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四十八話「2011」

 不意に這い寄るような耳鳴りがして、真は顔をあげた。

 最近気づいた事だが、この耳鳴りはいわばノックのようなものなのだ。その気になればなんの気配もさせず目の前に現れる事だって出来るのに、わざわざ耳鳴りで自分の存在を知らせてから現れる。どうやら多少なり、こちらに気を遣っているらしいのだ。要らぬお節介がなんともやりづらい。

 玄関の方に視線をやると、死神が立っていた。しばらくぶりに見るがやはり何一つ変わっていない。

 遠慮がちに二人は視線を交わらせ、気まずさに耐えられなくなる前に真が動いた。

 前回の罵りあいじみた別れ方は未だ尾を引いている。だが、怒りまでは引きずっていない。あるのはただ居心地の悪さと不快感だけだ。

「これ」

 静かに近づいてきた死神に、真は一冊の本を差し出した。

 発売されたばかりの真の小説である。

「貰ってください」

 一瞬死神は断ろうとするそぶりを見せたが、ここまできて受け取らないのも気が引けて結局恐る恐る本を受け取った。本は確かに喉から手が出るほど欲しかったし、発売直後に会いに来ておいて本は要らないなんて誰が信じるだろう。

「……有難う御座います」

 軽く礼をする。死神が人間にお辞儀など、前代未聞である。

 死神は自分の手の中にある文庫本をじっくり見つめた後、スペスペのカバーを枯れ枝のような指で愛し気に一撫でした。

 目を細め、笑う。

「……綺麗な本だ。本当にやつがれの分をとっといてもらえるとは思いやせんでした」

「貴方は私の最初の読者だから、最初の一冊は貴方が持つべきなんです」

 死神の指が真の筆名をなぞった。

「滅三川」低い鼻から笑いの息を漏らし、死神は印刷されたその名前を読み上げる。「縁起でもねえ名前でやすね」

「ホラー小説家なんで」

 感慨深げに本を矯めつ眇めつし、表紙を開いてパラパラとめくる。新品の本の匂いが立ち上ってくるのをうっとり嗅いだ後、見返しを開いてにやりと笑った。

「サインくださいよ、滅三川先生」

 随分陽気に言ったものだから、真もつられて笑ってしまった。

「宛名がないじゃないですか」

「あんたがつけてください」

 死神が笠の下に顔を隠した。

 ふざけた調子を取り繕っているが、それが本気だというのは誤魔化しようがなかった。そもそも死神は言葉の裏に真意を隠したやり取りなどしない。嘘もつかない。在る様に在るだけの存在だ。そんな駆け引きは愚かな人間がごにょごにょとやるもので、神は無意味で無駄な事はしないのである。だから、いくら普段から人間の本を読んでいようが、実践ではなんの役にも立たないのだ。

 岩のような沈黙が二人の間にごろりと寝そべった。

 死神が本気であるなら、それは恐ろしく厄介なことだ。名を与えるという行為の意味を死神ともあろう者が知らないはずはない。

 人間が神に名を与えるなど――。

「それは――」真は掠れた声で呟いた。「……無理ですよ、私は」

 死神は間髪入れずに小さな笑い声をあげた。

 今の台詞を無かった事にすると決めたらしい。

「立派な作家先生をあんたなんて呼んじゃあ失礼になっちまうな」

 そそくさと踵を返す。本は大事に胸に抱いたまま。

 去り際、顔だけ僅かに振り返った死神はとってつけた笑みを慌てて浮かべ、

「これからも頑張ってください、先生」

 と言って消えた。

 いつものように死神が消えると同時に部屋の空気も軽くなった。

 真は安堵のため息をついてベッドに座り込んだ。今回は穏便に済ます事が出来た。神保の居ないタイミングで来てくれて本当に良かった。最近は真の方が忙しくあまり会えていないのだが、それでもいつ鉢合わせるか分かったものではない状態はかなりストレスである。

