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MAMLUK-マムルーク-  作者: ワンサイドマウンテン
8/9

身の程

 バイバルスがクトゥズの手を取ってから数日が過ぎた。

 あれからクトゥズがバイバルスに接触してきたことはない。

 姿を見ることもなかった。


(誘っておいてどういうつもりだよ)


 あの夜、クトゥズの手を取った瞬間に何か光明が見えた気がしたバイバルスは不満タラタラであった。


 今は厳しい訓練の休憩中である。

 朝一番に装備を纏った状態での長距離の走り込み。その後すぐに木剣での模擬戦闘、格闘訓練と続いた後ようやく小休憩がおとずれたのだ。


「見た目通りというか、見事な馬鹿力だな隻眼の」


「ッ! クトゥズか、驚かせるなよ。それより、あれから姿も見せずにどういうつもりだよ」


 座って水を飲んでいる最中に突然背後から声をかけられたものだから、思わずむせ返りながらバイバルスは振り返る。

 見下ろしている金色の瞳に抗議の視線を送りながらバイバルスは言った。


「デカい図体してんだ、これくらいで驚くなよ。オレは騎兵だから、同じ場所で鍛錬してねぇんだわ」


 クトゥズはバイバルスの背を叩いて笑いながら、隣に腰を落とした。


「少しだけ模擬戦の様子を見ていたが、あれだな隻眼の。もう少し考えた戦い方はしねぇのか?」


「今のところ全部勝ってる。考えた戦い方ってのはなんだよ?」


 この数日、バイバルスの模擬戦での成績は概ね勝利を収めている。

 今日に至ってはここまでは負けなしである。

 力任せに思い切り木剣を叩きつければ勝負が決まるのである。

 例え塞がれようと、防御の上から叩きつぶす。

 バイバルスの攻撃よりも先に、攻撃してこようがその一撃くらいはものともせずに叩きつぶす。

 パワーとタフネスにものを言わせた戦い方で勝利を収めてきたのだ。

 考えた戦い方と言われてもピンとこない。


「そりゃあ駆け引きとかをだな。怪力無双をするのはいいけどバテるぞ。それに、今は木剣だから受けても耐えられるかもしれねぇが、実戦じゃあそうはいかねぇよ」


「防御をしないことが悪いっていうのは分かるが」


「……まぁ、いいさ。そのうち分かる」


 クトゥズは一瞬なにか考えるように視線を斜め上に曝し、そういうと立ち上がった。


「もう行くのか? 俺はまだ今後のことについてなにも聞いてないぞ」


(結局、どういう目的なんだよ)


 ここでもまたお預けを食らったようなもので、バイバルスの中にクトゥズに対する不信感の様なものが大きくなり始めていた。


(クトゥズのオーラに引き寄せられたとこはあるけど、元々完全に信用し切れてるわけじゃあないしな)


「時間が空いた時にまた訪ねるからよ。こう見えてオレは忙しいんだ」


 手をひらひらと振りながらクトゥズは消えていった。


(まぁ、いいか。休憩だってもう終わりだしな)


 どのみち、ゆっくり話そうなど無理なことだったのだとバイバルスは切り替えた。



 ※※※※※



 石造りの兵舎が立ち並ぶ中を、何人かの軍人とすれ違いながらクトゥズは歩いていた。

 目指すのは馬屋である。

 休憩の間に目をかけているバイバルスに会いに行き、訓練に戻っている最中なのだ。


(確かにあの怪力は強力な武器だが……。このは一つ手を回してみるか)


 クトゥズはそこで、踵を返した。



 ※※※※※



 天井のない、開けた修練場で陽の光を浴びながら今日も今日とてバイバルスたちマムルークは己の武力を高めるため修練に励む。


 その中でバイバルスは少しだけ注目を浴びる様になっていた。

 というのも、やはりその怪力で相手を叩きつぶす、新たにマムルークに加わった物の中では頭ひとつ抜けた実力であるからだ。


 本日もその怪力を遺憾なく発揮している。


「おおお!」


 相手が振りかぶった木剣を振り下ろす。

 右上から左下に向かってその軌道が描かれる。


(これは、俺の勝ちだ)


