瞼の裏に見える世界
音は情景をのせて、世界を映し出す。
奏でる旋律には色が生まれ、キラキラと彩り存在を主張する。洗練された音色は聴く者の脳裏で風景へと変わり世界を形作るのだ。
かつては信じていたそれが、今となっては枷となり、重石となり、圧となり、痛みとなり心を蝕んでいる。
人間とは変化を嫌う生き物であると、どこかの哲学者の言葉で聞いたことがある。だが、それは真っ赤な噓だ。昔は好きだったピアノも、今は煩わしく感じるほどに憎い存在へと変貌してしまった。
病院の受付前に立っている圭人は、後ろで流れる下手くそな演奏を耳にしつつ、面会許可証を持ってくる職員を待っていた。放課後の毎週水曜日は、姉である明日香の見舞いに行くと決めている。
聞こえてくる曲は、恐らく『ジングルベル』だ。外は暖かい風が吹き、桜の花びらが舞う季節なのに。ちょっとずれた選曲に思わず笑みがこぼれた。リズムはバラバラで、最も致命的なのは一オクターブ低いことだ。
「高宮さん、お待たせしました」
受付の裏にある部屋から出てきた受付職員が、面会証をカウンターの上に置く。それを手に取ると、明日香の病室に行こうと振り返り、啞然とした。
姉の明日香が入院している病院の広いロビーの真ん中で存在を主張するように置かれたグランドピアノは、いつも子供達の良きおもちゃとなっている。さて、今日は誰が弾いているのかと見てみると、そこに座ってピアノを弾いていたのは圭人と同じくらいの年の少女だったのだ。
圭人は、高校二年生になったばかりの十六歳。少女の歳もそこまで変わらないように見える。彼女も誰かの見舞いできているのだろうか。涼しげな目元が印象的だった。
ふと、明日香のために買ってきたアイスのことを思い出し、足早でピアノの横を通り過ぎる。その瞬間、パタンと何かが倒れる音が聞こえた。振り返ると足元に白い杖が転がっていた。少女は演奏に夢中で気づいていない。白い杖を拾い上げると、少女に声をかけた。
「あの、すみません」
「はい、わたしですか?」
少女は演奏の手を止めると、おもむろに顔を上げる。その声は、春のような暖かい雰囲気を纏いつつ、鈴を転がすような綺麗な声質で、一度聴いたら忘れない印象に残る声だった。
「これ、今倒れてきて……」
圭人は白い杖を目の前に差し出す。少女はぼんやりと空を見つめ、疑問そうな顔を浮かべると、差し出した杖と違う高さに両手を出した。
「すみません。わたし目が見えないので、手の上に乗せてもらってもいいですか?」
目線が合わないこと、どうにも噛み合わない行動。そして、少女の言葉により、相対する人物の視力が優れていないことを圭人は理解し、改めて少女に目を向けた。目鼻立ちの整った綺麗な顔立ちに、肩まで伸びた艶やかな髪を揺らしている。吹けば飛ぶような儚げな雰囲気がある不思議な少女だ。
「どうぞ」
「あっ、白杖。あれ? 椅子のところに立てかけておいたんですけど、倒れてたんですね。ありがとうございます」
視力が優れない人が持つ白い杖のことを白杖と呼ぶのだと圭人は初めて知った。白杖を受け取った少女は、深々と頭を下げる。
「いえ、こちらこそ気が利かなくすみません」
「謝らないでください。わたしが気づかないのが悪かったんですから」
圭人の言葉に少女は焦ったように顔の前で大げさに手を横に振る。
「あ、それと」
「はい?」
この言葉を告げようかと一瞬悩んだ後、決心して少女へと口を開いた。
「ワンオクターブ下ですよ」
「え?」
「失礼します」
そっと少女の手首を持ち、鍵盤の上に指を置いた。
初めて会った他人に対して指摘をするのはどうかと思ったが、言わずにモヤモヤしたまま不協和音のようなジングルベルが頭に残るのは避けたかったのだ。少女は情報が吞み込めずに硬直している。対照的に、圭人は踵を返して歩き出した。
「あの、ピアノは弾けますか?」
その声に圭人の足はピタリと止まった。
「ピアノ……」
予想外の質問に圭人は返答に困り、言葉の先が続かない。
「あ、じゃあ音楽は好きですか? わたし、弾くのは下手だけど、音楽を聴くのは好きなんです。特にドビュッシーの『月の光』って曲が大好きで。知ってます? ピアノの演奏で、その曲聴いてたら景色が見えるっていうか、不思議な感じなんですよ。それから――」
音楽の話になって熱の入った少女は、圭人の反応を気にすることなく捲し立てる。
「ピアノは弾かないし、音楽は嫌いです。さっきは余計な口出しをしてすみませんでした。それじゃ」
少女の言葉を遮り、少しだけ強い口調で圭人は言い放った。そして、今度こそ明日香の病室に向かうためピアノから遠ざかっていく。少女は、飼い主から怒られた子犬のように静かで、それ以上に話を続けることはなかった。
「圭人君、今日もお見舞い?」
明日香の病室に向かう途中、廊下ですれ違った看護師の女性に声をかけられ、圭人は立ち止まって軽い会釈をする。
「はい。いつも姉がお世話になってます」
見舞いに行くのは、毎週水曜日の放課後だ。頻繫に訪れているので数人の病院の職員からは顔と名前を覚えられている。
「明日香ちゃんは幸せ者ね。こんな姉思いな弟さんがいて」
「いえ、そんなことないです。俺は……」
ただ明日香に対する罪悪感があるだけなのだ。とは、決して口にはしない。圭人の心境を知ってか知らずか、それ以上のことを看護師の女性は訊いてこなかった。
「昨日の夜、明日香ちゃん調子が悪かったみたい。顔見せて元気出させてあげて」
「え? そうなんですか? ありがとうございます」
看護師に一礼すると、足早に明日香のもとへと向かった。
「あら、いらっしゃい圭ちゃん」
圭人のことを圭ちゃんと愛称で呼ぶのは、この世で一人だけだ。明日香は六年前のある事故が理由で脊髄を損傷しており、呼吸器合併症を引き起こしている。それが原因で、頻繫に病院への入退院を繰り返していた。
「姉さん、少し瘦せたんじゃないか?」
病院は個室を借りているので、明日香の姿が余計に小さく見える。
「女性に体型の話をするのはモテないわよ、圭ちゃん。そんなことより、毎週私の所に来てるけど、お友達とか彼女とかと遊ばなくていいの?」
