第9章 第7話 式と解
〇ジン
静かだ。布団が擦れる音すら耳に残るほどに、静かな部屋。そしてその静寂に満ちた部屋に、静かで。それでいて耳を通り脳へと直接語りかけてくるような、様々な感情が入り交ざった玲さんのすすり泣く声が聞こえる。
どうやら玲さんからもらった飲み物に睡眠薬が入っていたようだ。それで寝ていた……だけならいいのだが、俺と玲さんの衣服は脱ぎ捨てられ、目の前には暗い顔をした斬波がいる。物珍しい玲さんの大声によって目覚めた俺に与えられた情報は一つ。玲さんは、俺のことが好き、らしい。
だが俺は早苗と付き合っている。早苗の婚約者だ。玲さんと付き合う可能性はほとんどゼロに近い。そこで玲さんがとった行動がこれ。選択した努力の方向性が、これだった。
「……とりあえずさ、今日は部屋に帰ろうよ。また明日話そう?」
斬波が優しく声をかけるが、玲さんは俯き泣いた反応を見せない。俺は服を着たが、玲さんにそれをできる元気はない。布団で隠れてはいるがその下は生まれたままの姿だ。
「斬波、ごめん。嫌な役目やらせた」
「ううん……私はいい……。だから……」
「よくないだろ。それが俺とお前の約束だったんだから」
「本当に私はよくて……それより玲を……」
斬波の視線はずっと玲さんを向いている。よほど心配なのだろう。まぁ女の子が泣いてたら心配するのが当たり前。俺だって当然心配だ。だがその心配の方向性は、斬波とは違う。
「斬波、睡眠薬を飲ませて家族を裏切って既成事実を作ろうとするのは悪いことか?」
「え? そりゃ……悪いことでしょ……」
「まぁそうだな。間違った行動だ。でも俺はさ、別に間違えてもいいと思うんだよ。悪くても別にいいんだ」
「…………」
玲さんも斬波も反応を見せない。それでも俺は続ける。
「俺はトラリアルを働かせることにした。でも本当なら警察に突き出して法律によって裁かれるべきだったんだ。それをしなかった俺は悪人で、間違ってる。でも俺はその選択をした。それが俺のメリットになるからだ」
俺のこの答えは玲さんがほしいものではないだろう。斬波だってこんな言葉を聞かされても困るはずだ。
「玲さんは間違ったことをした。でも努力をしたんだ。既成事実を作ることによって俺と早苗は別れるかもしれない。でもそれで俺が玲さんを好きになることはない。だから方向性が間違っていた。やるなら玲さんを好きにさせるか、早苗を嫌いにさせるか。その方向性なら俺と玲さんは付き合ったかもしれない」
「ジン……なに言ってんの?」
「なにって、復習だよ。努力して取り組んだのなら反省して復習しないとな。別に人が人を好きになることは悪いことじゃないし、寝取るのだって。倫理的には間違ってるけど、それで幸せになるのなら。報いを受けてでもそれがほしいなら、やったっていいんだ」
「…………」
全員が幸せになることなどありえない。できるとしたら、全員が幸せになれる環境を作ることだけ。そこから幸せになれるかどうかは、本人の努力次第。そして玲さんは前に進みだした。褒められたことじゃないけど、努力したんだ。それ自体は否定したくない。
「これが俺の考えだ。でも答えは違う。式と解が合わなくて申し訳ないけどな」
だが。だが一言、言わせてほしい。否定はしないが、罰は与えなくちゃいけないだろうから。たぶん玲さんが一番言われたくない一言を。
「俺は玲さんに、正面から好きだって言われたかった」
部屋は相変わらず静かだ。静寂に満ちていて息をする音すら聞こえてくる。その部屋に、玲さんの泣き声がより大きく木霊した。