1-3.『エリア・ゼロ』
『エリア・ゼロ』の空気は、地上とは異なっている。
バイブルが維持する完璧な温度と湿度はここには届かない。代わりに満ちているのは、古びた機械の油の匂いと、肺の奥を刺すような、冷たく乾いた沈黙だ。
リュウはブーツの音を響かせ、部屋の中央へと歩を進めた。
そこには、幾重もの電磁拘束具と、極太の供給ケーブルに繋がれた「巨躯」が沈黙している。
それは、人にしてはあまりに大きく、獣にしてはあまりに整った、異形の造形物だった。
「……バイタルチェックを開始する。ジン、聞こえるか」
頭上の監視カメラが、リュウのその声を克明に拾い、上層階の記録装置へ送り届けている。執行局の面々は、リュウがこの「個体番号01」に愛称を付けて呼ぶことを、猛獣を御するための彼なりのやり方だと見なし、なかば呆れながら黙認していた。
暗闇の中で、影がわずかに動いた。
「……ああ。バイブルの連中が流し込んでくるリ・コードが、神経を逆なでする。最悪の目覚めだ」
闇の中から響いたのは、地鳴りのように低く、だが驚くほど理知的な声だった。
ゆっくりと顔を上げたその男――ジンの瞳は、深淵のような黒の中に、不吉なまでの黄金色の光を宿している。
「我慢しろ。……今、出撃命令が出た」
リュウが手元の端末を操作し、スーツの状態を最終確認する。抑制フィールドは正常。スーツの隙間から覗く黒い「角」が、特異点の発生に共鳴してドクンと不気味に脈動した。それと呼応するように、ジンの瞳の黄金色が、彼の意志を無視してじわりと輝きを増していく。
「……チッ。あいつらが近くに来ているのが、肌で分かる。吐き気がするぜ」
ジンは溢れ出す破壊衝動を抑え込むように、自身の太い腕を強く掴んだ。ぎらつく瞳が、獲物を求める獣のように何も無い空間を睨む。
「行くぞ。……完全逸脱は許可しない。理性を食われる前に、すべて終わらせろ」
リュウが告げたのは、相棒への信頼であると同時に、完全逸脱すれば自分の手で葬らねばならないという、非情な宣告でもあった。
「分かってる。……お前の『手綱』が外れないことを祈るんだな」
リュウが拘束解除スイッチを叩くと、轟音とともに電磁ロックが外れ、巨躯が地面を揺らして立ち上がる。
同時に、部屋の奥に鎮座していた重厚な防壁――「ゲート・ハッチ」が重低音を響かせて開放された。ハッチの向こう側には、本来あるはずの地下の壁ではなく、反転した色とノイズが渦巻く「戦域への最短経路」が口を開けている。
地上の一般部隊が装甲車で現場へ急行する中、彼ら二人だけは、この暗い奈落から世界の「裏側」を通って投入される。
二人は無言のまま、その歪んだ光の中へと足を踏み入れた。




