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MAMLUK-マムルーク-  作者: ワンサイドマウンテン
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ハマーの少年

 ゆっくりと流れる景色は、腰に届くくらいの緑の草が一帯を覆っていた。

 一見すると、バイバルスの故郷であるキプチャク草原に近い景色に思える。

 背の高さこそ違うが、緑に覆われているというのであれば似ているといえよう。

 ただそこに一点、差異があるとすれば、大地を流れる水があることだろうか。

 所謂所の川である。


 無論、キプチャク草原にも川は何本か流れているが、キプチャク草原は広い。

 バイバルスが暮らしていた地域では見られなかったのである。

 遊牧民族であるため、移動をしていればそのうち拝めることもあったかもしれないが、それよりも前にモンゴル帝国の侵攻を受けその他を追われてしまった今となってはそれも叶わない。


 結局、バイバルスとナターリャはスィヴァスでは買い手がつかないまま三月を過ごし、いよいよ奴隷の供給過多となったアナトリア半島を出ることとなったのだ。


 現在、バイバルスとナターリャはシリア西部オロンテス川の中流にある都市ハマーへと移動している最中である。

 この辺りは穀倉地帯で、バイバルスが目にしている緑はどれも穀物である。


 荒涼としていると言えなくもない、アナトリア半島とはうって変わった景色で、スィヴァスまでの道のりよりかは幾ばくかマシに思わせてくれるような光景だった。


 古代のハマト王国の都というだけあって、王国が滅んだ後の夜でも、シリアにおいてはダマスカスやアレッポスなどの他の都市に次ぐ都市である。


 東西の交流地ともいえるスィヴァスとはまた違った賑わいを見せたいた。

 スィヴァスが多種多様な文化が混在した賑わいを見せているのに対して、ハマーはイスラム圏に置かれている。

 過去にはビザンツ帝国の支配下にあったものの、イスラム色の方が強い。

 ウマイヤ朝、セルジューク朝に続き、現在はアイユーブ朝という王朝の支配下にある。


 さて、そんなハマーの奴隷市場に並ぶバイバルスだが、そこでもやることは変わらない。

 無償の労働力としてその身を捧げるのだ。


「ここでも買い手がつくまでしっかりやれよ? バイバルス」


「分かってる」


「チッ。イジメがいのねぇガキだな」


 鞭の一つでも飛んできそうなものだが、商人は吐き捨てるように言うだけに終わった。


 というのも、この三月ばかりの間に、人一倍労働に勤しんだバイバルスの身体は、随分と逞しくなっていたからだ。

 元々歳の割には下手な大人よりも立派な身体つきをしていたバイバルスである。

 三ヶ月の苦役が更にそれを鍛え上げたのだ。


 とはいえ、健康状態が良くなければ、立派には育たない。

 そこは、バイバルスが自らの働きで自身に価値を生み出したのである。


 商人からすれば、バイバルスは大口で買い入れた奴隷の一人だ。

 一人分の値段としてみれば安いものだろう。

 それが、無償で十分すぎるほどに働くのだ。

 となれば、いかに人の形をした道具とはいえ無為に使い潰すのも惜しい。

 多少は恵んでやるのもやぶさかではないというわけだ。


 かくして、バイバルスの身体は逞しく成長したのである。

 仮に、バイバルスが反抗すれば自分などひとたまりもないだろうと商人が悟るほどだ。


(まぁ、だからといってなにをする気もないけどな)


 力任せに商人一人を捻り潰すくらいなら、今のバイバルスには訳のないことだろう。

 多分、三ヶ月前のスィヴァスの頃のバイバルスでもそれは出来ないことはなかっただろう。


 実行しないのは、そんなことをしても無意味だと分かっているからだ。

 商人を捻り潰した後はどうするのか。

 残念ながらバイバルスには、家畜の世話をするくらいしかできない。

 奴隷が一人暴れたところでこの街の領主の兵に抑えられるのだ。


 だから、やらない。

 現状から抜け出したいという願望はあっても、その手段では叶えられないのだ。

 スィヴァスで出会ったあの男に諭されてから、バイバルスはずっと考えているが、これまでに何か思いついたことはない。


 そして、考えて結局良い手段が浮かばなかったときに思い出すのは、やはりあの男だ。


 ほんの僅かな時間に目を合わせてすれ違っただけだが、この人物なら自分を導いてくれるかもしれないと直感したことをバイバルスは忘れていない。


(しかしまぁ、これを強くなったというのかは分からないが、自信はついたかな)


