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MAMLUK-マムルーク-  作者: ワンサイドマウンテン
3/9

強くあれ

前回の投稿からかなり間が空いてしまいました。

今作はどうしても時間がかかってしまう部分があるため申し訳ないです。

「──ろ」


 微かに誰かの声が聞こえた気がした。


「──しろ」


 誰かの声は絶えることがない。

 まるで、呼びかけているかのような声だ。


 右も左も、上か下かも分からないようなどこまでもどこまでも暗く深い闇の中にいるような感覚である。

 その中で呼びかけているかのような声は、この暗闇から抜け出す道標のようなものだと、暗闇の中にいるバイバルスは感じた。


 そも、そんな声が聞こえたような気がするまでは、こんな暗闇にあることすら認識していなかった。


「しっかりしろ!」


 次第に声はハッキリしていく。

 焦燥に駆られたように余裕のない声だった。

 どこかで、いや何度もバイバルスが耳にしたことのある声だ。


 その瞬間、はっとバイバルスの意識が急激に覚醒する。


「バイバルス、しっかりしろ……ッ!」


 よく知っている声が、余裕なくバイバルスを呼んでいる。

 それがトリガーとなったのだ。

 何故、意識を失っていたのか。その時の光景が、事象が一変に脳内を駆け巡った。


「あ゛あ゛あ゛あ゛!! ぁぁ……うっ……。ああぁぁ……ッ!」


 一瞬の内に叫喚が木霊し、惨劇が流れ行き、ひしゃげた背中から矢を生やした痛ましい姿の母が、青い顔で強い無念と苦悶を浮かべながらバイバルスを見ていたのを思い出したのだ。


