周りの大人の役割 --発達障害の少年の才能を開花させた大人たちーー
若き天才蒔絵師 中西健太は中学校まで発達障害を持つ問題児だった。中学校の担任の先生がその絵の才能を見込み、伝統工芸の世界に就職することを勧める。発達障害を持った生徒をどのように指導するか。またその才能をどのように活かして人類に貢献させるか。考えていただきたい
1,若き天才絵師 中西健太
国立京都迎賓館、京都御所の敷地内にあるこの施設は海外からの賓客をもてなすために建てられた日本文化の粋を尽くした施設である。施設内の工芸品はどれをとっても日本一の工芸師たちの作品で、油絵や日本画のような芸術家ではなく伝統的な工芸を守り抜く工芸師たちの作品である。漆塗りの机、西陣織のタペストリー、絨毯、壁の漆喰、どれをとっても超一流の作品と言える。工芸作品の博物館と言ったところである。
そんな作品の中に、ひと際若い作家の作品が藤の間の漆塗りの机に施された蒔絵の装飾である。天才的蒔絵師、中西健太の作品である。中西健太は若くして蒔絵の世界に弟子入りし、その集中力から手の込んだ作品を次々と仕上げ、頭角を現してきた。20歳にして日本工芸作家展覧会で蒔絵部門の最優秀賞、25歳からは芸術家として日展に出品をはじめ、28歳で奨励賞、30歳で工芸部門の大賞を受賞している。その年に国立京都迎賓館の漆机に蒔絵を施す仕事を引き受けた。工芸の世界は親方と弟子の関係からスタートし、一人前になるまでに数十年かかるのが普通だが、彼の場合は人並外れた集中力で、根気のいる作業を数日間、続けることが出来る。根気と言うレベルを超越した人間離れした集中力である。
彼の作品が蒔絵の世界の中で異彩を放つのは、そのダイナミックさと繊細さである。通常蒔絵と言うのは漆塗りされたお椀や重箱などの側面に漆の塗料で絵をかきそこに金や銀などの金属片を蒔いて定着させるのだが、彼の作品は土台となる物がお椀などではなく、横長の机や部屋の壁一面を使ったり、とにかく大きな作品が多く、さらにその作業の繊細さは虫眼鏡で見るとその手作業の丁寧さが見えてくる。
京都迎賓館では毎年建築に携わった工芸家たちが集まって修復や修繕が必要になったところがないかを点検する会が開かれる。今回その修繕に合わせて漆机に蒔絵を施すことになり、30才になった中西健太に白羽の矢が当たったのである。
「修繕のために全部の机をうちの工房に持ち出すので、中西君もうちの工房で作業をするかい。」と聞かれたが、中西は「蒔絵は蒔絵工房でやらないと出来ないので、漆塗りの修繕が終わったら美術品運送の専門業者に福井のうちの工房まで運ばせます。」と言った。漆塗りの職人は同じ職人仲間にも気難しい人は多いので、中西の気質もわかってくれたようである。
当代一流の職員たちの技術が結集された今回の修繕作業は、職人たちの意地と意地のぶつかり合いになったが、100年後の世界でこんな職人たちが腕を振るったんだと伝説に残ることを夢見て、みんな良い仕事をした。
中西健太は30才という若さでその職人たちの仲間入りをしてこの迎賓館の修繕作業に加わった背景には、彼を取り巻くたくさんの人たちの力が関わっていた。
2,小中連絡会
2003年3月、まだ肌寒いが日差しは会議室に降り注いでいる。地球温暖化の影響で北陸地方は冬から春への季節の移り変わりが急激になってきた。
「この子は自閉症の診断を受けているんですね。どんなことが苦手なんですか。」
「友達と仲良くすることが苦手です。相手の気持ちを想像することが出来ないと言われてきました。クラスメイトが教室で遊んでいても、周りで見ていたり、一人で本を読んでいることが多いです。」小学校で担任をしていた40代の女性教師の分析を高島中学校の特別支援学級の担当の木村みどり(30)がノートにメモを取りながら聞いている。
「彼の得意分野は何かありますか。」
