濁り
後でゆっくり話そう。
以前、バイバルスがアナトリアのスィヴァスという街でたまたますれ違った男と思わぬ再会を果たして言われた。
しかし、バイバルスはその男の名前も知らぬので、後で話そうと言われても訪ねることが難しかった。
そんな問題は解決される。
その晩、向こうの方からバイバルスを訪ねてきたのだ。
簡素な木製の扉を叩く音がして、こんな時間に一体何なのだと、警戒心を持ちながらバイバルスら扉を開ける。
向こう側にいたのは件の男だった。
「久しぶりだな、隻眼の」
まるで旧知の友にでもあったかのような笑顔で男は言った。
「あ、ああ」
お互いにまだ名前を知らない。
バイバルスはモンゴル軍に襲われた時に左目を失っているため、その部分を特徴として呼べば伝わる。
しかし、訪ねてきたこの男は特にそういった特徴はない。
強いていうなら、パッと見た時に目を引く金色の瞳から、金色の瞳の、とでも呼べば良いのだろうか。
いや、呼びづらい。却下である。
そも、再会とはいうがほの一瞬すれ違った程度の間柄でしかないのである。
お互いに目を引いて、一言言葉を交わしたとも言えぬようなやりとりを行っただけだ。
そういったこともあって、バイバルスはこの金色の瞳を持つ男との距離感を図りかねていた。
返事もぎこちないものとなる。
「どうした、そんなに緊張するな」
「……距離感がよくわからないんだよ。前に会ったっていっても、すれ違っただけだし。そもそも、名前も知らない」
それに加えて、なにかこうハッキリと言葉に出来はしないのだが、あえて言うならばこの男の存在が大きいような気がして、少しそれに押されてしまっているというのもある。
存在が大きいというのは、身体つきがいいだとかそういうことではなく、気配的な何かが大きいのだ。
「あーそうか、そうだな。そうだった」
言いながら男は室内に入り込んで腰を下ろした。
立ち話もなんだということなのだろう。
バイバルスがあてがわれている兵舎は石造りの建物で、一部屋に二段の簡素な木製ベッドが置かれてある以外は特に特筆すべきものはない。格子のかかった窓があるくらいだ。
部屋のスペースのほとんどはベッドで埋め尽くされ、残った部分は人一人が倒れる通路くらいの広さしかない。
二段式のベッドがあることから分かるが相部屋だ。
バイバルスの相方は20も半ばを過ぎたくらいの男で、テュルク系民族ということでアラビア語でなくとも意思の疎通は可能だが、別段話すようなことはない。
すでに眠っている。
こんな狭い場所に金色の瞳の男が腰を下ろした以上、バイバルスも立っているわけにはいかない。
大柄なバイバルスにはちと窮屈だが、仕方なく腰を下ろした。
(というより、当たり前のように入ってきて居座ったな)
別段そのことを咎める気持ちもないし、気分を害したわけではないが、大胆というか面の皮が厚いというか、そんな風に思った。
「先ずは自己紹介だな。隻眼の、名前はなんでいうんだ?」
「バイバルス」
「そうか、バイバルスか。隻眼のバイバルス」
何やら勝手に、通り名みたく隻眼のと付けられているがそれは一旦置いておく。
代わってバイバルスが名前を尋ねた。
いい加減、名前を知らないと呼びづらいのだ。
「ああ、悪い。オレの名乗りがまだだったな。クトゥズだ。ムザッファル・クトゥズ」
「ところで、クトゥズは何のようで俺の元に?」
名前も分かったところで、本題に移る。
「隻眼の、お前歳はいくつだ?」
早速、クトゥズは聞いた名前などなかったかのようにこれまでの呼称を使ってくるが、バイバルスは気にしない。
それよりも、わざわざ訪ねてきたのが年齢を知るためだとでも言うのだろうか。
そんな訳がない。
質問とそれに対する回答が噛み合っていないと思いつつも、バイバルスは正直に答える。
「十四」
「十四っていうとオレより歳は下だな。そんな気はしてたが育ちすぎて一瞬疑ったぞ」
恐らく、クトゥズはスィヴァスで会った時にはバイバルスは現在ほど逞しい体躯ではなかったため、おおよその年齢を測ることができるのだろう。
バイバルスはとても十四とは思えない身体つきをしているのだ。
