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五十話「2014ー2」

 神保の高齢の両親は憔悴しきっていたが、真に対して最後まで礼儀正しくいてくれた。

 彼の家族と会うのは初めてである。当たり前だ、一度も挨拶に行くなんて話は出なかった。もしや神保は真の事を話しているのではと探りを入れながら会話を続けたが、結局彼らは真の事はおろか恋人のこの字も口にする事は無かった。正直、安堵すると同時に失望感も拭えない。

 真は自分が誰であるか、二人の関係性をどう説明したものかと随分悩んだのだが、結局のところ、

「昔、神保先生に教えてもらった生徒です」

 これ以外に言葉は見つからなかった。何をどう説明しても良くない方向に転ぶしかないなら、詳しい事情は話さない方が良い。真は、久しぶりに恩師と会う約束をしていたが連絡が取れなくなり、心配になって家に行ったら発狂していたのを見つけた通報者という扱いになっている。

 指の傷も救急隊が来た時に噛まれた旨を説明し、適切に処置をしてもらった。神保の親は治療費を払うと言ってきかなかったが、勿論受け取れるわけもなく、命が助かってくれたなら良かったですと白々しい事を言ってどうにか申し出を断った。

 きっと数か月後なら、真が婚約者として挨拶に行っても、年齢差もかつての生徒という立場も脇に置いて大歓迎してくれるだろう。

 そんな事は、もうあり得ないのだが。

「先生」

 二人きりの病室で、寝ている神保の手に触れる。もうこの手が子供に危害を加えることはないと思うと心底安心した。同時に胸にぽっかりと穴が開いたような空虚な感覚に襲われる。その穴はブラックホールのように周囲の感情を飲み込み、ひたすら真を虚無にしようと躍起になっている。飲み込まれてしまえば楽だが、それを許してくれるほど生者の世界は甘くない。

 真は、真だけは、これまで通り生きなければいけないのだ。

「あの、藤原さん」

 帰りしな、神保の母親が真に声をかけた。

「息子と交流があったんですよね、マコトって方にお心当たりは御座いませんか?」

 もう少しで動揺が表に出てしまいそうだった。

 ”マコト”と間違いなく母親は言った。何を知っているのか、どこまで知っているのか、一気に緊張が走る。お前が息子を壊したのだろうと飛び掛かられ、どこからか取り出したナイフでめった刺しにされる光景が脳裏を過った。

 なんとか唾を飲み込んで真は口を開いた。

「いえ、私の知り合いには……。何かありましたか?」

「私共もよく分からないんですが、時々、マコトって呼んでるんですよ」

 心臓が止まるかと思った。

「もしその方が分かれば連絡差し上げたいと思っているんですが、何分携帯も壊れてしまったので……」

 神保のスマートフォンは、救急車を待っている間に真がミキサーに突っ込んで粉砕してしまった。もし中のやり取りが誰かに見られたら、彼の悪行が白日の下に晒されてしまうのを恐れての行動だった。咄嗟の事とは言え、我ながら相当な混乱状態だったと今では呆れてしまう。ミキサーの中で粉々になったスマートフォンを見た救急隊の人々は顔を引きつらせていたが、神保が発狂した際の奇行の一種であると納得してくれたので、それ以上詮索されることはなかった。

 真は冷や汗が出そうになるのを堪え、母親に深く頭を下げた。

「何か分かったら私の方でもその人に来るよう伝えておきます。お二人とも、どうぞご無理なさらずお休みください。何かあれば、いつでも連絡してください」

 これが真の出来る最大限の贖罪だろう。

 二人は真よりも更に深く頭を下げ、彼女の両手の指に巻かれた包帯を申し訳なさそうに拝みながら見送ってくれた。ともすれば義理の両親になっていたかもしれない二人である。辛そうな顔を見るのは心が痛いが、とうとう真実は真が抱えて持ち帰った。

 これから彼はどうなるのだろう。一命は取り留めたが、精神の方はもう回復不可能だろう。普通の人間が神をその目で見れば、精神か肉体、またはその両方が駄目になってしまうものだ。あんな至近距離で死神を見て無事なはずがない。だが狂い死にするまで見てはいなかった、死神はすぐ真と話をはじめて神保から顔を背けたのだ。完全な廃人となるのは免れたはずである。

 その証拠に、神保は真の名前を呼んでいる。

 母親の言葉を反芻し、呼吸が乱れた。鼻の奥がツンとする。涙が滲む。

 四十三年の間に出会った様々な人の中で、まともにものを考えられなくなった彼が唯一求め呼んでいるのが真なのだ。

 きっと神保は真を何度も裏切っているだろう。逢瀬は一回きりだったかもしれないし、長く続いたかもしれない。相手の大半は悍ましい事に未成年のはずだ。その卑劣で醜悪な彼の人生の行き着く先が真であったという結果が、真に強烈な嫌悪感と仄暗い歓びをもたらした。

