2-9.境界の異変
居住区の冷たい廊下を歩み出し、リュウは無機質な垂直エレベーターを経て、基幹移動ルートへと向かった。
ほどなくして、壁面のレールを滑るようにして磁気浮上式リニア・キャリアがドックへ到着する。窓のない金属製のカプセルに乗り込むと、バイブルの制御によって加速のGさえ感じさせない、滑らかな移動が始まった。
数分後。目的地である「第4発進デッキ」の表示がバイザーに点滅する。
キャリアが減速し、接続部が固定されると、プシュッという気圧調整のための加圧噴射が白煙を上げ、重厚なハッチが左右に開いた。
そこには、すでに出撃準備を整えた執行官たちの無機質な足音と、大型輸送機の重低音が響き渡っていた。
デッキの中央には、黒い巨躯を横たえたVTOL式重輸送機『カロン』が、離陸に向けた予熱の熱気を吐き出している。
タラップの傍ら、リュウは自分の位置を確認するために足を止めた。
「……遅かったな、リュウ」
低く、抑揚のない声が投げかけられた。
声の主は、一等執行官カイン。自分よりも一回り大きな強化装甲を纏い、バイザー越しに冷徹な視線を向けている。
「……バイブルの招集には応じた。遅延はないはずだ」
リュウが短く答えると、カインの背後にいた他の隊員たちが、隠そうともせずに冷ややかな視線を送ってきた。
彼らが忌み嫌っているのは、リュウという男そのもの以上に、彼が先の戦いでその身に引きずり込み、今も脳内に飼い続けている「怪物の残滓」だった。
戦術リンクを通じて視界を同期させるたび、リュウの端末からは、バイブルの演算では除去しきれない不気味な「ザラつき」が伝わってくる。それは、まるで清浄な水の中に一滴の毒を混ぜたような、生理的な不快感を伴うノイズだった。
「……ふん。バイブルが『正常』と判定していても、俺たちの感覚までは誤魔化せんぞ。その汚らわしい気配をな」
カインは吐き捨てるように言うと、機体の中へと消えた。
リュウは無言のまま、装甲の下で疼き始めた左脇腹を、意識の底で抑え込む。彼らの拒絶に触れるたび、脳内の「断片」が愉しげに波打つのを感じていた。
重輸送機『カロン』が離陸し、エリア・ゼロの深層から、徐々に高度を上げていく。
ハッチが閉ざされた機内は、エンジンの不快な震動と重苦しい沈黙に支配されていた。窓の外に広がるのは、バイブルによって完璧に制御された、無機質な構造物群の影だ。だが、目的地の「外縁部 A-12」に近づくにつれ、その景色に異常が混じり始めた。
「……見ろ。バイザーの測距儀が狂っていやがる」
隊員の一人が声を荒らげた。
本来、バイブルの管理領域内であれば、すべての座標データは0.1ミリの狂いもなく同期されているはずだ。しかし、眼下に広がる境界付近の隔壁は、まるで熱に浮かされたように揺らぎ、空間そのものが崩壊を始めているかのように歪んでいた。
リュウはバイザーの出力を上げ、その中心部を見据える。
そこには、これまで見たこともない、紫黒色の「亀裂」が走っていた。
「これが……未確認エネルギー反応か」
その光景を目にした瞬間、リュウの左脇腹が、薬の抑止を突き破るほどの強烈な冷気を放った。
内側にいる「バク」が、歓喜に震えている。
バイブルが異常と断定したその場所から、かつて深層で出会ったあの怪物と同じ、どす黒い「意志」が溢れ出していた。