「あ゛あ゛! あ゛あ゛! うわあぁぁぁ!!」


 覚醒と同時に盛大に取り乱し、発狂しながらのたうち回る。

 左眼が痛むが、それよりももっと強い痛みに飲み込まれ、気にならない。


「バイバルス!? 落ち着け、今はもう大丈夫だから、落ち着け!」


 誰かが何かを必死になって言っている。

 誰かの手が押さえようと、身体を掴んでいる。

 だが、バイバルスにはそんなことはお構いなしだった。


「ぁぁ、ぁぁ……もう、もう十分だ! 早く殺してくれ!」


 力の限りのたうち回る。

 そんなバイバルスを抑え込みきれず、たまらずバイバルスを掴んでいた手は離れた。


「ッ……この! いい加減にしろ! 私だ! ナターリャだ! こんな時にみっともなく取り乱すな、バイバルス!」


 バン、とバイバルスの頬を強い衝撃が襲った。

 ナターリャは、左眼に矢が刺さっているという重傷を負ったバイバルスに対して、容赦なくその頬をぶったのだ。


「ッ!?」


 痛い。

 それは、左眼の痛みよりも、今も精神を抉り続ける痛みよりも痛かった。

 けれど、どこか暖かみのあるような不思議な痛みだった。

 その痛みはこれまでも感じたことのあるもので、その度に何かに気づいたりだとか、何かを教えられたりだとかを実感してきたものだった。


 これまで何百回と味わってきたこの感覚に、バイバルスは我を取り戻す。


「……姉、さん?」


 視界が一気に広がった気分だった。

 意識は覚醒したというのに、周りのことがまるで何も見えていなかった。

 それこそ、目の前にいるナターリャを認識していなかったくらいに、バイバルスは我を失っていたのだ。


「ッバイバルス!」


 バイバルスが姉を呼ぶのとほとんど同時に、その身体に体重がのしかかってきていた。


「うっ……わっ……姉さん、痛い」


 ナターリャに抱きつかれていたのだ。

 普段では想像もできないこのナターリャの行動に、バイバルスは戸惑いを隠さないでいた。


「とにかく、お前だけでも生きてて良かった……!」


 そんなバイバルスの声はナターリャには届いていないようで、抱き締める力はより強くなっていっている。

 そうなってくると、バイバルスの方もいよいよ苦しくなってくるのだが、バイバルスにも少し心に安らぎが芽生えていた。

 ナターリャに比べれば、弱々しいものだが、そっとその両腕をナターリャの背中に回す。

 知らず右の頬を一筋の水滴がなぞっていた。


 ※※※※※※※※


 バイバルスが気がついた時には、既に惨劇は去っていたようで、人々の悲鳴も馬が轟くことも矢が絶えず飛んでいるようなことも無かった。

 ひたすらに静かであった。

 だが、静かであるが故に生き残った人々の嗚咽や啜り泣くような声が、嫌に目立って聞こえる。


 蒼く美しかった大地は流れた血の赤と、煤けた黒に変わっていた。

 そんな、侵略の傷跡がくっきりと残るキプチャク草原をバイバルスとナターリャは歩いていた。


 別段、何処を目指しているわけでも、これといった目的があるわけでもない。

 ただ、なんでもいいから身体を動かしていたかったのだ。

 じっとしていてはどうにかなってしまいそうだと判断したのか、不意にナターリャが立ち上がり何を言うわけでもなく、動き出した。

 それにバイバルスも同じように思ったのか、何となく姉が動いたから従ったのか、ナターリャに続いた。


 あれから簡単にではあるが、バイバルスの左目に受けた矢は取り除かれ、そこには布を充てがっている。

 当然、左目は失っている。

 ナターリャは五体満足ではあるが、血に濡れていて相当の地獄を味わったことを物語っている。


「……姉さん、父さんは?」


(そんなこと、わざわざ聞くなよ)


 とっくに分かりきっていることだろ、とバイバルス自身は知っているのに声に出していた。出てしまっていた。


 ナターリャの口から一切、父親のことが語られない。

 それに、最も決定的なのはバイバルスが目を覚ましたときにナターリャが放った一言である。


 ──とにかく、お前だけでも生きててよかった。


 そう言ったのだ。

 つまるところは、家族の中で無事なのはバイバルスとナターリャしかいないということだ。


 ナターリャが母のことにも触れないのも、恐らくその亡骸を目にしているからであろう。

 なにせ、母の亡骸はバイバルスが倒れていたすぐ近くにあったのだ。

 バイバルスを見つけた時に、当然目にしているはずである。


「……」


 ナターリャがバイバルスの問いに答えることはない。

 酷く憔悴したようなフラフラとした足取りで進んでいる。

 その答えは、帰ってはこなかったがバイバルスが思っている通りなのだろう。

 なにより、普段は同年代の男児ならば容易くのしてしまうほどの腕っぷしで文字通り男勝りなナターリャが、ああなってしまっているのだ。


「……母さんは、俺のすぐ近くで殺された。怖くてずっと動けなかったんだ。ユルトの中で俺と姉さんを探す母さんの声を聞いた」


(やめろ、何で今そんなことを言うんだ)


 今、言わなくていい、言うべきでないと分かっているのに、勝手に開いた口は止まらない。止まってくれない。


「そのすぐ後だったんだ。見てはないけど、聞いただけで分かるくらいの音がしてさ、ほんと今更かよってようやく身体が動いて外に出たら、案の定……殺されてた……」


「やっぱ俺はダメだったんだよ。……姉さんだったらきっと、俺が動けないである間にもとっくに行動出来ていて、母さんも無事だったかも知れない……。ほらさ、姉さん腕っぷしだってあるし」


「……そんなこと、わざわざ私に聞かなくてもいいだろ」


 ナターリャは無言を貫いて少し歩いたところで、先ほどのバイバルスの問いにかなり遅れて返事をした。

 いや、バイバルスの独白を最後まで聞いていたのか、とにかく、口を開いた。


「……っう」


 ナターリャから発せられた声は怒気を孕んでいた。

 いつもの、バイバルスがなにか情け無いことを言ったときに飛んでくる叱責のものとは違う。

 どこか底冷えするような、これまでバイバルスが聞いたことのない声だった。

 思わず、本気でたじろいでしまう。


「私がその場にいたらだって!? ふざけるな! そんな勝手なことを……ッ!」


 殺意に近い怒りを剥き出しにして、叫び掴みかかってきたナターリャの勢いにバイバルスは涙ぐんでしまう。

 それほどまでに、ナターリャは激昂していた。


「私の腕っぷし? そんなもの……そんなものがあったら父さんは死んでない! むしろ、それのせいで私を庇って死んだんだ! 大人しく逃げていれば……無茶なんかしたから……。私が、私が殺したようなものだ!?」