 大人と同じくらいの重さはあろうかという荷を担いだ自身の腕を見てバイバルスは思った。


 今のバイバルスは、草原にいた時のようなナヨナヨしい印象を与えるものではなかった。

 威風堂々といえるほどではないかも知れないが、随分と前向きで、また挑戦的になりつつあるのだった。



 ※※※※※


 バイバルスがハマーに連れてこられて半月が経った。

 その日もバイバルスは無償の労働に精を出していた。


「バイバルス、お前に買い手がつかれた。お前のご主人となるお方はアイユーブ家のアル=マリク・アッ=サーリフ様だ」


 本日の労働を終えて戻ると、いつもより少し上機嫌な商人が待っていた。


(誰だそれ)


 名前を言われたところでピンとこないというのが、バイバルスの正直な感想だった。

 大層な名前からして、高貴な身分の者なのだろうが、バイバルスからすれば誰が主人であろうと関係はないのである。

 いずれは奴隷という身分から脱却したい身だ。

 むしろ、奴隷を脱するというならば権力(ちから)の強い主人など都合が悪いばかりである。


「まさか王族に買い取ってもらえるとはな。お前のことを吹聴して回った甲斐があったというものだ」


(アル=マリ……なんだったか。なんとかサーリフだったか? そのサーリフってのが王族って冗談じゃあないな)


 具体的にどういった手段で奴隷の身分から脱却するかというプランは今のところ無かったが、相手が王族というのならその難易度は高いということくらいバイバルスも分かる。


「そうだ、姉さんは。もちろん姉さんも一緒なのか?」


「バイバルスてめぇ、サーリフ様の元でもそんな生意気な口きいてたら殺されるぞ。んで、相変わらず姉さん姉さんうるせぇ奴だな」


 溜息混じり言う商人に、バイバルスはそんなことはどうでもいいと言わんばかりの眼力で迫った。

 それは片目からだけとはいえ、凄まじいものだったがそれくらいなら慣れたものなのか商人は舌打ちした。


「チッ、てめぇだけじゃあなく姉まで少しは目をかけてやったってのに生意気な奴め。残念だが、買われたのはバイバルスだけだ。ざまぁみろ」


 イジメがいもなく、もし反旗でも翻えされたらひとたまりもない相手である。

 利用価値があるとはいえ、溜まった鬱憤を晴らすように商人は言った。


 いつもならば罵るくらいは何てことはない。

 だが、商人は言い終えた後はたと気づいた。

 今回は少し事情が違うのだ。


 商人からすればどんな理由があるのかは知らないが、バイバルスは姉に強い執着を見せているように見える。

 姉さんのこともしっかり保証してくれるのか、姉さんは大丈夫なのか、姉さんは姉さんはと何かとつけて、奴隷という商品だということを忘れてしつこくその点を食いかかるのだ。

 商人もその勢いとバイバルスの体格に押されてしまって、本来ならばあり得ない待遇(といっても、他の商品より幾らかマシといえる程度ではあるが)で扱ってきた。


 売ってしまえば、どうということはないだろうと姉弟を引き離すようにしてみたが、今この場でバイバルスが激昂して手が付けられなくなってしまうのではないかと、そんな可能性に今更気づいたのだ。


 商人が想定したように、バイバルスは今にも商人に掴みかかりそうになっていた。

 それをなんとか理性で抑え込んでいるのだ。


(姉さんと離れたら、俺は何のために生きていけばいいんだ? 姉さんへの償いはどうなる? せめてこの先は俺が姉さんを助けていくって、それが果たせなくなる?)


(この場でこの商人を殺して、二人で逃げ出すか? 夜の闇に紛れればあるいは……)


