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三十五話「ボツ。」

 廊下に立っている。

 両脇は障子が延々と続き、旅館の宴会場か料亭のように見える。

 果ての見えない長い廊下の先は暗闇に飲み込まれており、進めばどこへ出るとも分からなかった。

「アハハハ!」

 障子の奥から老若男女の賑やかな笑い声がする。足音や、食器が触れあうガチャガチャいう音も聞こえる。

「そうれ、引けえ」

「そうれ、吊れえ」

「そうれ、飛べえ」

 手を叩きながら囃し立てる人々の声。いきなりどっと沸き上がる馬鹿笑い。ドタンバタン。カチャンガチャン。

 賑やかな部屋のどこかに、自分の向かう先があるとは到底思えない。

 廊下は暗いが障子越しに漏れる暖色の明かりがいかにも温かそうで、誘蛾灯に引き寄せられる蛾の気分になった。

 こんな賑やかさに囲まれて、私は誰も居ない廊下で立ち尽くすしかない。進んでみようか。それとも引き返してみようか。どっちを向いても先は闇だ。

 それとも、

 それともいっそ、障子を開けて仲間に入れてもらおうか。

 ギシリと床が鳴いた。

 振り返ると、鬼村が立っていた。

 そう、鬼村だ。彼女は鬼村悟。私の担当するホラー小説家。あれ、私はなんでこんな所に居るんだ? ここはどこだ? 見覚えも無ければ心当たりもない。鬼村とここに来たのだろうか。取材か? そんな記憶はない。突然ここに立っていた。なんでそんな、非現実的な事が。

 鬼村は小さな目を細めると、キーボードの上でいつもよく跳ねまわっている指で私の手を絡めとり、廊下を歩きだした。

 私達が歩くと、ギイギイとうるさく廊下が軋んだ。

 そこでふと気が付く。

 あんなに賑やかだった喧騒が消え失せている。

 もう障子の向こうに明かりはない。

 廊下が、暗い廊下だけがずっと続いている。

 ボツっと音がした。横を見ると障子から指が突き出して蠢いている。

 ボツ。ボツ。ボツ。ボツ。ボツ。

 卵から這い出る尺取り虫のように障子から生まれる出でる無数の指。

 左右の障子見渡す限りに指と言う指が突き出、やおら引っ込んでいった。

 そして、障子に開いた夥しい数の穴の奥から、覗く、

「はい」

 突然鬼村が声を出し、私を引き寄せると障子の開いた部屋に突き飛ばした。間の抜けた声をあげて転がったが、急いで身を起こす。行燈の柔らかい明かりが、簡素な和室を照らし出している。宴会場でも料亭でもない。人の家みたいだ。

「せん」

 喘ぎ喘ぎ鬼村を呼んだが、閉まった障子の向こうは影さえも見えない。何か、気配のような、百足がその百の足を密やかに軋らせて忍び寄る微かな振動のようなものが私の肌を登って来る。

「先生」

 障子の前まで来て、もう一度呼びかける。返事はない。

 震える息を噛み殺しながら暫く立ち尽くした後、ほとんど無意識のうちに人差指を障子に押し付けていた。

 ボツ。

 障子の向こう側に出た人差指に冷気が触れる。

 指を引き抜く。

 穴の向こうは暗い。

「先生」

 恐る恐る、穴に顔を近づける。

 障子からスンとカビのようなにおいがする。

 暗闇の中に何かが見えた。

 それは、

 これは、


 指!


 左目に痛みを覚え飛び起きた。

 手で目を覆い、ひいひいと声にならない声をあげてベッドの上に突っ伏すように倒れ込む。

 痛みと混乱が引いたと同時にベッドから飛び降りると、洗面台に向かって賭けた。

「なに、どうした?」

 後ろで私の奇行によって起こされた彼氏が眠そうに声をかけてくる。

 だが私は鏡に映った真っ赤に充血した左目に意識を持っていかれ、何も返事が出来なかった。




「もー、駄目だよ覗いたらあ」

 日が昇り、眼帯をして仕事のために鬼村の家に行くと、呆れ顔の鬼村に出迎えられた。

 鬼村は全く、憎らしいほどいつもの通りである。

「せっかく安全な部屋に入れたのに。まあ、こっちの夢に入っちゃったのは可哀そうだったけどね」

「は、え、同じ夢見てたんですか?」

「なんか、繋がっちゃったみたいね」

「あんな怖い夢見ないでくださいよ!」

 これは八つ当たりなのか、正当な糾弾なのか、判断が難しい所だ。別に鬼村が私をどうこうしようとしたわけではないだろう。きっと多分、本当にたまたまの出来事だ。

「あんなのどうって事ないよ、ほっときゃいいの。まあでも、その目は何とかしないとね。突っつかれちゃったんでしょ、指で?」

「はい……」

「じゃあ、目玉にあれの指紋ついちゃったから、洗わないとね」

 ”あれ”ってなんですか、とか、夢に入るってどういう原理ですか、とか、今後もこんな事あるんですか、とか、あの夢でどうって事ないなら一体どんな悪夢を見てるんですか、とか。

 聞きたい事は山のようにあったのだが、とにかく指紋が眼球に付着しているというワードの気持ち悪さに負け、私は足早に鬼村の家に上がり込んだのだった。


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