二十九話「でんでんだいこ」
それの実物を見たのは初めてだった。
名前を思い出そうと暫く考え、数秒かけてようやく思い至る。でんでんだいこ。そうだ、これはでんでんだいこというおもちゃだ。何故鬼村の家にこんな子供用のおもちゃがあるのだろうか。それも玄関の靴箱の上に。
私はスリッパに履き替えながらそれを手に取ってみた。
思ったより軽い。これを見たのは、ドラマだったかアニメだったか……とにかく、遊び方(という程でもないが)は知っている。人差指と親指で柄をはさみ、指の間で素早く転がした。太鼓の横から伸びる紐がぶんぶんと腕を振り、先端の玉が太鼓の面を打つ。トコトコトコ、生で聞くと良い音だ。なるほど、子供が夢中になるのも分かる。
私がでんでんだいこを慣らしていると、急に異なる音がそれに重なった。
薄暗い廊下の奥から、布の擦れる音と何かペタペタいう音、そして……赤ちゃんの笑い声。それらが数メートル先から駆け足の勢いでこちら目掛けて突っ込んでくる。目に見えなくとも、異常なスピードではいはいをしてくる赤ちゃんが居るのだと直感した。
何かアクションを起こすにはあまりにも距離が短い。逃げろと脳内で警報が鳴ると同時に、逃げてどうなると冷静な自分が言う。
赤ちゃんの笑い声がつま先に齧りつく。その瞬間。
不意に左の部屋から出てきた鬼村が、私が持っているでんでんだいこを奪い、廊下の奥に放り投げた。
ぺたぺたと……赤ちゃんの小さな両手が廊下を叩く音が……向きを変えてでんでんだいこを追いかけ廊下の奥に去っていく。キャハっと甲高い悲鳴のような笑い声が上がり、後は静かになった。
「いらっしゃい」
凍り付く私の横で鬼村が平然とそう言うものだから、私は一気に脱力してしまった。
「先生、今のなんですか……?」
「まあちょっと、預かりもので」
「赤ちゃんの幽霊が憑いたでんでんだいこ預かったんですか?」
「あれ赤ちゃんじゃないよ」
ひゅうと喉から息が漏れた。
そんな馬鹿な。確かにはいはいする音がしたし、赤ちゃん特有のきゃらきゃらした笑い声がしたのに。……した、よね?
はいはいの音……でも赤ん坊にしては音が重くなかったか?
赤ちゃんの笑い声……引きつって不自然だったような気もする?
私の、
私の、つま先まで来ていたのは、
「今日打ち合わせ外でしようか」
鬼村が言った。
私は顔をあげて縋るように彼女を見つめた。
「いい……ですか……」
「だって、どうしようもないでしょ」
鬼村は肩をすくめた。
「そこに座ってじっとあんたの事見てるもんね」
廊下の奥で絶命したように転がっているでんでんだいこを指さす。
「財布とって来るから、でんでんだいこから目ぇ離さないで」と言って、鬼村は隣の部屋に入ていった。
トコ、と微かに太鼓のなる音が聞こえた気がした。




