潘誕の店
暁の成都の外れにある街道脇に、一件の料理屋があった。
兎にも角にも料理が美味いと、評判の店だった。
漸く朝日が差し込み始めた店内に、主人の大きな声が響き渡った。
「今戻ったぞぅ‼︎ 今朝は大漁だ。 これで店の客にがっかりの思いをさせずに済む。」
その大声を耳にして、店の奥から女将が顔を覗かせた。
「大声いはやめて下さいね。耀春が目覚めしてしまう。あらあら、やっぱり...」
女将に続いて、内暖簾を掻き分けて姿を現したのは、頰の笑窪があどけない小さな女の子だった。
女の子は、入口に主人の姿を認めると、顔一杯に笑顔を輝かせた。
「父様、お帰りなさい。今日は、お魚一杯獲れたの?」
胸に飛びつく女の子を高々と宙に抱き上げた男は、満面の笑みを返した。
「おうともさ。耀春が昨晩お祈りしてくれたお陰だ。明日は、一杯お魚が獲れますようにってな...」
二人の姿を観ながら女将は、魚籠の中身を改め始めた。
「本当ね。今朝の魚は、太ってるし色艶も良い。これなら今日は久々に、店の看板の煮付が出来そうね。」
「ところがそうは行かないのだ。これ程の大魚となれば、臭みを抜くのにも時間が掛かる。煮付が出せるのは、明日だな。」
「そうなの?もう三日通い詰めて、煮付を楽しみにしてる人達が居るのに。でもそれじゃぁ、仕方ないですね。」
その時、店の扉を叩く音が響いた。
主人が扉を開けると、入口に鹿皮の衣を纏った男が顔を覗かせた。
「潘誕殿、華鳥の姉様。済まぬが朝飯を喰わせて貰えませんか。早朝に寝所を抜け出し、一目散に此処まで駆けて来たので、腹の虫が鳴っている。」
その言葉を聞いた華鳥が、笑い声を挙げた。
「また王宮を抜け出して来られたのですね。今頃は、また大騒ぎになっているのではありませんか?」
「そうは言ってもなぁ...。王宮の飯など、冷めた料理ばかりで、とても喰えたものではない。まぁ、余りに文句を言うと、毒味役の者達が失業する。しかし、たまには熱い美味い飯が食べたいのだ。それも潘誕殿の作った物でなくては満足は出来ない。」
志耀はそう言いながら、店の座敷に胡座をかいた。
耀春が直ぐに、その膝元に駆け寄り飛び込んだ。
「耀おじさま。おはよう御座います。」
そんな耀春の姿に、潘誕は苦笑いした。
「全く....。志耀様に対して、こうも無礼放題に振舞えるのは、お前くらいのものだな。」
その言葉に志耀は笑いを返した。
「良いではありませんか。耀春、お前は本当に可愛いなぁ。大きくなったら母様と同じく、飛び切りの美人になるぞ。そうなった時には、私の元に嫁に来るか?」
そう言って頭を撫でられた耀春は、両方の瞳をくりくりさせて、大きく頷いた。
その様子を観た華鳥が、思わず笑った。
「さては、また縁談を持ち込まれたのですね。それも仕方がないでしょう。周囲の者達は、志耀様が妻を娶らないのでやきもきしていましょう。どうして妻帯をなさらないのです?」
志耀は、いかにも面倒臭いといった表情で顎を撫でた。
「持ち込まれる縁談と言うのは、見目は麗しいが、箱入り娘ばかりで、本当の暮らしというものを知らぬ女ばかりだ。そんな女とずっと顔を付き合わせるのは御免蒙る。」
それを聞いた潘誕が、興味深げな顔で志耀に尋ねた。
「ふうん。それじゃぁ志耀様が求める女子とは、どのような方なのです?」
その問いに、志耀は潘誕の顔を覗き込んだ。
「実はな。華鳥の姉様のような方だ。本当は姉様を嫁に欲しかったのだが、潘誕殿に先を越されたのだよ。」
志燿の言葉に、潘誕は思わず手にした魚籠を取り落とした。
それを観て志耀は大笑いした。
「分かり易い方ですね、貴方は。うっかり冗談も言えませんね。」
頭を掻く潘誕の横で、華鳥も声を立てて笑った。
その時、店の扉の側で大きな音が響いた。
皆がその音に振り向くと、其処では魚籠を手にした少年が、顔を真っ赤にして志耀を睨みつけていた。