 一瞬のうちに様々な思考がよぎるが、そのどれもがその次には否定される。



「隻眼の。やめておいた方がいい」



 スィヴァスの街でとある男に言われた言葉が、今もどうして引っかかって抑えになっていた。

 あの時とは状況もまるで違うというのに、思いとどまらせるのだ。


「そ、そう睨むな。ちょっと揶揄っただけだろう」


 結果、バイバルスは射殺すような目つきを商人に向けるに止めた。

 このままでは、確実にナターリャとは引き離されてしまうというのに、実行に移せなかった。


 これはかつてのように怖いだとか、そういう理由ではなかった。

 全く恐怖を感じていないと言えば嘘になるが、今回バイバルスを止めたのはそれが理由ではない。


 バイバルスがなにかを起こそうとするたびに、ストッパーとなるあの男の言葉がそうさせるのだった。



 ※※※※※



「バイバルス、何かあったのか?」


 バイバルスが、奴隷たちが押し込められている粗末な小屋に戻るとナターリャが声をかけきた。

 戻ったバイバルスの雰囲気が違うことくらい直ぐに分かったのだろう。


「……」


 バイバルスはすぐに答えることが出来なかった。

 なんと返せばいいのか、分からないのだ。

 ナターリャと話すこと自体が随分と久しぶりな気さえしている。

 毎日何か言葉を交わしているはずなのに、その中身が思い出せない。

 取るに足らないこともあっただろうが、交わした言葉の全てがそうだなどということはあり得ない。

 きっと何かを話していた筈なのに、知らないのだ。


 ふとバイバルスの眼に写ったナターリャの姿は以前と比べると随分痩せていた。


(こんなになるまで俺は気が付かなかったのか……!?)


 バイバルスの取り計らいでナターリャにも、食事などは恵まれているはずである。

 しかし、バイバルスは知らなかったのだ。

 確かにナターリャには食事はちゃんと与えられていた。

 だが、それはあくまで他の奴隷と比べて、だ。

 それは最低限の水準にすら及ばないものだ。


 バイバルスに与えられていたのが辛うじてその最低限の水準に届こうか、というところである。

 それでよくも身体が大きくなったものだが、それは置いておく。


 バイバルスはナターリャのためにと必死にやってきたが、そのナターリャのことが全く見えていなかったということなのだ。


(なにが姉さんのために、だ)


 バイバルスは拳をギュッと握りしめた。


「言ってみろ。この私を相手に無視を決め込もうなんて、いい度胸だなバイバルス」


 ナターリャが怒っていないことなどバイバルスには分かっている。むしろ、変わらずかつてのように振る舞って見せているのだ。


「まぁ、お前が口にしなくてもだいたい予想はつくけどな。買い手がついたんじゃあないのか? それも別々に」


「!?」


「やはりか」


 バイバルスとしては別に隠し立てするつもりではなかったのだが、思わず表情に出てしまったのはなんとなくバツが悪い。

 バイバルスはそっと視線を外した。


「ちょうどいい機会だ。バイバルス、いい加減私から離れろ、私のことなどもう気にしなくていいだ」


 といっても、立場は奴隷だから自由にとはいかないけど、と付け加えてナターリャは笑った。

 バイバルスからすれば笑えるところなどないため、それは流しておく。

 それよりも──


「いい機会だって、なんだよそれ!?」


「何度も言ってるだろ。お前が責任を感じる必要はないって。だからもうそういうのはやめろ」


「……ッ! ……ッ」


 バイバルスは己の中に渦巻く感情を、うまく言語化できなかった。


「成長したのは喜ぶべきことだが、もしこの先私が死んだらどうするつもりだ? 今のままだと自死を選ぶんじゃあないのか?」


「ッ!?」


 もしもこの先ナターリャが死んだとしたら。

 バイバルスはそんなことは考えてもいなかったが、今その可能性を言われて妙にしっかりときてしまっていた。


(確かに、そうなるかもしれない……。けど、それくらいしなきゃ駄目だろ)


「何で何だよ!? 俺はもう戦える! そりゃあ恐怖くらいはあるけど、姉さんのために戦える。あの時とは変わった。それが何で!?」


 それが自分の責務なんだと、かつて望まれたことを今になって駄目だと言うのか理解ができない、とバイバルスは叫ぶ。


「私のためはもういい。それに、最近のお前は私のためと……いや、何でない」


 ナターリャの言いかけた言葉が気になるが、バイバルスがそれを言及する前に、咳払いを一つ入れたナターリャが言葉を続けた。


「というよりな、弟に心配せるほど私は落ちぶれたつもりはない。お前が私を守ってやろうなど、一○○年早い! ……だが、もう私が守ってやらなくてもいいくらいに強くなった」


「だから、その力で生きてみろバイバルス! 間違っても私のために死ぬようなことはしてくれるな! 分からないなら手始めに私の元から離れてみろそのうち分かる。多分な」


 見た目は痩せて衰えたかのように見えるナターリャだが、その覇気は健在であった。

 バイバルスはナターリャの勢いに、知らず半歩足を後ずさっていた。


「そんな、何を言って……」


(なんで姉さんの方からそんなことを言うんだよ)


