第8章 第9話 初恋 3
「さてと……」
メイドたちへの連絡は終わった。トラはアクアが追っている。俺の仕事は終わり、だが。
「残業だ……!」
車椅子の俺では速度的に追い詰められない。小回りも利かないし、雑踏の中を進むのも向かない。だがそれが何もしない理由にはならない。家族の思考は家族が一番よくわかっている。ベストはアクアと挟み撃ちにすること。それができなくとも追い詰められているというプレッシャーをかけられる。
トラリアルの思考を読め。別に俺とトラは仲が良いわけではない。だが他の兄妹に比べ、圧倒的に嫌い合っていたわけではない。俺からは大嫌いだが、奴にとっては大事な金づる。表面上話すことはままあった。
だからあいつの考えはある程度わかる……。ギャンブル中毒で、酒好きで、煙草大好きで、金がなくて、追い込まれれば追い込まれるほど無駄に燃えるタイプ。
可能性としては喫煙所……いや。あいつが律儀にルールを守るはずがない。それ以外だと……。
「木を隠すなら森の中……」
逆境に燃えるタイプだ。あえて姿を晒し、堂々と盗みを働く。トラならそうするはずだ。
「待ってろよ……!」
ある程度のあたりをつけ、俺は待機スペースを進んでいく。今は昼前。あと少しで昼休憩だからだろうか。既に家族の元に行き、ブルーシートの上で談笑している生徒が多い。カバンから注意が逸れている……盗むなら一番いいタイミングだろう。
不審者はいないか。そういう意識で探したら駄目だ。奴は小悪党として一流。不審な真似はしないはずだ。だからトラリアルの姿をイメージしながら進んでいく。
「お義兄さん……」
「玲さん」
進んでいると応援団の後ろ辺りで体操服姿の玲さんに声をかけられた。
「熱海ちゃん急に走っていっちゃったけどどうしたの……?」
「あー……仕事? 俺も詳しくは知らないけど……」
一応姉妹たちにもトラリアルが来る可能性については話してある。だが可能性が起こったことを話すのはよくないだろう。怖がらせるかもしれないし、協力すると申し出てくるかもしれない。玲さんにも応援団の準備でたくさん協力してもらった。俺のせいでせっかくの体育祭に水を差したくない。
「ちょっと探してみるよ」
「うん……あ、れいもいこっか……?」
「いやだいじょ……あ」
「げ……」
玲さんと話していると、想像通り。ロングスカートを履いたトラリアルがすぐ近くに通りがかった。眼鏡越しに視線は合っている。追いつけるか? 無理……なら逃がして方向を……!
「虎ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「まずったなー……まぁ、いっか」
車椅子を前へと進ませたその瞬間。トラリアルは俺のすぐ横を通り過ぎ。
「きゃぁっ!?」
「っ……!」
玲さんの首をその細い腕の中に捕え、にぃっと笑った。
「人質、ってやつ。しばらくそこで待っててよ」
「てめぇ……!」
玲さんの後方に回り、勝ち誇るトラリアル。だがこれは奴のミス。ただでさえ目を引く車椅子。それに加えさっき叫んだことで、こちらに注目は集まっている。武器だって持っていないし、脚を止めればいずれ事態を察知した人が虎を捕まえてくれる。だから待ちさえすれば……。
「だれか……たすけて……」
そのはずだったのに。今にも泣きそうで。それでも我慢して。だがやはり恐怖が零れたその声に俺の脚は、動いていた。
「俺の家族に触るなぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
右脚だけで踏み込み、身体を玲さんへと跳ばす。瞬間トラリアルは腕を放し、俺は玲さんを抱き抱える体勢で地面に転がった。
「玲さん! 大丈夫!?」
頭は腕で庇ったが、転がったのは事実。顔を覗き込み、必死に声をかける。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
恐怖から解き放たれたからか。あるいはいまだ恐怖が続いているのか、玲さんは言葉を発さず荒い息を吐くばかり。頭は打っていない。身体に問題はなさそうだ。
だがなぜか火照って紅く染まった玲さんの頬に。俺はどこか一抹の不安を感じざるを得なかった。