「記憶力はすごいと思います。私の免許証の番号を覚えています。一度見ると覚えてしまうんですかね。それから耳も良いと思います。小声で話していることも聞かれてしまったことは何回もあります。」小学校の女性教諭は彼の苦手なことや得意とすることの大まかな分野を説明したが、彼の全てを把握できているわけではなかった。
木村みどりは改めて彼の指導要録を見直した。中西健太。中山小学校出身12歳、福井市高島町12-11 両親は父 中西隆一39歳福井銀行勤務 母 中西香織38歳福井県立病院看護師 10歳の時に自閉症の診断を受けている。小学校の各学年で担任した教師たちの所見から見ると、勉強はそこそこできるが、勉強に集中することが出来ず、他の刺激に大きく反応してしまい、トラブルを起こしてきたようだ。暴力的なところもあり、今年入学してくる生徒の中では最も心配な生徒らしい。小学校5年生からは就学指導委員会の認定を受けて特別支援学級に入級していたので、中学校でも特別支援学級に所属することは決定している。
「入学式前に保護者の方と本人と学校に来ていただいて、面談させていただいたほうがいいでしょうね。」教頭の大橋が口をはさんだ。大橋は特別支援コーディネーターも兼ねているのでこの小中連絡会に同席していた。
「そうですね。お母さんも中学校入学をご心配されていて、事前のお話を希望されていましたので、よろしくお願いします。」小学校の担任は母の要望を中学校に伝えた。
「では早速、中学校の方からご自宅にご連絡させてもらいます。」と言ってこの会議は終了した。この会議では特別支援が必要な生徒の情報も共有するが、通常学級の生徒たちのことも時間をかけて話がされ、スムーズな移行措置がとれるような配慮がなされている。
職員室に戻った木村は中西健太の家に電話をかけてみた。夕方になっていたがまだ5時前である。出るかどうか心配だったが、呼び出し音5回で母親が出てきた。
「はい、中西でございます。どちら様でしょうか。」
「こちらは高島中学校で特別支援学級を担当しています木村と申します。この度、健太君が高島中学校に進級されるにあたりまして、どのような支援ができるか、ご両親とお話が出来ればと思っています。お父さん、お母さん、健太君のご予定を合わせて、学校の方に出向いていただけないでしょうか。」丁寧に頼むと
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。仕事を休んででも行きますので、ご都合のいい時間をおっしゃってください。」
「それでは1年生の学年スタッフも決めっている4月の4日、午後3時くらいでいかがでしょうか。特別支援学級の教室や交流する1年生の教室、入学式がある体育館など案内できると思います。」と言って電話を切った。発達障害のある生徒は新しい出来事に対応するときにパニックを起こすことが多い。事前に下見させておくことは重要な作業なのだ。
約束した4月4日は学校では午前中から職員会議でこの1年間の主な計画が発表され、様々な年間計画が発表される。1年で一番忙しい日かも知れない。そんな日の3時に来てもらうことになっている。職員会議を終えあわただしく昼食をとって、中西家を迎えるメンバーが打ち合わせをすることになった。メンバーは特別支援担当の木村、コーディネーターの大橋教頭、1年生の学年主任になる吉川加奈子(50)、吉川は発達障害の専門家である。30歳で経験の浅い木村はベテランの学年主任が同席してくれることに感謝した。
「今日の話は中西健太くんの発達障害の様子を詳しく聞くこととどの教科の授業を特別支援教室で受けて、どの教科の授業を普通教室で受けるかの希望を聞くことになります。その間に健太君本人には各教室や入学式が行われる体育館を案内し、座る場所なども下見させたいと思っています。いかがでしょうか」木村が方針を説明すると
