再会
バイバルスはアイユーブ朝という王朝の王家である、アル=マリク・アッ=サーリフの元に買い取られた。
(姉さんにはあんなこと言ったけど、結局奴隷っていう立場は変わらないんだよな)
むしろ、奴隷商人の元にいた時よりもバイバルスが置かれている状況は悪いかもしれない。
いや、奴隷商人の元でのバイバルスの立ち位置が少々特殊だったのだ。
都合のいい労働力を提供するからといって、商品の待遇がほんの少しでも良くなるということは普通はない。
偏にバイバルスの並の人間では早々ない肉体がそうさせていたのである。
そんな日々も奴隷商人の元を離れてしまえば終わりである。
売られた先は王家で、道具などいくらでもいる上に、壊れたならばまた新しく買い換えれば良いのだ。
いかにバイバルスが労働力として期待できようが、関係はないのである。
それに、そもそもバイバルスは隻眼であるというハンデまで背負っているのだ。
ここのアイユーブ家とやらに買い取られた奴隷はバイバルスだけではない。
しかし、バイバルスのみが他の奴隷とは離されどこか別の場所に連れて行かれるようだった。
一人だけ別の場所に連れて行かれるというのもあって、一体どうなることやらと、不安を感じるバイバルスを迎えた光景は幾らか想像と違うものであった。
「……これは、一体」
スィヴァスやハマーの街で見たことがある奴隷といえば、人の形をした物。耐久消費財であった。
パッと見であるため、詳しくは分からないがここの奴隷はバイバルスが見てきた奴隷とは少々違うように思えた。
無論、都合の良い労働力というような部分は同じようなものだが、使役する人々や奴隷がいる空間としての空気が異なっていると感じたのだ。
バイバルスは環境を見渡しながら、言われるままに連れていかれる。
ちなみに、スィヴァス、ハマーを経てイスラム圏にいたバイバルスは奴隷商人の元で働く中、自力でなんとか拙いアラビア語を身につけているため、文字が書けないことを除けばここでのコミュニケーションが取れないということは無くなっている。
やがて、景色は何やら物々しい雰囲気の場所へと変わっていった。
(ここにいるのも奴隷なんだろうが、またさっきとは違うな。ここにいるのは奴隷というより、兵士みたいな?)
そこは開けた空間で、多くの人々がいた。
誰もが武器を手にして地面から生えた鎧を着込んだ人形に槍を突き出していたり、素手同士での格闘、木剣による模擬戦、弓を射っていたりしていた。
(いや、やっぱり兵士か)
奴隷して買われたバイバルスが連れてこられた場所であるため、そこにいる者達も奴隷なのだろうと思っていたが、見れば見るほどそうは思えない。
バイバルスの知っている奴隷はもっと虐げられていて、扱いは人間ではなかった。
そもそも、バイバルスの目に映る人々は兵士にしか見えない。
「貴様はこれからここで兵士として鍛錬に勤しんでもらう」
「は」
バイバルスが耳にした言葉は意外なものだった。
果たして今聞こえた言葉は本当なのか。聞き間違えではないのかと思わず声が溢れてしまった。
「貴様に拒否権などない! 理解したら、いや理解せずとも従え!」
「……はい」
バイバルスとて、自分の体躯が常人離れしている自覚はある。
寧ろ、奴隷商人の元ではそれを利用していたのだ。
誰もが一四歳という実年齢を聞けば耳を疑うだろう。
どう見ても、殆ど成人した男性と同じようにしか見えないのである。それもただの男性ではなく、立派な体躯を持っ偉丈夫である。
バイバルスの中では奴隷イコール耐久消費財の労働力であったが、なるほど自身のことを考えてみれば屈強な兵士にするというのも有効であると考えられるものだ。
(それでも、奴隷が兵士の中に混じってもいいのか? 奴隷は人じゃないっていうくらいだから散々な目に遭うんじゃあ)
訓練に励む兵士たちは誰も彼もがバイバルスに負けず劣らずな立派な体躯で、その瞳には闘志と自信に溢れているようであった。
