小さな灯火
夏の終わりの行灯祭り。
揺れる灯火の下で、十一歳の少年は勇気を振り絞ります。
怖くても、あとで後悔するくらいなら——。
「義を見てせざるは、勇なきなり」
二度とは戻らない夏の夜と、淡い初恋の物語です。
少しだけ昔の夏を思い出しながら、読んでいただければ幸いです。
八月も、もう終わろうとしていた。
楽しかった夏休みも、のこりわずかとなったある夜のことだった。
昼間にはまだ、校庭の桜の木で蝉が声を張り上げている。
けれど日が傾けば、昼の熱をさらっていくような涼しげな風が吹きはじめる。
夏休みの終わりには、いつも少しだけ不思議な匂いがした。
乾いたグラウンドの土、突然ふりだした夕立の名残、どこかの家から漂ってくる蚊取り線香。 そして、もうすぐ終わってしまう夏の匂い。
「兄ちゃん、早く!」
弟の声に、涼介は顔を上げた。
「待てって。走ると転ぶぞ!」
「ねえ、お兄ちゃん、りんご飴あるかなあ?」
「あるある。だから引っ張んなって!」
両脇から弟と妹に腕を引かれながら、涼介は小学校の正門をくぐった。
今夜は年に一度の行灯祭りだった。
本当なら友達と行くはずだったが、父は急な仕事で朝から不在で、母も町内会の用事が入ってしまった。
そこで小学五年生の涼介が、二人の保護者役を仰せつかったのである。
「お兄ちゃんなんだから、ちゃんと面倒見なさいよ」
家を出る前、そう母に念を押された。正直なところ面倒だったけれど、校庭へ一歩入った瞬間、そんなモヤモヤとした気分はどこかへ消えていった。
運動会で走ったトラックの周囲には、色とりどりの行灯がずらりと並んでいた。
夕陽のような赤い行灯に、海が描かれた青い行灯、森のような淡い緑をした行灯。
そのひとつひとつに火が灯り、薄い紙を透かして、子供たちの描いた絵が夜の中へ浮かび上がっていた。
風が通るたびに、光がかすかに揺れる。まるで夜の校庭に、小さな星が降りてきたように幾つもの行灯の灯火が優しく揺れた。
その内側では、祭りの屋台がこれでもかというほど賑やかに並んでいた。
「いらっしゃい、いらっしゃい!」
「焼きそば、焼けたよー!」
鉄板の上でソースが焦げる匂い、たこ焼きをひっくり返す金串の音、綿菓子機の中で、白い糸がふわりと膨らんでいく。
金魚すくいの水槽には裸電球が映り込み、赤や黒の金魚が光を砕きながら泳いでいた。
他にはヨーヨー釣り、射的、輪投げ、かき氷。それと、冷えたラムネに焼きとうもろこし。
普段なら朝礼台が置かれている辺りには櫓まで組まれ、太鼓の音に合わせて浴衣姿の大人たちが盆踊りを踊っていた。
ドン…、ドドン…。
「兄ちゃん、射的!」
「わたし、金魚!」
「ちょっと待てってば!ひとりずつ言え!」
財布の中身を確認しながら、涼介は頭を抱えた。
弟と妹を連れてきたのは、やっぱり失敗だったかもしれない。
そう思ったときだった。
「涼介?」
祭りの喧騒の向こうから、自分の名前を呼ぶ小さな声が聞こえた。
振り返った涼介は、一瞬だけ声を失った。
「……梨華?」
そこには、同じクラスの梨華が立っていた。
白地に朝顔の咲いた柄の浴衣を着ていた。いつも教室では肩まで下ろしている髪を、今日は後ろでまとめている。耳の横には、小さな赤い花飾りが揺れていた。
毎日のように学校で見ていたはずなのに、なぜだかいつもより少し違って見えた。
「どうしたの?」
「いや……別に」
「変なの」
梨華が笑う。ただそれだけで、涼介は妙に落ち着かなくなった。
梨華の後ろには、浴衣を着た同じクラスの女子が二人いた。
「ねえ?涼介も一緒に回ろうよ」
「弟たちもいるんでしょ?」
