四十四話「2001」
高校二年にあがってすぐの事だった。
真夜中、パソコンに向かって黙々と小説を書いている時、いきなり耳鳴りがした。気色の悪い感覚に思わず手を止め、早く治らないかとしかめ面をしていると、何の前触れもなくとてつもない悪寒が背筋を駆け抜け弾かれたように振り返った。
男が自分の部屋にいる。
反射的に立ち上がったところで、その男に見覚えがある事に気がついた。
――あの死神だ。
この男とは去年の夏に出会い、しかもその時命を救ってもらった恩がある。それ以来一度も姿は見ていなかったが、まさかこんな突拍子もなく死神が現れるなんて夢にも思わず、真はすっかり固まってしまった。
「こんばんは」
醜い顔をニタリと歪ませてかろうじて笑顔に見える表情を浮かべると、男は無遠慮に真の部屋をじろじろと観察し始めた。女子高生の部屋にしては殺風景で小汚い部屋である。年頃の娘とは思えない程服は少なく、しかし本棚は三つもあった。迷惑な来客があるなんて露ほども思わなかったので、横着して脱ぎ散らかした学校の制服までしっかり見られてしまい、真は不快感ですぐに我を取り戻す事が出来た。
「なんですか。何かあったんですか?」
「いやあ、近くで仕事がありやして」死神はまた小馬鹿にしたような調子で話す。「そういや、あれからどうしてるかと思いやしてね。お呼びがかからないから、変な気ィ起こしてないのは分かってやしたが」
「何も、別に、普通ですよ……」
「ヘェ。ご家族の方は?」
全身から血の気が引いた。
「……誰か死ぬんですか?」
真の家系は、代々死神から命日を教わることになっている。告げられるタイミングはまちまちだが、藤原家の大人達は大体自分の命日を知っているのだ。そして、それを口外する事はない。だからてっきり、自分が知らないだけで今日親が死ぬのかと思ったのだ。
死神はしゃがれた声で笑うとかぶりを振った。
「あんたの家系は割かし長生きですぜ。不慮の事故でもありゃあ話は別だが……本当にたまたま、気が向いただけでやすよう」
だからそんなに警戒しないでくれ等とのたまう。どこの世界に死神に遊びに来られてリラックス出来る者など居るだろうか。
真はちらりとドアの方を盗み見た。死神が家の中に侵入している事、こうして会話をしている事に誰かが気づいても良さそうなものだ。もっと大きな声を出せば起きるだろうか。助け船を出してくれる者は居ないのか。
「皆寝ておりやすよ、そりゃあぐっすりと」
真の視線に気づいた死神は、意地悪く言った。
「そんなにやつがれが怖いですかい」
咄嗟に否定しようとしたが、嘘なぞついても良い事はないと思い直して、真は正直に「はい」と答えた。
「ハハ、正直なのは良いこった。まァ、とって食いやしやせんから、そんな怖がらないでくだせえ。死神が人を殺すわけじゃないってのは勿論ご存じでしょう。よしんば殺せたとしても、あんたは殺しゃしない。せっかく助けた命だ」
そうなのだ。この死神は真の命を救っている。狂気にあてられかけたのを除けば、今の所この男は真の恩人であるのだから、無下にするのも悪いというものである。元より、神相手に無礼を働く事なぞ出来ない。神と対峙する際の心得は、祖父から嫌というほど叩きこまれている。本当はこんな気安くして良い相手ではないのだが、向こうがこの調子なのだから今更祭壇や供物を用意して祝詞をあげ舞いでも舞ってみせるというわけにもゆくまい。
しかしそれでも、死神と二人きりで居るのは刃の上を裸足で歩くようなプレッシャーなのだ。
「で、こんな夜中に何をしてたんで?」
死神がひょこひょこ近づいてくる。まさか逃げるわけにもいかず、真は体を強張らせたまま小男が来るに任せた。
「いや、ちょっとパソコンを……」
「ぱそこん」
パソコンがなんだか分かっていないらしい。真の横に来た死神は、ひょいと画面をのぞき込んだ。
しまったと思った時にはもう遅かった。画面には執筆中の小説が表示されている。一気に顔が熱くなり、真は急いでマウスに手を伸ばそうとしたが、既に死神のギョロギョロした目には真の綴った文章が映っていた。
「読書でやすか」
大きな頭が僅かに右に傾ぐ。笠の縁が腕に当たり、ぞっとした真は慌てて腕を引っ込めた。
「……書きかけ」
死神が不思議そうに呟いた。文章は「てんで使い物にならないので、」という中途半端な所で終わっている。ついさっきまで書いていたのだから当たり前だ。
さっさと執筆ソフトを消すなり最小化するなりしたいのだが、下手に動くのが怖くて真はただじれったそうに拳を握り締めるしか出来ない。
「まだ出来上がってないんで」
