第7章 第7話 幸せの毒
「……あいつ。いつからああなったの。他人に安らぎを求めるとか……そういうタイプじゃなかったと思うんだけど」
悪亜様もその姿を目撃したのでしょう。カーペットにお尻をつき、膝を抱えながらつぶやきました。
「……私もつい最近ここに来たばかりなので正確なことは言えませんが。私が来た時には既に、ジン様はああでしたよ。早苗様を求め、そのためならどんな努力も惜しまない方でした」
「そう……なんだ」
「なので私が逆に質問したいのですが……ジン様は元の家ではどういった様子だったのですか? ずっと勉強しかしてなかった……とか?」
「……さぁ。覚えてない」
膝を抱えていた悪亜様の視線が、どんどん下に落ちていきます。
「勉強してるのは……見たことないと、思う。してたのかもね。見てなかっただけで。私の中であいつは……いてもいなくても関係なかった、置物以下の奴だったから。あいつが具体的に何してたのかなんて……やっぱり思い出せない」
「そう……ですか」
私も思わず座りそうになり、思いとどまります。普段の私ならあのキスを見ただけで止めたことでしょう。それをせず、こうして座りそうになったのは。ジン様に同情してしまったから、だと思います。苦しかった過去を忘れるように、幸せに浸る彼を邪魔してはいけないと、思ってしまった。メイド失格です。
「でもさ……よかったんじゃん? あいつ幸せそうだし。……あーしにはどうでもいいけど」
「それはどうだろうね。幸せが必ずしも幸せ、ってわけじゃないと思うよ」
「斬波さん」
今日1日姿が見えなかった斬波さんが私たちの方へと歩いてきました。その服装はメイド服ではなく、無駄にチェーンがジャラジャラとついているロック調のものです。髪を結っているリボンが女児用のようにやたらと大きいのは気になりますが。
「早苗に呼ばれてね。もしもの時にジンを助けてほしいって。仕事じゃないから私服だけど」
「そうですか。それで……幸せが幸せではない、とは?」
「単純にさ、ジンが病気を患ってるってだけ」
「……え?」
ジン様に持病がある。そんな話は初めてです。私の表情で思考を読んだのか、斬波さんはわざわざ遠い場所にいる悪亜様の隣の壁に背を預け語ります。
「ジンが週に一度カウンセリングに通ってるって知ってるよね? 最近は行けてないんだけどさ。それで言われてるんだよ。精神の病気だって。アルコールに依存するように、煙草に依存するように。ジンは早苗に依存してるんだって」
……そんな話、初耳です。というより、あまり信じられません。
「ジン様より……早苗様の方が依存していると思いますが……」
「早苗も多少はね。でもジンはその比にならない。なんせ幸せの固定イメージが早苗と一緒にいることになってるんだから。早苗から離れると不安でしょうがないんだって。少しくらいなら大丈夫だけど、丸一日は無理かな。おかしいと思わなかった? まだ私がジンと同じ部屋で暮らしてるの。治療の一環なんだよ。早苗がいない状況でも平気になれるようにね」
斬波さんは私に話しているように見せかけ、その実視線は足もとの悪亜様へと向いています。当の悪亜様は下を見て気づいていないようですが。
「ですがジン様は……自分から婚約破棄を申し出て家出したことが……」
「それがやばいの。いわば自傷行為。自分を傷つけて、精神の安定を図ろうとしてるんだよ。……こういう病気の治療は周りからの理解が大事みたい。だから早苗たちにも言おうと思ったんだけど……ジンが拒否した。だから知ってるのはジンと私とカウンセラーの人とあと私のお金で通わせてる精神科医の先生。それと未来と、あなただけ」
ただ話を聞いていただけの悪亜様の身体がビクリと震えました。それを見て、斬波さんは壁から身体を離して悪亜様の前に立ちました。
「夜2時に寝て朝4時に起きて1時間勉強。その後新聞配達に出かけて学校で虐められ、放課後になったら深夜までバイトして。食事は野草や虫、釣った魚。お風呂は川で済まして、睡眠は寝返りも打てず脚も伸ばせないベランダで、ビニール袋に入って暖をとる。家族と顔を合わせれば罵られて殴られて、それでも勉強で全国1位を取った人間の精神状態がまともだと思う? とっくにぶっ壊れてるんだよ。何もかもが」
咎めるような口調の斬波さんに悪亜様は目を合わせることすらせず。
「……ようするにメンヘラなんでしょ。男のメンヘラとか始末に負えな……」
悪亜様の髪が揺れました。その頬のすぐ横で押し留まった斬波さんの拳による風圧で。
「……ごめん。これはもう、私の仕事じゃないんだった」
悪亜様の顔面を殴り飛ばそうとした斬波さんが、冷静さを保とうと息を大きく吐きました。2つの指輪が煌めく左手が元の位置に戻っていきます。
「平たく言えば、そうだとも言える。ジンは病んでるんだよ。そこに感情はない。早苗や私を幸せにするための機械。そういう見方をすることもできる」
「はっ、どこがよ。あいつ早苗様に怒ってたけど?」
それは悪亜様の癖なのでしょう。素直になれない。他人を貶さないとコミュニケーションが取れない。これもある意味、病気です。ただその病気が、
「ジンが早苗を怒った……!?」
斬波さんに希望を与えました。
「そんな……ありえないでしょ。あんなに早苗のことが大好きなジンが怒るなんて……」
「事実ですよ。余計なことをするなと、確かに怒っていました。申し訳なさは感じていましたが、我慢できないといった様子でした」
私が補足すると、斬波さんは少し悩むような姿勢を見せ、口を開きました。
「もしかしたら……あなたならジンを変えられるのかもしれない。だから……伝えてあげて。人として間違えたことをしても、いいんだよって。幸せだけじゃなくて、怒りだって。人間に必要な感情だって。……私や早苗じゃあ伝えられないと思うから……」
「入ってきていいですよ!」
厚い壁を何とかすり抜け、私たちの耳に早苗様の声が届きました。すると悪亜様は返事をすることなく、まるで逃げるかのように。死地へと一人赴いていきました。そして私と斬波さんがそれを追うと、ジン様は待っていました。
「悪かったな。もう大丈夫だ」
涎を垂らし、とろんとした瞳をした早苗様を膝の上に乗せて。小さな身体を折らんばかりに強く抱き締めて。足りない覚悟を補っていました。