「人数多いほうが楽しいじゃん」
断る理由はなかった。
それからしばらく、六人で屋台を巡った。
妹は金魚すくいに挑戦して、一匹も取れなかった。「破れちゃったぁ……」
半泣きになる妹に、梨華はしゃがみこんで目線を合わせた。
「大丈夫。ほら、おじさん一匹くれるって」
「ほんと?」
「よかったね」
妹の顔がぱっと明るくなる。
その横で弟は射的に夢中だった。
「もう一回!」
「駄目だ。三回やっただろ」
「ケチ!」
「誰が金払ってると思ってんだ」
梨華が吹き出した。
「涼介、お兄ちゃんしてるね」
「…仕方なくだよ」
「でもちゃんと面倒見てる」
「……うるさいな」
また耳が熱くなってきた。そのとき、射的の列の後ろが急にざわついた。
「どけよ」
大きな身体の六年生が、並んでいた低学年の子を押しのけて前へ出た。
猪熊秀樹だった。気に入らないことがあるとすぐ誰かに突っかかることで有名な六年生だ。
身体が丸々として大きく、鼻の横に目立つ大きなイボがあるから、下級生たちは本人に聞こえないところで「イボイノシシ」と呼んでいた。
「次、俺な」
猪熊が当然のように射的の銃へ手を伸ばす。その、ガキ大将特有の横暴な振る舞いをみた梨華は、思わず眉をひそめた。
「並んでる子いるじゃん」
「あ?」
「順番守りなよ」
猪熊の顔が険しくなった。周りにいた小さな子供たちが梨華と猪熊を見る。
「うるせえな」
「さっき、小さい子を押したでしょ」
「関係ねえだろ!!」
「あるよ」
梨華は、イボイノシシ相手に一歩も引かなかった。
射的屋のおじさんまで「坊主、ちゃんと並べ」と言ったことで、イボイノシシは舌打ちをして渋々と列から離れていった。
去り際に猪熊は、梨華をじろりと睨む。
「生意気なんだよ」
涼介はその不敵な目が少し気になった。けれど、梨華は気にも留めず、「ほら、次あっち行こ」と歩き出した。
祭りを回っているうちに、いつの間にか空はすっかり藍色に変わっていた。
校舎の窓は真っ暗なのに、その前に並ぶ行灯だけが淡く輝いている。
昼間なら何でもない学校のグラウンドが、夜だけ別の世界へつながってしまったように見えた。
「ねえ涼介、行灯見に行こうよ」
「俺の自信作もあるぞ」
「へえ、どんなの?」
涼介は、はにかみながら少し胸を張った。
「見れば分かる。かなりの力作」
「それ、自分で言う?」
「三日かかったんだぞ」
「宿題ほったらかして?」
「……なんで知ってる」
「顔に書いてるよ」
そして涼介たちは、屋台の列をあとにして、みんなで行灯の列へと向かった。
「あった!」
涼介はすぐに自分の作品を見つけた。行灯の四面それぞれに、大好きな漫画の戦士を描いてある。
名前そのものは描かなかったけれど、知っている人なら一目で分かる。
「うわっ、涼介らしい」
梨華が瞳を、大きく見開いて笑った。
「だろ?」
「褒めてないよ」
「なんだよ」
それでも涼介は満足だった。昼に提出したときより、ずっと格好よく見える。
絵の後ろに灯った火が、戦士たちの輪郭を揺らしている。
「梨華のは?」
「涼介の隣にあるよ」
そこには、まるで違う行灯が置かれていた。
春は桜、夏は夜空いっぱいの花火、秋は赤や黄色に染まる山、冬は雪をかぶった家々。
梨華の行灯の四面には、四つの季節が描かれている。
「どう?すごいでしょ?」
梨華が少し照れたように訊いた。
「……なんか、梨華っぽいな」
「なにそれ?」
「いや、悪い意味じゃないって」
目をみはるほど派手ではない。
涼介の行灯みたいに、強そうな戦士がいるわけでもない。