 先に動いたのは相手である。

 相手が木剣を振り下ろし始めるのに遅れてバイバルスも木剣を振るう。バイバルス方がほんの僅かだが、出遅れていた。


 だが、それでもバイバルスが勝ちを確信したのは出遅れた分を埋めてしまえる要素を持っていると自負しているからだ。

 剣速に自信があるのとは違う。

 圧倒的に出遅れない限りは、力で持ってして押し返してしまえるのだ。

 相手が余程の達人でもない限りは、バイバルスにとって僅かに出遅れることなど不覚にはならない。


 木剣同士が衝突する。

 初動が遅れた分、バイバルスはその身の近くで相手の攻撃を受ける形となる。

 攻めに出たつもりだが、結果としては防御となっている。


 図らずも攻撃を受ける形となった以上、この攻守の主導権を握るのはバイバルスではなく、相手ということになる。

 果敢に、巧みに攻め上げて崩し、勝負を決める。

 通常、主導権を握っている方がその流れを掴むことができる。


 だが、バイバルスはそうはさせない。

 強引に主導権を握るのだ。


「おぉぉ!」


「ッ!?」


 受けた木剣を思いっきり押し返す。

 振り下ろされた斬撃に対して、下から受ける形となっているのだが、普通は体重をのせて上から押さえつけられる分やはり攻め手の方が有利である。

 だが、バイバルスはそんなことなどものともせず、力だけで下から押し返したのである。


 上から振り下ろされる力に加えて、人一人分の体重を力だけで打ち破る。

 一体どれほどの怪力であろうか。


 体重をかけて攻撃を打ち込んでいた相手は、強引に押し返されて盛大に大勢を崩す。

 そうなれば、後はガラ空きとなった胴体に木剣を叩き込んでやるだけである。


「はああぁぁ!」


 真一文字に木剣を振り抜く。

 この攻撃を受けた相手は、果たして無事なのだろうかというほど弾けるような音が鳴った。


 結果は言わずともがな、バイバルスの勝利である。

 対戦相手はヨロヨロと起き上がったので、全く無事ではないだろうが一先ずは問題なさそうである。


(段々と恐ろしくなってくるな)


 木剣を握っていた大きな手を見て、何か冷たいものが背中を伝う気分だった。

 モンゴル軍に襲撃された時の恐怖とはまた違うが、何か大きなものを恐れる気持ちは一緒だった。


 初めのうちは、身動き一つすらできないほどに臆病だったのが、実戦ではないとはいえ戦って勝てることに高揚感を覚えていた。

 勝ちが続くほどにその高揚感は増していき、自信がついたというのだろうか、調子が良くなっていくのを感じていた。


 始めから力に頼ってはいたが、時代に出している力が大きくなっているだ。

 その力が大きくなるほどに、バイバルスは自分自身に恐れを抱く様になっていた。


 クトゥズにこの力で勝てるのだから何でもいい、みたいなことを言っていたほんの数日前が懐かしいくらいだ。

 あの時はまだ、こんなことを思ってもいなかったというのに。


 この数日で芽生えた新たな悩みの種に頭を抱えるバイバルスを他所に、周囲はざわめきを起こしていた。

 流石に様子が違うと周りの人間の視線の先を追いかけると、どうやら何者かがこの場所に現れたことが理由のようだ。


 現れただけで軽く騒ぎになるということは、その人物はアイバクのように身分が高いのか、名前が通っているのか。


 背は中程度でやや日焼けした肌。女性のように艶やかな若干青みがかった長髪を首の裏で一つに纏めている。

 歳の頃はクトゥズと同じか少し下。

 少なくともバイバルスよりは歳上だろう。

 彫りが深く端正な顔立ちでクールな佇まい。スラリとしているが、筋肉はしっかりとついており逞しい。


 その男はニ、三度視線を彷徨わせるとやがて視線がぶつかった。

 赤みを帯びた茶色の鋭い瞳だ。


「隻眼……バイバルスだな。次の模擬戦、お前に申し込ませてもらう」


 男が何者なのかは分からないが、バイバルスが目的でやってきたというわけだ。

 この男との面識はないはずだが、バイバルスの特徴の一つとなってしまっている隻眼というのを誰かに聞いてきたのだろうか。

「バイバルスはいるか」と尋ねるでもなく、自ら探したことからそういう風に考えられる。


「沈黙は了承の意と受け取るが問題ないな?」


 理解が追いつかず、反応を示さなかったためにさらに鋭い眼光と共にそんな言葉が放たれた。

 了承を取る形で問題ないなと、言ってはいるが男の眼は是以外の返事は受け付けないと言わんばかりであった。


(どうせ今から模擬戦の続きだ。この男が何者で、どういう理由があるのかは知らないが特に断る理由もない)