 憎み切れず、愛し切れず、真はこれからも神保の元に通うだろう。

 とどのつまり――。

 真は卑しい笑みを口端に刻んで自嘲する。

 ――あの男と自分は同じ穴の狢なのだ。

 ふと顔をあげると、目の前の通りから病院に向かってまっすぐ歩いてくる人物と目が合った。高校の制服を着ている。まだあどけなさの残る顔立ちは白く、真っ黒の髪が彼女の肩口で楽し気に揺れている。肩にかけたスクールバッグには、流行りのキャラクターのアクリルキーホルダーがいくつかチャチャラとぶら下がり、日の光を浴びてキーチェーンが瞬いてた。小ぶりのローファーが石畳を歩く音が妙に大きく聞こえる。

 あの少女だ。

 突然世界が速度を落とした。

 まず真の脳裏には、少女が無事だったかという心配が過り、神保を見舞いに来たのかという不安がそれを追った。ならば止めるべきだろうか。だが本人が望んできたのに、自分になんの権限がある? ああどうしよう、もうすぐ目の前に来てしまう。なんと言おう。何を話そう。これ以上子供を傷つけないために。

 三メートル程前に来た時、少女はゆっくりとスクールバッグに手を突っ込み、そこから包丁を引き抜いた。

 少女は駆け出す。一直線に、真の目を見つめて離さず、全速力で。

 こういう時、フィクションの世界なら憤怒の形相であったり、恐ろしい雄たけびを上げたりするものだが、現実は違った。真顔なのである。一切なんの感情も宿らない能面のような表情で、ただ殺す事だけを目的に突っ込んでくるのだ。

 真は動けなかった。

 驚くほど冷静で、落ち着き、いっそ穏やかな気分でさえあった。


 なるほど、自分はこうして死ぬのか。


「先生」

 振り返ると、死神が立っていた。

 周りを見回す。暗闇がどこまでも広がるばかりで辺りには死神と自分以外何も存在していない。まだ死ぬには猶予があった間合いのはずだが、ここはどう見ても現世ではない。刺されたのだろうか。気づかなかったな。

「指」死神は低い声でボソボソ言った。「具合の方は」

 真はちらりと自分の手を見下ろす。

「痛いですけど、暫くしたら治ります」

「二度とあんな莫迦な真似はしないでください。指は作家の命だ、書けなくなったらどうするつもりだったんですか」

 静かに怒っている死神を見やり、なんだか妙に可笑しい気持ちになった。

 この世に存在する全くもって正しい存在は、このチビの死神ただ一人に思えたのだ。

 死神は笑う寸前のような奇妙な顔をしている真を睨むが、自分の望む答えを無理に引き出す真似はしなかった。イエスもノーも言わない事が真の返事なら、いかに納得いかなくてもそれが答えである。

「――今日が」

 死神は怒りを殺して沈んだ声で言う。途端、気持ちは声の調子につられ、一緒に沈んでいった。

「貴女の命日です」

「……あの子に刺されるんですか?」

 真は落ち着いている。

「はい」

「まだずっと先だって言ったのに」

「……先じゃないと困るんですよ」

 険しい顔で独り言ちる。

 その様子はいつにも増して彼を小さく見せた。

「でも、私は今日死ぬんでしょう? もう死んだんですか?」

「まだ」

「じゃあ……これはなんなんですか」

 死神は暫し押し黙り、悪さしたのを怒られている子供のような顔を作った。

 そうしてたっぷり勇気を振り絞った後、死神はようやく大きな口を開いた。

「死にたいですか?」

 なんとも藪から棒な質問だ。しかも、死神が問うてくる内容としてはかなり不適切である。真は一瞬質問の内容が飲み込めず、不思議そうな顔で死神を見下ろした。

「やつがれはただの死神、貴女の生き死にを決める権利は御座いやせん」彼の声はどこか切羽詰まった色を含み、懇願してさえいるように聞こえる。「だから貴女が死にたいと言うなら、このまま貴女が助けた子供に刺されるのを見届けるつもりでおりやす。だが、先生にはまだ連載がある。あれを完結させずに死ぬのは惜しいンじゃあないですかい。新作、面白かったですよ、虚ろのうろ。これからどうなるか楽しみで仕方ない」

 ――だから。

 そこから先は言葉にせず、真剣な眼差しで真を射抜く。

 確かに、死神が言う事は最もだ。もう死んでしまってもいいかと思うと同時に、小説だけは書きたいと強く思う。

 いつだって、どんな状況だって、小説は書きたいのだ。例えどんなに辛くとも、生きるためには息を吸わねばならないように、小説を書くのをやめる事など出来ない。憑りつかれている。魅了されている。途中で投げ出すなんて許せない。なのに死んでしまったら、もう二度と書けないじゃないか。連載だけじゃない、まだまだ書きたい物語は山のようにあるというのに。

