2-1.異形(バグ)
第四居住区、噴水広場。
数分前まで、そこはバイブルが提供する「穏やかな日常」の象徴だった。光合成を必要としない改良品種の花々が咲き誇り、市民たちは完璧に計算された陽光の下で談笑していた。
だが今、広場は世界の綻びから漏れ出した「異物」によって、現実が侵食される地獄へと変じていた。
「バリアの出力を上げろ! 一般市民を退避させろ、急げ!」
一般執行官・サカキの怒号が響く。彼が率いる第一部隊は、広場の中央を囲むように電磁バリアを形成していた。その内側では、この世界の物理法則を無視した「何か」が、空間をどろどろに溶かしながら膨張を続けている。
それは、色彩を失った歪な肉塊だった。
この世界の生物とは根本的に構造が異なり、節くれ立った枝のような突起と、ノイズを放つ乳白色の眼球が無秩序に並んでいる。バグが空気を震わせるたびに、周囲の石畳がデジタル的な砂嵐となって崩れ落ちていく。外側の世界から「漏れ出してきた」その異形にとって、この世界そのものが拒絶すべき異物なのだ。
「チッ、再生速度が速すぎる! 標準仕様のリ・コード弾じゃ、削りきれんぞ!」
サカキが舌打ちした、その時だった。
広場の中空、何もない空間に突如として「亀裂」が走った。ガラスが割れるような鋭い音が響き渡り、空間が内側から強引にこじ開けられる。
「……掃討任務を開始する。第一部隊、射線を空けろ」
通信機から響いたのは、感情を削ぎ落としたリュウの声。
次の瞬間、空中に走った亀裂がゆっくりと左右へ押し広げられた。そこから吐き出される反転した光の残滓とともに、二人の影が静かに、だが確かな重量感を持って広場の中心部へと降り立つ。
石畳が彼らの足元から網目状にひび割れ、逃げ遅れたノイズが火花のように散った。土煙が晴れる中、サカキは忌々しげに銃口を下げ、吐き捨てるように呟いた。
「……どっちが敵か分からねえ『化け物』のお出ましだぜ」
その視線は、異形だけでなく、突如として現れた二人に対しても同様に冷たく、鋭かった。
一人は、頭部ユニットのバイザーをスライドさせ、顔を半分覆うクリアパネルに戦術情報を投影するリュウ。
そしてもう一人は――
人間という枠組みを維持する限界のような、圧倒的な威圧感を放つジンの巨躯。ジンの背中のスーツが、内側からの圧力でミシミシと悲鳴を上げた。彼は黄金色に輝く瞳で、目の前でうごめく異形の塊を静かに見据える。
「リュウ、こいつの『芯』はどこだ」
「中心核、右へ三度。……ジン、街を壊しすぎるなよ」
「……努力はしてみる」
ジンが一歩、踏み出す。その瞬間、彼の背中の「角」がスーツの隙間から鋼のように鋭く伸長した。
異形が咆哮を上げ、空間を歪ませる波動を放つ。だが、ジンはその波を力ずくで踏み越え、地面を蹴った。
彼が踏み込んだ地点の石畳が巨大なクレーター状に弾け飛び、衝撃波だけで周囲の街灯が飴細工のようにへし折れる。サカキたちが悲鳴を上げて盾を構える中、ジンは異形の懐へと一瞬で肉薄した。
「グアアアアァッ!」
異形が絶叫する。ジンは返り血ならぬ「黒いノイズ」を浴びながら、その拳にどろりと黒いエネルギーを収束させた。
「……終わりだ、バグ野郎」
ジンの拳が、異形の「芯」へと深く突き立てられた。
刹那、黒い衝撃が全方位に炸裂する。
異形は悲鳴を上げることすら許されなかった。拳が触れた箇所から、肉塊の質感がデジタル的な砂嵐へと反転し、音もなく崩壊していく。
ジンの放った過剰な破壊エネルギーは、敵を消滅させるだけでは収まらず、背後の噴水を木っ端微塵に粉砕し、広場にそびえ立つバイブルの記念碑を無慈悲に真っ二つへと切り裂いた。
舞い上がる黒い粒子が空中で霧散し、静寂が戻った広場に残されたのは、バグの残骸ではなく、暴風に晒された後のような街の惨状と、返り血を浴びたように黒いノイズを纏って立ち尽くすジンの背中だけだった。




