ごめん」


「うん。仕事、大丈夫だった?」


「差し替えられた。確認もらえたの、昼過ぎだった」


「そっか」


 私は鞄から、展示でもらった小さな冊子を出した。


「私の分、もう一冊あるから、これよかったら」


「ありがとう」


 陽介は表紙を見て、それから私を見た。


「見てきたんだね」


「面白かったよ。写真送った駅のところ、覚えてる?」


「あの角、薬屋だったよね」


「そう。看板は写ってなかったけど、売ってた栄養ドリンクの旗、出てた」


 彼は頁をめくりかけ、閉じた。


「座ってから、見てもいい?」


「うん。私、今日はパンのところ行きたい」


「駅の向こうの?」


「そこ」


 二人で信号を渡った。


 渡り終えたところで、私は彼を見た。


「陽介」


「うん?」


「前に似たことがあったから、電話のとき、ちょっと嫌な考え方した」


 彼は歩く速さを落とした。


「また、会いたくなくなったのかなって」


「うん」


「でも、違ったね」


 陽介はすぐには答えなかった。


 歩道の脇へ一度寄って、私を見た。


「今回のことで、前のことも思い出させたのは、悪かったと思う」


 私は首を横に振った。


「そこまで、謝ってほしいわけじゃない。仕事は、入ることあるから」


「うん。ただ、今日は会いたかったし、この前も会うつもりだった。それは、言っておきたい」


 私は頷いた。


 パンの店の前には、三人ほど並んでいた。


「あそこでいい?」


「うん。並べる」


 列の最後に立ってから、陽介が言った。


「お腹、空いた?」


「空いた」


「俺も」


 何を食べるか、二人で外の献立を見た。


     *


 陽介とまた会うようになって、二か月ほど経った。


 週に何度も連絡することもあれば、私が棚替えで忙しい週には、一度しかやり取りをしないこともあった。


 彼から原稿が送られてくることはなかった。


 書いているかと聞くと、少しずつ、と答えた。


「下宿の話、もうどこかへ出した?」


「まだ。今、一度離してる。読み返すと、全部直したくなるから」


「直さないの?」


「直す。でも、今やると、前に戻しそうで」


 私は仕事でもらった新刊案内を分けながら、電話で聞いていた。


「私も、棚の並び、変えて戻すことある」


「あるんだ」


「よくある。でも、置く場所なくて変えられないときもある」


 彼が笑った。


「一冊、すごく大きい本が来たの。この前」


 私はその本の寸法を、机の上で指を使って測った。電話では見えないと思い出し、手を下ろした。


「ごめん。今、手で、このくらいってやってた」


「分かんないよ」


「そうだよね」


 二人で笑った。


 書くことをまた楽しめるようになった彼を、よかったと思った。


 ただ、それを見届けるために会っているのかと聞かれたら、違った。


 彼が駅の売店で選ぶ菓子は、相変わらず地味だった。昔から好きだった硬いクッキーを、今も買っていた。


 私は一枚もらって、やっぱり硬いねと言った。


 陽介は、そこがいい、と笑った。


 別れてから私が好きになった店へ、彼を連れていった。彼は帰りにその店のパンを買ったが、私と同じものにはしなかった。


「そっちは、ちょっと甘いよ」


「今日は甘いの食べたい」


「半分、交換する?」


「いいよ」


 結局、両方食べて、次も自分が選んだほうにすると彼は言った。


 私は、そうだね、と自分の包みを畳んだ。


 ある日、店で返品する本を箱へ詰めていると、陽介の書いたものを読みたいと思った。


 その場で連絡はしなかった。


 次に会ったときも、別のことを話した。


 それからもう一週間経って、私から尋ねた。


『下宿の話、まだ誰にも読んでもらってない?』


『学生の頃の友達に、一度読んでもらった』


『そうなんだ』


『途中、誰が喋ってるか分からないって言われて、そこ直してる』


 私は少し笑った。


『直したら、私にも読ませてもらえますか』


 返事が来るまで、少し間があった。


『読んでもらえたら嬉しい。でも、仕事で本を読んだあとに、無理して読まなくていいから』


『自分で読みたくなったから聞いたよ。急がせないでくれれば大丈夫』


『分かった。来週、会うときに持っていく』


 私は、紙だと助かる、と返した。


 細かい字でないほうがいい、とも添えた。


 原稿は、二つのクリップで留めてあった。


 陽介は紙袋に入れて持ってきた。


「結構あるね」


「うん。ごめん」