 久しぶりに連絡しようかとスマホに手を伸ばしかけ、思い直してその手を下ろした。

 まだやる事は山ほどある、ここで気を抜いて甘えてしまうのは良くない。それに神保も夏休みに向けて教師という立場上てんてこまいに違いない。

 横になりそうになるのを踏ん張り、真はパソコンの前に戻っていった。






 クリスマスパーティだなんて文面を見たのは小学生ぶりだろうか。「興楽社主催 クリスマスパーティ」と書かれた派手な看板を見上げながら、真は別の惑星にでも来たような気分で感嘆の溜息をこぼした。

 こういった社交の場に来たのは初めてである。正直得意ではないので断ろうとしたのだが、デビューしたての新人が顔を売るのにちょうど良いのだと担当に説得され、渋々参加する事になった。貸切られたホテルの会場内は、右を見ても左を見ても出版関係者で溢れているのは圧巻の一言である。顔を知っている大御所作家は勿論、真のようにまだ無名の作家、社長、編集長、その家族に至るまでとにかくたくさん集まっている。腹の内はともかくとして、皆一様にキラキラしていて楽しそうに見えた。

 家族、またはフィアンセであれば連れて来ても構わないと担当は言っていた。勿論すぐに神保の事を思ったが、結局真は一人で来ることを選んだ。

 フィアンセだと胸を張って彼を招待出来なかった自分に、何より落ち込んでいた。

「滅三川先生、だめですよ!」

 壁際でちびちびウーロン茶を飲んでいた真の元へ、担当の沢田が小走りでやってきた。好青年然とした若者で、今日は皺ひとつないスーツに身を包んでいる。

「こんな所に居ないで、挨拶しないと! 壁の花禁止です!」

 真はこの担当が気に入っていた。年はそこまで離れておらず親しみやすいし、こんな自分にも誠意をもって対応してくれる。原稿の感想も、いつも熱烈だった。何より、ちょこまか動き回る可愛らしい小動物のような雰囲気が好きだった。

「花になれるなら一生壁に居ますわ。アハハ、スーツ似合ってる」

「馬子にも衣裳?」

「沢田さんは馬よりハリネズミですよ」

「ハリネズミで良いから、ほらあそこに居るの社長です! 挨拶に行きますよ!」

 大の大人が子供のように手を引かれるのが可笑しくて、おかげで少し気分が浮上した。

 いざ社長の元へひったてられながらぼんやり周りを見回す。綺麗な会場だ。輝くクリスマスツリーの大きいこと。BGMもあらゆるクリスマスソングが延々と流され、サンタのソリの鈴の音がシャンシャン景気よく慣らされている。笑い声。人々のざわめき。明るい歌。

 鈴の音。

 その鈴の音を聞いていると、ふと世界の音が遠ざかっていく感覚に襲われた。

 鈴の音だ。サンタのソリの鈴。シャンシャンと、高く、澄んで、綺麗に――まるで――錫杖の鈴の音のような。

 頭の中で鈴の音がうるさいほど響いている。

 強烈な視線を感じた。

 横を見る。

 ――暁烏暮。

「へっ」

 真は息だけで素っ頓狂な声をあげて立ち止まった。沢田が何かと振り返り、真の視線の先を見て全く同じ声を漏らす。

 暁烏暮は日本怪奇小説界の重鎮だ、知らない者など居ない。雑誌やテレビで何度も見た憧れの人物が数メートル先からこちらを見ているのだから、素っ頓狂な声くらい出るというものである。