「オレは十七なんだよ。オレのが歳上。クトゥズさんだろ?」
飄々と言っているため、本気で咎めているわけではなさそうだ。
それでもバイバルスは一応言うことを聞いておくことにした。
「クトゥズさん」
「ははは、冗談だ。クトゥズでいいし、畏まらなくてもいい」
大して笑える冗談でもなかったが、ふとバイバルスはモンゴル軍に襲われて以来笑ったことがあっただろうかと振り返った。
それより前は、目の前のクトゥズのように大笑いをするようなことはなかったはずだが、どんなことでどんな風に笑っていたのだろうか、全く思い出せなかった。
「とまぁそんなことより隻眼の。お前変わったな。あー、いや、殆ど初対面で碌に知りもしねぇくせに何言ってんだと思うだろうがそう言うことじゃあない」
バイバルスが勝手に最後に笑ったのはいつなのか、と自分を振り返っていると、クトゥズに変わったと言われて意識はそちらに移る。
正しくクトゥズ自身が今言った通りだ。
怒るようなことではないが、たった一回すれ違った程度で知った気になられるのはあまりいい気にはなれない。
そうではないとクトゥズは言っている。
ではどう言うことなのかとバイバルスが口を開く前に、クトゥズが話し出した。
「言ってしまえばこれはオレの勝手な印象でしかないが、隻眼の、変わったってのはお前の眼だよ。最初に会った時は光が宿っていたような感じだったが、今は濁ってる」
クトゥズは口には出していないが、何があったのかと言っているようなものだ。
そんなクトゥズの言葉に対してバイバルスが思ったのは、そうだったのかと無自覚だった事実に気づいたというわけでもない。
実は、と打ち明けるわけでもない。
(知らない、そんなことは)
以前は眼に光が宿っていただとか、今はそれが濁っているだとか、言われたところで知らなかった。
そして、だからなんだと思った。
これはクトゥズも自分で前置きしていたが、クトゥズの勝手な印象でしかない。
深い親交があった上で変わったと言われるのであれば、まぁそうなのだろうが、クトゥズの場合はそうではない。
変わったというよりは、イメージと違うと言ってもらった方がしっくりくる。
イメージと違うと言われたところで、どのみち勝手な話ではあるが。
「何かあったのか?」
「……殆ど初対面の相手にそんなこと言われてもな」
「そりゃあ、もっともだ。悪かったな」
「気に障ったわけじゃあない」
「……まぁ色々あったんだろうよ。ほんの数ヶ月の間に体付きが見違えるほどになってんだからな」
その辺りが理由なんじゃあないのか? とクトゥズは探るように言う。
「……俺の目的が揺るがされるようなことはあったさ」
変わったか否かは置いておくとして、バイバルスに起きたことで言えば大きなものは一つある。
隠すようなことでもないが、わざわざ言うほどのことでもない。
このまま誰にも話すことはなかっただろうことを、バイバルスは思わず口に出していた。
「へぇ。よかったら聞かせてくれよ。このオレが解決しちまうかもしれねぇぞ」
ニヤリとクトゥズは笑って言った。
冗談めかして言っているようではあるが、その金色の目は冗談を言っていない。聞かせてみてくれと言っている。
「俺には姉さんがいて、二人で奴隷に堕とされたんだよ。モンゴル軍の侵略でな」
相手が真面目だろうが茶化していようが、積極的にバイバルスはついては語らない。
だが、今は自然と口を開いていた。
他人で、身の上話をするような人物がこれまでいなかったというのが正解だが。
バイバルスが口を開いていたのも、クトゥズが話してもいいような人間だと感じたからかもしれない。
バイバルス自身に自覚はないが、バイバルスがまともに話せるのは姉のナターリャくらいである。
そのナターリャとも最後はすれ違った。
いや、もっと前からすれ違っていた。
気づかないうちにバイバルスの世界は閉鎖的で窮屈なものになっていたのだ。
そこに現れたのがクトゥズである。
バイバルスはお構いなしにクトゥズに踏み込まれたのだ。
「やっぱり、隻眼のも同じか」
「クトゥズもそうなのか?」
「ああ、俺はホラズム・シャー朝の者だからな。蹂躙され尽くして、王朝は滅んじまったよ。だが……いや何でもない」