 ナターリャは泣いていた。

 怒りの感情をぶちまけながら涙を流していた。

 バイバルスが初めて目にするナターリャの涙は、自分自身への怒りの涙だった。

 実際のところは、バイバルスには知る由もないが、十数年間とナターリャを見てきたバイバルスにはそう思えた。


「そもそも、そもそも、バイバルス、お前が! お前は強くなれるはずなのに、いつまでもいつまでも弱いままだから、母さんは死んだ、殺された! お前のせいだ! お前が弱いままだから! 私は何度も何度も言ってきたのに!? お前が……ッ!」


「そんなこと……」


 言いかけてバイバルスは口をつぐんだ。


(いや、さっき自分でも言ってただろ。俺が動けなかったから母さんは死んだんだって。それは、姉さんが言う通り俺が弱かったから……)


 それに、ナターリャの逆鱗に触れてしまったのは自分自身だとバイバルスも分かっているため、何も言うことはできない。

 父のことは知らなかったとはいえ、薄々察していた部分でもあった。

 よもや、そのようなことがあって、ナターリャもバイバルスと同じような事態に晒されていたのだ。

 それを、容易にナターリャだったら、などと口走ったのだから、こうなってしまうのに文句は言えない。

 むしろ、罰せられて然るべきである。


 バイバルスは胸ぐらを掴み上げられている状態で成り行きに身を任せようと、身体から無駄な力を抜いた。

 それとほとんど同じタイミングで、ふっと一瞬身体が浮いたかと思えば、尻から地面の硬い感触と衝撃が身体を駆け抜けた。


 投げられたのだ。

 地面に尻餅を着いた状態のバイバルスは、これから馬乗りにされて殴られでもするのだろうか、

 それはきっと、左目の矢傷なんかよりもずっと痛いんだろうな、と打たれる覚悟を決める。


 だが、そうはならなかった。

 ナターリャもドサリとその場にへたり込むようにして崩れていたのだ。


「……クソッ」


 バイバルスが自分に振るわれるものと思っていたナターリャの拳は、地面に叩きつけられていた。

 何度も何度もナターリャの拳は地面に叩きつけられる。

 バイバルスはそれをただ見ていることしか出来なかった。

 皮が破れ血が滲んでからようやく、その行為が収まるまで何と声をかけたものか分からないで見ていることしか出来なかった。


「……違うのに。そんなことはない、のに。……ごめん、バイバルスを責めるのは違った」


「……」


 バイバルスは言葉が出なかった。

 ナターリャがどんなことを抱え込んでいるのか、想像出来ていたのに、のうのうと無責任なことを口走ったバイバルス自身が悪いと言うのに、そんなことはバイバルスも分かっているというのに、何も言えなかった。


「……お前だって、片目まで失って辛いはずなのに、私がこんなのじゃあダメだな」


(違う、姉さんだって十分辛いだろ。どこまで甘えるつもりなんだ)


「……」


「いつまでもこうしていても、どうにもならない。取り敢えず、他に生き残った人たちとどうするか考えよう。ほら、行くぞ」


「……うん」


 多分、ナターリャは無理をしている。

 弟であるバイバルスのために、気丈にとまではいかないまでも沈み込んだりするのを辞めた。


(俺が、大丈夫なんだって、姉さんのことも背負って安心させるくらいのことを言えたら良いんだ。けど、情け無いことにそれは出来ない。……けど、せめて自分のことくらいは大丈夫だって示せれば何もかも姉さんに背追い込ませるんじゃあなくて、半分ずつでも背負いあって支え合っていければいいのに……)