「お、お知り合いですか?」

 新人の沢田も暁烏と接点はないらしく、じっと真を見つめてくる文豪に動揺が隠せない。真だって何故見られているか分からないのだ、二人してオロオロするしかない。

「さ、先に、ご挨拶行きます?」

「無理無理無理、あんなすごい人となんて話せない!」

「でも、同業者なんですから」

「暁烏先生と同業者なんておこがましすぎるわ! 神様になんて事言うの!」

 小声で言い争う二人がふと顔をあげると、いつの間にやって来たのか暁烏が目の前に立っていた。

 真も沢田も凍り付いた。馬鹿みたいにぽかんと開けた口から、吐息の一つさえ出てこない。

「滅三川さん」

 あろうことか、暁烏は真の事を知っていた。

 真の口からようやく息が漏れ、反対に沢田の口には息が吸い込まれる。

 一気に顔が熱くなった。

「御本、読ませて頂きました」

「先生がですか……!?」

「え?」

 緊張のあまりしどろもどろになっている真の様子が意外だったのか、暁烏が目を丸くする。だがそんな様子が面白かったのだろう、すぐ片手の拳で口元を覆って笑い出した。

「何言ってるんですか。貴女、作品のイメージと違いますね」

 それが良い意味か悪い意味かは分からなかったが、悪い意味だろうと思って真は何も言えなくなった。だが沢田は朗らかに笑う暁烏に安心したのか、持ち前の好青年らしい弾ける笑顔を見せる。

「そうなんですよ、滅三川先生面白い人なんです! あ、担当の沢田と申します。暁烏先生に御会い出来て光栄です!」

 てきぱきと名刺交換をしている二人を、真は見つめる事しか出来ない。名刺はあるが出すタイミングを完全に失ってしまって、もうでくの坊に徹するしかなかった。なんにせよ、下手に動いて顰蹙を買うくらいなら突っ立っている方が利口だ。

 大好きな作家と話す機会に恵まれたら言いたい事は山のようにあったのに、いざ目の前に本人が現れると言いたかったことなど本当は一つもなかったかのように頭が空っぽになってしまう。沢田くらい人懐こく社交的だったら、暁烏の記憶に残るような気の利いたやり取りが出来ただろうに。

 だが、真にそんな器用な事は出来ない。

 このままろくに挨拶も出来ず終わるかと思われたが、驚いた事に暁烏は真をまっすぐ見つめて言った。

「少しお話しませんか。沢田さん、滅三川さんお借りしても構いません?」

 待ってくれ、憧れの人と二人きりで話すだって? そんなの、真には荷が重すぎる。絶対に相手を嫌な気分にさせて酷い結果になるに決まっている。真の性格を分かっている沢田に目線だけでヘルプコールを送ったが、沢田は舞い上がっていて全くそれに気づかなかった。

「勿論です! 私はちょっとあっちにご挨拶があるので、じゃあ先生方、後程!」

 明るく言って、貰った名刺をお年玉を手に入れた小学生のように大事に握りしめながら離れていく。

 その横顔に向かって、暁烏が声をかけた。

「沢田さん、車には気を付けてくださいね」

「はい!」

 体育会系の返事をして、沢田は去っていった。

 今の発言は少々引っかかる。この会場の中ではあまりに突飛な忠告だ。真が不思議そうに沢田の方を見ていると、出し抜けに暁烏は言った。

「滅三川さんは、見えてる人だよね?」

 一瞬なんのことか分からなかった。

 三秒ほどぽかんと暁烏を見つめ、そして理解する。

「……先生もそうですよね?」

「アハ。やっぱり分かるか」

 子供っぽいその笑顔を見て、真は喜びに息を飲んだ。

 中学生の頃から愛読している暁烏の著書には、どう考えても”見える”人でなければ書けない表現が散見された。だから夢中になったのかもしれない。暁烏の本は真にとって、自分の仲間によって描かれた、共感できる貴重な作品だったのだ。

 そして今、真の本を読んだ暁烏も同じように感じてくれていた事が分かり、この上ない程誇らしい気持ちになった。

「子供の頃からずっと暁烏先生の作品が大好きで」真は早口に喋りはじめる。「読むたびに、こう、あるあるだなーって、わかるーって思ってたんです! 他の人じゃこうは書けないから、なんかすごく嬉しくて、勇気もらってて!」

