志耀の日常
志耀が王宮に戻って自分の居室に入ると、程なく外から声が掛かり呂蒙が姿を現した。
「帝、また雲隠れをされてましたな。早く食事をお済ませになり、謁見の間にお入り下さい。もうすぐ拝謁の相手が参りますぞ。」
怒りを堪えた呂蒙の言葉に、志耀はちょっと肩を竦めた。
「食事はもう良い。着替えたら直ぐに行くよ。」
それを聞いた呂蒙の顔に、諦めの表情が浮かんだ。
「さては...。また潘誕の店に行っておられたのですね。一言掛けていただければ、お供しましたものを...」
呂蒙の申し出に対して、志耀は手を横に振った。
「呂蒙爺の顰めっ面を前に食事をしても、飯が不味くなるだけではないか? それとも一人では危険だ...と言う事か? 私に武芸を教えたのは、呂蒙爺ではないか。既に老体の爺を庇いながら賊に立ち向かう方が、余程危ないではないか?」
その口調に挑発の色を感じとった呂蒙は、強い視線で志耀を見据えた。
「何を仰る。歳はとっても、儂の腕はまだまだ確かですぞ。 ....まぁ判りました。他の側近達には内緒にしておきます。ならば着替えをお急ぎ下さい。」
謁見の間で、最初に志耀が会ったのは、東の遠方より荷を運んで来た商人だった。
「ほう。此れが例の薬用の人参か...。随分と小さいものだな。人参と言うより牛蒡のようだな。」
そう問われた商人は、床に額を付けたままの姿勢で答えた。
「干して、薬効を凝縮させてあるのです。疲労や冷え性など様々な効能が御座います。病人の滋養にも最適です....」
そう言いながらそっと眼を上げた商人は、帝座の前に置かれた箱から、志耀が一本の人参を取り上げ齧る姿に驚いた。
志耀への説明を終えて謁見の間を出た商人は、側を歩く延臣に話し掛けた。
「全てを高値でお買い上げ頂き、誠に有難う御座います。しかし帝は、薬学にも通じておられるのですな。あのご質問の数々には恐れ入りました。あれでは薬学博士も裸足で逃げ出します....」
商人の話し掛けに対して、延臣は軽く手を振った。
「新しき薬草の類が出た事を耳にされると、いつもああなのだ。ご自身で食し、直接質問せねば納得されないのだ。」
その二人の傍らに、別の延臣が歩み寄った。
「この人参は、直ぐに郊外の医療所に運べとのお達しだ。療養中の患者に試せと...。それと医療本処の医師達に、これを丸薬にする方法を研究せよと伝えてくれ。」
それを聞いた商人が眼を丸くした。
「薬用人参は、煎じて飲んだり、煮込んで食するものと決まっておりますが...。何故丸薬などと...?」
それに対して、問われた延臣は何の問題もないとばかりに小さく笑った。
「何時もの事だ。帝は、ただ言われた通りだけでは、気が済まれぬのだ。」
全ての謁見を終えた志耀は部屋に戻り、着替えを命じると、衣を運んで来た女官に尋ねた。
「供の者達も、外出の準備は出来ているな?」
それに頷きながら女官の老女が答えた。
「昼食をお済ませになった後、直ぐにお立ちになれます。」
「昼飯は、朝方私が持ち帰った饅頭を持参して行く。其奴を食べながら行くよ。供の者たちには、早く飯を済ませるように伝えてくれぬか。」
鹿皮の衣に着替えた志耀は、狩り装束に身を整えた数人の供を引き連れて、馬に跨った。
先頭を疾駆する志耀の後ろで、供達は必死の形相で馬を駈けさせた。
山間いを抜けて稲田が広がる小径に達すると、志耀は其処で馬を止めた。
先頭で後方から追い縋った王平が、志耀に声を掛けた。
「しかし…….帝の馬捌きは、何時もながら鮮やかです。我々では付いて行くのが精一杯です。」
王平の言葉に、志耀は何事もないかのような表情を見せた。
「それは、馬の質が良いだけだ。皆もこの馬ならば、私と同じように駆ける事が出来る。」
そう言った後、志耀は周囲を見渡した。