「大丈夫だよ、俺より自分の心配をしてくれ。さっき看護師さんに聞いたけど、昨日はあんまり調子が良くなかったんだって?」
「大げさね、ちょっと息が苦しかっただけよ」
姉の弱った姿を見続けて随分と長いが、圭人は今でも後悔の念に囚われている。病院の集中治療室で、横たわる明日香の姿を見て泣き崩れる両親の悲痛な表情がちらつくのだ。その時の明日香の顔は、生きている人間とは思えないほどに蒼白になっていた。それもこれも全ては自分のせいであるという重圧が、心にのしかかっている。
「ごめん、姉さん」
「ちょっと、なんで圭ちゃんが謝るの? 変な子ね」
俯いた圭人の頭を撫でながら、明日香ははにかんだ笑顔を見せる。昔から変わっていない弟の扱いに物申したい圭人だが、今はそんな気分ではない。
「失礼していいかな?」
病室の出入り口に立っている白衣姿の若い男が、二人に声をかけた。目尻の下がった優しい顔立ちに、すらっと長く伸びた足。間違いなくハンサムといえる部類だ。
「立川先生、どうされたんですか」
「ごめんね明日香ちゃん、これ返しに来たんだ。すごく面白かったよ。最後にあんなどんでん返しがあるとはね。どうしてもそれを話したくて」
立川隼人という名が印刷されたネームプレートを胸に付けたこの人物は、明日香の主治医だ。明日香から借りた推理小説を返しに来たらしい。
「そうなんですよ! びっくりするラストなんですけど、読み返してみたらちゃんと伏線が所々に散りばめられてて、鳥肌たっちゃいますよね」
明日香のテンションが急に上がる。事故をしてからの明日香は本の世界に熱中するようになっていた。その趣味を共有できる人ができて嬉しいのだろう。
「圭人君久しぶり。ごめんね、せっかくお見舞いに来てくれたのに邪魔しちゃって」
隼人は憎めない笑顔を浮かべながら圭人の方へと顔を向ける。
「いえ、顔を見に来ただけなんで。それに、姉さん立川先生が来ると元気になるから」
圭人のことを気にせずに、二人は推理小説の感想を互いに語り合う。
なんだかここに居座ることが悪いことのように思えてくる。実際、頻繫に見舞いに来ているので、長居するつもりはなかった。
「それじゃ、今日はもう帰るよ。二人の邪魔しちゃ悪いしね」
「ちょっと圭ちゃん! そんなんじゃないんだってば! すみません立川先生、この子私のことからかってるんです」
圭人の一言で顔を真っ赤にした明日香は、隼人に弁明しているが、隼人の頬もうっすらと赤くなっているのが窺えた。どうやら、二人ともまんざらではない様子だ。
「じゃあね、姉さん。立川先生、姉さんのことよろしくお願いします」
「余計なこと言わなくていいの! 気をつけて帰ってね」
ドアを閉めながら、視線を合わせずに気まずくなっている二人の姿を確認して、圭人は思わず笑みがこぼれる。
病院を出ると、駅を目指して歩き出した。学校が終わって制服のままやってきていたが、学校の最寄駅から病院までは二駅しか離れていないので通いやすい。病院は家とは逆方向にあり、帰りの電車での滞在時間が少しだけ長くなる。病院から最寄りの駅までは歩いて十分程度なので少し進むと、大きな口を開けた駅の入口がすぐに姿を現した。
駅に入ってすぐの、通路左側の壁に掲載されたデジタルサイネージを見て、圭人は静かにため息を漏らした。そこには『高校生夏のピアノコンクール』と大々的に記載され、集客を目的とした広告が映し出されていたのだ。
コンクールという単語を目にするだけで、昔の記憶が逆流してくるような感覚に襲われる。
複雑な感情を内にしまい込み、駅のホームを通過すると、その時ちょうどにきた目的の電車に乗り込んで帰路についた。
*
「おかえり圭人。今日は随分早かったのね。お姉ちゃんのお見舞いに行くって言ってなかった?」
家に着いて圭人がリビングに足を踏み入れると、夕飯の支度をしていた母百合子の声がキッチンの方向から聞こえた。
「姉さんの恋路を応援して早めに帰ってきたんだ」
「あら、気になる話ね。あとで聞かせてちょうだい。それと、帰ってきて早々に悪いんだけど隣の部屋からホットプレートとってきてくれない?」
「わかった。持ってくる」
台所では野菜を刻む小気味よい音が響いている。圭人は頼まれたものを取りにリビングを出た。隣の部屋は半分物置部屋と化しており、様々なガラクタやたまにしか使わない日用品が置かれている。百合子が断捨離を苦手としていることが理由の一つだ。昔はピアノ練習の場として使われていた部屋でもある。
部屋に入って最初に視界に映った大きな存在に、駅でデジタルサイネージを見た時と同様のため息を吐く。黒くて巨大な物体、グランドピアノだ。圭人が小学生の時に誕生日プレゼントとして両親から貰ったピアノは、ピアノを辞めて六年程経った今でも部屋の中で埃をかぶりながら存在を主張している。使われなくなったピアノが恨めしそうに自分を見ている気がして、圭人はすぐに目を逸らし、目的の物を探した。
「あったよ」
「ありがとう、そっちのテーブルの上に置いて電源つけておいて」
母の指示に従い次の行動に移る。コンセントを繋いだり、食材を運んだりする圭人の横で、百合子が二人分の食器を運ぶのが目に入った。
「あれ? 今日も父さん帰ってこないんだ」
「そうみたいよ、帰れるのは早くて来週の頭くらいだってさ」
父は外資系の証券会社で仕事をしており、ほとんど家に帰ってこない。その忙しさのおかげで部屋を一つ物置にするほどの裕福が与えられているので文句は言えない。
家族の半分しか揃っていない二人で食卓を囲み、野菜や肉を百合子が手際よく焼いていく。
「明日香、いい人がいるんだって?」
「そうそう、なんか立川先生といい感じだったよ」
「あら、あのイケメン先生⁉」
圭人は淡々とした口調で今日の明日香のことについて話す。百合子はそれを聞いて幸せそうな表情を見せた。
話しているとプレートの上の食材が食べごろになり、それぞれの皿に取り分けられる。
「二人で焼肉なんて贅沢だね」
「そうね。でも、たまにはいいじゃない」
その後も百合子と他愛もない話を続けながら、食事を続けた。
