69 エピローグ:イズル
オレの新たな物語が、また始まる。
背中がひんやりとする。肌寒さに身震いした。
そっと、頬に触れる温もりがあった。後頭部をつつむ柔らかさに意識を注いだ。
鼻を掠めたむず痒さに、目を開ける。
「あ……」
久々に聞く声は、吐息を零したような小さな響きだった。
黒髪の先端がオレの頬をくすぐる。
「サラ……か?」
前かがみで覗き込む瞳に光が灯った。
「イズル?」
ゴン!
頭を打った。
膝枕をしていたサラが急に立ち上がったためだ。
「おい。急に立つな」
オレは頭をさすりながら体を起こした。
「人を心配させといて、甘ったれるんじゃありません」
「お、心配してくれてたのか?」
「この……!」
サラは拳を振り上げながらもため息をつくと、俺の胸元を叩いた。
「相変わらず口が減らない人ね」
「オレは……戻ってきたのか?」
周囲を見渡した。
装飾を施された石柱は、欠けたり亀裂が入ったりして戦闘の余韻を残していた。硬質な石畳がめくれて散乱している。
高慢な顔立ちのサラが片手を腰に当て、呆れたようにオレを見ていた。
「まったく、相変わらず無茶をするんだから」
「見てたのか?」
「糸を通してしっかりと」
サラが人差し指を振るうと、金色の糸が跳ね上がり彼女の指に収納された。糸の可視化が可能なのは、繋がっている間だけだ。
「まるで、小説世界を映像で鑑賞しているようでした。なので、あなたの悪行三昧は目に焼き付いてます」
「とにかく、サラのおかげで助かったよ」
糸の導きがなければ、オレはまだここに帰れていなかったかもしれない。
気を抜くと、首が倒れそうになった。深い眠りの最中に、無理やり叩き起こされたように、頭がぼんやりして靄ががっていた。
どれくらいの時間、オレは小説に閉じ込められていたのだろうか。
「一冊の本を読む、それくらいの時間ですよ。あなたが眠っていたのは」
オレの疑問を汲んだのか、サラが説明する。
「とはいえ、その間ずっと、私も気を張り詰めていて疲れました。先に帰りますよ」
「オレを置いてくのかよ」
「あら、忘れてらっしゃるのかしら? あなたは一人じゃなかったはずでしょ」
踵を返して、サラは手を振りながら歩き出した。
そうだ、まだあいつがいる。
オレは胸に宿る気配を感じた。
契約を交わして、結ばれあった天使リュシエルが目の前に出現した。
…………
想像通り、イズルは小生意気な顔立ちで、余裕を持って人を試すような、そんな笑みを浮かべていた。こんなツラでジュリアン・エルミオンを演じていたのだと思うと妙に納得した。
無造作に伸ばした前髪の先端はギザギザしていて、鋭い目つきの印象をより強調させた。
相手を見透かすような光を瞳の奥に湛えるが、どこか子供のような無邪気さが宿る。
複雑さと単純さを兼ね備えた、掴みどころのない男だった。
予想はしてたけどさ……
何を話そうかと躊躇った。
体が強張った私に対して、イズルは肩の力を抜いた自然体だった。
ずるいな、こいつは。
イズルは私に手を出して、表情を崩した。
「お帰り」
目尻を下げたイズルが、私の緊張を簡単にほぐした。
心臓が跳ねた。
こいつ、こんなにカッコよかったの?
違う。これは顔が原因じゃない。
頬が火照った。
ジュリアンのときは、ここまで思わなかったんだけどな。
頭で描いていたイズルは、私の妄想を超えていて……
反応に困る。
見て……られない。
「何か、よそよそしいな。あ、オレのカッコよさに見とれてたんだろ」
「違うわ!」
ぺちっ。
頬を叩く。いつもの、リズムだった。
鼓動が少し、落ち着いた。
「ていうか、また手のひらサイズに戻ってるな」
イズルはヒョイっと私を膝に置いた。
「人間界で天使姿ってのも目立つでしょ?」
「ああ、小さくなれば、見えなくなるんだっけ?」
「ううん、違うよ」
だってこの世界では、私の肉体はノイズじゃない。
「イズルでなくたって私の存在を確認できるよ」
私は、ここにいる。
みんなが私に気付く。
会話だってできるよ。
「たまには、本当の姿も見せてくれよ。オレをあの世に連れてく時じゃなくてな」
「ふふん。そんなに私の美貌を拝みたいか」
私は胸を張って顎を突きだした。
イズルの横顔を眺める。
「そうだな、ずっと見てたいな」
どこの世界でもやっぱり、イズルは恥ずかしいセリフを真顔で言うようなヤツだった。