「あんた、何を言ってる!! 母者の華鳥様を嫁にし損なったからといって、今度は娘の耀春を攫おうと言うのか!! そんな真似は、俺が絶対に許さないからな。」
少年の剣幕に、潘誕と華鳥は呆気に取られ、耀春は不思議そうに首を傾けた。
それに構わず、少年は更に言葉を荒げた。
「大体、あんた何者なんだい? 何時も店の開いてない夜更けや早朝に、いきなりやって来て飯を喰わせろなどと...。図図しいにも程があるぞ。その上、今日は耀春を嫁にしたいなどと...」
少年の剣幕に潘誕が慌てた声を発した。
「炎翔。お前、何を言い出すのだ。」
慌てる潘誕の横で、華鳥が興味深深の表情で少年の顔を覗き込んだ。
すると志耀は笑いを噛み殺しながら、少年に声を掛けた。
「此れは....気に触ったようだな。お前、それ程に耀春の事が気に掛かるのか?」
志耀の言葉に、炎翔と呼ばれた少年は思わず言葉を詰まらせた。
「そ、そう言う意味じゃないさ。只、あんたの態度がでか過ぎると言ってるんだ。」
それを聞いた潘誕が、少年に怒鳴った。
「いい加減にしないか。この方は、大切なお客様なのだ。ほら、さっさと厨房に行って、魚の鱗を取る仕事に入るんだ。」
潘誕の叱責に、少年が不服そうに頬を膨らませてその場から立ち去るのを見送ると、志耀が大笑いを発した。
「此れは....潘誕殿以上に分かりやすい奴だ。しかし耀春に対してもう懸想するなどとは…。これは….女を観る眼は大したものだ。」
腹を抱えて笑う志耀を見て、潘誕も苦笑いした。
「しかし...あの少年は誰ですか?確か前に来た時も、ここで姿を見た記憶がある。大人相手に大した度胸だ。それに、真っ直ぐな良い眼をしている。」
志耀の言葉に、華鳥が含み笑いをした。
「かなり以前にも、志耀様は炎翔には出会ってますよ。」
そう言われた志耀は首を捻った。
「はて? 何処で顔を合わせたのかな?」
「呉の霊長山です。あの時私が治療し、志耀様が司馬炎様に預けられたのが、あの子ですよ。」
華鳥にそう言われた志耀は、思い当たった様子で膝を打った。
「おぉ、あの少年か。しかし、何故あの子がこの店に居るのです?」
「三ケ月程前に、司馬炎様から頼まれたのです。商いと言うものを修行させてやって欲しいと...。とても働き者ですよ。耀春を妹のように可愛がってくれます。ちょっと血の気は多いですが、正義感の強い良い子です。この前は、近所の子供達が耀春に絡んでいるのを見て、大勢の中に一人で飛び込んで行きました。」
「それで....どうなったのです?」
すると志耀の膝の中で、耀春が顔を挙げた。
【炎翔兄さま、みんなからボコボコにされたんだけど、何度も立ち上がって、あたしの前に立つのよ....。そしたら、其処に露摸がやって来て…。露摸を見た途端に、みんな逃げていっちゃった。...。】
「ほぅ。つまり耀春は、炎翔兄さまと露摸に助けて貰ったのかい?」
耀春はその問いにこくりと頷くと、笑窪を広げて笑った。
「耀春、ちょっと炎翔の様子を見てきて。」
そう言って座敷の外に耀春を追いやった華鳥が、再び口を開いた。
「あれ以来、耀春は炎翔にべったりです。炎翔という名前、司馬炎様が名付けられたのです。司馬炎様は母親に頼み込んで、あの子を司馬の養子に入れたのですよ。」
「そう言えば司馬炎殿は独り身でしたな。前は妻子がおられたが、例の事件に巻き込まれて亡くなったと聞いた。それで、あの子を養子に...。」
しんみりとした様子になった志耀を見ながら、華鳥が言葉を続けた。
「此処に炎翔がやって来た時、色々話をしましたが、司馬炎様からかなり厳しく躾けられたようですね。あの年代の子にしては、学問も相当なものです。その上修行にまで出そうと言うのですから、司馬炎様はかなり炎翔に期待しているようですね。私の実家の飛仙に預けた方が良いのでは...と申し上げたのですが、司馬炎様から、大店では駄目だと言われました。それで此処にいるのです。」
それを聞いた志耀が、ほぅっと息を吐いた。