*
「高宮さん、お待たせしました」
いつもと同じ音調と笑顔で面会許可証を差し出す受付職員に一礼し、圭人は明日香の病室を目指して歩き出す。前回来た時には後ろでピアノの音が響いていたことを思い出し、その時に話した少女の姿が頭に浮かんだ。
ロビーを抜け、角を曲がろうとした時、圭人の体を衝撃が襲う。その衝撃で圭人の学生鞄からハンドクリームが落ちた。
「わっ」
一瞬何が起きたのかわからなかったが、人が倒れていることに気づき、曲がり角で衝突したのだと状況を把握する。
「すみません、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。わたしの方こそごめんなさい」
その声にハッとする。顔を上げた少女の顔を見て、圭人は気の抜けた声を漏らした。そして、先日のロビーでの出来事が頭を過る。
「もしかして君、白杖拾ってくれた人?」
「ああ、まあそうだけど。なんで……わかったんですか?」
会ったのは一回だけであり、それに加えて少女は視力がよくないと自分で語っていたはずだ。
「びっくりした? わたし目は全然見えないけど一度聞いた声は忘れないの」
立ち上がった少女は、交わらない視線を向けて微笑んだ。
「そう。それじゃ」
「えー? ちょっと待ってよ。これも何かの縁なんだしさ、名前教えてよ? わたしは北川律花。君は?」
「俺は、高宮圭人。それじゃ」
明日香の見舞いは急ぐ要件ではないが、圭人は一刻も早くその場を立ち去りたかった。律花と話していると妙に落ち着かない気分になるのだ。学生鞄から落ちたハンドクリームを拾い上げ、歩き出す。
「ちょっと待ってよ。痛っ」
背後で悲痛な声が聞こえて圭人は思わず振り返る。律花はその場に座り込んでいた。
「大丈夫か?」
「あ、戻ってきた。さっきので足首捻ってたみたい。立った時は大丈夫だったんだけど、歩こうとしたら力入らなくて」
その場で少し悩み、律花の前に後ろ向きで屈む。
「背中、乗って」
「え?」
圭人の言葉を受けた律花は、少し驚きつつも、ゆっくりと確かめるように圭人の背中に手を伸ばした。
背中に温かい温度を感じ、重力があまり増さなかったことに、女の子はこんなに軽いものなのかと驚く。
二人はロビーを出て、少し歩いたところにある庭園のベンチに腰を下ろした。病院が管理しているその庭園は桜が植えられており、花びらが暖かい風に乗って舞っている。
「ほんとによかったのか? 足、診てもらわなくて」
「うん、ちょっと力抜けちゃっただけで少ししたら歩けると思う」
圭人は前方不注意で歩いていたことを深く反省しつつ、自販機で買ってきた冷たいミネラルウォーターを手渡す。
「はい、これで冷やして」
「わ、冷たっ。紳士ですな」
律花は圭人の座っている左側に向かってグッドサインを出す。
「さっき、たかみやけいと……って言ったよね?」
「そうだけど」
「もしかして、明日香さんの弟って、君だったの⁉」
少し間の空いた後、急にテンションの上がった律花が、圭人の眼前まで勢いよく乗り出す。目は見えていないはずなのに、空間把握能力は完璧のようだ。
「姉さんを知ってるのか?」
「うん。明日香さんとは病院でよく話す仲なの。君のことも聞いたことがある」
予想外の繋がりに、世間は狭いなと圭人は感嘆した。しかし、世間といっても病院で知り合ったようなので、狭いのは当然かと一人で納得する。
「そういえば、この間話した時ピアノは弾かないって言ってたけど、なんで?」
「……」
嫌な質問が急に飛んできて、少しの間静かな時間が生まれる。それから圭人は重い口をゆっくりと開いた。
「姉さんから何か聞いたのか?」
「うん。明日香さんいつも君の話ばっかりだもの。特に、昔からピアノがすっごく上手だって。でも、今は弾いてないんでしょ? 明日香さん、やめた理由までは教えてくれなかったから、なんでやめたのかなって」
「お前に教えることじゃない」
「お前ってやめてよ。わたしには北川律花っていう可愛らしい名前があるんだから」
「あー、悪い。北川さんにわざわざ教えることじゃない」
「露骨なさん付けもやめて、わたしたち同い年なんだから」
明日香からの情報で、年齢までも完全に知られているらしい。一番知られたくないことは伝わっていないようで圭人は安心する。
「もう足は大丈夫だと思うけど、もう少し休んだほうがいいぞ。あと、もしまだ痛かったら看護師さんを呼ぶことだな」
「あー、なんか足がまた痛くなってきたなー」
今度こそ、その場を立ち去ろうとして立ち上がった圭人は、横で始まった大根役者顔負けの演技に圧倒される。
「あー、これは折れてる。そう、折れてるに違いない。誰かさんとぶつかったせいで足が折れたぞー」
「おい、さっきは大丈夫だって言ってただろ」
「今日あったことを明日香さんに相談しようかなーどうしようかなー」
明日香に話されるのは圭人にとって望ましいことではない。律花が痛がっているのは演技だとしても、ぶつかって転倒させたのは事実だ。
「何がしたいんだよ」
圭人は観念すると、もう一度律花の横に座りなおす。その圭人の行動に満足げな様子の律花は、純粋な子供のような顔で言葉を放った。
「わたしに、ピアノを教えて」
「嫌だ」
「即答だね」
何を言い出すのかと身構えていた圭人だが、律花の言葉に反射で断る。
「昨日は教えてくれたのに」
「あれは……」
圭人は言葉を濁し、顔を下に向ける。律花はそれが見えていないはずなのに、声のトーンから気付いたのかそれ以上は言及してこない。
「まあ、そんなに嫌なら教えてもらうのはいったん置いておいて。その代わりにさ――」
次はどんな要求が来るのかと圭人は身構える。そして、一拍置いて発せられたその言葉の意味が理解できずにフリーズした。
「付き合ってよ」
暗闇が支配するはずの律花の綺麗な瞳は、ほんの少し圭人の視線をとらえているように感じた。
*
一週間後。圭人は待ち合わせ場所へ向かう。約束を交わした庭園のベンチに律花の姿を確認すると、深呼吸して声をかけた。
「よお」
「あっ、圭人。明日香さん、変わりなかった?」
