13 《令息》最後に聞いた、ヤツの言葉
「用などないぞ、出ていけ」
蹴り飛ばすように、俺はメイドを廊下に追い出した。
「失礼します、ジュリアン様」
最後まで聞かずに、扉を叩きつけた。
鼻の奥で微かに甘い匂いを嗅いだ気がした。
鼻を鳴らす。部屋に充満する淀んだ空気が流れ込む。
勘違いか。それとも廊下から漂ってきたのだろうか。
菓子を食うことがめっきり減ったからな。体が甘い物を欲して、香りを呼び起こしたのかもしれない。
俺はベッドから降りて窓を開けた。夜の新鮮な空気が部屋の濁りを押し出す。
換気など何日ぶりだ?
思い出せないな。最近は使用人どもが立ち入ることも禁じていたしな。
腹に触れてみた。
贅沢を制限されてから、一年近くになるだろうか。確かに痩せたが皮膚は余り気味だ。脇の皮膚を引っ張って放した。波打つ皮膚を容易に想像できる。
「外見だけは良くなったがな」
鏡を覗く。パンパンに膨れていた顔の肉が削げ落ち、精悍な顔だちになっている。
亡き母親似と言われるくらいだ。これほど整っていたのかと、自分でもそこそこ満足している。
ただ。目のくぼみに触れて、頬骨に指を滑らせた。たるんだ皮膚に沈む。
「昔の方が良かったな」
肉も魚も、甘い物だって食べ放題。膨れ上がった腹を叩いて、打楽器代わりに音を鳴らしながら階段を上るほうがよほど健康的だ。
「菓子食いてえ」
父……グスタフ・エルミオンは変わった。
欲しいものをねだっても突っぱねられる。
使用人たちは、いいことだと影で囁き合ってるがとんでもない。このままでは不健康まっしぐらだ。
これまでは、俺の好き勝手にさせてくれてたのに、急に贅沢を制限されて目を合わせることも減った。
週末には慣れ親しんだこの部屋からの引っ越しも言い渡された。
父の部屋から遠ざけられ、日当たりの悪い部屋への移動だ。
甘味を禁じられてから嗅覚だけはやたら敏感になった。
またしても、匂いの粒子を嗅ぎ取った。
甘い物欲しさの錯覚なのか、違うのか。体が欲していることに変わりはない。
直接掛け合ってみるか。たまになら菓子などの贅沢品を食わせてもらってもいいだろう。
廊下に出ると、香りが増したように感じた。一年前の俺なら気にも止めなかったであろう、些細なものだった。
コップ一杯の水に一滴だけ蜜を垂らして飲んだような、そんな仄かな甘みだ。
この時間ならまだ、父は書斎にいるだろう。
廊下を歩くと目が回った。
ぼんやりとした甘い香りが、鼻腔をぐるりと巡って脳を揺さぶった。
これは食べ物の匂いではない?
ピンク色をした香りが、錆びついた血を纏い、俺の首をグンと引き付ける。
手を突き出して体を支えた。父上の部屋の扉だった。
隙間に鼻を当てて嗅いでみる。耳を澄ませた。
匂いの根源は部屋の中にあるらしい。声が漏れ出ている。
会話の内容までは不明瞭だった。低い嗄声と甲高く突き上げるような声が繰り返される。父が会話に参加している気配はない。
乾いた喉を潤そうと唾を飲み込む。
息を顰めた。そうすることでようやく会話の輪郭が浮かび上がってきた。
村……領土内西側にある村のことだろうか。
真理の剣が勇者に渡らないように。
配下を派遣して監視。
主従関係にある者たちの会話を聞いているかのようだ。
屋敷に向けられている噂がよぎる。
不気味な雰囲気、騒めくような空気、奇妙な光や明滅、そして、仄かに淡く鼻腔をくすぐる何か……
所詮は噂。
しかし、噂の根源は確かにこの場に存在する。
魔族交信。状況から導き出される疑念だ。
竜王の脅威にさらされている国にとっては、反逆行為として死に直結する重罪だ。身内であっても隠し立てすれば、家は取り潰される。
父が交信している?
そもそも父の声が聞こえない。
否定したい気持ちと、現状を天秤にかける。
ふと、父への違和感がよぎった。俺と距離を置き始めたこと、週末には部屋も遠ざけられる。使用人には、夜間に書斎へ近づくことも厳命している。
確認……しなければならない。魔物が書斎へ踏み込んだ可能性も捨てきれない。
衛兵を、呼ぶか。
その場から離れようと軸足を移すと、扉が開いた。
軋んだ扉の隙間には、見慣れた面影があり、異質な雰囲気を纏っていた。
「ち……父……上?」
冷たい波が、腰から首へと突き上げた。
青い瞳の周辺が赤く染まり、俺を見下ろしている。
咄嗟に扉を叩きつけようとすると、内部に引き込まれた。抵抗など意味をなさないほどに、強烈な力だった。
まるで歯が立たない。
足をもつれさせ、転げそうになるのを必死でこらえた。掴まれた手首が離れない。
手を引かれ、崩れかけたバランスを強制的に戻される。
「父上? そんなものどこにいる?」
父が言った。扉の向こうで聞いた声だ。
先ほどの会話の片方は父上だったのか。まるで他人の声だ。
会話相手の姿はない。机の香炉から、匂いの源となる煙が漂っているだけだった。
「お前の想像通りだ」
魔法の素養がない俺にさえ、肌をつんざくほどの名残が滞留していることを理解できた。既にその姿形はない。
「魔族交信……」
「そう。それが、お前の罪状だ」
「どういう……ことですか?」
「敬語なんぞはいらんぞ」
群青色の舌がだらしなく垂れた。手首を掴んでいた腕にはウロコが浮かび、指先の爪が伸び俺の皮膚を突き刺した。
「ワシはお前の父などではないからな」
「魔物!」
叫んで体をよじったが、肩を掴まれ動きを封じられた。びくともしない。
「お前の父は死んだよ、一年前にな」
「でまかせを言うな!」
「お前はこの一年間、何も感じなかったというのか。ずいぶん痩せたように見えるがな」
心臓が跳ねた。
俺の思考など読み切っているとでも言いたげに、耳まで裂けた口が広がる。
「ちょうどいい。面倒な噂も出始めてたところだ。ジュリアン・エルミオン、これまでの噂は全てお前の手によるものだった。お前は今夜父に魔族交信の現場を見られた。国家への反逆行為、見逃すことはできんな」
それが最後に聞いたヤツの言葉だった。