 結局、自分の力が怖いというのは払拭出来ていないが、戦うことはできる。

 それに、これは模擬戦だ。


「問題ない」


 いつでも始められると木剣を構えて言った。


「どれほどのものかな」


 相対する男も、近くの者から木剣を借りて構える。


「その前に一ついいか? 何者なんだ?」


「そうか、失礼した。……いかなる者にも最低限の礼は払うものだな」


「私の名はイフラース」


 イフラースは名乗ると同時に距離を詰めてきた。


(速い)


 一歩を踏み込んだ脚の、地面を蹴る力が強いのかその加速力には目を見張るものがある。

 あっという間にお互いの木剣が届く間合いだ。

 無論、イフラースは距離を詰め始めたところから攻撃態勢である。

 間合いに入られて初めて反応したバイバルスは大幅に遅れている。


(これは間に合わない)


 いつものバイバルスならば、少々出遅れようが自慢の力技で相手の攻撃を押し返し、逆に叩き込んでやるのだが今回ばかりはそうもいかない。


(こっちが繰り出す前にやられる)


 これは防がなければ、と咄嗟に振り下ろされた木剣を受け止める。

 防御の心得。

 ほんの少し前にクトゥズに指摘されたのが活かされたのだろうか。

 多分、あれがなければ防ぐのか、いつも通りに受けるのか咄嗟に判断できず、イフラースの攻撃の餌食となっていただろう。


 防御の心得といっても、防ぐという選択肢を取れというのがほんの片隅にあったようなものであるが役に立ったとバイバルスは思えた。


(動きは素早いけど、そんなに重たくないな)


 バイバルスがこれまで相手にしてきたのは体つきのいい屈強な者たちである。

 イフラースも兵士としては十分な肉体ではあるが、彼らと比べれば小柄な部類だろう。


 屈強な者たちの重たい一撃をものともしないバイバルスにとって、イフラースのこの一撃は全くもって取るに足らないものだと思えてしまった。


 受けには回ったが、ここからいつも通りにやればいい。

 このまま押し返してやろう。

 力を込めようとしたその矢先、まるでバイバルスがこの後何をするのか分かっていた様に、イフラースは流れる様に素早く懐に入り込み詰めてきた。


 互いの距離がさらに縮まったことにより、たまらず受けていた木剣を身体に引き寄せ、身体に近いく腹の前で受けとめる。

 剣同士が接触した状態、いわゆるバインドの状態である。


(関係ない、この状態でも突き飛ばせる。崩せる)


 キッと視線をイフラースに飛ばす。

 すると、イフラースはまるで考えを見透かしているかの様な、涼しい目をしていた。

 そして、その視線は浅はかだと見下す様に冷たい。

 ゾクリと悪寒が背筋を走り、肩が跳ねそうな感覚に襲われる。


「甘いな」


 呆れた溜息のようにイフラースの口から、そんな言葉が溢れた。

 その瞬間、腹部が強い衝撃に襲われる。


「ッ!? クッ!」


(脚、蹴り……? 蹴られたのか?)


 その正体はイフラースの放った蹴りだった。

 痛くも痒くもない、とは言えないがその蹴り一つによって張っていた気は一気に四散し、蹴られたということ、腹部に意識を持っていかれた。

 そこからの全ては一瞬のことだった。


 右肩口、次いで頬に走る衝撃と痛み。

 目に映る景色が傾いていた。

 何かを賞賛する様などよめきが耳に入ってくる。


「ヅッ!」


 地面に倒れていた。


(は?)