「そいつは益益興味深い。あの司馬炎殿がね...」
その横で、潘誕が申し訳なさそうな顔を作った。
「炎翔には、志耀様が帝である事は話してません。それであのような失礼な事を...」
「それで良いのです。身内同然とは言え、私の正体が知れてしまうと、私も此処に来難くなる。唯一の楽しみが無くなるのは困ります。これからも内緒ですよ。炎翔にも耀春にも…..」
指を立てて口に当てる志燿に、潘誕も華鳥も笑って頷いた。
すると扉の陰から、一頭の大きな獣が姿を現した。
それは、見事な純白の毛並みを全身に纏った狼だった。
「噂をすれば、何とやらだな。耀春の恩人がまた登場だな。」
そう言った志耀にちらりと眼を遣った白い狼は、土間の隅で姿勢を正して座った。
その狼の側に、華鳥が歩み寄った。
「ご飯の時間ね。今すぐにあげるからね。」
器に盛られた肉を食べる露摸の姿を見ながら、志耀が言った。
「しかし、最初にこの露摸を眼にした時は、流石に驚きましたよ。狼が人と一緒に暮らすなど、聞いた事がなかったですからね。」
「この仔は、二代目なのです。初代の露摸がこの仔を連れて、三年前に突然店にやって来ました。その時は、この仔はまだ子供でした。初代の露摸は、この仔を私達の元に預けに来たようです。この仔を店に連れて来た後、初代の露摸はすぐに姿を消しました。もう歳でしたからね。一人で静かに息を引き取る場所に向かったのでしょうね。」
「その初代の露摸を華鳥の姉様が治療をして救った話は、以前に聞きました。しかし何故、遠い呉の地から、この仔を預けにやって来たのでしょうね?」
志耀から問いを受けた華鳥は、露摸の白い毛並みに眼を落とした。
「白い毛並みというのは、狼の中では異種ですからね。言わば他所者です。初代の露摸は、飛び抜けて身体も大きく強かったですから、他の狼達を従える事が出来ました。しかしこの仔がどうなるかは、判らなかったのでしょう。それで私達を頼って来たのではないかと思います。」
「しかし、露摸のこの巨躯は父親譲りではないですか?番犬と言うには、迫力があり過ぎるくらいの威光がありますね。この姿は、神神しいくらいだ。王宮でも、露摸の事はよく話題に上がりますよ。神の使いだと言う者もおります。」
「そう言えば、露摸の姿を見て手を合わせている人を見かける事が時々あります。露摸がいてくれるお陰で、怪しい輩は店には寄り付きません。耀春にもとても懐いてくれているので、助かっています。」
厨房で魚の鱗を削ぎ落とす作業に没頭する炎翔の足元に、耀春が纏わり付いた。
「ねぇ、炎翔兄さまは、耀おじさまが嫌いなの?」
すると炎翔は、包丁の動きを 止めて、耀春の側にしゃがみ込んだ。
「耀おじさま? 耀春は、あの人の事が好きなのかい?」
「うん。だって何時も遊んでくれるし、優しいし...。父さまも母さまも、耀おじさまが来ると、とても嬉しそうだもの。」
炎翔は、包丁の刃先を見詰めながら耀春に尋ねた。
「あの人が、どういう人なのか耀春は知ってるのか?」
「知らない...。でも母さまが、私の名前を付けてくれたのは、耀おじさまだって言ってたわ。」
「ふうん...すると耀春の耀というのは、あの人の名前から一字を採ったのか...。しかし何時も客がいない早朝や夜更けにしか来ないのはどういう訳だ...。」
座り込んだまま、ぶつぶつと呟やく炎翔の肩を耀春が突いた。
「ねぇ、炎翔兄さま...。」
耀春に突かれた炎翔が立ち上がると、耀春は頬の笑窪をさらに深めた。
「さっきは、何を怒ってたの? あたしの事がどうとかって言ってなかった?」
「な、何でもないよ。」
炎翔は、慌ててそう言うと、耀春に笑いかけた。
「いや...いつも店が開いてもいない時に突然来るから、怪しい人だと勘違いしたんだ。判った。お前がそう言うなら、あの人は良い人だな。今度会った時には、謝っておくよ。」
炎翔の言葉に、耀春は笑窪を輝かせて笑った。