けれど、灯が入ると違って見えた。紙の向こうから光が滲み、桜も花火も紅葉も雪も、遠い記憶みたいに浮かび上がっている。
まるで四つの季節が、ひとつの小さな箱の中に閉じ込められているようだった。
「きれいだな…」
梨華が笑顔で、涼介を見る。
「ありがと」
いつもの教室なら、お互いに茶化して終わっていただろう。
——けれどその夜はなぜか、どちらも笑わなかった。
涼しい風が、校庭を撫でるように吹く。
風が通るたびに行灯の光がかすかに揺れる。
まるで夜の校庭に小さな星が降りてきたかのように、幾つもの灯火が優しく瞬いていた。
――そのときだった。
「ああん!?なんだよ、これ!?」
近くから聞き覚えのある不快な声がした。涼介と梨華が振り向いた先を見ると、猪熊がそこにいた。
そして、梨華の行灯の名前札に目を止めて笑った。
「ああ。これ、お前のか」
梨華の顔から、瞬時に笑みが消えた。
「そうだけど」
「春とか秋とか描いて、何これ」
猪熊が目を歪めて、鼻で笑った。
「夏祭りなのに。ダッセえな」
「別にいいでしょ」
「さっきから偉そうなんだよ、お前」
途端に、梨華の表情が険しくなった。
「やめてよ!!わたしの行灯に触らないで!!」
「なんだよ。こんなの破ったっていいだろ!」
イボイノシシは、半泣きになっている梨華のことを嘲笑うかのように、行灯の薄い紙を指でつまんだ。
―ぴし。
紙が小さな音を立てた、その瞬間――。
涼介の頭の中から、急速に祭りの音が遠ざかっていった。
涼介は以前、国語の授業を受けているときに、担任の先生が黒板に書いた言葉を、ふと思い出した。
『義を見てせざるは、勇なきなり』
最初は難しすぎて意味なんて半分も、分かっていなかった。
ただ先生は、そのあと子供にも分かるように簡単に言い直してくれた。
「正しいと思ったことを、怖いからって見て見ぬふりするのは、勇気がないってことだ」
別に、立派な人間になりたいわけじゃない。正義の味方になりたいわけでもない。喧嘩をしたいわけじゃない。
――ただ。
梨華が泣いているのに、知らん顔するのだけは嫌だった。
「おい!やめろよ!!」
気づけば涼介は、イボイノシシの腕を掴んで突っかかっていた。
「なんだ、お前!?邪魔すんなよ!!」
「梨華の行灯に触るな!!」
「あ!?お前には、関係ねえだろ!!」
「あるんだよ!!」
次の瞬間、涼介は猪熊に突き飛ばされて、背中から地面に落ちた。
「涼介!!」
視線の先では、梨華が青ざめた表情で立ちつくしていた。立たなければよかったのかもしれない、先生を呼べばよかった、大人に任せるべきだった。
――けれども。
十一歳の涼介に、そんな冷静な選択はできなかった。
「ふざけるな!!」
立ち上がると同時にグラウンドの土を蹴って、猪熊に飛びかかっていった。
猪熊の巨大な拳が、涼介の頬をもぎ取るような勢いで命中した。
涼介の頬には、火箸を押し付けられたような熱い激痛が走るが、涼介はお構いなしに、そのまま猪熊の横っ面を殴り返した。
――そうして、どのくらい殴り合っただろうか。
涼介も猪熊も、互いに肩で息をしなければならないくらい疲れてはいるが、それでも止まらない。
殴られたら、殴り返す。蹴られても負けじと、食らいつく。そうして次第に、涼介の口の中には、錆びた鉄のような匂いしかしなくなっていった。
やがて、周囲から悲鳴が上がり、騒ぎを聞きつけ駆けつけてきた大人たちが二人を引き離した。
「やめなさい!!」
猪熊は大人に腕を掴まれながら、涼介を激しく睨みつけた。
「覚えとけよ!」
そして猪熊は去り際に、腹いせのように、足を大きく振り上げた。
――バキッ!!