「そこまで分かるならわざわざ僕が言う事じゃないだろうけど、ついてるの、分かってますよね? すごいのが」

 ”すごいの”。

 真の顔から笑顔が消える。

 ――鈴が。

 鈴がどこかで鳴っている。

「ええと」

 真は力なく笑い直した。

「なんて言うか……知り合いなんです」

「え、どういうこと?」

「アタシ、藤原なんです」

 これだけで何が起きているのか理解出来たなら、暁烏は相当真側の人間だろう。それは、ずっと本を通して慕ってきた暁烏には是非そうであって欲しいという願いを込めての告白だった。

 果たして、彼はそうであった。

「本家?」

 さらりと暁烏が言ったものだから、真は小さな目を見開いた。

「はい」

 喜びに心臓が高鳴っている。

「え、小説家なんてやってて良いの?」

「アタシはお汚れさんなんで、好きにしろとお達しが出てるもんで」

「あー……そう……」

 余計な事を聞いてしまったと気まずげな表情を浮かべる暁烏の顔をちらりと見、真はにやけ面を伏せた。

 焦がれた人がここまでの同士であったなんて夢にも思わなかった。嬉しくて嬉しくて、けれど嬉しいからこそみすぼらしい自分を見せるのが嫌で俯く。暁烏の目をしっかり見つめ返せる程、顔が整っていたなら良かったのに。今日も真は眉だけを整え、化粧も何もせず安物のパンツスーツを着ていた。それが自分にはお似合いだし、人より劣っている様こそが自分自身なのだからこの選択に後悔はない。それに、三十路近い女がこの有様で人前に出ても、こういった業界なら割と「エキセントリックで面白い奴」として受け入れてもらえるのだ。

 しかし、それが暁烏暮の横に立てる免罪符とはならない。

 大好きな作家だからこそ、早く離れてしまいたかった。

「あの、ほんと、御会い出来て嬉しかったです」

 話を切り上げようと真がそう言った時、暁烏の後ろからふらっと一人の女性が現れた。真より少し年下だろうか、ラメがちりばめられた白いワンピースを着こなす、柔和な顔の美人だ。どうやら今日この場には真以外不細工が居ないらしい。

「お父さん」女性は暁烏の肘をつついた。なるほど、娘か。言われてみれば目がそっくりじゃないか。暁烏本人の顔は様々な媒体で見てきたが、家族を見るのは初めてである。暁烏とは違った緊張が走り、真は顔を強張らせた。

「ああ、娘です。暁美です」

 真と暁美は同時に会釈をした。綺麗に編み込まれた髪だ。白いドレスも相まって、花嫁のように見える。美しい人の目を汚したくなくて、真は視線を彼女の顎のあたりに定め、縮こまった。

「滅三川と言います……」

 真がそう言った途端、暁美は自分が美しいという事をまるで自覚していない仕草で目をひん剥いた。

「え、こないだ「彼岸畑」出された!?」

「はい」

「えーっ、読みました! すごく面白かったです! うわー本持ってくれば良かった、サイン頂きたかったのに! 握手してください! 髪めっちゃ長いですね!?」

 なんと言う事だ、才能あふれる父と美貌に恵まれた上、彼女は性格も良いときた。完膚なきまでに打ちのめされた気分で綺麗にネイルの施された手を握りながら真はどうやって逃げ出したらいいか必死に頭を回転させた。壁の花では気が済まない、今は外壁の花のなりたい一心だ。