表に見える表情は変わらず飄々としたものだったが、クトゥズの目の奥には静かに怒りが湧いているようにバイバルスには思えた。
そんな、クトゥズは最後に何か言いかけたがそれを話す前に辞めてしまう。
「何だよ言いかけた途中で」
言いかけて辞められると、無性にその先が気になるものである。
「オレがバイバルスの話を聞いているんだから、今はオレの話はいいだろ」
問うてもクトゥズはそれ以上喋るとは思えなかった。
バイバルスはスッと諦める。
クトゥズが言いかけた言葉の先は気になるには気になるが、ああいう言い方をされたから気になっているだけで、果たして本当に気になるかといえば首を傾げることである。
それよりも、どちらかといえばバイバルスは自分の話を聞いてもらいたい気持ちであった。
何となく、なぜナターリャとすれ違って別れなければならなかったのか。
バイバルスの心の中にあるモヤ、クトゥズに言われた濁りというのがそれならそれでもいいだろう。
とにかく、そのモヤでも濁りでもあっていい気はしない。
それらが、クトゥズに聞いてもらうことで少しでもマシになるのではないか。
そんな期待がバイバルスにはあったからだ。
スィヴァスの街ですれ違った時に感じたクトゥズの存在の特異さがバイバルスにそう思わせている。
「……まぁいいか。それで、侵略を受けた時に襲ってきたモンゴル兵から俺を庇って姉さんは片脚が不自由になって結局俺と一緒に奴隷に堕ちた」
話しながら、バイバルスの頭の中にはあの時の光景が蘇っていた。
父を目の前で失い、自身の無力に打ちのめされているナターリャに、バイバルスが放ってしまった心無い言葉。
それでも、ナターリャは恐れるだけでなにも出来なかったバイバルスを守り傷ついた。
そこまでになってようやく、バイバルスは動けたが無様な醜態だ。
そんな苦々しい記憶に、バイバルスはギリっと歯を食いしばった。
「あの時、俺にもっと勇気と力があれば姉さんは傷つかずに済んだ。それから俺は強くなるために、姉さんへの償いのために生きると誓った」
──それだというのに。
ナターリャはバイバルスの在り方を認めなかった。
辞めてくれ、不要だと。
「姉さんに、そんなことはしてくれるなと言われて、じゃあ俺は一体な何のために? って足下が揺らいだ……」
確かにバイバルスは償いと言っておきながら、一時は償いの対象であるナターリャが見えなくなるまでになっていた。
だが、なぜ在り方を否定されなければならないのだろうか。
そんなすれ違いの中で、バイバルスとナターリャは引き離された。
「ふぅん……」
クトゥズはバイバルスの吐露を最後まで聞くと、まるで興味がないように、ため息混じりのつまらなさそうな言葉を溢した。
「なんだよ、聞いてきたのはそっちだろ?」
あまり思い出したくもない記憶まで思い出して話したというのに、クトゥズの反応にバイバルスはムッとなって言った。
話を聞かせてくれ、聞いてやると言われて相手にそのような態度をとられたらバイバルスでなくとも腹が立つだろう。
人を小馬鹿にしているのかと、バイバルスが詰め寄ろうと腰を浮かしかけたところで「まぁ待て」と言うように、クトゥズの手が前に出されていた。
「つまりは、だ。隻眼の、その眼の濁りっては姉とのすれ違いからきてるんじゃあねぇのか? いや、もっと前か。多分モンゴル兵に襲われて庇われてってとこからだな」
まるでつまらないとでも言うような態度でありながら、クトゥズがちゃんと細かく話を聞いていたことに、バイバルスの目は瞬きを忘れていた。
「あーあーそうかそうか。オレたちがスィヴァスで会った時には既にその兆しはあったわけだ。その後で隻眼のと姉の間ですれ違いがあって、いよいよ濁っちまったんだな」
なにやら一人で納得してしまっているに、バイバルスは完全に置いていかれていた。
「クトゥズ、何を言って……」
「何ってそりゃあお前のことだろ。まぁ反応からも概ねオレの予想は合ってそうだし、どうだ。オレについてきてみないか、隻眼の。その濁りなんざ取っ払っていいもん見せてやるぜ?」
(どうして、そうなった?)