(俺を買い取ったのは王族だったな。そこに仕えている兵達だ、プライドも高いかもしれない)
そんな集団の中に奴隷が入いろうものならどうなるかなど、想像に難くない。
(流石に勝てないぞ。そもそも、ある程度自信こそついたが戦ったことなんてないに等しいし)
これまでバイバルスが強気な姿勢でいられたのも、相手が体格に劣り戦闘に関しては素人であろう商人だったからだ。
全くもって情けないことだとナターリャには殴られるだろうが、あれもナターリャのために生き抜く手段だった。
そういうわけだったが、今は違う。
兵士なのだから当然だが、戦闘を生業とする者達である。
いかに少々体躯に恵まれていようとも、戦闘経験がないバイバルスでは勝負にならないだろう。
それに、相手も偉丈夫だ。バイバルスのアドバンテージになり得る部分も無くなっているというのだから尚更であろう。
(……姉さんにいつか迎えに行くと言った以上は実行する。姉さんを支えていくなんて自分に誓っておきながら、今だって結局姉さんに後押しされたようなものだ)
(まだ俺は姉さんに迷惑をかけるのか。こんなの、あの日から俺は殆ど前に進めていないじゃあないか)
ふと、随分と弱腰になってしまっていることに気づいたバイバルスはギリッと強く歯を噛んだ。
(たとえ側にいなくても、俺は姉さんのために。それが俺の使命で償いだから)
「なんだ貴様、なにか文句でもあるのか」
この男からすれば、バイバルスが突然に音が鳴るほどに歯を食いしばったのだから、注意を払っておくに越したことはない。
音が鳴るほどに歯を食いしばるということは、それほどまでに感情が高ぶっていることの現れ。
状況から、男がそれを見て考えられることはそう多くないだろう。
常人より優れた体躯を持つ男が奴隷として連れてこられた。
その者が強く歯を食いしばった。
奴隷という立場に不満があり、こられられないのだと、そう受け取られたのだ。
「いえ、なんでも」
「そうか。ならばいいが、せいぜい変な気は起こさないことだ」
※※※※※
最終的にバイバルスが連れてこられたのは、広間とそこより段が高い台とでも言えばいいだろうか、ざっくりいえば大きくその二点が目立つ建物内だった。
特に派手な装飾などはなく、景観としてはあっさりしている。
広間となっている部分には最低でも百人は裕に収まるだろう。
それくらいの広さだった。
他に目立つことといえば、両端に武装した兵士が数名控えているくらいだ。
(何か兵士に注目されている気がするのは気のせいか?)
一瞬、敵意ではないが強い視線を向けられた気がしたが、すぐにその感覚は消えた。
やはり緊張でもしているのだろうか。
その広間には現在バイバルスを含めて三〇人程度が集められており、多少バラツキはあるもののガタイが良いと言えるような男達ばかりである。
年齢もバラバラで、一つ共通している点といえばやや見窄らしい姿だろうか。
バイバルスがスィヴァスやハマーで見てきたのと同じだ。
つまりはこの広間に集められた三〇人ほどの人は皆、バイバルスと同じく奴隷として購入された者達ということではないだろうか。
喝を入れたとはいえ、それでも何処かに残っていた不安は同じ様な人が他にもいたということで和らいでいた。
間もなく、バイバルスらが立っているところより一段高くなっている舞台の上に一人の男が現れた。背は高く、肩にかからないくらいまで伸びたやや色素の薄い黒髪が特徴的だ。
その男は、両端に控えている兵士たちよりやや豪勢な装備に身を包んでいることから、それなりの地位の人間だということが分かる。
さて、これから自分達はどうなるのか。
なんとなく、この前に立った男の指示如何で今後の命運が決まる様な思いで、バイバルスを含め知らず唾を飲んでいた。
「我が名はアイバク。イッズッディーン・アイバクだ。アル=マリク・アッ=サーリフ様旗下のマムルークの一指導者だ」
(アイバク。……マムルークってのはなんなんだ?)