低い声で早口に言うと、死神は訳が分からぬといった表情で真を見上げた。そこで、真が赤面しているのに気づき、ただでさえ大きな目を更にひんむいて驚いた。
「……あんたが書いたのか?」
真の心中はいよいよ大荒れ高波だ。既に顔だけでなく背中まで熱くなってきた。恥ずかしいを通り越し、最早イライラさえする。
「いや、ただの下手の横好きですから……」
「……穢れなのに?」
信じられないとばかりに画面に顔を戻した死神は、改めて小説を読み始めた。居た堪れなさのあまり真は天を仰ぐ。
自分の小説を人に見せたのは初めてだった。見せたというか、勝手に見られたという方が正しいが、これで自分の生まれて初めての読者が死神であるという既成事実が完成してしまったのだ。最悪である。これ以上ないほどに。
死神であろうとなかろうと、自分の愉しみに対して他者から何か言われるのが恐ろしくてならず、真はどうにか読むのをやめさせる言い訳はないかと知恵を絞る。
そんな真の努力など知らず、死神は一人で感嘆の息を吐いた。
「穢れは頭が悪いモンだとばかり思ってたが、こんな立派な文章が書けるたあ……」
「あの、そろそろ、もう遅いので……」
「これ、読んでも良いですかい」
「え」
とんでもない事になった。誰かに読まれるのも嫌だし、目の前で読まれるのも嫌だし、この男に読まれるのも嫌だ。嫌だの役満である。
しかし上手く断る言葉も浮かばなければ相手を説得する気力もなく、更にそろそろ寝ないと明日の学校が辛くなってしまうとくれば、もういっそ、全てを諦めた方が楽なのは火を見るよりも明らかであった。もう仕方ない。もうどうにでもなれ。
「……良いですけど」
真は敗者らしいどんよりした顔つきで、仕方なく椅子を死神に明け渡した。
「でも、私はそろそろ寝なくちゃいけなくて」
「ああ、やつがれの事は気にせず」
「……電気消しても良いですか」
「部屋の主はあんたですぜ」
真はマウスの使い方を教え、フォルダの中身を見せてここに小説があるからと言い、後はもうほうっておくことにした。
暗い部屋の中に画面の青白い明かりが煌々と照っていなくても、すぐ近くに死神が居る状況で寝るのは至難の業である。静寂の中、時々思い出したようにクリック音が響くのをビクビクして聞きながら、真は死神に背を向けてほとんど壁に額をこすりつけながら必死に目をつむった。きっと明日は寝不足で学校に行くはめになる。
けれど人間というのは面白いもので、こんな状況でも横になって目をつむっていればそのうち眠ってしまうのである。真の神経が常人より太いというのもあるが、今晩は死神から恐ろしい気配がまるでしなかったのが何よりの原因だろう。
悪夢も見ない、いつもの眠りであった。
目が覚めた時、枕元の携帯電話は午前六時二十二分を示していた。起きるには少し早い。これなら甘美な二度寝を堪能できる。
寝ぼけ眼で寝返りを打った。
「えぇっ!?」
途端、真は素っ頓狂な声をあげて飛び起きた。
死神がまだパソコンの前に居たのだ。
真の悲鳴に驚いた死神はびくりと肩を跳ねさせて振り返り、それから壁掛け時計に目をやってはっとした顔になった。真が寝に入ってから優に五時間は経っている。どうやら彼は、日が昇っているのにも気づかなかったらしい。
「な、なんで、まだ居るんですか……!?」
「いや、小説を読んでて……」
死神は、なんだか酷く人間臭い仕草で首を竦め、バツの悪そうに額を掻いた。お互いになんと言って良いか分からず、気まずい沈黙が流れる。嫌な膠着状態に陥ってしまった。
この男は――死神は――プロの作家でもない真が趣味で書いた小説を、時間が経つのも忘れて一晩中読み耽っていたのだ。その事実がこの上もなく居心地悪い。あまりにも、不都合なまでに、どうしようもないほど、具合がよろしくない。
――何故なら、嬉しかったのだ。困惑や嫌悪感を押しのけて、真の心臓の裏側で喜びが発熱しているのがありありと感じ取れてしまう程に、自分の作品に夢中になってもらえたのが何より幸せだったのだ。
「……これ」
死神は上目遣いで真を見ると、おずおずと画面を指さした。
「続きはどこにあるんですかね」
「それは……まだ、書いてる最中なんで……」
「そうですか……本になるのはいつ頃で?」
「本になんかなりませんよ!」真の頬がまた熱くなる。「ほんと、趣味で書いてるだけなんで、どこかに送るつもりもないし、ただ、それだけのやつなんで……!」
「でも、本にならなきゃ読めないでやしょ」
真は小説が本になるというのはどういう事か早口で説明した。ただの一度も新人賞に応募したことなんてないし、今は書く事が楽しいので送るつもりもない事。送るにしてももっとちゃんとした作品じゃないと意味がない事。自分のレベルはまだそこまでではない事。