「こんなものか。一体こんな奴の何を買って……」


 視線を彷徨わせれば、見下ろすイフラースの姿があった。

 肩口と頬にに残る、熱を帯びた痛み。地面に倒れているという状況。

 バイバルスは負けたのだ。


「まぁいい、程度が知れた」


 イフラースは踵を返した。

 打ちひしがされたのは初めてだった。

 思えば、バイバルスのこれまでの人生は、姉のナターリャには事あるごとに叱責と殴打を貰い、モンゴル軍には容赦のない仕打ちを受け、何もかもを奪われたというような敗北ばかりだった。


 その時々に感じたのは、しょうがないというような無関心や諦めだったり、もうどうだっていいというような絶望感や虚無感だった。


 だが、今回の敗北に関してはそうではなかった。

 今まで数多くの敗北を積み重ねてきた中で初めて抱く感情。

 悔しい、だった。


 いや、正確にいうならば初めてではない。

 ここまではっきりと感じた訳ではないが、ずっと戦うことから逃げてきたバイバルスが初めて姉を守るためにモンゴル軍と戦った時、みっともなく地べたに這いつくばって命を乞うことしか出来なかった時にも実は近い感情があったかも知れなかった。


 尤も、あれはナターリャとバイバルスの命が救われるというのが勝利条件だと言えば、その目的は達せられているため負けてはいないことにはなるが。


 今回、このように明確に悔しいと思えたのはやはり、戦ったからだろう。

 逃げてばかりで戦う前から負けていたのが、戦うようになり幾度か勝利すら収める様になった。

 多少は自信が芽生える。


 それが、自慢の馬鹿力さえ碌に発揮できずに訳も分からないうちに負けたというのだ。

 芽生えていた自信は砕かれる。


 自信が砕かれたまま終わってしまうのか、そうではないのか。

 バイバルスは後者だったという訳だ。


 やはり、バイバルスは精神面でも強くなっていたのだ。

 いや、元からバイバルスは力があったのだ。

 それはナターリャがずっと言ってきていた。

 だが、いくら力があろうともバイバルスは精神面が弱かったためだろうか、その力は使われずにいたのだ。


 ナターリャを助けるために一歩を踏み出したあの時から、貧弱だったバイバルスの精神は着実に強くなっていっているのだ。


「待ってくれ、まだだ」


 立ち上がりながら、この場をさろうとするイフラースを呼び止める。その声には執念が乗っかっていた。そう感じさせるほど、太く通った。


 思わずといった様に、イフラースが顔だけ振り返った。

 そうして目を細めた。


 バイバルスは今、自分でもわかるぐらいに闘気が激っている。

 恐らくイフラースもその闘気を感じ取ったのではないだろうか。

 そして、再び木剣を借りた。

 バイバルスの再戦に応じるという、無言の返事だ。


 さっきの戦いは、ここまで力にものを言わせて勝利を重ねてきたことから慢心、油断していた。

 言うなれば、これまでの勝利は相手に恵まれていただけだろうか。


 もう、油断はしない。

 心身共にバイバルスは構えた。


(相手の方が早いのはもう分かった。なら、こっちから仕掛ければいいだけのことだ)


 振りかぶったまま、あとは振り下ろすだけという状態で間合いを詰めていく。

 イフラースは身体の正面で木剣を構え、その剣先はバイバルスの喉元に向いている。


(なんだ? 動かないのか?)


 構えたままイフラースが動き出す気配はない。

 それとも、このままバイバルスが剣を振ってからでもどうにかする自信があるとでもいうのだろうか。

 あの速さだ、それもあるかも知れないがそれでは力に任せてどうにかなると思っていた、先程までのバイバルスと同じだ。

 果たしてあの強者が、そのようなことを思うだろうか。

 いや、思えない。


 途端に、喉元に向けられている剣先がとても恐ろしいものだと感じた。

 イフラースは動いていない。

 その場にいながら、剣先一つだけでバイバルスにとてつもないプレッシャーを与えているのだ。


(俺はなんでこれに近づいたんだ!?)


 殆ど考えなしに距離を詰めたことを後悔する。

 あれは木剣だが、いつでもこの命を奪われるような気さえもする。

 自ら死地に飛び込んでいったのだ。


 何かあるとバイバルスはこれ以上、間合いを詰めるのをそこでやめた。

 その瞬間だった。


 バイバルスの喉元に向いていた剣先が動き、伸びてくる。

 もう次の瞬間にでも、あの木剣に打たれている予感が肌をビリビリと痺れさせる。


(まさか、間合いに入ってしまっていたのか!?)