「ペンネームの滅三川って、何かいわれがあるんですか?」無邪気に暁美が聞いた。

「あ、いや、幽霊が名乗る名字って一部で言われてて……」

「そうなんですか! 流石物知りー」

「いや、でもちょっともう変えようかなって……」

「え、なんでですか? 同じ名前の人居ました?」

 デビュー作を出した直後にペンネームを変えようなど異例な事だ。暁烏も興味ありげに真を見ている。

 真はわざと不細工な顔を更に歪ませておどけ、肩を竦めた。

「ちょっと縁起悪い事起こっちゃったんですよね」

「……霊的な……?」

「まあ、そこまですごい事じゃないんですけどね。続いたら面倒だなーみたいな……」

 暁美は意味ありげに父を見やる。その視線から察するに、彼女も霊的な事に理解があるらしい。この親にしてこの子ありだ。

「縁起悪いなら変えた方がいいかもね。なにせホラー作家だし」

 娘の圧力を受けて、暁烏は友好的な回答をした。

「新しい名前の目星とかは?」

「いやー、全然。今度は苗字と名前にしようと思ってますけど」

 写真のように作りこまれた笑顔を浮かべ暁美が身を乗り出した。

「暁烏のアケって、暁美のアケなんですよ! 先生も、ご家族とか大切な人から一文字貰うとかどうです?」

「あー」ひくりと指先が震える。「なるほど、いいですねー」

 気色の悪い笑みを浮かべながら視線を落とす。自然と自分の手が視界に入った。今日は指輪をしていない。家を出る前にはずして、今はポケットに入れてある。

 左手の薬指にその指輪があるのを見られたくなかったのだ。

 何故と言われると、困るのだけれど。

「暁美さん、そろそろお母様の所に戻られたらいかがですか」

 娘の背中を押すように叩いて、暁烏が笑いながらそう言う。素直な娘はすぐに身を引き、にこりと笑って会釈した。

「はーい、お邪魔しました。次回作も頑張ってくださいね!」

 軽やかに去っていく姿は妖精のようだ。背中を向けられてようやくしっかり暁美を見つめる事が出来たが、今更相手の気に障ることはしなかったかと猛烈に不安が押し寄せてくる。彼女のように優しい人は、不快を表に出さないから難しい。自覚のない自分にとって、嫌われる時はいつも寝耳に水なのだ。

 そんな真の横で、暁烏はのんびり口を開いた。

「騒がせてすいません、来年結婚するのに全然自覚がなくてねえ」

 結婚。

 そうか、あんなに良いお嬢さんなのだから勿論良い人が居るはずだ。どう見ても結婚適齢期だし、何も不思議ではない。温かい家庭を築き、笑顔で暮らしている様が目に浮かぶようだ。

 暁美が消えた方に何も映していない瞳を向けたまま、真は「おめでとう御座います」と小さな声で呟いた。

「縁起悪い事、起きちゃったんですか。滅三川だと」

 話題が変わってはたと我に返った。慌てて暁烏の方に顔を向ける。

「あー、なんか、お仲間だと勘違いされて集まっちゃって……」

「あはは、笑いごとじゃないけど、面白いな」

 言いながら、徐にたもと落としからスマートフォンを取り出した暁烏はそれを真に向けた。

「よければ、連絡先交換しませんか?」

「連絡先!?」

 青天の霹靂とはまさにこのこと。先ほどまでのぬろぬろした感情を驚愕が全て吹き飛ばし、ひっくり返った声として真の口からも爆風が飛び出して行った。連絡先というのは個人的なものだー―恐ろしく個人的なものだ。

「多分ね、連絡をせざるを得ない状況が今後あると思うんですよ」

 暁烏は穏やかにほほ笑んでいる。ほんの僅かも敵意がない。

「わ、私、筆不精だから、全然連絡とかとらない人間なんですけど……!」

「作家が筆不精なんて言っちゃあ駄目ですよ。まあほら、他愛ないメッセージのやり取りするんじゃなく、用事がある時に連絡する感じでね。僕だってそんな、今何してる? なんて言う程暇ないですから。そのうち飲みにでも行きましょう。積もる話もありそうだし」

 何が何やら分からぬままに、お互いのスマートフォンにお互いの連絡先が登録されてしまった。夢みたいではない、夢にも思わなかった事態が起きている。あまりの急展開に頭が追い付かないまま、自分でも何を言っているか理解せぬうちに挨拶をして暁烏と別れ、また壁際に戻っていった。手の中のスマートフォンがいつもよりずっと重く感じられる。連絡先一覧を開いて、そこに間違いなく暁烏の名前が在るのを確認すると、風船から空気が抜けるような音を立てて息を吐き出した。

