五十二話「2025」
門の前に立った時、嫌な感じがしなかったのに暁烏は安堵した。
鬼村の家の前である。
今朝から携帯に連絡しているのだが返信はおろか既読さえつかないのに一抹の不安を感じ、暁烏は鬼村宅までやった来ていた。鬼村はしたたかな女性である。何が起きようがそこまで心配する必要はない。とは言え、普段返信の早い彼女がここまでなんのリアクションもないのは初めての事だった。
とりあえず、何か悪い事が起きていれば気配で分かるのだが、家から漂う空気にそれがないのだから恐ろしい事は起こっていないようだ。もしかしたら、鬼村は携帯を忘れて外出しているのかもしれない。それならそれで良い。無事だと分かれば。
門を開けて鬼村宅を一望する。すると、縁側に座っている鬼村が目に入った。
なんだ、居るじゃないか。
鬼村はぼんやり空を見上げ、何をするでもない。門が開いた音にも反応しないし、来訪者の存在も眼中にない。
何か、様子がおかしかった。
「なんだ、居るじゃないですか鬼村センセ」
なるべくおどけた調子で言いながら暁烏は鬼村の前に歩いて行く。何故か首には包帯が巻かれている。のろのろと顔をこちらに向けた鬼村は、生気のない顔で暁烏を見つめた。作りの悪い彼女の顔は真顔でいるとなんだか気味が悪くなる。彼女が中々親しい友人を作れない理由の一つだ。
「朝から連絡してたんだよ。首どうした? 怪我したの?」
自分の明るさが虚しさを引き立てる。
鬼村は何も言わず、緩く振り返って室内に目をやった。
居間の机の上には見慣れないものが置いてあった。藤で編んだ小さな籠。その中に、鮮やかな花が咲く赤いちりめん生地で作られたお手玉が四個入っている。傍らの紙にはけして上手いとは言えない文字で
美命ちやんへ
と添えられていた。
あれはなんだ。鬼村が用意したのか。否、彼女の字はあんな字ではない。では一体誰の字だ。鬼村の存在しない娘を知っているものは片手で数えられるほどしか居ないはずだ。
暁烏の鼻孔にふわりと不思議な匂いが入り込んだ。青臭い柑橘系の匂い。なんの果物かは分からない。柚のようでもありすだちのようでもある。芳しいとはいかないが、悪意のない匂いだ。
――はて。
「美命ね」
ぽつりと鬼村が呟いた。
「バレちゃいました」
暁烏は最初なんのことか分からず、暫く間抜けな顔で鬼村を見下ろしていた。
そして全くの突然、その言葉の意味を理解すると、弾かれたようにお手玉を見、また鬼村を見た。無遠慮に片膝をついて鬼村の横に素早く座る。
鬼村がこんな状態なのは、まさか。
「美命ちゃんは?」
確かにあの娘は人間ではない。生きていると言って良いかも曖昧な存在だ。しかし鬼村は自分の娘を愛している。まさか連れて逝かれてしまったのだろうか。いつかはあるべき場所に還さねばならないにしても、それは準備が整った母親である鬼村がやるべき事なのに。
「上で遊んでます」
だが、鬼村の返答は予想外なものだった。
「じゃあ……」暁烏は困惑して問うた。「何があった?」
「なんにも」
鬼村が見た事もない歪な笑みを浮かべる。
「許されちゃったんですよ」
暁烏は言葉もなく鬼村の横顔を見つめた。
全くの予想外だ。
あの死神は鬼村に執着している。彼女に近寄る者には誰であろうと睨みをきかせるし、鬼村の元彼氏の話は悲惨そのものだ。だから、例え本物ではないにしても、そんな男との間に儲けた子供を見逃すはずがないと思っていた。鬼村だってそう思っていたはずだ。最悪のパターンは、有無を言わさず連れて逝かれてしまう事であると。
まさかそれ以上の最悪があるとは思わなかった。
許したのだ。
鬼村が娘を愛しているから、憎い男との間の子供であっても、許したのだ。
そんなの、まるで――。
「良い天気ですねえ」
鬼村は雲一つない抜けるような青空を見上げた。
「こんな気の触れそうな青空じゃ、死にたくもなる」
あの青臭い柑橘のにおいが、ふわりと舞った。