桜色のカーディガンを着た、いつにも増してやわらかい雰囲気の律花が振り向く。
「なんならいつもより元気そうだったよ。なんか良いことでもあったみたいだけど、秘密なんだってさ」
「良いことってなんだろうね。今度わたしからも聞いてみよっと」
律花はベンチから腰を上げると、いつも手にしている白杖を縮小させ、大きなリボンのついた鞄にしまい込む。
「なにしてんだ? それないと歩くの危ないだろ」
疑問を口にすると、律花は無言で右腕を差し出してきた。状況が理解できず固まる。それを察知し、彼女は薄く微笑むと、息遣いが伝わる距離まで歩を進める。
「おいっ!」
ゆっくりと圭人の体に触れた律花は、探るようにして体の上で手を滑らせる。そして、獲物を見つけた蛇のような手つきで腕へと巻き付いた。
「今日は一緒に行くんだから、こうしたほうが安全なの」
「そう……なのか」
そう言われてしまうと反論の余地はない。仕方なく現在起こっている奇異な現象を受け入れる。しかし、冷静な態度とは裏腹に、心臓は際限がないほどに膨らみ続け、テンポの速いリズムを刻んでいた。
「桜の香りがする。この通りはたくさん桜が咲いてるんだね」
「そうだな。綺麗だ」
その言葉を口にして圭人は後悔する。無意識とはいえ、綺麗という視覚的な情報を彼女の前で言ってはいけないような気がした。
「もう、何年も見れてないや」
「ごめん」
「謝らなくていいよ、人が見てる景色を聞くの好きだから」
二人は病院から二駅離れたところにある有名なカフェを目指し、並木道を歩いていた。事の発端は、一週間前の病院での出来事だ。彼女の放った「付き合ってよ」の一言は、スイーツ巡りを指したものだったのである。
「まさか、スイーツ巡りに付き合わされるとはな」
「わたしにとっては助かるよ。食べてみたかったいちごたっぷりパンケーキが食べられるからね」
カフェの期間限定メニューとして発表されたのがカップル限定のパンケーキだった。カップルでないと食べられない。そのために彼氏役が必要だったというわけだ。
パンケーキを相当楽しみにしているのだろう。律花は機嫌よく鼻歌を歌っている。その横で、圭人は立ち止まりスマホに表示された地図アプリを眺めていた。
「電車降りて駅からこっちに歩いてきたから、多分こっちか?」
「もしかして圭人って、方向音痴?」
少し小馬鹿にした言い方をした律花に、反論しようと顔を上げる。律花のいる左側を向いたが、すぐにスマホへと視線を戻した。意識しないようにしていたが、今の状況は思春期の高校生男子にとっては毒だ。出発前に組み合わせた腕は、もちろん現在も継続している。そのせいで律花の顔が近くにあるので、迂闊に横を向くことができないでいた。
「そんなことより、女の人ってほんと甘いもの好きだよな」
気を紛らわすために何気ないことを呟くと、律花が勢いよく食らいつく。
「そりゃ、女の人にとって甘いものは究極のご褒美からね」
「そこまでなのか?」
「テレビで聞いた気がするけど、女性ホルモンが分泌されると甘さが好きになるらしいよ。だから男の人よりも女の人の方が甘いもの好きな人が多いんだって」
「そうなのか……」
急に飛び出した律花の博識な発言に、圭人は素直に感心する。
しばらく歩くと、目的のカフェが見えてくる。
「お、あのカフェみたいだな」
「道案内ご苦労様。良かった、迷って同じところをぐるぐるしなくて」
「そこまで方向音痴じゃない」
扉の横には様々な種類の観葉植物が配置され、レンガ造りになっている外観はインスタ女子が好みそうな、THEお洒落カフェといった雰囲気を醸し出している。圭人は、行き慣れていない店なので一瞬躊躇したが、そのことが横にいる律花に悟られないようにスムーズな動作で扉を開いた。
内装も予想通りお洒落で、客層も若者が多い。二人は、店員の案内で席に着いた。目的のものは決まっているので、そのまま注文をする。
「いちごたっぷりパンケーお願いします」
「申し訳ございません。本日は、限定パンケーキが売り切れておりまして……」
店員の言葉を聞き終わる前に、律花が「えー」と悲しい声を上げた。
「どうする北川、他の食べて帰るか?」
「うん……」
彼女は魂が抜けたような顔になっている。
「では、また後ほど注文をお伺いしますね」
対面して座っている律花の落ち込んだ様子を見ていると、まるで子供みたいだなと感じ、圭人は思わず苦笑した。
「いま、笑った?」
「ん? ああ、つい面白くてな」
「笑わないでよー。わたしがこのパンケーキをどれだけ待ち焦がれていたのか圭人にわかる?」
「ごめんごめん」
代わりに注文するものを決めるため、圭人はメニュー表に視線を落とす。そして、律花のために読み上げ始める。
「スイーツ系でいくと、ベイクドチーズケーキ・モンブランタルト・クリームブリュレ・ショコラケーキ・ハニープリン・アップルパイ・ベリーパフェ・チョコナッツパフェ・フルーツヨーグルトパフェ・コーヒーゼリーパフェって、すごい数だな。どこのカフェもこんなものなのか?」
「もっとメニューが多いお店もあるよ。わたし、ベリーパフェにしよっと」
圭人にとっては呪文のようなメニューを一度聞いただけで決める律花に驚く。やはり女性のスイーツに関する知識は凄いなと感心する。
「俺は……フルーツヨーグルトパフェにしようかな。注文していいか?」
「うん」
注文を終えて数分待つと、フルーツによって鮮やかに彩られたパフェが到着した。
「こうして見ると食べるのがもったいないな」
「そうでしょ。わたしのベリーパフェはどんな感じ?」
律花はテーブルの上に置かれた自分が注文したパフェの器をゆっくりと指で確認しながら、圭人に笑顔を向ける。
「ベリーパフェも凄いな。あんまり動かさないほうがいいぞ。果物があふれるくらい乗ってある」
「わお。何回かこのお店来たことがあるけど、ベリーパフェ食べるのは初めてなんだよね」
律花は嬉しそうな笑みを浮かべて、慣れた手つきで小皿に乗ったスプーンを手に取る。そして、豪快にすくったパフェを口に頬張った。
「ん~、美味し~」
圭人も同じように自分のパフェを口に運ぶ。その瞬間、脳に衝撃が走った。