 そんな思いがバイバルスの中にあったのだが、きっと心のどこかで姉さんがいればこれまでみたいに……。

 と、甘えがあったのだろう。その思いが言葉として現れることは無かった。

 例え、ナターリャがいようと何でもかんでもどうにかならないのだと、今しがた思い知った筈なのにまた、強い姉に多くを背負いこませる。


 ※※※※※


 壊滅状態の集落には、疎に生き残った人々の姿があった。

 誰も彼も疲れ果てて、途方に暮れている。


「これからどうするか考えないとな」


 その中でも、ナターリャはなんとか前を向こうとしている。

 無論、空元気であるということはバイバルスには分かっていたが、それくらいでなければやっていけない。

 少なくとも、バイバルスは空元気を演じることすら出来ないのだ。


「うん、でも……」


 こんなのどうしたって……と、バイバルスが後ろ向きな発言をしようとした時だった。


「どうしようもないだろ! 長も死んで家畜もあの混乱で殆どが殺されるか逃げた! 大勢死んで家々も焼かれて、俺たちに一体何ができるってんだ!?」


 近くで途方に暮れていた男が声を大にして、絶望を吐き出した。


 まさにその通りなのだ。男が言ったように、もう殆どが残されていない。

 前を向こうが、後ろを向こうが真っ暗なのは同じだ。

 これはもう、強いとか弱いとかじゃあないだろう、と男の言葉に後押しされるようにバイバルスも俯いた。


「そんなことは知らない。ここに何も失っていない人なんていないだろ。けど、私たちは生き残った。なら、精一杯生きていくだけだ」


 立ち止まり、諦めるようならもはや構っていられない、とでも言うように少しも男を見ることなく、ナターリャは鋭く言った。けれど、それで立ち上がるなら話は別だとともナターリャは言っているのだとバイバルスは感じた。


「……ナターリャ、お前はまだ子供だろう。なんで、そんなに強いんだ。昔から、ずっと……」


「それが私だからだ」


「……立つ瀬がねぇよ」


 男はとても無理だと、諦めてしまったようだった。


「……バイバルス、行くぞ」


「姉さん、でも……」


 確かに男は諦めてしまったようであるとはいえ、同じ集落で暮らしていた人だ。

 あのままというのも寝覚が悪い。

 しかし、バイバルスのそんな考えは、こんな状況には相応しくないと、ナターリャの一言で思い知らされる。


「お前の言いたいことは少しは分かる。けど、私たちにはそんな余裕はない。他の人はどうだか知らないが、同じようなら私とバイバルスだけでも、なんとしてでも」


 最後の家族であるバイバルスだけは何としてでも、失わないようにとナターリャも必死なのだ。

 そして、この事態を体験してからバイバルスの中で薄々気づきかけていたことが殆ど確信に近くなっていた。


(あぁ、姉さんはずっとこうだった。それが当たり前すぎて気が付かなかったけど、今なら何となく分かる。やっぱり、俺はどこまでも姉さんに甘えてるんだ。強い姉さんがいてくれるから、いつでもどうにかなるんだと、何とかしてくれるんだって)


 現に、一度はその感情が爆発して挫けてしまってもおかしくなかったナターリャは、立ち直り、誰よりも前を向いて進もうとしている。

 バイバルスはそれについて行っているだけだ。


(もしも、姉さんがいなくなったら俺は強くなれるんだろうか)


 ふと、そんなことを考えてしまったのがバイバルスには恐ろしかった。


(俺は今、何を……)


 とんでもない想像を振り払うように、バイバルスは首を振った。


「どうした、バイバルス?」


「いいや、なんでも……」


「そうか。とにかく、まずは雨風を凌げる場所と食べ物を何とかしないとな」


 バイバルスにとって、ナターリャはどこまでも強く、及びもしない存在だった。

 そして、バイバルスの弱さの理由なのかも知れなかったのだ。



 ※※※※※



 バイバルスたちを襲ったモンゴル軍が去ってどれほどの時間が経過したであろうか。

 あれから半日にも満たない時間で、生き残った人々は、あの恐怖と絶望をその顔に張り付かせた。


「……あ」


 バイバルスが何かを勘付いた時、殆ど同時に皆がそれに気づいていた。

 忘れたくとも忘れられない、圧倒的な進撃の音。

 大地を轟かせる大量の馬蹄の音である。


(嘘だろ? 戻ってきたのか? なんで?)


 今度はへたり込むようなことは無かったが、立ち尽くしてしまっていて、やはりバイバルスの身体は動かない。


 なぜまたモンゴル軍が戻ってきたのか、その意味が分からなかったのもある。

 だが、大部分はつい数時間前に味わわされた悪夢のような惨劇のせいだろう。


 それは、バイバルスだけでなく、他の人間も同じだった。

 なんとか生き残ったものの、何もかもを失って生きる糧を見出せるかどうか、というような状態の人間にこれほど堪えることはない。


「クソッ、何だってまた……!」


 これには流石のナターリャでさえも、睨みつけるだけに留まっていた。

 完全に恐怖に縛り付けられることはないが、何かしらのアクションを起こすことは出来なかったようだ。


(姉さんも動けないのか? さっき自分のせいで父さんが死んだんだって言ってたし……)