「長い小説なんだから、謝らなくていいよ」


「そうか」


 私は袋を受け取り、底が曲がらないように持ち直した。


「読み終わるまで、しばらくかかると思う」


「いつでも」


「あと、面白かったところだけ言うとは限らない」


 陽介は一度瞬きをして、頷いた。


「うん。分かった」


「それと、全部の原稿は読めないよ。次を書いたら、必ず私に、とは思わないで」


「うん。友達にも、毎回は頼めないって言われた」


 私は彼を見た。


「そっか」


「でも、あいつが読みたいものが書けたら、また頼んでみる」


 少し笑って、彼は紙袋から手を離した。


 読むのに、三週間かかった。


 仕事で疲れて帰った夜は、二頁でやめた。続きが気になり、休みの日の午前を使ったこともあった。


 その間に一度、陽介と会った。


 何頁まで読んだかとは聞かれなかった。


 私が、まだ途中だから何も言わないで、と先に言ったので、彼は口を押さえて笑った。


「分かった。何も言わない」


 私はその顔を見て、早く読み終えなければとは思わなかった。


 次の休みに、また開こうと思った。


 最後の頁を読んだのは、雨の午後だった。


 部屋から出なかった人は、廊下に置かれた荷物を、隣の部屋まで運んだ。それだけの場面に、それまで読んだ百枚以上のことが重なった。


 私は紙を戻し、途中の場面を探した。


 父親が出てくる話を読んだときも、こうして頁を繰った。


 けれど、今回は便箋を出さなかった。


 次に会って、自分の声で話したかった。


     *


 原稿を返したのは、二人で会い直してから、四か月目のことだった。


 駅から少し歩いた、図書館の向かいの店だった。


 私は紙袋を机へ置いた。


「読み終わった」


「ありがとう」


 陽介は受け取ったが、その場では中を見なかった。


 私は、水を一口飲んだ。


「最初のほう、少し分からないところがあった」


「うん」


「下宿の間取り。台所が二階にもあるのかと思ってた。途中で、一階にしかないって気づいた」


 彼は紙袋へ手をかけた。


「その辺、ちょっと見てもいい?」


「うん」


 私が挟んだ細い紙を目印に、頁を開いた。


 陽介は黙って読み、前の頁へ戻った。


「ここで、一階って書いてあるつもりだった」


「書いてない?」


「ない」


 私は少し笑った。


 彼も笑って、紙の端へ鉛筆で印をつけた。


「あと、最後に荷物を運ぶところ、好きだった」


 陽介の手が止まった。


「自分の部屋に戻るとき、靴を揃え直すでしょう。あそこ、別に揃えなくてもいいのに」


「うん」


「あの人、隣の部屋の人に見られるかもって、思ったんだなって。前は、廊下を誰が通るかも気にしてなかったから」


 彼は目を伏せた。


「そんなふうに読んでもらえるとは、思ってなかった」


「違った?」


「いや。書いてるとき、そこまでは、言葉にしてなかった」


 私は、そっか、と言った。


「書き終わってよかったね」


 私が言うと、陽介は頷いた。


「うん。読んでくれて、ありがとう」


 原稿を揃えて袋へ戻してから、彼は言った。


「出してみようと思ってる。今、応募できるところ、調べてる」


「そっか」


「次のも、少し書いてる」


 私は彼を見た。


「もう次を書いてるの?」


「うん。待ってるだけだと、たぶん、余計なことばっかり考えるから」


 彼は水を飲んだ。


 私は自分の指先を、グラスから離した。


「私ね」


 陽介がこちらを見た。


 考えてきた言葉があったのに、すぐには続かなかった。


 店員が隣の席の水を注いでいた。私たちのところへも来たので、グラスを少し寄せた。


 水の音が止まってから、私は彼を見た。


「陽介と、もう一度付き合いたい」


 彼は何も言わなかった。


 私が返事を待っていると気づいて、ようやく口を開いた。


「俺と?」


「ほかに、誰もいないでしょう」


 そう言ったら、少しだけ笑えた。


 陽介は原稿の入った袋を見て、それから私を見た。


「この話、読んでくれたから?」


「それも、今日話したかったことの一つだけど」


 私は首を横に振った。


「この前、電話で大きい本の話したでしょう」


「うん」


「そのあと、まだ話してたいなって思った。もう寝なきゃいけなかったけど」


 彼の顔を見ていたら、急に耳が熱くなった。


「あと、パンの店、付き合ってくれてるのかなと思ってたら、一人でも行ってたって聞いて、ちょっと悔しかった」