 知らず、間合いに踏み込んでしまっていたことに戦慄すると同時に感じ取った危険信号に対処しようとするが、もう遅い。


 ただ、振りかぶっていた木剣を振り下ろしただけの攻撃とも防御ともいえないバイバルスの動作は何にも対応できていなかった。


(つう)ッ」


 無防備も同然の右腕に鋭い痛みが走る。

 そして再び腹に減り込むような衝撃。

 先の戦闘と同じく、イフラースの蹴りが入っていた。


「グッ」


 前のめり気味に崩れたところに、肩甲骨辺りに突き抜けるような痛み。

 柄が打ち込まれていた。

 連続して襲いかかってくる衝撃や痛みにどうすることもできない。

 最後にとどめと言わんばかりの強烈な一撃がパァンと何かが弾けるような音とともに右の脇腹を直撃した。


「ッッ!!」


(……倒れねぇ!)


「まだだ、俺はまだ倒れていない……!」


 バイバルスは意地で踏みとどまった。

 睨みつけてまだやれると証明してみせる。

 そんなバイバルスのみせた気概に対するイフラースの反応は冷たいものだった。


「馬鹿か」


 嘲るようにハッと鼻を鳴らして言った。


「お前、これが木剣じゃなかったら二回は死んでいるぞ? それがまだ俺は倒れていない、だと? 私はその手の冗談が嫌いだ。どんなものかと思ってみれば、まるで考えなしに踏み込んできた上に、間合いすらも碌に測れていない。そんな奴が私を相手にこれ以上続けて一体何になるのか、教えてくれないか?」


「な」


 侮蔑の混じった視線で刺しながら、容赦のない言葉を浴びせてくるイフラースに、バイバルスは思わず半歩後ずさってしまう。

 イフラースの言っていることはもっともだ。

 返す言葉もない。

 ここに来て、クトゥズに言われた考えて戦えという言葉が胸に突き刺さる。

 こういうことだったのかと。


 傲れるほどのことでもなかったくせに慢心をしていたこと、そも慢心云々の前に、未熟過ぎた実力。

 足りないものを一気に分からされた。


「お前のような者が兵士として役に立つとは思えないな。戦場は甘いところではない。屍になった姿が容易に想像できる」


 言いたいことを一通り言い終えたであろうイフラースは今度こそこの場を去ろうと踵を返した。


 イフラースの言葉が痛いほどに刺さる。

 どれをとっても言い返すことができないとはいえ、バイバルスは引けないでいた。


 反論の余地はない。あえて正誤をつけるならば誤っているのはバイバルスだろう。

 その事実こそが、悔しさに立ち上がったという今のバイバルスの感情のやり場を失わせていた。

 はいそうですかと下がることなどできない。

 行き場を失ったその感情は言葉となって放たれていた。


「言っているだろ。俺はまだ倒れてねぇ。ってことはまだ負けてない」


「……見苦しいな。私も言ったはずだが、お前はもう二度は死んでいるようなものだ。実戦ならもう負けだろう」


 鬱陶しそうにイフラースは言い放つ。


「打たれ強さとこの力が自慢だからな。戦場で例え致命傷を与えられても死を確認するまでは分からないさ。今は模擬戦だからな、気絶させるくらいしねぇと負けたとは言わせない」


 そういえば、バイバルスはモンゴル軍に襲撃を受けた際、左目に矢が刺さり気絶していて助かっていた。

 もっとも、あれは流れ矢だった可能性は高いが。

 それに、あの時は打たれ強さも持ち合わせてはいなかった。


「……その言い分、少しは理解できる部分もある、か。いいだろう、そこまで徹底的に打ちのめされたいというのなら、望み通りにしてやろう」


 冷静沈着に見えるイフラースも、存外乗りやすいのかはたまた生真面目すぎる節があるのか、再び木剣を手にした。

 斯くして、リベンジの機会を得たバイバルスだが、勝てる見込みがあるわけではなかった。


 この再戦も、どうしようもなくなった感情が放たれてしまった結果、訪れたものだからだ。

 無論勝ちたいという気持ちはある。

 だから、こうなってしまった以上は勝利のための最大限の努力はする。


 バイバルスも馬鹿ではない、失敗から学ぶくらいのことはする。

 この二回の敗北の理由として挙げられるのは、慢心、無策、間合いを測れていなかったこと。

 これを修正することができれば、最低でも三つは敗北の要因を取り除くことができるということだ。


 また、先の二戦で得たものもある。

 剣先を突きつけただけで発せられる威圧感。

 できることとして、形だけでも真似てみる価値はありそうだ。


 バイバルスは先ほどのイフラースと同じ様に構えて待った。

 これで少なくとも同じ轍は踏まないだろう。


 距離を詰めていき、間合いに入るとほぼ同時に仕掛ければ遅れを取るということもないはずだ。

 イフラースの速さは知っている。

 あれと同じ様にはできないため、どうすれば良いのかを考えたのだ。


 剣先は真っ直ぐに喉元に。

 一気に互いの剣が触れ合うところまで詰め寄る。

 このまま喉に向かって、突き出してもいいくらいだ。


「軽いな」


 イフラースがボソリと呟いた。


(何がだ?)