 取り乱すようなことはないが、トラウマになっているのだとバイバルスは感じとった。


 音が聞こえるだけで、まだモンゴル軍はその姿を現していない。

 それだというのに、誰も逃げない、動こうともしない。

 ただただ、立ち尽くし、へたり込むだけであった。


 そんなわけだから間もなく、モンゴル軍の到来を迎える。

 騎馬の軍団が立ち並び、再び人々を包囲する。


(あれが、モンゴル軍……)


 バイバルスは一度、その襲撃を受けているとはいえ、ずっと隠れており、左目に矢を入られた時も周囲のことなどまるで見えていないような状態だった。

 そのため、今初めてその姿を目にしたのである。


 騎乗する兵たちは皆、鉄ではなく分厚そうな革製に見える防具を身に纏っていた。それは、丈が長くコートのようにも見える。

 腰には剣を帯びたいるが、構えているのは誰も弓である。

 騎兵といえば、長物、つまりは槍が普通だと思えるが槍を装備している者は見られない。


 バイバルスが悠長にモンゴル軍を観察していられたのも束の間、今度は銅鑼ではないが号令が発せられた。

 一斉に声を上げて騎兵の突撃が始まったのだ。

 再び無数の馬蹄が大地を鳴らし、揺らす。


 圧巻であった。

 元々動けるバイバルスたちでは無かったが、その迫力、勢いに圧され硬直していた。


(ああ、これはもうダメだ。)


 怖いだとか、死にたくないだとかそんな風には思えなかった。

 それよりも、もう本当にどうしようもないんだと、抗いようが無いのだという諦めの感情が強く現れてしまったのだ。

 他の感情を抑えられるほどに強く現れたのだ。


「存分に奪い、存分に捕らえろ!」


 バイバルスはここで皆殺しに遭うのだと思っていた。

 諦めていた。

 だが、実際はそんなことにはなっていない。

 モンゴル兵は言った。

 奪って捕らえろ、と。

 事実、一本だって矢は飛び交ったなどいないし、誰も殺されてはいない。

 ただ捕われている。

 幾らかは焼けてしまったであろうが、財産と呼べるものを漁っている。

 そんな光景だった。

 そして──


「こいつは、隻眼だが丈夫な身体だな。いい労働力として売れそうだ」


 気づけば、バイバルス自身にもその捕縛の手は伸びてきていた。


(売る? 捕らえて、売る。奴隷にされるのか?)


 目の前で停止した騎兵は笑いながら手を伸ばして来る。


「やめろ、手を出すな! これ以上、私から奪うな!」


「あ?」


 ナターリャだった。

 ナターリャがバイバルスの前に立ち塞がるように踊り出たのだ。

 その膝は震えている。


「何言ってやがんだこいつは」


「知るかよ、さっさと捕らえろ」


 そこに別のモンゴル兵が合流し、いよいよ逃げ道はない。

 二人を一度に捕らえるのは流石に厳しいのか、内一人が下馬した。


「触れるな、近づくな!」


 所詮、女子供も侮っているのかモンゴル兵は油断しきっている。

 先刻の襲撃の際とは纏っている空気が明らかに違うのだ。

 そんなモンゴル兵の脛に、ナターリャは鋭い蹴りを放った。


「づあっ……!? このガキが!」


「!?」


 大の大人でも崩せるナターリャの蹴りだ。

 かのモンゴル兵といえども、ただではいられないはずただバイバルスも思っていた。

 だが、一瞬顔を顰めたもののそれ以上のことはなく、当然のように激昂した。

 ナターリャにとっても、それは予想外のことだったのか目を見開き、開いた口が塞がらない様子であった。


「大人しくしてろ!」


 モンゴル兵の拳がナターリャを襲う。


「……っ!」


 躱すことも防ぐこともできなかったナターリャは、その殴打を受けて、よろめく。

 よろめいたところをさらに容赦のない追撃が見舞う。


「おい、顔はやめとけ。価値が下がる」


 不意を突かれはしたが、こうなってはよもや負けることはないだろう、ともう一方のモンゴル兵は下卑た笑を浮かべながら高みの見物を決め込んでいる。

 バイバルスが動くことはないとたかを括っているのだ。


 事実、バイバルスはその光景をただ見ていることしかできていなかった。

 残った片方の目に、暴力に蹂躙される姉の姿を焼き付けることしかできないでいた。

 また繰り返すのかと、バイバルスの頭の中では自問自答がされている。

 これでは、母の時と同じではないかと。


(じゃあ俺には一体何ができるっていうんだ? 姉さんみたいに力を振るえばいいのか? 無理だ、あんなに鋭い姉さんの蹴りが通じ無かったじゃないか)