「あれは、会社の帰りに近くを通ったから」


「うん。分かってる」


 自分でもおかしくなって、私は笑った。


「また誘ってほしかったなって。そういうこと、考えるようになった」


 陽介は私を見たまま、ゆっくり息を吐いた。


「俺も、付き合いたい」


 彼の声は少しかすれていた。


「でも、仕事の予定が変わることも、また書けなくなることも、あると思う」


「予定、この前も変わったよ」


「うん」


「会いたかった。でも、私、次の日、普通に出かけられた」


 私は机の端の紙袋を見た。


「賞に落ちて、落ち込んでもいい。ただ、会うのがしんどいなら、言ってほしい。私が元気にしてあげなきゃって頑張っても、どうにもならなかったから」


 陽介は頷いた。


「うん。花音だけに聞いてもらうんじゃなくて、友達にも話すようになった。原稿を読んでくれたやつ。あいつも今、書いてるから」


「そっか」


 私はグラスを持ち上げ、少し飲んだ。


「私も、嫌だって言う。付き合うって言ったから、全部我慢するわけじゃない」


「うん。俺も、言う」


 彼が頷いた。


 私はようやく、椅子の背へ少し体を預けた。


 陽介はまだ、まっすぐに座っていた。


 店を出ると、雨は降っていなかったが、舗道に濡れた跡があった。


 来る途中、少しだけ降ったらしかった。


 私たちは並んで歩き、図書館へ向かう人とすれ違った。


 陽介の手が、私の手に一度触れた。


 何も言わずに離れたので、私から持ち直した。


「あ」


 彼が小さく言った。


「嫌だった?」


「違う。持ってくれると思わなくて」


「さっき、付き合いたいって言った」


「うん。そうだった」


 彼は原稿の袋を反対の手へ持ち替えた。


 私はその端が足に当たらないよう、少しだけ寄った。


 駅まで、二人とも急がなかった。


     *


 陽介が原稿を応募したのは、それから一か月ほどあとだった。


 送った、と連絡が来た夜、私は明日買っていくパンの希望を聞いた。


『甘いほうの、まだあったら』


 返事を見て、財布の横にメモを置いた。


 結果が出るのは、まだ先だった。


 付き合い直して二か月目、二人で水族館へ行った。


 私から誘った。


 昔、見たかった展示はもう終わっていたが、別の魚が来ていた。


 陽介は、前の日の夜に、明日は九時半だね、と連絡をくれた。


 当日は駅の改札で落ち合い、バスに乗った。


 水槽のガラスに近づくと、彼の顔が私の隣に映った。


「あれ、ずっと同じところにいる」


 陽介が言った。


「今、来たばっかりでしょう」


「そうだけど」


 私は笑って、説明の札を読んだ。


 魚は岩の陰へ入ってしまい、そのあと、しばらく出てこなかった。


 私が次へ行こうかと言うと、彼は、あと少し見ていい、と聞いた。


「いいよ。私、向こうの見てる」


「うん」


 離れた水槽を眺めていると、少しして、出た、と声をかけられた。


 私は戻った。


 魚はさっきと違う向きにいた。陽介は満足したようで、次の水槽へ歩いた。


 出口の近くで、お土産の菓子を見た。


 私は職場へ持っていく箱を一つ取り、彼にも選ぶかと聞いた。


「自分の分、買う」


 陽介が取ったのは、魚の形のクッキーだった。


「硬いかな」


「そこ、気にするんだ」


「柔らかくても食べるけど」


 彼は箱を裏返して、表示を読んだ。


 私は店の外へ出て、鞄の中からバスの時刻表を出した。


 次までは二十分あった。


 陽介が、外のベンチで待とう、と言ったので、二人で座った。


 私は自分の買った箱を鞄へ入れ、彼の膝の上の箱を指した。


「もう開けるの?」


「一枚食べたい」


 陽介は蓋を開け、個包装を二つ取り出した。


 片方を受け取ると、思ったより大きかった。


「これ、何の魚?」


 彼が箱を見た。


「マンボウ」


「今日、いなかったよね」


「いなかった」


 私は笑って、袋を開けた。


 一口かじると、薄い尾のところが折れ、膝に落ちた。


「あ、落ちた」


 陽介が自分のハンカチを出しかけた。


「大丈夫。拾える」


 私は尾を取り、残りと一緒に口へ入れた。


 彼も一口食べた。


「柔らかいね」


「うん」


「おいしい?」


 陽介が、私を見て聞いた。


 私は頷き、もう一口かじった。


~完~

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