 その瞬間、持っている木剣の感覚が殆ど無くなった。

 正確にいうなら、柄よりも先、剣身が無くなってしまったかのように感じられなくなったのだ。


 気がつけばへその前で構えていた腕は肩の位置にまで上がっていて、構えは大きく崩されていた。

 いつのまにか、イフラースは木剣を振りかぶっておりいつでも攻撃できる体制だ。


(また、俺の知らないことをされた。やっぱり、相手の方が実力は上。けど、ここからでも)


 小さいが振りかぶっている状態に近い。

 剣は繰り出せないことはない

 バイバルスはそのまま、イフラースに向かって叩きつけるように木剣を振り下ろした。


 振り下ろされた二本の木剣の剣身は、すれ違いその先の目標へと衝突する。

 剣速はやはり、イフラースの方が早い。空を切る音が鋭い。

 一方のバイバルスは、イフラースのものよりも遅いが、剣が空間を進んだ後にはブォンと鈍い音が生まれる。力強い剣だ。


 先に相手に木剣を届かせたのは、イフラースだった。

 バイバルスの木剣がイフラースの身体まで数センチあるところで、すでバイバルスの額を捉えていた。


「ッカ!」


 一瞬、視界が眩んだ。

 額に鋭い衝撃を受けたのだ。

 だが、訪れたのは痛みというよりかは、その部分の感覚がどこかへ飛んで行ったようで不安定なもの。

 ただなんとなく熱を帯びているのと、スゥと液体が肌を這うように一筋流れたのは感じられた。


 焦点は未だおぼつかず、そして視界は縦にブレた。

 前のめりに倒れようとしているのだ。


(結局、手も足も出ないのかよ。このまま倒れて敗北を味わうのか……)


 倒れたら負け。

 先ほどバイバルスは自分でまだ倒れていないから負けていない。そう言った。

 このまま、倒れてしまってもよいのか。


 額を割られ、朦朧とする意識の中負けを受け入れようとしていたバイバルスを阻むものがあった。

 負けるのか。その問いに対する答えは勿論否である。

 一矢を報いてみせろと意識の奥底が叫んでいた。

 ここで何もできないようなら、ナタリーリャを助け出すなど夢もまた夢だと。


 真に強くなろうと言うのなら、まずはここでその気概をみせろ。

 倒れまいと、一歩足が前に出ていた。

 それはそのまま強い踏み込みとなる。


「たお、れない……限り、は……負け、て……ない……!」


「なっ……!?」


 死力を尽くした横薙ぎの一閃。

 その一撃は確かにイフラースを捉えていた。

 木剣を通して、物体を打ちつけた感覚がバイバルスの手にしっかりと伝わってきていた。

 そのまま力任せに振り抜く。


 固く乾いた音と共に、木剣越しに感じていた質量は一瞬倍にでもなったかのように重たくなり、そして一瞬にして軽くなった。


(これで、一矢は報いれたか……?)


 振り切ったところでバイバルスはグラリと前に倒れ込んだ。

 途端に力を失ったように木剣は手からスルリと抜け落ち、バイバルスと共に地面に転がる。


 地面に衝突したことを感じることもない。

 バイバルスは意識を失っていた。



 ※※※※※



(あれは……!)


 気がつけば、身体は地に伏せていた。

 一体いつの間にこんなことになっていたのか。

 倒れる前に気を失っていたのだから、意識を取り戻した今になってその事実を知った。

 だが、バイバルスが驚いたのはいつの間にか自分が倒れていたことではない。


 視線の先に、地面に膝をつけたイフラースの姿があったことに驚いたのだ。

 よく見れば、土がついているのは膝だけではない。肘やら肩やらにもついている。


(まさか、俺がやったのか?)