 チョコレート工場への金のチケットを手に入れたような気分だった。

 そこから先はあまり記憶がない。沢田に促され挨拶回りをしたこと、社長の閉会の挨拶に拍手を送ったこと、人がまばらな電車に揺られ帰路についたこと、そして、喜びを共有したくて、自分の家に帰らず神保の家に向かったこと。断片的にしか覚えていないのは、地に足がついていないようなふわふわした幸福感に浸っていたからである。時間の感覚は消え失せ、真の精神はただただ心地よく漂っていた。

 しかし、神保の家の扉を開けた瞬間、真は夢心地から強制的に引きずり降ろされた。

 小綺麗な玄関に、見慣れた神保の革靴。

 そしてその横に、見慣れぬ小ぶりなローファー。

 暫くそれをぼんやり眺めた後、真は何も言わず家の中に上がり込んだ。

 リビングのドアを開ける。

 神保と見知らぬ少女が居た。

「あっ」

 真を見た途端神保が短く声をあげた。明らかに狼狽しているがどうしたらいいのか分からないのだろう、そのまま座っている。彼がどんな行動に出ようがどうでも良い、真の目は少女にくぎ付けだった。

 制服を着た少女はどう見ても高校生である。まだ子供の面影を残した可愛らしい顔は、涙で濡れていた。目も顔も真っ赤だ。

「ねえなんで!」

 真の姿を見た途端、少女はヒステリックに叫んだ。

「先生、来ないって言ったじゃん!」

「いや、来る予定じゃなかったんだよ!」神保は奇妙な表情で真を見つめた。批難するようなそれでいて縋りつくような気持ちの悪い顔。「今日出版社のクリスマスパーティだったんだろ?」

「そうだよ」自分でも驚く程真の声は冷静だった。「終わったの、もう遅い時間だから。で、何してんの?」

 二人は何も言わない。神保は目を逸らし、少女は真を睨みつけている。

「駄目でしょ、こんな遅くに子供は」

「相談にのってたんだよ、ワケありな子だから。真なら分かるだろ?」

 確かに、真こそ十年前に”ワケあり”な子供だった。だがそれと同時に、神保の秘密の恋人でもあった。だからしょっちゅう家に行き、家族に嘘をついて泊まったりもしたのだ。いくらワケありでも、恋人でないならこんな遅くまで家に二人きりで居て良いわけがない。

 ――違う。

 恋人云々の話なんかじゃない。

 ”子供”を、こんな時間に家に居させてはいけないのだ。

 関係性なんかどうでもいい、今問題なのは彼女が子供であるという一点のみである。

 この男は、子供を、家に連れ込んでいるのだ。

「もう遅いよ、親御さん心配するから家に帰りなさい」

「関係ないでしょ、絶対帰らない!」少女は叫んだ。「家に帰るくらいなら私死ぬから! どうせ先生も私に死んで欲しいんでしょ、お母さんと一緒じゃん!」

「そんなはずないだろ。死ぬなんて簡単に言うなよ」

 泣きわめく少女と困り果てる神保。

 この調子なら、子供に手を出す暇はなかっただろう。まずはその点だけでも安心した。

 ――したと、思い込んだ。

 そういえば。

 自分が飛び降りようとした時、神保はこんなふうに止めてくれなかったな……当たり前か、何も言わず屋上に行ったのだから、そもそも彼は知らなかった。知らなかったし、今も知らない。もしあの時彼があの場に居たなら、後戻りできないあの状況で、一体何をしてくれただろう――。

 ちらりと周りを見回す。黒い影はただの一つも見当たらない。普通の人間はこんなものなのか、それとも全く本気で言っていないから集まらないのか、何にせよ羨ましい程平和である。

 少女に翻弄され疲れ切っている神保を見ていると、なんだか過去の自分と彼を見ているような気持ちになった。自分はここまで泣き叫んだりして暴れたことはなかったが、彼の腕の中で泣いた事は何度かある。その度に慰めてくれたのは、真が恋人だからというわけではない。そもそも神保が優しい人間だからというだけの話なのだ。