かの男はどうやらアイバクという名前らしい。
それ以外の単語はバイバルスにはピンときておらず、特にマムルークというのは初めて聞いたものだった。
一指導者やら、サーリフとやらの旗下の者であることから、恐らく何らかの役職名なのかと見当をつける。
「主からの命を伝える。先ず一つ。お前達を奴隷の身分から解放する! これによりお前達は身分上は自由人と変わらぬ者となる」
思ってもみなかった言葉に一同から「おぉ」と感嘆の声が漏れた。
その声は続くアイバクの「だが」という言葉によって遮らられることとなる。
「だが、お前達は奴隷としてここに連れてこられた者だ。ここより遠く離れた土地の者達も多いことだろう。元々このイスラーム社会に所属していたわけではないのだ」
(なんだ? 一体アイバクという男は何が言いたいんだ?)
一瞬、奴隷から解放されるという喜びはあったものの、アイバクの話し様からそう都合のいい話でないことは予想できる。
だが、一度奴隷から解放されたということは既に所有物ではないということだ。
そうなった状態で果たしてどの様な強制力があるのか、またその目的がさっぱり分からなかった。
(そもそも、金を払ってまで手に入れたものをすぐに手放すってのはどういう理由だ?)
まるで理解できない事態にバイバルスは薄気味悪さを感じていた。
「よってお前達は奴隷という身分から解放はされるものの、力ある者の保護下に置かれなければならない。つまりは、お前達は主であるサーリフ様に保護される被保護者となるわけだ」
(半強制的に俺たちは、そのサーリフとやらとの間に主従関係を結ばされるってことか。……それなら何でわざわざ奴隷から解放させたんだ?)
そのような回りくどいことをしなくても、奴隷のまま手元に置いて使えばいいだけのはなしではないか。
バイバルスには、やはりこの一連の流れが理解できなかった。
主従関係を結ばされるとはいえ、奴隷から解放して貰えるというのはありがたいことではある。
が、相手方にどうにでも扱われてしまう立場である以上は、理解が出来ないことは恐ろしさを感じるところである。
「お前達にはこれより、主に使える優秀な戦士となるべく訓練に励んでもらう! 元奴隷身分出身の軍人をマムルークと呼ぶ」
唐突な奴隷身分からの解放という事態に、未だに理解が追いついていないバイバルスを置いてアイバクの話は進んでいく。
理解が及んでいないバイバルスは、なんとか情報を得ようと続くアイバクの話を一言一句漏らさぬ気持ちで耳に神経を集中させる。
「マムルークに求められるのは高い戦闘能力と忠誠心だ。能力を評価されれば高い地位に就くこともあるだろう。かくいうこの私もマムルークだが、ここまで出世した。皆も存分に励むといい!」
アイバクの言葉に「おぉ!」と歓声が上がる。
働き如何によっては高い地位に就く可能性を示唆され、目の前にいるアイバクもマムルークだという。
実例がいる以上、それは夢物語でないことを証明されたのだ。
ただでさえ、奴隷から解放されて舞い上がるほどの気持ちというところに、それ以上の話が出てきたのだ。
決して容易な道ではないだろうが、このタイミングでは誰だってやってやる、出来るはずだと全能感に満ちているのではないだろうか。
バイバルスの例外ではなかった。
(いきなり奴隷から解放されたときはどういう裏があるのかと思ったが、こんないい話はない。マムルークとして上り詰めれば姉さんを迎えに行くことだって簡単だ)
腹の奥から熱い何かが湧き上がる様に昂っていた。
※※※※※
歓声が上がる中、アイバクは満足そうにその場を離れていった。
それに何人かの控えていた兵士が続いていく。
「見事な手腕です、アイバク様」
その内の一人の兵士が話かける。
まだ若く青年の一歩手前くらいだろう。
金色の瞳が目を引く。