 意識も定かでない中で、全てを振り絞って繰り出した一撃に手応えがあったことをぼんやりと思い出した。

 それが、イフラースの身体を宙に浮かせてああなったのだろう。


 まだ、イフラースが立ち上がっていなかったということは、バイバルスが意識を失っていたのはごく短い時間ということになる。


「……その頑丈さと腕力は幾分かは認めるべきだな。最悪相討ちになるところだった」


 身体についた土を払いながら立ち上がるイフラースは言った。


「正直、半分半分だった。私の一撃が殆ど完璧に決まった時、お前への完勝を確信した。時間にして一○秒もなかったが、お前の意識は飛んでいたわけだ」


「だが、あれだけの気概を見せていたものが果たして倒れるのかとも思った。一瞬でもそう思えたことによって、なんとか防ぐことはできたが、私が膝をついたのはその腕力を侮っていた証拠だ」


「尤も、それ以外はまるで話にならないが……」


 そんなイフラースの長々とした言葉は半分耳にしていて半分は通り抜けていっていた。

 その理由は今のバイバルスの視線の先にある、イフラースの木剣だった。


 先ほどまで戦闘を行なっており体温は上がっていたはずだが、それが嘘のように感じられない。

 顔からさぁっと血の気が引くとはこのようなことなのだろうか。そう思えるくらいだ。


 あの渾身の一撃が実は防がれていた。

 そのことにショックを感じている訳ではなかった。

 バイバルスの一撃を凌いだ木剣は四センチほど、減り込んだ跡がついていたのだ。その部分だけ抉れていると言ってもいいかもしれない。


 バイバルスはそれをやったのが自分だと言うことに、恐れを抱いていたのだ。

 思えば、イフラースと戦う前もそのような恐れを抱いていた。

 だが、いざ戦ってみればあまりの実力さにそのようなことなど頭から抜け落ちてしまっていた。

 持てる力の限りを尽くさねばならない、と。


 それが終わってみればそのような感覚は冷める。

 そして、実際の力のほどを認識してまた恐れるのだ。


 減り込んだ木剣をただ見ている中、視界の端でイフラースがピクリと反応した。


「……いい顔だな。期待はしないが、せいぜい励むといい」


 いい顔だな、というのは死力を尽くした一撃さえも届きはしなかったという事実に打ちのめされでもしているのか、というような意味なのだろうか。

 それもないことはない。

 少なくともこの勝負の結果について、バイバルスは概ね不満はない。

 やれるだけのことをやり尽くしての敗北。無論悔しさはあるが、先の敗北で感じたものとはまた別だ。

 だが、バイバルスは己の力に恐れを抱いたのが史実だった。


 ゆっくりと腕を伸ばして、中程にまで減り込んだイフラースが使っていた木剣を指差す。

 その動きに合わせてイフラースも視線を動かした。


「……俺の力で、そんなに」


 震える声でバイバルスは言った。


「それがどう──」


 イフラースは言いかけた途中で、言葉を切った。

 同時に眉が吊り上がり、元から鋭い印象を与えていた目はさらに鋭くなった。

 正に怒りの形相といえる。


「お前は、まさか自分の力に恐れをなしていると言うつもりか!? ()()()()()()()だと!」


 イフラースは怒鳴り散らすと、脚を軽く後ろに引き上げ前方に向けてそのまま放った。


「ぐぁ」


 その蹴りは未だ地に伏せたままのバイバルスの頬を穿った。


「……理解に苦しむ。なぜクトゥズ様はこのような者に」


 イフラースが去り際に放った呟きを、バイバルスの耳は逃さなかった。


(クトゥズ、様? じゃあなんだ、このイフラースって男はクトゥズの部下か何かで……)


 クトゥズの目的は何だ。

 色々と考えてみてもまるで分からなかった。

 数日ぶりに姿を見せたかと思えば、特別な用があった訳でもなかった。

 そして、その後突然にイフラースという知らぬ者が現れ勝負を挑まれ散々に打ち負かされる。

 また、イフラースはクトゥズの部下かも知れない。


 察するにイフラースが挑んできたのはクトゥズの差し金だと捉えるのが妥当だろう。


(本当にクトゥズは信用してもいい相手なのか)


 今度こそ去って行くイフラースの背を地べたから見つめながら、バイバルスの心は再び揺れ動いていた。


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