「親の許可なしで大人が子供泊めたら誘拐扱いになるの。だから泊められないよ」

「うっせえよババア! 口出すな!」

 クッションが飛んできたが、腕に当たったところで痛くもなんともない。

「これから結婚する相手が捕まるのはアタシも困ンの。どうしても帰らないなら、アタシもここに居るわ」

「ハアアア!?」

「当たり前でしょ、女子高生と大人の男二人きりにしとけるわけないじゃん」

「なんなんマジ、おめえ関係ねえだろうがクソブスがよお!」

 少女は泣きながらありとあらゆる幼稚な罵声を真に浴びせかける。何度か飛び掛かろうとしたが、その度に神保が腕を掴んで抑え込んだ。真は念のため周辺とキッチンの刃物だけ棚の中に全部ほうりこみ、後はもうどこ吹く風でソファに座ってテレビを見ていた。

 暫く少女はぎゃあぎゃあ騒いでいたが、やがてトーンダウンして泣きながら愚痴ったり黙ったりを繰り返すようになった。体力のある若者は一晩中泣き喚く事だって可能だろうが、こんなに白けた空気の中では気持ちが先に尽きてしまったようだ。

 時刻はそろそろ日付を跨ごうとしている。終電は三十分も前に出てしまった。

「……もういい」

 更に一時間経ち、ずっと黙っていた少女は暫くぶりに口を開いた。本当に真が帰らないのを理解したらしい。

 自分の荷物をかき集め、帰る支度をしながら鼻をすすっている。

「そのおばさんの方が大事なんでしょ、先生は」

「そういう話をしてるんじゃないだろ」

「だって追い出さないじゃん! もう帰る」

 ここでまた四十分程押し問答があった。少女は真夜中なのに歩いて帰ると頑なで、タクシーを呼ぶからそれに乗れと説得するのに時間がかかったのだ。

 結局、少女をタクシーに預け、運転手に万札を握らせて送り出した時には午前二時前であった。

「ほんとごめん」

 弱々しく謝る神保は疲労困憊だ。

 真はちらりと彼を見た後、スマホを取り出しながら言った。

「高校教師も大変ですね」

「浮気とかそういうんじゃ本当ないからね、スマホ見てくれて全然良いよ。本当にうちのクラスの生徒で、色々悩んでる子でさ」

「アタシもそうだったね」

 ぎょっとした顔をする神保の横で、真はタクシー会社に電話をかけ車を再び手配した。神保は焦りと苛立ちで顔を歪ませ、真の手を取る。彼の手は汗ばんで、生ぬるかった。

「もう二時だよ、泊ってきな」

「いや、やる事あるから帰るよ」

「この時間に?」

「先生の方こそ早く寝なよ。相手してたの先生なんだから。疲れたでしょ」

 取り付く島もない物言いに諦めたのか神保は真の手を離した。学生時代なら神保はいくらでも真を丸め込む事が出来たが、二十代後半の今ではそんな事不可能である。二人の関係はもう対等なのだ。

 彼の左手の薬指にはペアリングが嵌っている。真の左手に何もない事には気づかなかったのは、真にとって小さな幸運であった。この時に指輪の話などされたら、限界を超えてしまったに違いない。

「逮捕されるような事はしないでね」

 帰りしな神保にそれだけ言うと、どんな顔をしたか確認もせずにタクシーに乗り込んだ。

 自分の部屋に辿り着いた時には、午前三時であった。

 部屋の中で何をするでもなく暫しぼんやりと立ち尽くす。頭が上手く働かない。風呂に入る余裕はないので、もう寝てしまった方が良いだろう。とりあえずはパジャマに着替え、そして、歯くらいは磨かないとまずいな。携帯は充電する。今寝たら目が覚めるのは何時になるだろう。そうだ、暁烏に一言くらいお礼の連絡を入れるべきか、いやこの時間じゃ迷惑になる。起きてからにしよう。

