四十六話「2007」
静かだ。
真はベッドの上でぼんやり天井を眺めながら、随分と音沙汰ない眠気の訪れを待っていた。
病室は本当にやる事がない。四人部屋なのでテレビを見る事も出来ないし、明かりをつけて読書をする事も出来ない。真夜中に出来るのはただ眠る事だけである。その唯一許された睡眠さえ出来ないのだから、後は拷問じみた退屈と睨み合うより他はないのだ。
携帯は枕元にあるが、触る気にはなれなかった。今の状況を誰かに連絡するのが嫌でたまらない。自分が家を出て以来、家族は京都に戻ってしまっているから呼びつけるのも悪いし、神保に至っては想像するだけで吐き気に襲われる。
この入院は神保のせいである。
だが、同時に真自身のせいでもある。
お互いに馬鹿だった結果がこれなのだ。その事を告げたら、彼はなんと言うだろうか。慰められるか、謝られるか、逆ギレされるか……。
――別れでも切り出されたら、どうしよう。
「こんばんは」
不意に声がした。耳が静寂に慣れ切っていたので、その声は大層大きく聞こえて驚いてしまった。勿論、そう感じただけで実際は大声でもなんでもない、むいろ遠慮がちに抑えられた声だったのだが。
真は声のした方に顔を向けた。足の先、締め切れられたカーテンの向こう側。そこに、小さなシルエット浮かんでいる。
息を飲んだ。
「ご心配なく。皆さん、ぐっすり寝ておられやす」
暫くぶりに聞く声に、全身の筋肉が凍り付く。
しかし、すぐに体の力が抜けた。
――ああ、そうなのか。
なんの未練もなく、ストンとそう思う事が出来た。
酷く、穏やかな気分だ。
「……入っても、よございやすか」
「……どうぞ」
おずおずとカーテンの隙間から死神が入って来た。別れたあの日から何一つ変わっていない。自分もそれほど変わったわけではなかったが、顔の皺の一本に至るまで昔のままなのを見ると奇妙なノスタルジーを覚える。
死神はベッドに横になっている真を見ると、何とも言えない表情になって枕元までやって来た。
「……ご無沙汰しておりやす」幽かにほほ笑む。「具合はどうですかい」
「良くないですよ。だから来たんでしょう?」
死神は目を瞠り、それから少し慌てた様子で首を横に振った。
「違う、あんたを迎えに来たんじゃございやせん。あんたの命日はまだ先です」
「え?」真は訝し気に死神を見上げた。「それじゃあ、なんでここに居るんですか」
入院中の患者の元に死神がやって来たのだ、そんなの理由は一つしかないじゃないか。ああ自分の番が来たのかと、その運命を受け入れる態勢をとったというのに、違うだなんて言われたら拍子抜けも良い所だ。
死神は気まずげに視線を泳がせた。
「いや、見舞いに……」
見舞いだと。
死神が。
病人を。
見舞いに来ただと。
「ふっへ」と間の抜けた声で笑いだした真は、腹が痛むのも点滴が揺れるのも構わずベッドの上で身悶えながらケタケタと声をあげた。笑い過ぎて涙まで滲んでいる。
大笑いする真を見て安心したのか、死神は顔を緩ませて真を見下ろした。
「笑えるほど調子が良いなら良かった」
「ぜーんぜん平気ですよう!」ケラケラ。笑いが止まらない。「子供が産めなくなっちゃっただけで!」
死神はぎょろりと目をむいて真の顔を見た。
「なんか卵管が駄目になっちゃったんだって! しかも原因が、彼氏から病気もらって、それで気づかないうちに悪化しちゃったっていう、もう本当馬鹿丸出しって感じのやつで、あーっくだらねー! ばっかみたい! みたいっつーかただの馬鹿だわ! アハハハ、マジでお似合いですよね! やっぱ馬鹿は自然淘汰されるもんなんですよねー。アハッ、ヒヒヒ」
ケラケラ。
ケラケラ。
どんどん笑い声はヒステリックになっていく。自分でも訳がわからぬままに涙が溢れてきて、真は慌てて顔を両手で覆った。笑い声は次第に嗚咽交じりになり、ひくひくと発作のように甲高い声が飛び出す様は気でも違えたように見えた。