「うまっ、パフェってこんなにうまかったっけ」
口の中で溶ける、ほどよい甘さのアイスクリーム。その甘さをより引き立てるのが、ヨーグルトとフルーツだ。初めてカフェでスイーツを食べた圭人にとって、予想以上の美味しさだった。世の女性がスイーツに執着するのも今ならわかるような気がしてくる。口にスプーン運ぶ手が止まらず、そのまま急くようにパフェを食べ続けた。
「美味しかったねー」
「ああ、どうやら俺はカフェを舐めてたらしい」
「なにそれ、面白いね」
至って真面目な圭人の言葉を聞いて、律花が口元を抑えながら笑い声を漏らす。
パフェを食べ終わり、店を後にした二人は来た時と同じように腕を組み合わせて帰路についていた。
「でも残念だったなー。限定パンケーキ食べたかったのに……」
「また、来ればいいだけだろ」
「え?」
圭人の発した言葉が理解できずに、律花はきょとんとした顔で立ち止まる。そして、遅れてやってきた理解によって嬉しい気持ちと比例して口角が上がっていく。
「また、一緒に行ってくれるってこと?」
「俺もまた食べたいからな」
「やったー!」
律花は子供のようにはしゃいだ様子で、組んでいないほうの手を空に向かって上げる。
「ありがとね、圭人」
律花は不意に圭人の方へ振り向く。圭人は気づかれるはずのない、赤く染まった顔を隠すように咄嗟に顔を逸らした。
*
「来たよ、姉さん」
「いらっしゃい圭ちゃん。今日はいつもより早かっ――」
病室の扉を開け、部屋に入るなり弾んだ声が返ってきた。圭人にピタリと密着して入っていた人物を見て言葉が途切れたらしい。
「律花ちゃん⁉ なんで二人が一緒にいるの?」
「えへへ。病室で会うのは初めてですね明日香さん」
開いた口が塞がらない明日香と、どこか照れた表情の律花のやり取りは想定済みだった。やれやれと圭人は咳払いをする。
「北川とは偶然知り合ったんだ。姉さんとも知り合いなんだろ?」
「うん。まあ、そうだけど……」
完全には状況が吞み込めていない明日香に、簡単な経緯説明をする。その話に驚きつつも、明日香は楽しそうに話を聞いてくれる。
「――――ってわけなんだけど」
「私が知らないところで、そんなことが起きていたとは……」
圭人が話した内容は、初めて出会った時のこと。それから、病院で会った時によく話すようになったことのみだ。二人で出かけたことや、ぶつかって怪我をさせかけたことなどは詳しく言及していない。気恥ずかしい気持ちがあって、実の姉にうまく説明できないというのが本音だった。
「急にすみません、明日香さん。姉弟水入らずの時間なのに」
「来る途中の廊下でたまたま会ったから、俺から誘ったんだ」
申し訳なさそうな表情を浮かべる律花に、間髪入れずに圭人がフォローを入れる。
「全然いいのよ律花ちゃん。それより圭ちゃんと友達になってくれてありがとう。この子、自分のこと全然話さないから、友達が一人もいないのかと思ってたのよ」
「俺のことなんだと思ってたんだよ。子供じゃないんだから」
安堵の表情を浮かべる明日香。姉のそんな様子に圭人も思わず苦言を呈する。その光景を見て、律花は思わず笑い声をこぼした。
「ほんと、仲いいなあ。羨ましい」
「北川は一人っ子なのか?」
「うん。そうだよ」
律花と出会ってから一か月以上が経った。カフェに行ったり、病院で会った時には話をしたりしたが、考えてみると家族構成すら知らない。
「そう言えば北川の家族って――」
「わたしの話はいいでしょ。それより、あのいちごパンケーキのカフェ、今日の朝の情報番組で取り上げられてたらしいよ!」
言葉を遮り、律花は無理やり話題を変える。その話題に勢い良く明日香が嚙みついた。
「いちごパンケーキってなになに?」
「そこのカフェ、限定メニューにいちごたっぷりパンケーキっていうのがあるんですけど。この間圭人と一緒に行ったときは売り切れだったから、また行こうねって約束したんです」
秘密にしていたわけではないが、圭人が避けていた話題を、律花は思い切り話し始める。それを聞いて、明日香がニヤリとした表情で圭人へ振り向く。
「違うんだ姉さん。これには理由があって――」
「律花ちゃん、これからもうちの弟のことよろしくお願いします」
「え? あ、はい」
突然の明日香の改まった言い方に、律花は不思議な顔を浮かべた。
「じゃ、またね。姉さん」
「お邪魔しました」
「またね二人とも。また律花ちゃん連れてきてね圭人」
「わかった」
二人が病室を出る最後の瞬間まで、明日香のニヤけ顔は続いた。
「明日香さん、やっぱり優しいなー。二人って結構性格似てるよね」
「そうか? 性格が似てるってあんまり言われたことないな」
「似てるよ! 圭人の優しさはすこーしわかりにくいけどね」
「なんだそれ」
明日香の病室を後にした二人はロビーを抜けて、病院から一歩外に出る。少しだけもわっとした空気が押し寄せくる。
「あっ、そうだ。来週の頭から雨が続くらしくてさ。行けなくなったら期間限定終わっちゃうかもしれないから、今週の土曜日に行かない?」
一度、顔を空へと向けた律花は、期待を込めた目で圭人へと向き直る。
「土曜日か。わかった。その日は定期検診の日じゃなかったよな?」
「うん」
「いったん病院に集合して行くか?」
「ううん。カフェから一番近くの駅集合でいいよ。わざわざこっちまで来ると二人とも回り道になるし」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫なのかって、わたしだって電車くらいひとりで乗れるよ。この病院に来るときも、帰る時だってひとりなんだからさ」
少しだけ不安になったが、律花の言葉と今見せた笑顔で思考を改める。
「そしたらまた土曜日にね」
「ああ」
白杖で地面を確認しながら、しっかりと歩く彼女の背中を見つめる。自分の中に芽生え始めた暖かい感情。その正体に確信は持てないが、一つだけわかっていることがある。
「楽しみだな」
圭人は、不意に飛び出した発言に思わず口元を抑えた。
*
土曜日当日、空を見上げると天気予報通りの快晴が圭人の目に入る。
