三十九話「帰省」
鬼村の家に行ったある日の事だ。
門をくぐったところで顔をあげると、玄関にスーツの男と鬼村が立っているのが見えた。男は背中しか見えないが、鬼村は冷たい表情で眉間に皺を刻んで、ふてぶてしく腕まで組んでいたので事態の険悪さは明らかだった。
「無理を承知でお願いしているんです」男が言う。
「承知されても無理なもんは無理です」鬼村が言う。
揉めているようだ。
「貴女が適任だと、お母様がおっしゃったんです」
「どう考えても弟が適任でしょう。私はしがない作家ですし、”お汚れさん”なんですよ」
「藤原さん、ふざけてる場合じゃないんです!」
”藤原”。
私は記憶の海からその苗字を引き上げ、久しく見なかったそれと対峙した。思い出すのに時間はかからなかった。そうだ、藤原は鬼村の本名だ。藤原真。その名前は社内の一部の人間は知っているが、大々的に公表しているものではない。
一体鬼村の本名を知っているこの男は何者だ。
どんな厄介事を運んできた。
「貴女が断ったらどうなるか分かってるんですか!」
「さあ。世界でも滅びますかね」
「こちらが下手に出てるうちに承諾してください。お願いが強制になったら、面倒なのは貴女ですよ」
「もー……」
そこで、鬼村は立ち尽くす私に気が付いた。目が合う。彼女の眉間の皺が少し薄くなる。
男もすぐに私に気づいて振り返り、露骨に嫌な顔をした。見た目は初老の何の変哲もない男だ。ただ直感的に、出版業界で働いている人間ではないだろうと思った。ほとんど確信と言っても良い。
この男は、鬼村悟ではなく藤原真に用があるのだ。
「また連絡します」
ぶっきらぼうにそう吐き捨てると、男は私の横をぶつかりそうな勢いで通り抜けて帰ってしまった。愛想の悪い男だ。横暴で乱暴。鬼村が嫌うタイプ。追い返さなかったのが不思議なくらいだ。
「すまんすまん」ぎこちなく近づいてきた私に向かって、先ほどとは打って変わりいつもの気の抜けた顔で鬼村は笑った。「面倒な来客だわ」
「大丈夫ですか、何かありました?」
「あーん、ちょっと実家帰るかなあって感じ」
「京都の?」
「原稿は穴開けないから心配しないで」
なんとなく聞いてはいけない気がして、私は男の正体も話の内容も聞けなかった。
少しの間、気まずい沈黙が流れる。正直に言うと、実は少し動揺していた。鬼村の担当になってそろそろ三年になる。様々な事を一緒にくぐり抜けて来たある種の戦友のようなつもりでいたのだが、それは鬼村悟とのことだ。
私は、藤原真とは赤の他人なのだ。
それに気づいてしまった瞬間、無意識に私は鬼村を見つめて言った。
「……先生って、”鬼村悟”の方が似合ってますよね」
なんと浅ましい子供じみた嫉妬心だろう。こんなの、友達が他の子と仲良くするのが気に入らない小学生と同じじゃないか。
しかし予想外にも、鬼村は驚いた顔で私を見つめ返した。
彼女はただ驚いたのではない。間違いなく喜びも感じていた。私の言葉がその通りであると彼女自身が自覚していたからに違いない。けれどその自覚は鬼村にとって不安定で後ろめたいものだったのだろう。それを私がずばりと言ったものだから、半ばショックでも受けたような顔つきになっているのだ。
そしてその顔つきは次第に歪み、すぐに堪えきれない笑みで口端をにんまり持ち上げることになった。
「良い子だねえ、あんた」
子供に言うような優しい声。
「え、なんですか急に」
「アタシの担当、あんたで良かったよ」
今度はこっちが驚く番だった。
そして、鬼村は更に驚く事を言ってきた。
「……一口、あんた、一緒にアタシの実家行く?」
つづく