「さて、それではこの辺りで話を聞く事にするか。誰か、庄屋の所に行って、話をしてくれる者を探してくれ。今日は其処に赴くぞ。」
暫くすると、共の一人が馬で駆け戻って来た。
「此処から一里程先に、この辺りでは稲作名人と呼ばれる男がいるそうです。この時間は田に出ている筈との事です。」
「ほぅ、それは好都合ではないか。よし、皆。行くとしよう。」
左右に稲田が広がる小径で馬を走らせる志耀達の眼に、稲田の中に佇む二人の男の姿が見えて来た。
馬を停めた志耀達は、横の林に馬を繋ぐと、稲田の二人に声を掛けた。
「仕事中に済まぬが、話を聞かせては貰えませんか?」
志耀の声に、二人は顔を挙げた。
顔に皺を刻んだ老人の横に立つ若者が、真っ黒に日焼けした顔に警戒の色を見せた。
「誰だ、あんた達は..? 新しい稲の秘密を探りに来たのか?」
稲の秘密という言葉に、志耀の眼が興味深げに光った。
「まぁ、そう言う事です。しかし決して怪しい者ではない。我等は王宮から来たのです。」
そう言った志耀は、傍の稲穂を掌に取った。
「此れは....。稲穂が実の重みで、全て首を垂れている。通常の稲より倍近い実が付いてますね。此れを見に来たのですよ。」
感嘆する志耀の姿を、男二人は珍しいものを眺めるようにして見た。
若い男の横で、今度は老人が尋ねた。
「ほう...。王宮の方々ですか? それでこの稲を見て、どうされようというのです?」
「今年の夏の少雨にも関わらず、この一帯の稲田だけは見事な稲穂が実っていると聞いて伺ったのです。此れは貴方達が工夫されたのですね?」
志耀の問いに若い男が応じた。
「だとしたら何なのです? 最近この稲穂を盗みに来る輩が後を絶たない。王宮の人達と言うのなら、そのような連中は取り締まって貰いたいね。」
挑むような若い男の言葉を受けた志耀は、掌にずしりと重みを感じる稲穂に改めて眼を落とした。
「これほど見事な稲穂なら、盗んででも手に入れたい者も出るでしょうね。しかし盗難とは…。それは困った事ですな。放っておけば、刈り入れ前に田は丸裸にされてしまう。差しつかえが無ければ、王宮から見張りの兵達を派遣したいのですが...」
志耀の言葉に、老人が頭を下げた。
「それは有り難い事です。この稲は、此処にいる息子が工夫したものです。きちんと刈り入れを済ませ、更に改良を加えたいのです。宜しくお願いします。」
老人の言葉に、側の若い男も頷いた。
その若い男に志耀が尋ねた。
「工夫と言われたが、それは干魃にも強い稲と言う事ですね? 素晴らしいですな。王宮に出来る事があれば、何でも応援しますよ。」
志耀がそう言うと、若い男が即座に反応した。
「先ずは見張りを出して貰えれば...。それともう一つ、脱穀の道具に工夫をしたいのですがね。今の道具では良い米は出来ない。」
その言葉を聞いた志耀の眼が光った。
「今の鋤取り道具は、帝が自ら考案したと聞いてるけれど、いまのままじゃ実を痛めて、米の質が悪くなる。帝は頭の良い人らしいけど、やはり頭だけで考えた道具だね。」
忌憚のない若者の物言いに、王平が眉を上げた。
「こ、こら...お前、帝に文句を付けるのか...」
「事実は事実だよ。俺の言う通りに工夫してくれれば、もっと良い米が出来るよ。」
平然とそう言う若者を、志耀が興味深げに眺めた。
「その工夫、是非聞かせてくれませんか。」
王宮への帰り道で、馬を常歩で進めながら志耀が王平に話し掛けた。
「今日は良い勉強をした。やはり机上の考えだけで作った道具では駄目だな。」
「何を仰います。帝の考案されたあの道具は、広く各所で使われているでは有りませんか。」
「普及だけでは駄目だ。現場の知恵を入れ、更に工夫をせねば...。あの若者だが....農技術所に招聘出来るよう、父親に頼んでくれぬか。」