扉が勢いよく開き、段差に気を付けながら電車を降りる。ホームから出て改札を抜けると、すぐのところにあるベンチに腰を下ろした。ふと、ポケットに入れていたスマホを取り出す。
集合時間は十五時だが、スマホの時刻は十四時四十五分を指している。一応、律花とは連絡先を交換していたので、集合時間と集合場所は昨日の夜に電話で決めた。スマホでゲームでもして時間を潰そうかと考えていると、ちょうどよく着信音を知らせるバイブレーションが伝わってきた。画面には『北川律花からの着信』と表示されている。
「もしもし圭人? ごめん。少し遅れちゃってて、次の電車に乗るから着くの十五時過ぎると思う」
「わかった。昨日話した場所で待ってるから」
「うん。できるだけ急いで行くね」
急いで行く。その言葉を聞いた途端に、圭人の中で明日香の事故の記憶がよみがえる。
「急がなくていい!」
無意識に声が大きくなり、駅にいる人たちから奇異の目線で見られる。電話相手である律花も困惑しているのが伝わってきた。
「あ、いや、ごめん。次の電車に間に合わなくても大丈夫だから。ゆっくり来てくれ」
「うん。ありがとう」
電話を切った圭人は、顔を両手で抑えながら後悔する。自分のトラウマと律花は関係がないのに、つい強い口調になってしまった。変に思われていないことを願い、律花が到着するのを待った。
スマホの時刻は十五時を指していた。ちょうど、律花が乗ると言っていた電車が到着したようで、人通りが多くなっている。その中から律花の姿を探すが、なかなか見つからない。白杖を持っており、目立つはずなのですぐ見つかると思っていた。
少し経って、人通りが落ち着いてきたが、律花の姿はどこにも見当たらない。もう一つ後ろの電車に乗ったのかもしれないと思い、圭人は大人しく待つことにした。
――十五時四十五分。
さすがにおかしいと思い、ベンチから腰を上げて動き出す。
あれから、律花が乗って来ることができる電車が二本も到着している。しかし、律花の姿はどこにもない。いくらゆっくり来るといっても、心配になる遅さだ。何度も電話をかけてはいるが、一向に繋がらない。初めは電車に乗っていて繋がらないのだろうと圭人は考えていたが、ここまでくるとその可能性は低そうだ。
時刻表を確認して切符を購入する。足早に駅のホームへ繋がる階段を駆け上がった。
ホームに出ると、雨の音が煩いほどに響いている。今まで気づかなかったことが不思議なほどの豪雨がやってきていた。
「天気予報は晴れだったはず」
圭人の嫌な予感はさらに強まる。律花が来る方向に向かう電車がちょうどあったので、扉が閉まる前に、滑り込むようにして乗車する。
律花の最寄り駅はここから三駅離れた場所だ。後ろに引かれるような重力を感じて、電車は発進した。これほどまでに電車のスピードが遅いと感じたのは初めてのことだ。一番早く下りられる扉の前で大人しく待機しているが、何もしていないと最悪の想像――明日香の時と同じような結末を想像してしまう。
「考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな」
圭人は自分の心を落ち着かせるように呼吸を整える。律花は大丈夫だと信じることしかできない自分が不甲斐ない。
気の遠くなるような時間が経ち、扉が開くと同時に圭人は駅のホームへと飛び出す。もしかしたらまだ電車に乗っていなくてホームにいるのかもしれないという希望的観測は、一瞥しただけで潰える。
「目の見えない高校生の女の子を駅で見ませんでしたか!?」
できる限り駅の隅々まで見渡したが、律花はどこにもいない。荒い息遣いのまま勢いよく駅員室にいた駅員に問いかけた。
「いえ、恐らく来てないと思いますが――」
「もし彼女を見かけたら、この番号に電話してください!」
カウンターに置かれているポスターの裏に携帯番号を殴り書きして渡す。そのまま返答も聞かずに駅を後にした。
「ったく、どこにいるんだよ」
駅を出ても右と左どちらに行けば良いのか、圭人には見当もつかない。空から大粒の雨が降り注ぎ、全身を重くする。何度も電話をかけ続けているが、繋がらなかった際に流れる自動音声すら雨が地に落ちる音でかき消される。
「くそっ!」
それから圭人は走り続けた。通りすがりの人や、点在する店の人に話を聞くが、簡単に情報が得られるはずもない。自然と目から大粒の涙が、頬を伝い雨と一緒に流れ落ちる。
視界はぼやけ、叫び声も雨に吸い込まれる。絶望しかけたその時、遠くに何かが落ちているのが辛うじて視界に映り込んだ。圭人は走り続けて限界に達しているはずの足を再起し、その何かへ近づいていく。
「スマホ……」
それは、いつも律花が使用していたスマホだった。彼女はボイスオーバーという音声で操作する機能を使うことが多く、よく顔の近くで使っていた。そのため、特徴的なピンクのスマホケースを覚えていた。スマホを拾い上げると、すぐに辺りを見渡す。すぐ目の前に大きな公園があり、一縷の望みにすがり足を踏み入れる。
公園の中には人の気配が全くしない。しかし、人が入れそうな場所が一か所だけあることを発見する。正式名称は知らないが、コンクリートの山に穴が開いている遊具だ。圭人は子どもの頃『石の山』と呼んで遊んでいた。すぐに近づいて、急いで中を覗き込む。
「やっと見つかった」
「けいと……?」
体を震わせ、涙で顔をぐちゃぐちゃにした律花。圭人のいる方へゆっくりと手を伸ばす。
「ごめんなさい。ごめんなさい。お父さん、お母さんごめんなさい」
「おい北川――」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
異変を感じ、伸ばしてきていた律花の手を握る。すると、体の震えが直接伝わってきた。
「落ち着け、北川。俺だ」
パニック状態に陥っている彼女の手を強く握り、語りかける。
「わたしが、わたしのせいで」
律花は頭を抱えて下を向く。圭人のことも完全には理解していない様子だ。圭人は一度握った手を放し、両手で彼女の頬を包み込み正面を向かせた。