「なんのことやら。私はただ主の命を遂行したまでだ」
アイバクは肩をすくめてとぼけてみせる。
主の命とは、バイバルス達を奴隷身分から解放することである。
言ってしまえば、ただ「お前達はこれから奴隷身分から解放される」と告げるだけで大したことではない。
その程度のことを称賛するのは太鼓持ちが過ぎるというものだ。
だが、無論男はそんなことを称賛したのではない。
事前に見繕っていたとはいえ、果たして彼らが優秀なマムルークになるかどうかは今のところ分からない。
だが、言われるままに仕方なく目指すのと自らやる気を持って目指すのとでは結果は大きく異なるだろう。
演出と呼ぶのは少々大袈裟かもしれないが、アイバクの演出は見事に奴隷身分から解放されたばかりの彼らの心を掴んだと言ってもよい。
「全てアイバク様の計算通り、とお見受けしましたが」
突然のことに混乱してることころを狙ったというのもあるだろう。
そういうのもなにもかもを含めて、計算して行ったアイバクを男は持ち上げたのだ。
アイバクが計算して行った細かい部分まで気づいたこの男も中々に鋭いといえよう。
「……全く。その爪は隠しておけば良いものを。いや、その辺りも才と言うのかね。やはり最近のマムルークの中では群を抜いてるな、クトゥズ」
「ありがたく」
年若い男、クトゥズは金色の瞳を細めた。
※※※※※
奴隷から解放され、バイバルスがマムルークとして鍛錬を積み始めてから数日が経った。
剣術に槍術、格闘術などこなすことは様々だが、バイバルスと同じく奴隷から解放された者の中ではバイバルスが一番だった。
やはり、バイバルスの力というの人並み以上の様で、大抵力任せに振るえば勝負がついてしまうのである。
あくまで、訓練とはいえ実践経験皆無のバイバルスに自信が芽生えるには十分だった。
実践経験が皆無だからこそだろうか。案外大したことではないのだな、という気持ちが芽生えていたのだ。
バイバルスは相手が素人同然だということをすっかり忘れている。
ナターリャには幼い頃から散々「お前は強い」と言われてきたのがやっと分かった気がしていた。
(今更だけどさ、分かったよ姉さん)
だからこそ、モンゴル軍に襲われたときのことが付き纏う。
(あの時俺に立ち向かう勇気があれば)
どうしてあんなにも臆病だったのだろうか。
あれは本当に自分だったのかと、歌が痛くもなってくるものだとバイバルスが思ったときだった。
ふと、何かが胸につっかえているような感覚が芽生えた。
「おお、おお。やっぱりじゃあねぇか。まさかこんなところで再会できるなんてな」
何だ今のはとバイバルスが首を傾げたところで、背後からかかった声にそれは鳴りを潜めた。
「あ」
バイバルスが振り返ると、そこにいたのはスィヴァスでバイバルスが愚行に走ろうとするのを止めた男だった。
会ったといってもすれ違ったようなほんの短い時間のことだったが、鮮明に覚えている。
「この間、アイバク様が奴隷を解放されたときにまさかと思っていたんだが、そのまさかだったなんて」
いや驚いたと男は笑う。
「まぁ、後でゆっくり話そうや隻眼の」
「あ、ちょ」
男は強くバシバシと背中を叩くとそう言って去っていった。
バイバルスはその勢いに碌に言葉も発せられなかった。
「後で話そうって、名前も聞いてないぞ」
バイバルスとしても、まさか再会を果たすなど思ってもいなかった。スィヴァスであの男に抱いた、あれは特別な人物かもしれないという感想から興味があるため、話してみたいとは思うのだが、素性を知らなければ尋ねることもできはない。
(……痛いな)
男に叩かれた背中がじんわりと熱を帯びている。
苦しいだとか辛いだとかいう、痛みではない。
なにかこう、染み渡るような、感覚でいえばナターリャに殴られた時のものに近いかもしれない。
そんな感触が刻まれていた。