人相書
それから半年後、ある事件が起こった。
潘誕の店に、成都の警備隊の数人が足を踏み入れて来たのだ。
「最近、成都の街に押込み強盗の輩が出没しているのは知ってますね?」
隊長の問いに、潘誕が頷いた。
「勿論です。何でも雨の夜を狙って、大勢で大店ばかりにに押し入り、店の者に気付かれると皆殺しという、何とも残虐な輩らしいですね。」
潘誕の言葉に頷きながら、隊長は客で混雑する店内を見渡した。
「この店は、相変わらず繁盛してますね。最近怪しい連中が店にやって来た事はありませんでしたか?」
「怪しい連中? はて…。しかしそんなきな臭い連中が大勢でやって来ても、店には入れないと思いますよ。うちの店には露摸がいますから…。」
隊長は、潘誕の言葉にちょっと首を傾げた後、直ぐに納得の表情を見せた。
「表にいたあの白い狼ですな。知ってますよ。この辺り一帯の守護神と呼ばれている事は。
露摸という名だったのですね。確かにあの狼が睨みを効かせていれば、賊が揃って現れる事はないでしょうね。しかし、一人一人が別々に来る事はあり得ますね。」
そう言った隊長は、側にいた部下に向かって指先を立てた。
すると、部下は何枚かの紙を取り出して机上に拡げた。
「実は先日も押し込みがあり、生き残った者の証言から、人相書を作成しました。絵にする事が出来た賊は、三人です。貴方達にこの人相書を見て貰いたいのです。この店に最近立ち寄った者で、この人相書に似た者は来なかったでしょうか?」
潘誕は、ちらりと人相書を眼にした後に隊長に向き合った。
「俺には分かりませんね...。俺は何時も厨房に居ることが多いんで...。それなら女房に聞いて貰った方が...。ちょっと待って下さい。今呼んで来ます。」
奥へ一旦引っ込んだ潘誕を見送りながら、隊長の横に立つ部下が尋ねた。
「隊長...。此処の店の主人に対して、やけに丁寧な言葉遣いをされてますね。何かあるんですか?」
部下の問いを受けて、隊長は今一度表情を引き締めた。
「あの方は、以前は蜀軍でも武芸一二と言われた方だ。それほどに認められながらも、恐ろしく美人の妻を迎えて軍を辞めた。これからその評判の女将が出てくるよ。」
奥の暖簾を掻き分け出てきた華鳥を見た部下が、眼を瞠って立ち尽くした。
「これは....確かに....」
華鳥の背後からは、母の着物の裾を掴むようにして、耀春も姿を見せた。
緊張しているのか、頬の笑窪が引き攣っている。
華鳥が隊長に挨拶をしながら、耀春を前に押しやった。
「この子にも一緒に、人相書を見せて下さい。何時も店内を見ていますから...」
部下が取り出した人相書を眺めた華鳥は、首を捻った。
「何れもあまり特徴のない顔ですね。この店は常連客が多いのですが、旅の一見さんが良く来られるのも事実です。しかしこの人相書だけでは、確かに来たとは申し上げられませんね。」
すると隣で人相書を見ていた耀春が、華鳥の袖を引いた。
「母様。この人、三日前に店に来た人よ。昼間の営業が閉まる直前に店にやって来て、黙って煮込みを食べて行った人。」
人相書の一人を指さす耀春の言葉に、華鳥は改めてその顔に見入った。
「う〜ん。でもあの人って、こんな感じだったかなぁ。」
すると耀春は一旦奥に引っ込み、やがて手に筆と硯を持って、再び姿を現した。
「わかりにくいのは、顔に陰影がないからよ。こうすれば、どうかしら?」
そう言った耀春は、筆に硯の墨を取り、人相書に手を加え始めた。
側の茶碗から水を取り、墨の濃淡を出しながら耀春が描いたのは、顔が紙から浮き出すような立体的な男の顔だった。
それを見た華鳥が手を打った。
「確かにこの人なら、先日来たお客ね。やけに無口な人だと思ったので、良く覚えてる。」
耀春の描いた絵を見た隊長と部下は唖然とした。
「何だ...此れは...。まるでこの男が、そのまま紙の中に居るかのようだ...。済まぬが、この絵、貰って行っても宜しいか?」
その翌日、今度は隊長が一人で、店に顔を出した。
「女将殿と嬢様のお陰で、昨夜賊一味を一網打尽に出来ました。賊達が立ち寄った宿坊の者が、あの人相書を見て、直ぐに証言してくれたのです。」
更に三日後、今度は隊長が一人の女中らしき女を連れて、また店を訪れた。
【嬢様はおられますか?実は、成都の某家で殺しがありまして。その犯人を目撃したのが、この女中です。申し訳ないのだが、この者の証言を元に、嬢様に人相書を描いて貰いたいのです。警備隊には、あのような見事な絵を描ける者が居らぬのです。】