何やら勧誘を受けているようではあるが、バイバルスにはそれが何のことだかさっぱりだった。相変わらず置いてけぼりを食らっている。
一つ分かっているのは、「濁りを取っ払ってやる」と言ったクトゥズが妙に自信げであり、バイバルス自身も把握出来ていない濁りの、恐らく根本的な何かを分かっているように思えること。
そも、バイバルスは濁りというのが未だに納得しきれていないが、それでも理屈などすっとばしてそうなのかも知れないと思える部分があった。
スィヴァスでクトゥズを初めて目にしたときに、感じた「この男は何かを変える」という感情が再び芽生えていたのである。
バイバルスのクトゥズへの印象は、小さな苦手意識と不思議と惹きつけられるようなものの二つに分かれていた。
ズケズケと入り込まれていい気はしない部分もあった。
それでも、話せてしまった。話してもいいかもしれないと思わされたからだ。
今も同じである。
この男について行くのか否か。
あまりにも、唐突なことでまともな判断がついていっていないかもしれない。
こういう時には、返事は一時保留とするのが最適解であろう。保留とできるのだから。
だが、いい感情と悪い感情が存在する中で、悪い感情を考えずバイバルスは心の中で頷きかけている。
(俺は今、一体どこを目指しているんだ?)
どちらに判断を傾けるのか。
それを考えたときにふと頭をよぎった。
(姉さんを助けるだとかいう割には、何をすればいいのか何も見えていない)
結果はどうあれ、少なくともハマーやスィヴァスでは強くなろうとしていた。
それが、今はどうだろうか。
明確なものはまるで見えていない。
(前にも感じたことだ。クトゥズは俺に答えを与えてくれる気がする。この直感を信じてみてもいいんじゃあないか)
たった一度の偶然ですれ違っただけの人物とこうして再会を果たす。
あたかも天が巡り合わせたものではないのか。
バイバルスの思考はクトゥズの手を取る方へとどんどん傾いていく。
そのための理由が次から次へと考えつくのだ。
まるで、自分自身を納得させるかのように。
やがて、バイバルスは片方だけの眼でクトゥズを見据えた。
その手を取るのか否か、たっぷり数十秒の時間をかけたその答えとして、クトゥズの手を握っていた。
「先ずは、ほんの少しだけいい目になったな。隻眼の」
「クトゥズ、俺を導いて見せてくれ」
特に何か考えて放った言葉ではないが、クトゥズは一瞬面食らったように目を見開いた。
「見せてくれとは、随分デカく出たものだな。……最高の景色を見せてやるよ、隻眼の」
が、すぐに驚かされたことなどなかったかのように、白い歯を見せて自信たっぷりに笑みを浮かべながらクトゥズは言った。
おまけとばかりに、バイバルスは胸を軽く小突かれた。
何か、大きく動いたのだろうか。
この時点では、バイバルスに知る由もない。
ただ、クトゥズの手を取るかどうか僅かでも疑念を抱いたものの、いざその手を取ってみれば存外悪い気はしていなかった。
再び謝罪です。
バイバルスがハマーでアル=マリク・アッ・サーリフの元に購入されるということは史実ではありません。
作者が把握している限りですとハマーのアイユーブの王族に売られたといいうのが正しいはずです。
何を勘違いしたのか、サーリフがハマーのアイユーブの王族という風に書いてしまっております。
ついでに言うと、バイバルスもクトゥズもそこで出会っているという事実もありません。(そもそもバイバルスはサーリフの元に購入されていないので)
また、クトゥズがサーリフ旗下のマムルークであるという記述もありません。
ただ、クトゥズはその半生が明確に分かっていないため、ある程度は好きに描いてもいいのかな、と言う思いで書いております。
誠に都合のいいことではありますが、今後はざっくりとした大筋を史実通りに描いていきます。
勿論、ちゃんと描ける部分はちゃんと史実を元に書きます。