1-1.日常の始まり
「……リュウ」
底知れない奈落の底から響くような、重苦しい声。
その声が脳を揺るがした瞬間、リュウは跳ねるように目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な宿舎の天井だ。
網膜に直接投影されたホログラムのインターフェースが、残酷なほど正確な数字を刻んでいる。
『西暦2XXX年5月9日 06:00。おはようございます、リュウ二等執行官。今日の聖句:【正しい者はシステムに従い、健やかなる者はコードを信じる】』
「……クソ食らえ」
乾いた声が喉から漏れた。
リュウは上半身を起こし、無意識に脇腹をなぞる。皮膚の下に浮き出た複雑な模様――まるで古びた巨木の皮が無理やり剥ぎ取られた跡のような、荒々しく不自然な形の痣が、どくどくと熱を持っていた。
かつて、彼は死んだ。
意識がこの世界を管理する高度統治OS『バイブル』の外縁へとこぼれ落ちそうになったあの時、政府の医療プログラムによって強引に肉体を繋ぎ止められた。
この痣は、システムという檻に、魂を縫い付けられた際に生じた「裂け目」だ。
この痣が疼くたび、地下深層に幽閉された相棒(怪物)――ジンの気配が、すぐ傍にあるように感じられる。
「今日も、世界は『正しい』らしい」
官給品の紺色のスーツを身に纏う。胸元には政府執行局の紋章――一冊の本を貫く剣の意匠。
二十一歳の執行官の日常が、また始まる。
***
政府直轄の通勤区は、完璧だった。
ゴミ一つ落ちておらず、街路樹は計算された角度で枝を伸ばしている。人々は穏やかな笑みを浮かべ、管理された幸福を享受していた。
だが、リュウの目には違和感が見えていた。
公園の噴水の端が、一瞬だけデジタルノイズのように揺らぐ。歩道のタイルが、一瞬だけレンガ造りの古道に置換される。
「――チッ、またバグか」
リュウが小さく呟き、脇腹の痣に意識を集中させる。
すると、世界を侵食しようとしていたノイズが、リュウの網膜の中で【エラーコード:009・一時的置換】と瞬時に解析され、霧消した。
バイブルが描く「完璧な現実」という薄皮の下で、この世界は常に崩壊の危機に晒されている。それを視認し、裏で処理できるのは、リュウたち執行官だけだった。
市民たちは、リュウの制服を見た瞬間に道を開ける。
その目にあるのは、守護者への感謝ではない。自分たちの美しい日常を汚す不純物を片付ける「掃除屋」への、生理的な忌避感だった。
「おう、リュウ。また死相が出てるぜ」
執行局のオフィスに入ると、同僚のサカキがニヤけながら声をかけてきた。
彼は最新型の多連装リ・コード銃をデスクで磨いている。サカキのような執行官にとって、バグの剪定はスコア稼ぎのゲームに過ぎない。
「……おはよう」
「聞いたか? 今日、北三区で大規模な特異点が予測されてる。ボーナスチャンスだぜ。もっとも、お前の『ペット』が暴走しなけりゃの話だがな」
サカキがジンのことを口にした瞬間、周囲の空気から体温が奪われたように冷え込んだ。オフィスにいた他の同僚たちも、一瞬だけ手を止めてリュウを盗み見る。
世界の不純物を消去する執行官。その中でも、最底辺の化け物を飼うリュウは、組織でも浮いた存在だった。
その時、リュウの端末が激しく鳴り響いた。
最上階の統括室からの、緊急呼び出し通知。画面には、真っ赤な警告文字が躍っている。
【警告:リュウ二等執行官、直ちに管理官室へ最優先出動せよ――】
(……っ!)
リュウはサカキの声を無視し、管理官室へと続くエレベーターへ向かって走り出した。