「あっ!!」
蹴られた拍子に涼介の行灯の枠が歪み、紙が大きく裂けた。
三日もかけて、何度も描き直した自信作。しかも、一番うまく描けたと思っていた面がビリビリに破れてしまった。
涼介は、その場にしゃがみこんだ。
「さ……最悪だ……!」
悔しい、痛い、泣きそうだった。けれど、梨華たちの前で泣くのはもっと嫌だった。
「涼介、動かないで…」
梨華が差し出した、白いハンカチが涼介の頬へ触れた。
「痛えっ!」
「我慢して」
「お前、意外と雑だな…」
「誰のせいでこんなことしてると思ってんの…」
梨華の声は静かだったが、少し怒っているように感じた。濡らしたハンカチで、涼介の口元を拭う。
「……ごめん」
「なんで梨華が謝るんだよ……」
「涼介の自信作、壊されたでしょ」
「まあな」
「三日かけたんでしょ」
「……ああ」
「だったら、よくないじゃん」
涼介は自分の行灯を見た。
紙は破れて、形も歪んでいた。
それでも、かろうじてロウソクの灯火だけは、まだ消えていなかった。
破れた隙間から入る風に煽られて、何度も小さくなっては、また明るくなる。
その隣、梨華の行灯は無事だった。
四面を彩る春の桜が、夏の花火も、秋の紅葉も、冬の雪景色が優しく二人を照らしていた。
「でも梨華のは無事だったから、それでいいや」
梨華が呆れたように、小さく俯いた。
「……バカ」
「なんだよ……」
梨華の目から一雫の涙が静かに落ちた。零れ落ちた涙が浴衣の袖へ、小さな染みを作る。
それから梨華は、少しだけ笑った。
「……でも、嬉しかったよ」
「え?」
「守ってくれたこと」
「別に。イボイノシシが勝手に破ろうとしたから――」
「私ね、この行灯、今年はすごく頑張って作ったの」
梨華が少しだけさみしそうに笑った。だが、行灯の灯火に照らされた、笑顔はすぐに消えた。
そして、梨華は俯いたまま指先で浴衣の袖をつまんだ。
「……今年で最後だから」
涼介は、梨華の横顔を見た。
「最後?」
「うん」
梨華は、自分の行灯へ目を戻した。
「来年は、もう作れないから」
「……え?」
梨華は、すぐには涼介の顔を見なかった。
行灯の中で揺れる小さな火を見つめたまま、浴衣の袖をきゅっと握っている。
「お父さんの仕事で来月に引っ越すことになったの。二学期の途中まではいるけど、そのあと転校する。夏祭りも今日で最後なの」
涼介は何も言えなかった。
さっきまで耳にうるさいほどだった祭りの音が、急に遠くなった気がした。
ドン、ドドン、と櫓の太鼓が鳴っている。
焼きそばの屋台では、まだ誰かが笑っている。
金魚すくいの水面には、赤い提灯が映っている。
なのに、自分たちのいる場所だけが切り取られ、祭りの外へ取り残されてしまったようだった。
「……なんで今まで、言わなかったんだよ」
「だって……」
梨華は泣きながら、小さく鼻をすすった。
「……言ったら、楽しかった毎日も今日で『最後』になりそうだったから、言いたくなかった」
「最後?」
「みんなで夏祭り来るのも。今年が最後だから……。言えなかった」
その言葉が、涼介の胸の中へ沈んだ。
――最後。
そのとき涼介は、その言葉が急に嫌いになった。
来年もまた、同じ夏が来ると思っていた。
また暑い季節がきて、蝉が鳴いて。六年生になって。同じ校庭で行灯を作って。またみんなで、くだらないことで笑う。
そうなるものだと勝手に思っていた――
けれど、梨華にとっては違う。
この夜は、もう二度と来ない。同じ夏祭りも、同じ十一歳も、浴衣姿の梨華も、今日ここでしか会えないものなのだ。
「……そっか」
それしか言えなかった。気の利いた言葉が浮かばず、我ながら情けないと涼介は思った。