死神はいまいちピンときてない様子だったが、出し抜けに
「十分面白いですぜ」
と言った。
とうとう喜びが心臓の裏から飛び出して、盛大に燃え上がってしまった。文字にして僅か八文字。だがそれは、生まれて初めての読者から送られた、生まれて初めての温かい特別な八文字だ。
そしてそれこそ、生まれて初めて読まれる歓びを知った瞬間であった。
「賞だのなんだのはよく分からないでやすがね、これは良い小説だ」死神は優しく続けた。「もっと読みたいんですよ。この中にしかないんだったら、いちいちここに来なきゃいけなくなっちまうし、やつがれがこれで読んでたらあんたは続きを書けない。だから、本が欲しいんです」
なんべんも読み返したいんだからと、死神ははにかんだ。
こういうのを嬉しい悲鳴というのだろうか。真は光栄な悩み事に半ばニヤけたような表情で暫く考え込んでいたが、やがて小さく呟いた。
「……本じゃないけど、印刷して渡すんなら、出来ます」
死神は嬉しそうに笑った。初めて見た時は化け物もかくやという笑顔に思えたが、改めて見ればそこまでの邪悪さは感じない。むしろ、くしゃりとした屈託ない笑みではないか。見目の悪さが本質を隠す事もままあるものだ、本当は思っているよりずっと付き合いやすい存在なのかもしれない。
死神はニコニコと真を見上げた。
「是非お願いしやす。でも、本にするのも考えといてくださいやせ。こんな良いモン独り占めにしちゃバチが当たっちまう」
頭の中がふわふわ落ち着かないのは、寝起きだからではない。
真は死神が消えた部屋の中で一人ベッドに座り、馴染みのない奇妙な感覚を全身に巡らせていた。
愛しいほどに、鼓動が速かった。
「先生」
神保は手を止めて真の方に顔を向けた。昼休みの気だるい空気が準備室の中に充満している。遠くから聞こえる生徒たちの声が、この部屋と外の世界とをより強く隔離させている気がした。
広いデスクに上半身を突っ伏したまま、真はぼんやりと続けた。
「小説家になるのって難しいかな」
「そりゃあ、難しいだろ。でももっと難しいのが、デビューしただけで終わらせない事じゃない」
「きびしーぜ」
「小説家になりたいの?」
窺うように神保を見た後、否定されるのが嫌で真はすぐに変な顔をしてみせた。ふざけているととってもらいたかった。
「良いじゃん、なりなよ」
だが、神保は春風が吹くような清々しさでそう言った。あまりにもストンと認めてくれたものだから、真は驚いて上半身を起き上がらせた。
「え、軽くない?」
「なりたい気持ちにも重いも軽いもないだろ。なりたいなら頑張れば良いじゃん。俺は藤原の小説読んだことないからどんな感じか知らないけど、まだ十七だろ。今から練習すれば良いじゃん」
小説家になりたいと言って、馬鹿にしない人間がどれだけ居るだろう。その一人が目の前で自分を励ましてくれている事が嬉しくて、真はまた机に突っ伏した。
「……先生の事、小説に出して良い?」
「俺を? 神保悟って名前そのままで?」
「で、殺す」
「やだよ!」
「アハハ。先生、添削してよ」
「無理だよー、先生、専門地理だもん」
「あ、韻踏んでる」
「馬鹿言ってんじゃないの!」
若い神保は子供みたいな笑い方をすると、机の上に放り出された真の手に触れた。指先を握りこみ、優しく自分の親指で撫でてくる。触れる機会等ない大人の男の手の感触に、真は知らず息を潜めた。
「どっかにアップしてるの、小説?」
「ううん……」
「じゃあ今度俺に見せてよ」
「えー……」
「俺が読者第一号。藤原がデビューしたら死ぬほど自慢するから、サインちょうだいね」
”読者第一号”――。
真の脳裏に死神の後ろ姿が過った。静かな部屋の中で、一心にパソコンを見つめる小男の姿――。
「……んふふ」
なんだか後ろめたい感情に襲われ、真は誤魔化すようにヘラヘラ笑いながら身を起こした。神保と目が合う。自然と嬉しくなって本当の笑みに変わる。それは不細工な笑みだっただろうが、二人きりで居る時、真は自分の容姿の事など気にならなかった。
正直なところ、神保は顔が良いとは言えない。髪だって薄いし、唇の色が悪いのも目立っている。歯並びだって酷い。だが何を話しても面白い頭の良さと、大きな目と二重に憧れじみた気持ちがあった。
それに何より、紫煙に巻かれたあの日、がむしゃらに真を助けようと必死に伸ばしてくれた手が好きだった。
好きだったのだ。
「先生、今度どっか行こうよ」
大人と子供の手が触れあった。




