1-1.夢と日常
その世界は、不気味なほど白かった。
視界の端から端まで、質感というものがない。空も地面もなく、ただ無限に広がる乳白色の虚無。リュウはその中心で、自分の指先がさらさらと白い砂に変わっていくのを眺めていた。
痛みはない。ただ、ひどく懐かしい。
(ああ、またこれだ)
意識という名の電気信号が、システムの外縁へと溶け出していく。心臓の鼓動が止まり、脳が酸素の供給を諦め、魂と呼ばれるデータの塊が、巨大な何かの「根」に吸い込まれていく感覚。
「……リュウ」
底知れない奈落の底から響くような、重苦しい声がした。
その声が響いた瞬間、白い世界に一筋の亀裂が走る。亀裂からは濁流のように「現実」が流れ込んできた。色彩。音。温度。そして、焼けるような喉の渇き。
リュウは跳ねるように目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な宿舎の天井だった。網膜に直接投影されたホログラムのインターフェースが、残酷なほど正確な数字を刻んでいる。
『西暦2XXX年5月9日 06:00。おはようございます、リュウ二等執行官。今日の聖句:【正しい者はシステムに従い、健やかなる者はコードを信じる】』
「……クソ食らえ」
乾いた声が喉から漏れた。心臓が早鐘を打っている。
リュウは上半身を起こし、シーツを剥ぎ取った。全身が冷たい汗に濡れている。彼は無意識に右の脇腹をなぞった。指先が触れたのは、皮膚の下に浮き出た複雑な模様。
それは、まるで古びた巨木の皮が無理やり剥ぎ取られた跡のような、荒々しく、不自然な形の痣だった。
かつて、彼は死の淵を彷徨った。心臓が止まりかけ、意識がバイブルのシステム外縁へとこぼれ落ちそうになったあの時、政府の医療プログラムが彼の肉体を強引に繋ぎ止めたのだ。
この痣は、その時についた「生への執着」の痕ではない。システムという檻に、魂を縫い付けられた際に生じた「裂け目」なのだ。
この痣が疼くたび、彼は自分が純粋な人間ではなく、バイブルの演算によって生かされている「管理対象」に過ぎないことを思い知らされる。
洗面台の鏡に映る自分は、二十一歳という実年齢よりも少しだけ老けて見えた。
ベリーショートに切り揃えられた黒髪。感情を削ぎ落とした、灰色の瞳。彼は冷たい水で顔を洗うと、官給品の紺色のスーツを身に纏った。胸元には政府執行局の紋章――一冊の本を貫く剣の意匠――が刻まれている。
「今日も、世界は『正しい』らしい」
独り言は、換気扇の回る小さな音にかき消された。
宿舎を出て、政府直轄の通勤区を歩く。
街並みは完璧だった。バイブルの管理下にあるこの区画では、ゴミ一つ落ちておらず、街路樹は計算された角度で枝を伸ばしている。人々は穏やかな笑みを浮かべ、網膜に投影される広告やニュースを楽しそうに眺めている。
だが、リュウの目には違和感が見えていた。
公園の噴水の端が、一瞬だけデジタルノイズのように揺らぐ。歩道のタイルが、一瞬だけレンガ造りの古道に置換される。
バグだ。
バイブルが描く「完璧な現実」という薄皮の下で、この世界は常に崩壊の危機に晒されている。それを知っているのは、リュウたち執行官だけだった。
市民たちは、執行官の制服を見た瞬間に道を開ける。その目にあるのは、守護者への感謝ではない。自分たちの美しい日常を支える「掃除屋」への、生理的な忌避感だった。
「おはよう、リュウ。また死相が出てるぜ」
執行局のオフィスに入ると、同僚のサカキがニヤけながら声をかけてきた。
彼は最新型の多連装リ・コード銃をデスクで磨いている。サカキのような執行官にとって、バグの剪定はスコア稼ぎのゲームに過ぎない。
「……おはよう」
「聞いたか? 今日、北三区で大規模な特異点が予測されてる。ボーナスチャンスだぜ。もっとも、お前のペットが暴走しなけりゃの話だがな」
サカキがジンのことを口にした瞬間、周囲の空気から体温が奪われたように感じた。オフィスにいた他の同僚たちも、一瞬だけ手を止めてリュウを盗み見る。
リュウが返事をする前に、上階への呼び出し通知が端末に届いた。




