ひとりめの『スターリン』の死
「ミハイル・シュイスキー、到着したらすぐにカメラを回すぞ」
「わかった。メイクはそれまでに、完璧にしておくよ」
揺れる専用車の中、白い軍服姿の『同志スターリン』は、鏡に向かっていた。
顔にいろんなものを塗りたくるのに余念がない。
ドーランを厚く塗り、首と手にも化粧を施し、しわやシミを描く。
ヨゼフ・ヴィザリオノヴィッチは子供のころかかった伝染病で、顔に発疹の跡が残っていた。
そっくり同じ個所に『あばた』を作りこむのは欠かせない作業である。
自分はソビエト各地で舞台俳優をやっていたから、メイクを駆使した変身と体型をカバーする補正、そして演技はプロフェッショナルだ。
ただ、口元は髭と口の中に入れた綿でごまかせるが、耳や鼻の形だけは補えない。
ソビエト連邦芸術家が作った、同士スターリンに似せた形のつけ鼻と耳を装着し、境目をメイクで塗りつぶすしかない。
聞いたところによると、同志スターリンの影武者は自分を含め数人いるらしい。
政治の場や民衆へのお目見えなどの際に、交代でなり替わる。これはとても重大な任務だ。
なにしろ偉大なる指導者は常に外国のスパイや犯罪者、ごろつきに命を狙われているから。
スターリンの命を守るためにも、それら『鳥の目を持つ者たち』の分析を欺けるほどの演技をしなければならない。
彼ミハイル・シュイスキーたちが務めているのは、映画における『ヨシフ・ヴィザリオノヴィッチ』の代役だ。
これは彼を含めて3人いる、ということが分かっている。
ひとりはスターリンと同郷で、訛りやアクセントまで完璧に再現することができる、まだ若い(確か20代と聞いた)男優。
そしてモスクワ出身の自分。
もうひとり、ユダヤ系の影武者がいるという話だが、その男のことは一度も目にしたことはない。
自分はつい先ごろまで、ミンスクのスタジオ制作の大祖国戦争の英雄を描いた映画に『スターリンとして』降臨していたが、そちらの撮影が長引いたので、ここダゲスタンの離れ小島に来るのが遅くなってしまった。
エキストラとして参加する島の人々や漁業コルホーズの面々、子役たちには『同士スターリンが視察ついでに来てくれる』と伝えられているという。
ならば、このロケバスから一足降りた瞬間から、同士スターリンになりきらなくてはいけない。
今回撮るのは『港近くの工場に現れて、英雄的働きをした工員に記念のバッジを与える』というシーンだけだ。
「ミハイル・シュイスキー、そろそろ到着するぞ」
「わかった。こちらも準備はできている」
よし。カメラが回りだした。自分の心のカメラが。
ミハイル、この車を出て日の光の下に出るときは、国の希望、偉大なる党指導者ヨセフ・ヴィザリオノヴイッチ…スターリンだ。
車が止まった。
スターリン役者ミハイルは、帽子を整え髭を撫でつけ、立ち上がった。
ドアが開く。
カスピ海沿岸地方の、まぶしくぎらつく冬の陽だ。
島の人たちが幾人か、ぎょっとした顔でこちらを向き、慌てて建物の陰に隠れる。
警備兵の扮装をし、作り物の銃を下げた若い役者たちが周りを固め、仰々しく歩き出す。
埃と砂が渦巻く島の駐車場の、ロケ車から現れた『同士スターリン』は威厳に満ちた笑みを浮かべながら、ゆっくりと港の桟橋へと歩みを進めた。
途中小石と砂利に足を取られそうになるのをこらえながら。
「同士スターリンだ」
その一声で十分だった。
白の軍服とブーツ、そしてやや小柄な体を丈高く見せる帽子。
警備兵に囲まれながら、スターリンがやってくる。
僕たちの島に、同士スターリンが。
島の主要な役職者や、映画撮影のコーディネートにあたった者たちは、みんな知っている。
いま港の駐車場でロケ車を降りて、大チョウザメが水揚げされる漁船の待つ桟橋へ、ゆっくりと歩みを進めている人物が「影武者」いわゆるそっくりさんであることを。
モスフィルム所属のプロのスターリン役者ミハイル・シュイスキー。
だがエキストラとして参加している大半の島の人たちや、子役、他の地区からの下級役人などはみな圧倒され、畏れている。
大きな声では言えないが、町の党の役員や指導者が次々と姿を消し、戻ってこない。家族も捕まりどこかへ送られてしまっている。
その「取り締まり」の最高責任者、国民の生死を握っている大審判者。
その人物がこちらに迫っているような、妙な心地悪さが全身を駆け巡るのだ。
こんな時でも監督は冷静だ。
「同士スターリン、工場の青年と女工と並んで、こっちを向いてください」
女工役の女優かしまし屋のマーシャと、カチコチになった本物の缶詰工が並び、スターリンを迎える。
後ろの船上では、ロープに括り付けたオオチョウザメが、ぎりぎりとロープと滑車で釣り上げられていく。
「そうだ、ゆっくり同志スターリンの背後にサメを…」
カメラはゆっくりとパンアップする。
ロープの位置は万全。
桟橋に横付けされたクレーン車が、船の上から巨大すぎるチョウザメを吊り上げ、スターリンたちの後ろに降ろす算段だ。
その大きさたるや、巨大な砲弾か小型潜水艦のよう。
微笑みながら歓声にこたえる大指導者。
そしてほほを赤らめてお褒めにあずかる、英雄的働きを見せたキャビア缶詰工場の工員たち。
チョウザメを背に、彼らが向かい合い、畏れ多くも直に言葉を受ける
バシュッという音
発射機から放たれた銛がチョウザメを吊り下げたロープを断ち切った。
……その瞬間、サメが空から降ってきた
逃げる間もなく、巨大な口が「スターリン」の体を一飲みし、1トンを超える自重で押しつぶした。
隣の女優と工員も、倒れてきた巨大な胴体の下敷きになり、声一つなく潰れた。
悲鳴、絶叫、我先に逃げようとパニックに陥る群衆。
「スターリンが死んだ !!」
「同士スターリンが死んだ、俺たちも殺されるぞ !」
一度タガが外れた群衆は、恐怖に背を押されるあまり、海に飛び込み逃げようとする者までいた。
「カメラを止めろ、止めるんだ」
警察も、映画省の役人もまだ来ていない。
撮影中の事故だ、よくあることだ。それが「同士スターリン」のそっくりさん役者だったということだ。
粛清されは……しないと思う。
監督は混乱する頭で、スタッフに命じてサメを除けようと踏ん張った。
しかし何という血だ。
ただでさえ滑りやすい桟橋と岸壁が、飛び散った内臓と血でぬるぬるしている。
その光景と血の臭気に耐えかね、照明の青年が四つん這いになって吐いている。
子役たちは泣き叫んで収拾がつかない。
そこに野太い怒鳴り声が響いた。
「犯人がいたぞ。銛銃でロープをぶった切ったやつらがいたぞ」
工場の古い物入れの二階に、人々が殺到した。
撮影陣が駆け寄った時、大勢の工員たちに囲まれて、少年と少女がゲラゲラと笑っていた。
「大丈夫だよ。逃げないよ」
少年が澄んだ目で大人たちを見上げて言った。
「あたしたち死ぬんでしょう。同士スターリンを殺しちゃったから。そうでしょ」
あどけない顔の少女が弾んだ声で叫んだ。
その手は古びて破棄された、銛銃の銃身に掛かっていた。