 それから。

 ええと。

 あとは――。

「ぐ」

 呻いた瞬間、真はその場に頽れながら嘔吐した。シンプルな毛足の長いラグに、クリスマスパーティの残骸が飛び散る。それを見てもう一回吐いた。もう一回。更にもう一回。今際の際のカエルみたいな酷い声を漏らしながら、何度も。

 ――あの子。

 あの”子供”。

 酷いにおいの吐しゃ物を眺めながら、真は喘ぐ。

 あれは自分だ。十年前の自分だ。高校生だった。まだ幼い、世間なんて何も分からない、怖いもの知らずでひたすらに愚かな子供。

 子供だったのだ。

 世界中の言い訳を全て並べたてても、絶対に覆らない。

 真は子供だった。

 神保は子供に手を出した。

 大人が導き、慈しみ、守らなければいけない尊い子供という存在に、自らの欲をぶつけたのだ。

 今、真は初めて会った時の神保とほぼ同じ年だ。だからこそはっきりと言える。

 気色が悪い。

 ああ、確かに合意はしていた。自分は心底望んでいたし、求められるのは嬉しかった。だがまだ右も左も分からない子供の合意に、一体なんの意味があるというのだ。子供が何と言ったって、その善悪の判断は他ならぬ大人がしなければいけないのに。もし自分が神保の立場だったら、子供に迫られた時点で間違いなくこんこんと説教をするだろう。それは良くない事だ、自分では分別がつくと思っているかもしれないが、未成年と大人で関係をもとうと思う時点で分別がまだついていない証拠だ。未成年に手を出したら、こちらは犯罪者になってしまうんだぞ――。

 そう。

 犯罪者だ。

 神保は未成年淫行の性犯罪者であり、自分はその被害者なのだ。

 なんと言う事だ、まったく突然真は性犯罪の被害者になってしまった。どれだけ神保を愛していても、子供に手を出した事実は変わらない。心の底から愛し合っていた――未成熟な心がどれだけ浅かったとしても。嫌な事もされなかったし、そもそも結婚するつもりでもいた。それでもあの男は、未成年に欲情した変態である。罪は罪だ。結婚したら許されるのか。自分は許せるのか。ああこいつは子供に手を出す狂った人間なのだと腹の底で思いながら人生を捧げるつもりなのか。

 でも、結婚する気はないんだろう。

 そんなの、薄々気が付いていた事じゃないか。

 見ないふりをしていただけで。

「そういやあ、先生」

 吐しゃ物の上に、真の上に、声と一緒に柔らかい影が落ちた。顔を上げる気力も湧かず、途切れそうなか細い呼吸を繰り返しながら真は耳をそばだてる。

 声は続けた。

「まだ、お祝いをしておりやせんでしたね。せっかく本を出したんだ、こんな目出度い事、祝わないなんて嘘ですぜ。先生に何か贈りたいと思っておりやす。勿論、宝石だ豪華な飯だってェのは無理でやすが、何かやつがれにして欲しい事ぁございやせんかい」

 何故だか影に包まれていると妙に安心する。意識がおぼつかなくなってきた。眠いのか、気絶しかけているのか分からない。

「貴女の為になる事なら、やつがれはなんでもしやすぜ」

 笑っている。見えずともそれが分かる。あんなに恐ろしい顔をしているのにどうしてこんなに優しい声音が出せるのだろう。その化け物じみたギャップにぞっとする一方で、心地よさも覚えていた。

 耐えきれず真はその場に横になると、顔のすぐ横で饐えたにおいがするのも構わず目を閉じた。

「……私の、命日はいつですか?」

 消え入りそうな声で囁く。

 少しだけ間があった。

「……まだ先ですよ。まだまだ、ずっと」

 それは良い知らせなのだろうか悪い知らせなのだろうか。

 答えも出ないうちに、死神に見守られながら真の意識は闇に沈み込んでしまった。


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