「俺がいる。大丈夫。もう、大丈夫だ」
「けい……と」
律花はか細い声で名前を呼び、そのまま倒れこむように圭人に抱きつくと、赤子のように泣き始めた。彼女の身体は冷たくて、震えていた。無言で受け入れて、自分の体温を分け与えるように抱きしめる。
大粒の雨と涙が降りやむまで彼女の背中を優しくさすり続けた。
気づけば、雨と彼女は泣き止んでいた。
「わたしね、雨が怖いの」
圭人の手を強く握りしめながら、律花は決意のこもった表情で話し始める。
「小学三年生の時の交通事故。家族で予定してたピクニックが雨で中止になっちゃってね。わたし一人っ子だから特にわがままで、かわりに水族館に連れて行ってって駄々こねてさ。物凄い豪雨の中、隣の県の水族館まで行く途中で雨と風にハンドルを取られたトラックに突っ込まれて。お父さんとお母さんは前の座席にいたから即死だったって」
「北川……」
「覚えてるのは真っ暗な視界と、雨音にかき消される自分の泣き声だけ……」
鼻をすすりながら、律花は静かに過去のトラウマを語る。過酷な環境で生きてきたはずなのに、普段の態度からは全く感じ取れなかったと圭人は素直に尊敬する。勝手に腐っていた自分とは大違いだ。
彼女がどれほどの想いを抱えて生きてきたのか、圭人には計り知れない。
「圭人の手すべすべだね」
「え?」
脈絡のない律花の言葉に驚き、疑問の声を発する。
「圭人は、もうピアノ弾かないの?」
「今そんなこと――」
関係ない。と言おうとしたが、津花の真剣な表情を見て言葉を止める。
「初めて会った時から思ってた。圭人、ピアノ好きなんでしょ? ほんとはピアノを弾きたいんじゃない?」
圭人は律花と会ったばかりの頃、なぜ彼女のことが苦手だったのかを今になって自覚する。何も見えていないはずなのに、彼女の瞳はすべてを見透かしている。そんな気がしたのだ。
「俺が小学五年生の時のコンクールに来る途中、遅れて来てた姉さんが車に轢かれたんだ。高校の部活があって来れないって言われたのに、姉さんにどうしても来てほしくて頼み込んで。もしかしたら終わって急いでくれば俺の番に間に合うかもって。コンクールの本番が終わってステージを出たら、両親がわけわかんないくらい泣いてて、すぐに病院に連れていかれた」
圭人の中でその時の記憶が鮮明によみがえる。生きていると思えないほど、顔が蒼白になってベッドに横たわっている明日香。それを見て泣き崩れる両親。
「何度も思った。ピアノなんて弾きたいって最初から思わなかったら、こんなことにはならなかったのにって」
今度は圭人の方が握る手に力が入る。
「姉さんだって、ほんとは俺のこと恨んでると思う」
「それは違うよ。圭人」
盲目の瞳で圭人をまっすぐに見つめて、律花は強く否定した。
「北川になにが――」
「わかるよ。明日香さんが圭人のピアノのこと話す時、いつも楽しそうだった。心の底から、圭人の奏でる音が、ピアノを弾く圭人が好きだったんだよ!」
圭人の脳裏に、明日香に言われた言葉が浮かび上がる。
『圭ちゃんのピアノって、聴いてたらその曲の風景が見えるよね。私、圭ちゃんの弾くピアノ好きだな』
「なんで……俺、こんな大事なことを」
忘れていたのだろうか。明日香から言われたこの言葉が嬉しくて、ピアノに熱中するようになったのだ。
「もう一度弾こうよ圭人。君はまだ、明日香さんに聴かせることができるんだよ」
「北川……ありがとう」
「わたしだって、雨を克服して見せるからさ」
そう言って微笑んだ律花の笑顔が輝いているように見えて、圭人はじっと見惚れる。胸に引っかかっていた異物が取り除かれるような、そんな感覚があった。
*
遠くに見える明日香の姿を、圭人は静かに見つめる。律花の行方不明騒動があった次の週の水曜日に、いつも通り病院にやってきていた。
「浮かない顔だね。圭人君」
「うわっ、立川先生」
気づいたら隣に座っていた隼人に驚き、失礼な声を漏らす。
「何か悩み事があるのかな? 精神科専門ではないけど話ぐらいなら僕でも聞けるよ」
「姉さんのところ行かなくていいんですか?」
「もちろん明日香ちゃんに顔を出しに来たんだけどね。ほら、今集中してるみたいだから」
今圭人がいる場所はリハビリ室だ。視界に映っている明日香は汗をかきながら、一生懸命に補助器具を手で支え、歩いている。以前はあそこまで歩けていなかったので、思わず涙が出てきそうになる。
「俺も声かけようと思ったんですけど、なんか行きづらくて」
「君たち兄弟はほんと馬鹿だな」
突然に放たれた隼人の言葉に、圭人は耳を疑う。それが聞き間違いではないと理解して、横に座る隼人を睨んだ。
「どういう意味ですか」
怒りの感じ取れる圭人の声を聞いて、隼人は軽快に笑いながら続ける。
「だって馬鹿だろ。明日香ちゃんの事故のことなら、僕も詳しく知ってる。彼女はずっと言ってたよ。自分のせいで、弟がピアノを辞めたって。かたや弟である君も自分を責め続けているときた。こんな滑稽な姉弟他には居ない」
隼人の口から聞かされた明日香の本音に、圭人は驚きで声を失う。
「でも、彼女は歩き始めた。バージンロードを自分の足で、しっかり歩きたいんだと。さて圭人君、このまま立ち止まったままか、進むのかは君が決めることだ。もとより気づいていないだけで本心は決まっていたようだがね。そのハンドクリーム、医学的にも効果の高いやつだ」
開きっぱなしの圭人の鞄から見えるハンドクリームを指差しながら、隼人は立ち上がる。ピアニストにとって手の保湿は大事だと明日香に言われ、初めて買ってもらったハンドクリームと同じものを今でも購入し続けていた。
「バージンロードって、姉さんもしかして――」
一度はスルーした聞き覚えのない単語に圭人は反応する。予想は見事に当たり、明日香の元へ歩き始めた隼人は振り返って最後に一言を残す。
「まあ、義兄ちゃんの戯言だと思ってくれ。どうするのかは、自分が決めることだ」
ひらひらと手を振る隼人の姿はいつもと違い、とても頼もしく圭人の目に映った。
*
「ふんふんふ~んふふ~ん~。あれ、この後どんなだっけ?」