泣き始めた真になんと声をかけようか考えあぐねていた死神は、ふと彼女の左手の薬指に鈍く輝く指輪が嵌っているのに気づき、動きを止めた。年季の入った指輪だ。長い事つけているのが見て取れる。
「……ご結婚、なさったんで」
掠れた声で言うと、真は両手の下からくぐもった声で返事をした。
「……まだです」
「まだ? あれから五年以上経ってるのに?」
「色々あるんです、うちは普通の家じゃないから……」
「そ――」
それはおかしい。
そう言おうとして、死神は思いとどまった。どれだけ自分が不快に思っても、この件に関しては死神の出る幕ではない。言いたいからというだけで説教をするのは間違っているし、なにより、真は今弱っているのだ。こんな時に責めるべきではない。
そもそもの話、沸き上がる苛立ちの矛先は真よりもここに居ない真の彼氏に向いているという事を忘れてはいけない。
自分が彼女を傷つけている事にさえ気づいていない馬鹿な男――。
「……まだ書いてやすか?」
気を落ち着かせ死神は問う。
「はい」のろのろと真は手をどけた。涙がこめかみに向かって流れて行くのが見えた。「応募したい賞が見つかって、それ用に長いの書いてます」
「そいつぁいい。きっと本になりやすよ」
「送る前に、最終確認で読んでもらえませんか」
それを聞いた途端死神の中に強い喜びが沸き上がってきたが、別の感情がすぐに後を追いかけて喜びの首根っこをふん捕まえてしまった。
自分でも分かる程、嫌な笑い方になる。
「彼氏じゃなくて良いんですかい」
この意地悪ばかりは我慢出来なかった。
真は気だるげに視線をよそへやると、唸るように言った。
「見せた事ないし、出版でもされない限り見せる気もないです」
「どうして」
「さあ。とにかく見られたくないんです」
「やつがれには見られても良いんで?」
厭らしい質問だ。
自分から言ったくせに、返事を待つ間気が気でなかった。
「……昔渡した原稿、まだ持ってますか」
「読みすぎてだいぶ草臥れちまったが、勿論大切に持っておりやす」
「だからですよ」
真はうっすら口端を持ち上げた。
「だから貴方になら見られても良いんです。特別なんですよ」
これ以上ないほど満足する答えだ。
自分で誘導して得た答えにも関わらず、死神は今まで感じた事がない程暖かくて大きな充足感を覚えた。ほんの一瞬、自分が死神である事を忘れた程だ。その瞬間は、真の言葉が彼の仄暗い世界の全てとなった。
死神は真から顔を逸らし、片手で口元を覆った。にやけ面を見られたくなかったのではない。そこに淀んだ喜びがあるのを悟られたくなかったのだ。その澱のような不純物が真の目に触れたら、なんだか彼女を穢してしまうような気がしてならない。彼女自身が穢れだというのに。
「お見舞い、有難う御座います」穏やかに真は言った。「退院したら、またうちに来てください。原稿渡します」
「……楽しみにしておりやす」
それは死神にとって蜜月のようなひと時だった。
全てが上手くいくように思われ、何もかもが味方であると錯覚した。
錯覚だった。
錯覚だったのだ、完璧に。
真は退院した。
一人暮らしの部屋に帰り、そこで神保の腕の中に居た。
「大丈夫、真と一緒なら二人で十分だよ」優しく言うこの男は、入院中一度しか見舞いに来なかった。真が、大したことはないから大丈夫というのを真に受けたのだ。「もし子供が欲しくなったら、その時考えよう」
虫唾が走る。
結婚してもいないくせに、よくもぬけぬけとそんな事を。
「そうだね」
魂の抜けたような声で真は返事をした。安堵しているのか? いいや、そんなはずない。神保が頓珍漢な事ばかり言うのでほとほと嫌気がさしているに決まっている。
死神は誰にも知られず、安アパートのベランダの手すりにしゃがみ込んだまま、じっとその様子を睨みつけていた。
呪っていた。