 こんな状況でも結局、逃げる理由を探している。

 バイバルスはそんな自分を嫌悪したくなるが、生憎、逃げるための理由があながち間違っていないことも事実であるのだ。

 行動を起こしても起こさなくても、結果はどうせ変わらない。

 なら、どっちだっていいではないか。

 そんな考えが支配していく。


 だが、一つそれを遮るのは、恐怖だった。

 あの時、目の前で母を失った自分の無力と絶望。

 今度は、たった一人のこった姉だ。

 次はいよいよバイバルス一人。

 それは、嫌だろう、また同じことでもっと酷いことを繰り返すのかという恐怖が争っていた。

 恐怖に怯えて支配されて色々なものを失ってきたバイバルスが、今回は何かを変えようかという契機になりそうであるのは、なんとも皮肉なことである。


(こうしている今も姉さんは、殴られてそれでも抗おうとして、抗おうとして……)


 バイバルスはずっと見ている。今まさに業を煮やしたからなようなモンゴル兵はついに、その腰に帯びている剣を抜いた。

 そして──


「クソッ、いい加減にしろってんだ!」


 斬りつけた。


「あああっ!! っあぐぅ……!」


「姉さん!」


(ああ、いつもそうだ。俺はいつだって遅い、遅すぎる。今もこうして姉さんが斬られてからやっと……)


 ナターリャは足首の辺りを斬られていた。

 悲鳴を上げながら、その部分を手で押さえているが、血は止めどなく溢れていき、真っ赤に染め上げる。

 バイバルスは慌てて駆け寄るも、声を掛けるばかりで、具体的なことは何もできない。

 どうすればいいのか分からなかった。


「馬鹿が、傷つけんなって言っただろうが」


「すまねぇ、つい。いや、そもそもお前も加わってれば」


「ガキ一人に手こずるなって話だろ。まぁいい。多少傷ははいったが、売れんことはないだろう」


 高みの見物を決め込んでいた方のモンゴル兵が、溜息混じりにナターリャを掴む。


「ッ!?」


 半ば無理矢理立たされたナターリャはしかし、立ち上がれず倒れた。


「面倒なことをしてくれたな。お前、腱を切っちまってるじゃあねぇか」


「悪かったって言ってんだろ」


「どうするかね。もう片方も隻眼だし、こっちも片脚の腱が切れて満足に歩けやしねぇ。いっそここで始末するか?」


「!?」


(始末するって。そんなの……。俺がいつまでもこんなだから姉さんが立ち向かってそれで……。やっぱり、なにもかも俺のせいじゃあないか。姉さんが傷ついて、腱を切られたのも、二人して殺されそうになっているのも、全部)


 バイバルスは自責を繰り返す。そして、何の意味もなくどうしようもなく落ち込んでいく。

 だが、今ばかりは違った。

 バイバルスはある一つのことでずっと怯えている。

 自分のせいで大切なものを失うという恐怖だ。


(もう、いい加減にしろよ。これ以上はダメだろ。今しかない)