隊長の言葉に、潘誕と華鳥は顔を見合わせた。
「困ったもんだ。あれ以来、あの警備隊長がしょっちゅう尋ねて来るようになってしまったな。しかも決まって用件は、耀春に人相書を描いて欲しいという依頼だ。耀春は、警備隊の絵描きではないのだぞ。しかし、捜査に協力しない訳にも行かぬしなぁ。」
「確かに、このまま放っておくわけには行きませんね。今夜にでも兄上に文を書き、相談してみます。兄なら良き知恵が浮かぶでしょう。」
成都の王宮の一室で、華真は王平が取り寄せた人相書を、感心した表情で眺めていた。
「此れは、確かに見事な物です。まるで生きているかのようだ。警備隊が耀春に頼りたくなる気持ちも良く判る。」
そう呟く華真を、王平は呆れた表情で見た。
「警備隊長の周文は仕事熱心な男ですが、それにしても何日も開けず、次々と依頼を持ち込むのも如何なものですかな。このままでは、いずれは殺害現場の絵を耀春に描いてくれと言いだしかねませんぞ。」
王平にそう言われて、華真も表情を改めた。
「それは困るな。姪にそんな血生臭い真似をさせる訳にはいきません。ならば警備隊の絵師達に、耀春の技術を学ばせるしかありませんね。同じような絵を描ける者が出て来れば、周文殿も耀春にだけ頼らずに済むでしょう。暫くの間、何処かに警備隊の絵師達を集めて、修行をさせるのがよいでしょう。耀春には、定期的に其処に通って技術を教えてもらえるように、華鳥に頼む事にしましょう。」
華真と王平が話をしている場に、志耀が姿を現した。
「耀春の事、聞きましたよ。囊中の錐とは、正にこの事ですね。しかしあの才を人相書だけに使うなど勿体ない事だ。」
華真と王平は、直ぐに志耀の前に控えた。
「此れは...帝。たった今、華真殿とその為の方策を相談していた所でした。」
王平から警備隊絵師達の修練の話を聞いた志耀は、納得顔を見せた。
「成程。それは妙案ですね。しかしせっかく耀春が通い教授をするのなら....。私にも一つ案があります。」
数日後、警備隊長の周文の同行を受けて王宮の門をくぐった耀春の前に、王平が姿を見せた。
「周文。送迎はここまでで良いぞ。帰りの護衛は、此方で手配する。」
耀春は、王平に連れられ、王宮の外れにある建物に案内された。
建物の中に入ると、其処では多くの男達が床に座り、各々が絵筆を手にして紙に向かう光景があった。
王平と耀春が入って来たのを見て、一人の総髪の男が立ち上がり、二人に近付いて来た。
「此れは...王平様。お待ちしておりました。ほぅ、此方が例の少女ですな。」
初めて見るその壮年の男を前にして、耀春は男に警戒する眼を向けた。
「怖がらんでも良いぞ。儂はこの絵画処を預かる何恭という者だ。お前の描いた絵は、王平様が全て見せて下さった。幼いのに大変な技倆だ。しかし未だ才能だけで絵を描いておるな。お前、絵を描くのが好きか?」
その問いに、耀春はこっくりと頷いた。
「王平様はな、お前さえ良ければ、此処で絵の技術を磨いみててはどうか?と仰っておられる。この絵画処は、王宮の様々な部署から依頼を受け、宮中の催し画や歴史画など、様々な絵を描く事を手掛ける場所だ。此処には、各地から絵の達者な者達が数多く集まっている。絵を本格的に覚えるには最適の場所だ。どうだ?やってみるか?】
何恭の言葉に、耀春は眼を輝かせた。
「あたしに、絵を教えて下さるのですか?」
「お前さえ良ければだ。警備隊の絵師達に、人相書の技術を教える為に、王宮に通うそうだな。毎回それが終わった後で、此処に来なさい。懇切丁寧に教える暇はないが、此処にいる者達の筆使いを見ているだけでも、様々な技術を覚えられる筈だ。」
何恭の言葉を聞いた耀春は、はっきりと首を縦に振った。
顔全体が喜びに輝き、頬の笑窪がいっそう深くなった。
「凄い。嬉しいです。あたし、絵を描くのが好き。もっと上手くなりたいです。」
耀春の返事を聞いた何恭は、王平を振り返った。
「ならば決まりですな。この娘が王宮に通って来る時は、絵画処が責任を持って、この娘をお預かり致します。」
「そうか。それは良かった。では王宮への往き帰りについては、警護の者を此方で手配するので、王宮内での世話は、絵画処で宜しく頼んだぞ。」
王平はそう言うと、耀春に向かって笑いかけ、歩み去って行った。