病院のグランドピアノの椅子に半分ずつ腰かけ、律花が鍵盤を叩いていた。
彼女が鼻歌を歌っている時は、機嫌が良い時と決まっている。
「ねえ、圭人。忘れちゃったから、この続き弾いてよ」
律花は冗談めかした口調で告げる。まだピアノを弾く姿を見せたことがなかった。
圭人はふぅーと長い息を吐いて呼吸を整えた。
ピアノと正面に向き合い、白黒の鍵盤に手を伸ばす。久しぶりの堅い感触に懐かしさを覚える。今まではピアノを視界に入れることすら嫌だった。否、怖かったのだ。自分の過去と向き合うことが恐ろしくて、逃げ続けた。
鍵盤をリズムよく叩くたび、呼応したピアノが美しい音色を響かせる。音はいつでも待ってくれていた。包み込むような温かい感覚を感じて、それを確信する。
ギロック作曲の『ウィーンの想い出』。ピアノを始めたばかりの頃に、完璧に弾いたことで当時はかなり驚かれた。コンクールの審査員から天才と言われて褒められたことを今でも鮮明に覚えている。
『ウィーンの想い出』は特に緩急をつけることが大事だ。圭人の指は、当時の感覚を取り戻すように滑らかな動作で音を奏でていく。
ふと、律花と出会ってからの時間に想いを馳せる。
自然と全身の力が抜けて、旋律が脳を揺らし響き渡った。病院にいる患者や職員が振り向くほどに澄んだ音色を弾ませる。
永遠と錯覚する美しい演奏は、最後の音色によって終わりを告げる。弾き終わった圭人を待っていたのは、目に涙を浮かべた律花だった。
「すごく綺麗な音。聴き惚れちゃった」
「俺、もう逃げないよ。自分の過去から、自分の本当に好きなものから逃げない」
涙を流す律花の手を取り、暗い瞳をまっすぐに見つめる。
「わたしが圭人の二番目のファンだからね」
律花の目から涙が止まった頃、圭人は意を決し立ち上がる。
「俺、夏のコンクールに出ようと思うんだ。北川にも、聴きにきて欲しい」
その言葉を聞いた途端、律花の表情は明るさを増す。
「圭人が……コンクール!」
嬉しい気持ちが溢れたのか、彼女はそのまま椅子から勢いよく立ち上がった。
*
律花にピアノコンクールに出場することを伝えてから、二か月の時が流れていた。姉の明日香と母の百合子にもピアノをもう一度弾くことを告げると、二人とも号泣して喜んでくれた。もう、枷になるものは圭人の中から消え失せている。
「大丈夫。いける」
ピアノコンクール本番前の緊張感は、小学生の時に感じたものと同じで、やっと時間が動き出したような気がする。
弾き終わった他の出場者が、控え室に戻ってくる時の表情は安心した顔もあれば、絶望した顔もあり様々だ。
この二か月は、辞めてからの六年間を取り戻すために、すべての時間をピアノの練習に費やした。明日香にもう一度自分の音を聴いてほしい。そして――
「北川に、俺のピアノで世界を見せるんだ」
明日香は圭人の音を聴いて、風景が見えると言ってくれた。ピアノを始めてから、言われて一番嬉しかった言葉だ。
「次、三十八番の高宮圭人さん。移動お願いします」
あっという間に順番が回ってきたようで、圭人は椅子から立ち上がり控室から出る。前の順番の出場者の演奏が始まった音を耳にしながら、舞台脇のスペースに設置された椅子に腰を下ろした。
音色が徐々に小さくなり、前の出場者の演奏が終わったことを察知する。ついに圭人の番が回ってきたが、驚くことに緊張は消え去り、心の中は冷静を保っていた。
拍手喝采と共に、演奏者が前を通り過ぎていく。椅子から腰を上げると、プログラムの演奏者名・自由曲の紹介と同時に、眩しく光るステージへと足を踏み入れる。そして、堂々とした足取りでピアノ前方まで歩き一礼をした。観客席の中に明日香と百合子がこちらに手を振っているのが見えて安心する。
嵐のような拍手の音を鼓膜で受けながら、椅子に座る。
演奏を始めようと、鍵盤に手を伸ばしたところで、圭人の視界と体は硬直した。次の瞬間、明日香の事故の記憶が流れ込んできて脳を支配する。小学五年生のコンクールで、圭人の演奏中に明日香は事故にあい、命の危機に陥った。何も知らずに呑気にピアノを弾いていた当時と今が重なる。冷汗はとめどなく流れるが、指先は動かない。あまりにも演奏が始まらないため、観客席もざわつき始めている。
乗り越えたと過信し、醜態を晒す自分のことが圭人は憎くてたまらない。観に来てくれている百合子と明日香。それに、律花にも失望されたかもしれない。
――苦しくて息ができない。圭人の視界を徐々に暗闇が侵食し始める。
「圭人! わたし、見てるから!」
遠くで大切な人の声が聞こえた気がして、圭人は僅かに残った意識を繋ぎとめた。暗闇が覆っていた視界には一筋の光が差し込む。
「見てる……か」
小さな声で呟くと、視界の靄が消えていくのがわかった。トラウマから解放された体を動かして、声の主を見上げる。二階席の端で立っている律花は、会場全員の注目を集めている。思わず笑みがこぼれ、心の中で彼女に礼を告げる。
誰も注目していない中、圭人は静かに始まりの一音目を鳴らした。
そして、ドビュッシーの『月の光』をゆったりと奏で始める。
強弱のついた美しい音色で冒頭が始まり、観客席に緊張感が漂う。数秒前に大声を出した少女のことなど誰も覚えていないほどに、全員が一瞬で静まり返る。
圭人の指は滑らかな動作で次の音を探す。導き出された音はキラキラと彩り存在を主張している。聴く者の瞼の裏には、旋律によって生まれたそれぞれの世界が形作られていた。
出会ってくれてありがとう。
律花の生きる姿勢から、大事なことを気づかされた。彼女が圭人の人生に与えた影響は大きい。再度、心の中で律花に感謝を告げる。
今度は、俺の方からデートにでも誘ってみよう。
感謝とはまた別の感情を抱き、圭人は彼女を想った。
ピアノと会話するように鍵盤と触れ合う。気づくと、圭人の奏でる音色はますます洗練されていく。
久しぶりの心地良い感覚に包み込まれる。もう何があっても、ピアノは辞めないと心に誓った。
きっともう、この信念だけは揺ぎ無く存在し続けるだろう。
音は情景をのせて、世界を映し出す。そのことを、大切な人たちが教えてくれたから。