梨華の行灯に描かれた花火が、風に揺れた。隣には、破れた自分の行灯がある。蹴られて紙が裂け、せっかく描いた戦士の顔も歪んでいる。
――それでも、中の灯火は消えていなかった。
小さくなって、また明るくなって。何度も、何度もそれを繰り返している。
「……涼介」
「ん?」
「さっきは……ありがとう」
「……別に」
「別にじゃないよ」
「だって悪いのは、イボイノシシだろ」
「でも怖くなかった?」
怖かった。
猪熊は一学年上で、そのうえ身体も大きかった。殴られたときは、本当に痛かった。
逃げたかったかと聞かれれば、たぶん逃げたかった。
けれど、梨華の行灯が破られそうになった瞬間に、先生が授業で言っていた言葉が頭をよぎった。
――義を見てせざるは、勇なきなり。
あのときは難しい言葉だと思った。けれど今なら、少しだけ分かる。
怖くないことが勇気なのではない。怖くても、黙っていられないことがある。
「……怖かったよ」
涼介は観念したように、正直に白旗を上げた。
「じゃあ、なんでよ?」
「知らねえよ」
「何それ」
梨華が泣きながら笑った。
「ただ、目の前であれ破られたら、たぶん後悔すると思った」
その言葉を口にした瞬間、涼介の胸の奥で何かが引っかかった。
――後悔する。
それは、今も同じではないのか。
梨華は来月には転校する、もう来年はない。今日と同じ夜は、二度と来ない。
それなら――
今ここで、言わなかったら、ずっと言えないままになるのではないか。
そう思った途端、さっきイボイノシシに向かっていったときよりも、心臓が高鳴った。
拳を握るより難しい、殴られるより怖い。
涼介は、自分の足元を見た。グラウンドの、砂の上に行灯の灯火が、ゆらゆらと揺れていた。
「……なあ、梨華」
「なあに?」
「俺さ……」
そこまで言って、急に涼介の喉が詰まった。梨華が、不思議そうな眼差しで、涼介を見つめる。
「……なによ?」
「……いや、その……」
「涼介、顔赤いよ?」
「うるさい!」
「さっき殴られたところ?」
「違う!」
梨華が少し笑う。その屈託のない笑顔を見たら、余計に言えなくなった。
逃げたい。やっぱりやめようか。
転校するなら、なおさら言っても仕方ない。
どうせ離れるのだ。今さら好きだと言ったところで、何が変わる。
そんな理屈が、頭の中に次々浮かんだ。
――けれど。
目の前で梨華の行灯を、イボイノシシに壊されそうになったときも、同じだった。
先生を呼べばよかった、大人に任せればよかった殴り合う必要なんてなかった。それでも、自分は動いた。
――しかし今度は、喧嘩ではなく告白だ。
「……俺、梨華のこと好きだ」
言ってしまった瞬間、涼介の耳の奥で血が脈打つ音がした。梨華は目を丸くしたまま固まり、声が出なかった。
「おい……なんか言えよ」
「びっくりしてるの」
「なら、忘れていい…」
「なんで?」
「だって転校するんだろ」
「だからって、なんで忘れるのよ」
梨華の目から、また涙が一雫、こぼれ落ちた。
「……私も」
「え!?」
「私も、涼介のこと好きだったよ……」
涼介の胸の奥で、何かが静かに弾けた。
それは、花火みたいな大きくて派手な音はしなかった。ただ、身体の内側が急に熱くなった。
「……だった?」
「今も……」
「じゃあ過去形になんかすんなよ!」
「……細かいなあ」
「いや、そこ大事だろ!」
二人とも声を出して笑った。けれども、梨華だけはまだ泣いていた。涼介も、少しだけ鼻の奥が熱かった。
やがて、祭りの終了を知らせる放送が流れた。屋台の裸電球がひとつ、またひとつと消えていく。
人影も少なくなっていた。弟と妹は少し離れたところで、梨華の友達と一緒に金魚の袋を覗き込んでいた。