 そんな恐怖心が、今まではどうしようもなくなるしかなかった無意味な自責の念と合わさってトリガーとなったのだ。


「待って、下さい……! 確かに俺は片目ですが、十二分に動けます。その証明に姉さんを俺が担いで行きます。だから、奴隷でもいいので、どうか、命だけは……!」


 バイバルスが起こした行動は、側からみればみっともなく、地に這いつくばって命を請う、なんとも情けない姿だった。

 バイバルスのその心に不釣り合いな立派な体格と相まってさらに情けなく見える。

 だが、それが今のバイバルスにできる精一杯だった。

 全身全霊の命乞い。

 持てる全てを差し出して、命を請うという選択肢が最善であるのだ。


「……バイバルス」


「クハッ、ハハハハハハハ! なんだ、こいつみっともねえ! 最高だな」


「ハハハハ、いいぜ。そのみっともなさに免じて奴隷として売り飛ばしてやるよ! しっかり姉ちゃん担いでこいよ? 途中で根を上げたら姉弟共々的にしてやるからな」


 足踏みにされ、嘲笑を浴びせられ、屈辱に塗れながらもバイバルスは生を拾った。

 この屈辱の中でバイバルスは、今まで再三に渡りナターリャに言われ続けていた、弱さと強くなれという意味を痛感した。

 こんなことしかできないのかと、無力に打ちひしがれるのだ。



 ※※※※※



 バイバルスは言った通り、ナターリャを担いでモンゴル兵に続き、彼らの拠点まで辿り着いた。

 元々、体格は人一倍恵まれていたバイバルスである。その体格に比例するように体力も人並み以上であった。

 疲れはあったとはいえ、人一人、それも女性を担ぐなどそう難しいことでは無かったのだ。


 モンゴル軍の拠点には、多数のモンゴル兵がいるのはもちろんのこと、バイバルスらと同じように捕われた人々が大勢いた。

 戦利品を掲げ高笑いするモンゴル軍と、ひたすらに沈んだ捕虜たち。同じ空間にあって、あり得ないほどに空気感に差がある。


 バイバルスとナターリャも、当然捕虜の一団に加えられることになる。


「……ごめん、姉さん。俺のせいでこれから奴隷なんかに」


 辛うじて命だけは助かったものの、これから待ち受けているのは奴隷という過酷な運命なのだ。

 バイバルスとて、奴隷がどのようなものなのかくらいは知っている。

 ともすれば、あそこで死んでいた方がマシだったかもしれないということが今後起こりうる。


「そんなことを言うな。お前は初めて戦ったじゃあないか。私はそれが嬉しいよ」


「でも……」


「仮に、戦いの勝敗を生きるか死ぬかのどちらかだとしたら私たちは生き残った。それはお前の戦果だ。誇りに思う」


「姉さん」


 片脚が不自由になり、これから奴隷として売られるというのに、ナターリャからは恨み言の一つも飛んではこなかった。


「……とはいえ、弱かったのは事実だ。弱ければ強いものに奪われていくだけ、それは十分思い知っただろ?」


 バイバルスは力無く頷くしかない。


「まぁ、それは私も同じだ。脚のことはバイバルスが気にすることじゃない。これは私が弱かったからこうなった。それだけだ」


「いや、姉さんは強いよ」


 確かに、力比べ云々の話ならば相手よりもナターリャの方が弱かったかもしれない。

 けれど、ナターリャの本当の強さというのは、この器の大きさというのは少し違うかもしれないが、精神力にあるとバイバルスは思っている。

 バイバルス自身も気づかないところで密かに情景を抱いているのは、その部分であろう。


 それゆえに、不意に溢れたような、飾りもない真の心根がこもったような言葉であった。


「ありがとう、おかげでもう少し、強くいられそうだ」


 それを感じ取ったのか、ナターリャは破顔して言った。

 状況としては、絶望的であるのにこの二人の姉弟は奇妙なまでに絶望を感じてなどいなかった。


 ナターリャの強さに魅せられ、少しずつ変化を起こしているバイバルス。

 またそれを感じ取って強さを保っていられるナターリャ。

 今の二人の間にはこのような循環がなされているのではないだろうか。


「さて、これからどうしようか」


 ナターリャは言う。まだ先を見据えて。


(いつまでも姉さんに頼ってばかりじゃあいられない。俺も強くならないと。今度こそ、もう何も奪われないために)


 そして、そんな、ナターリャの姿を見てバイバルスは思い、密かに誓ったのだった。




お詫び

なぜ違う人種のモンゴル兵とバイバルスらが言葉を解しているのか疑問に思われた方もいるのではないでしょうか?

普通は言語が違うので、作中のようにはならないのですが、そこは大陸公語みたいなものがあると思って読んでいただきたいです。

始めに史実を元に〜とか言っておきながら都合のいい設定で申し訳ありません。

どうか目を瞑っていただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 感想返しありがとうございます。 少々言葉足らずな点もあったかと思いますので、少し補足いたしますと、テュルク(チュルク)系民族というのは、東はシベリア東部から西はアナトリア半島まで、幅広く居…
[一言] キプチャク族も属するテュルク系民族の諸言語は、かなり離れたところでも方言の範囲内くらいのレベルで意思疎通可能らしいです。 なので、いわばこの当時の中央アジア公用語。 モンゴル軍内にも話者はた…
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