 真の頭の中は、死後の世界に持っていくには余りに物が詰まり過ぎている。こんな大荷物を抱えては、とても逝けるわけがない。

 書かなければ、死ぬことも出来ないじゃないか。

「……死にたくないといったら、私は死なないんですか?」

 大きな死神の瞳が喜びで輝くのが見えた。

「先生が小説を書き続けてくれるなら、やつがれがなんとか致しやす。貴女も知っての通り、藤原の連中は死んだら地獄にも極楽にも逝きやせん。どこでもない、特別な所に逝くんです。だから貴女達は命のロウソクがないんでさあ。藤原を受け持ってるやつがれなら、少しくらい細工してもバレやしやせん」

 それは――。

「悪い事ですよね」

「まあ、そうでやすね」

「バレたらどうなるんですか」

 死神は視線を逸らし、低い鼻を掻いて小さく笑った。

「先生は気にしなくて良い事です」

 ああ、どこまでも人臭い死神だ。

 真はじっと彼を見つめ、言うべきではない事をたまらず口にした。

「なんでそこまでするんですか」

 嗚呼。

 もし。

 もしも。

 死神が完璧な答えを吐いたなら、どうなってしまうのだろう。

 世界を壊すのに、ハンマーも拳銃も必要ない。必要なのは言葉だ。完全無欠の嘘偽りないたった一つの言葉だ。真はその事を良く知っている。真は呪いの化粧を施された言葉に囲まれて生きて来た。人間は皆そうだ。いつだって必要なのは言葉なのだ。


 だから、


「やつがれは」


 言葉を、


「先生のフアンなんです」


 唯一無二の、


「貴女の作品を愛しておりやす」


 その、


「最期まで書き続けて欲しいんです。でも――」


 言葉を。


「こればかりはやつがれの勝手。決めるのは貴女です。もう書きたくないのか、それともまだ書きたいのか」


 真は死神の言葉と静寂を肺いっぱいに吸い込み、全身にそれを巡らせた。今の言葉で、甘き死に手を振って見送るくらいの元気は湧いたのだから、全く現金なものである。真は根っからの小説家だ。小説家は包丁では殺せない。あの少女は間違った選択をした。だから真は死なない。死んだ方がどれ程楽であろうと、真は死なない。

 まだまだ小説を書くのだ。

 下劣で醜悪な貉として。

 何があっても。

「――書きたいです」

 死神が嗤った。

 彼がその汚らしい手をくるりと翻すと、煌々と光る一本のロウソクが指につままれて現れた。ロウソクはまだ長く、炎は命のきらめきを放っている。美しいロウソクだ。美しい命だ。

「先生、先生」

 うっそりと死神が真を呼ぶ。

「共犯になっていただきやす」

 真はただじっと死神を見つめている。

 うんともすんとも言わなかったが、拒否もしなかった。

 死神は幸せそうに目を細め、薄く口を開き、そして――。

 ――ロウソクの火を吹き消した。


 耳を劈くような轟音がした。そして、悲鳴。また悲鳴。悲鳴の大合唱。

 真は目の前から消えた少女の行方を追って、ゆっくり顔を横に向けた。

 見えたのは自動車の後部だ。赤いテールランプが血走った目のようにギラギラ輝き、己の所業にショックを受けている。少し先に少女だったものが転がっていた。

「えっ、なに!」女性が叫ぶ。

「うわ、事故だ!」男性が叫ぶ。

「突っ込んできた」違う男性が呻く。

「アクセルとブレーキ間違えたんじゃない?」違う女性が囁く。

 運転席では高齢の男性が固まったまま座っている。誰かが窓を叩き、ドアを開けろと怒鳴っているが微動だにしない。何人かがすぐ後ろの病院に走っていった。

 真はゆっくりと歩き出し、車の前方を覗き込んだ。

 少女はゴミのように転がって動かない。血は出ていないが、突っ込まれた右半身が肋骨を無視して奇妙に捻じれている。顔は地面に突っ伏していて見えない――あの幼さの残る白い顔。真が見ているうちに、ようやく自分のやるべきことを思い出しでもしたように顔の下から血が流れ始めた。人々がどよめく。逃げていく人、近づく人、様々だ。

 不意に耳元で低い声が囁いた。

「先生とやつがれの秘密ですぜ」

 ロウソクーー。

 ロウソクの火が消えたのだ。

 神保の毒牙にかかった少女。真が心から心配し、同情し、幸せになって欲しいと願った少女。神保の精神が崩壊するきっかけを作った少女。きっと幼い心で神保を愛しただろう少女。真に復讐しようと包丁を抜いた少女。可哀そうな少女。莫迦な少女。

 ああ、なんて。

 なんて。

「……くだらねー」

 そう呟いて嗤う真の笑みは、死神によく似ていた。


 真は歩き出す。人だかりの合間を縫い、地面に転がった包丁は茂みにそっと蹴り飛ばした。

 神保は精神病棟に入院した。

 少女は死んだ。

 真は生きている。

 生きて、家に帰り、またパソコンに向かって小説を書く。


 そんな、金曜の午後だった。

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