いつの間にか、雲の切れ間から月が出ていた。月の白い光が、校庭を淡く照らす。
行灯の暖かな光とは違う、静かな光だった。
「じゃあ……指切りしよっか?」
梨華が浴衣の袖から、そっと小指を涼介に差し出した。
「何を」
「……今日のこと、忘れないって」
涼介はためらうことなく、小指を絡めた。
「忘れない……」
「ほんと?」
「ほんと」
「何年経っても?」
「何年経っても」
「大人になっても忘れない?」
「しつこいな……」
「だって心配なんだもん」
「忘れねえって」
それだけ短くいうと、ふたりは小指を離したけれども、梨華はすぐには手を引っ込めなかった。涼介も、すぐには動かなかった。
薄暗い月明かりの空の下で、ふたりは無言で向かい合った。
何をすればいいのかなんて知らない。
ただ、このまま「じゃあね」と別れたら、また何かを後悔するような気がした。
涼介が一歩、近づいた。
梨華も逃げなかった。
どちらからだったのか。
あとになっても、きっと分からないと思う……。
――ほんの一瞬。
涼介の唇と梨華の唇が、軽く触れ合った。
途端に涼介の顔が熱くなる。梨華も顔を真っ赤にしていた。
「……今のも、忘れないでよ涼介」
梨華が俯いたまま、恥ずかしそうに呟いた。
「そっちこそ……。絶対だかんな」
「忘れるわけないじゃん」
梨華は笑いながら言った。
その笑顔は、涙の跡が残っているのに、今までで一番きれいに見えた。
しばらくすると、友達が遠くから梨華を呼んだ。
「梨華ー!もう帰ろー!」
「うん、今行く!」
梨華は友達に返事をしてから、涼介を見た。
「じゃあね」
涼介は一瞬だけ迷った。「さよなら」と言うべきなのかもしれない。
けれど、その言葉を口にしたら本当に終わってしまう気がした。
「……またな」
梨華は嬉しそうに、少しだけ目を細めた。
「うん。またね」
そして浴衣の裾を揺らしながら、友達のもとへ走っていった。
涼介は、その背中が人混みの向こうへ消えるまで見ていた。
――やがて夜風が吹いた。
梨華の行灯に描かれた夏の花火が揺れる。その隣で、涼介の行灯もまだ光っている。
空を見上げれば、月が浮かんでいた。祭りは終わった。夏休みも、もうすぐ終わる。来年、この場所に梨華はいない。
――それでも。
さっき触れた唇の温度だけは、まだ消えなかった。
涼介は、この夜だけは絶対に忘れないと誓った。
祭りの灯火がひとつ、またひとつと消えていく。
それでも最後まで残った行灯の火影が、過ぎてゆく夏を惜しむように、ふたりの十一歳の夏を忘れないように、夜風の中でいつまでも静かに揺れていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は『僕と彼女の最適解』とは少し趣向を変えて、夏祭りと淡い初恋を描いた、王道の青春短編を書いてみました。
一期一会という言葉があります。
人と人との時間は、その瞬間には何気なく思えても、あとになって振り返れば、二度と戻ることのできない大切な一瞬だったと気づくことがあります。
祭りも終わる。 夏も終わる。
やがて二人は離れていく。
それでも、行灯の火のように、消えずに残り続ける記憶もある。
そんな「一瞬の永遠」を表現しました。
人間は、いつも合理的に行動できるわけではありません。
怖い。 迷う。 言いたいのに言えない。
それでも最後には、理屈を越えて一歩を踏み出すことがある。
これからも、そんな合理性だけでは説明しきれない人間の揺らぎや、不器用さ、心の機微を物語の中で描いていきたいと思っています。
皆さんにも、「あのとき勇気を出してよかった」と、今でも忘れられない瞬間はありますか?
また次の物語でお会いできれば幸いです。