「最近は知らず禄に姉さんのことを見れてなかったさ。……それは反省している。けど」


「バイバルス」


 必死に説得を試みるバイバルスの声は、途中でナターリャに遮られた。


「私の話を聞いていなかったのか? そういうことじゃあないんだよ」


 正直なことをいうと、バイバルスはナターリャの言うことを半分ほどしか聞いてはいなかった。

 これまでナターリャのことをちゃんと見ていなかったと反省をしたばかりだというのに、早速そ反省を省みない行動に至ったのには訳があった。


(そういうことじゃあないって、俺はてっきり二人でどうするかを考えると流れになるかと思ってたん夫だよ。もう俺は姉さんについて行くだけじゃあないって、その中で俺の成長を姉さんに見てもらえるって。けど、姉さんの反応が正反対だったんだ)


 バイバルスの中に少し、ナターリャに対する反感の心があったが、バイバルスが話を聞いていなかったのも事実である。

 バイバルスにも思いがあったとはいえ、それは落ち度である。

 ならばまずは、その聞いていなかった部分について改めて聞いてから物申すべきだと、バイバルスは自身の中にあった反感をぐっと抑えた。


 これはバイバルスが生来持っていた性だろう。

 力をつけたバイバルスはそれに伴って、思考も少々大胆なものが増えてきている。

 だが、生来のものが失われたというわけではない。

 それが今回、すこし自信を落ち着かせることに発揮されたのだ。


「今のお前の眼は危なっかしいんだよ。見ていて少し不安に思うくらいにな」


 その後、ナターリャは一つ大きく息を吐き、視線を下に数秒。上に数秒とさまよわせた後躊躇うようにゆっくりと口を開いた。


「敢えて言うが、守るといった者を不安にさせてどうする。そんなことでよくも守ると言えたものだな」


 その言葉にバイバルスは頭の先端からつま先まで衝撃が突き抜けた気分だった。


「……少し話が逸れたが。お前の危なっかしい眼の原因が私にあるなら、それを取り除かないといけないだろう。だからまぁ、今回のことは丁度、良かったんだ……」


 後半になるにつれナターリャの声はしぼんでいく。

 バイバルスははたと気づいた。

 一体誰が好き好んで、最早二人だけとなってしまった身内との別れを望むだろうか。

 ましてや二人ともに奴隷の身分だ。再び無事に会える保証などないに等しい。

 それでも、引き離されることを良しとしてしまうようにさせたのは、他ならぬバイバルスなのだ。

 バイバルスには未だ、ナターリャのいう危なっかしい眼というのは分からないが、恐らくナターリャのために必死になっていることを言っているのではないとかいう予想はつく。


 バイバルスからすれば、一体それのどこが問題なのか分からないでいたが、今後会えなくなるかもしれないというときに、それを良しとする判断をさせた理由になっていること。

 事実、これまでナターリャのことをほとんど見れていなかったという罪悪感からバイバルスもナターリャの意見に強く物申すことができなくなっていた。


「案ずるな」


 すっかり沈んでしまっていたところに、ナターリャから笑いかけられた。

 バイバルスの中にある思い。ナターリャのいうこと。取り巻く環境。

 思考はぐちゃぐちゃだったが、不思議なこと方針だけは定まっているような気がしていた。


「……今は姉さんの言っていることはよく分からない。けどいつかは、必ず全部乗り越えて姉さんを迎えに行く」


 迷いはある。しこりとして引っかかることもある。

 だが、それでもすすんで見ようとバイバルスはその一点だけは固めた。

 まだ駄目だというなら、ここはナターリャの言う通りにしてみるのは悪いことではないのかもしれない。


 今のバイバルスの思考とナターリャの言うことは、平行線を辿っている。

 このことについてどんなに議論しようとも、どちらかが折れない限りは延々と続くであろう。

 ならば一度、相手の言うことを理解してみようではないかと、バイバルスは歩を出したのだ。



 ※※※※※


 二日後、バイバルスはこの地域を治める王族の一人である、アル=マリク・アッ=サーリフの元に売り渡された。

 この間、バイバルスとナターリャは会っていない。

 あの日の夜を最後に、二人は会わなかったのだ。

 お互いに会わない方がいいと思ってのことだった。

 喧嘩別れではない、決意の決別とでもいえばよいだろうか。

 ナターリャとしてもあんなことは言いたくて言っているわけではなかった。

 バイバルスも望んでいない。

 それでも、離れなければならない。離れる理由も作った。

 会ってしまったならば、それが揺らいでしまいそうだったのだ。

 だから、二人は会わなかった。

 なにか言葉をか交わすこともなく、知らずのうちにその距離は離れて行ったのだ。

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