「それでいいんじゃないかな、健太君を案内するのは私が行きましょうか。」学年主任の吉川が引き受けてくれた。
「どの授業を他の生徒たちと一緒に受けるかははっきり決めないと時間割が組めないね。本人たちはどんな風に希望してるのかな。」教頭の大橋が質問すると
「小中連絡会で小学校の担任から聞いたところによると、小学校では国語と算数、社会、理科の4教科だけを特別支援教室で勉強していたそうです。学習の理解度はほかの生徒と何の遜色もないんですがパニックを起こしたり、ほかの刺激に反応して大声をあげたりするので取り出し指導に踏み切ったそうです。」
「今現在、本人にどれくらいの困り感があるのか、どの教科を支援教室で授業を受けたいかはまだわかってないんだね。」
「そうです。今日の会議で聞いてみたいと思います。」
そんな話をしているうちに3時近くになった。校長室横の会議室で6人分の椅子を用意して待っていると、3時10分前に親子3人がインターホンを押した。木村が出迎えると親子はそろって頭を下げ、挨拶をして中に入ってきた。廊下でも3人そろって緊張した感じで会議室に入ってきた。
「よくおいでいただきました。教頭の大橋です。よろしくお願いします。」教頭から挨拶すると学年主任の吉川は「健太君ですね。よく来てくれました。吉川です。これからよろしくね。」と健太君に挨拶した。
6人が会議室に四角にセットした机と椅子に席を決めてすわり、本題に入った。
「健太君の得意なことと苦手なことを教えてもらえるかな。」と木村が口火を切りと
健太は黙ったまま考え込んでしまった。しばらく沈黙が続いた時、母親が
「健太はお友達と仲良くすることが苦手で、友達が出来ないんです。それと興味があることが出来るとご飯も食べずにのめり込んでしまうんです。小さいころからそうでした。ジクソーパズルをやり始めると完成するまでやめなかったんです。でも、言葉が出るのが遅かったので心配でした。2歳になっても何もしゃべらなかったんです。はじめてママって言ったのは3歳近かったと思います。コミュニケーションが苦手なのは生まれた時からあったんでしょうね。」と語り始めた。
「物事にのめり込んでしまうというのは逆に言えば集中力が強いという事です。得意分野に入ります。そのほかに得意分野はありますか。」吉川先生が話を先に勧めてくれた。
「そうですね。記憶力は鋭いかもしれません。パパが一番最近ゴルフに行ったのはいつだったかしらって聞いたりすると、3月7日の日曜日だよとかすぐに答えてくれたりします。私たちにはメモ帳替わりかもしれません。」と教えてくれた。
「それじゃあ、健太君。お勉強するお部屋を見に行きましょうか。」と吉川先生が健太君を連れ出そうと言ってくれた。健太は吉川先生と特別支援学級と通常学級、そして入学式会場になる体育館の見学に出てくれることになった。
2人が会議室を出ていくと健太君の教育課程の話になった。教頭の大橋が
「教科としてはどの教科を特別支援学級で受けられますか。」と質問した。
「私たちは学校にお任せするつもりなんです。小学校では国語、社会、算数、理科の4教科でお願いしていたんですが、中学校では英語も入ってくるので5教科かなと思っていたんですが。」
「中学校としてもそんな感じで考えていました。中学校ではたとえば国語の時間4時間のうち最低1時間は国語の専門の先生が入るように時間割を組みたいと考えています。残りは特別支援学級の担任が授業にあたります。ちなみに担任の木村先生は英語が専門なので、英語は全部専門家が入るという事になります。5教科という事でスタートさせて、しばらく様子を見て変更していくという事にしましょうか。」と教頭が説明してくれた。その説明に両親は納得したのか、週29時間のうち国語4時間、数学4時間、社会3時間、理科3時間、英語4時間の合計18時間を特別支援教室で学習することで合意した。
「体育や音楽、美術、技術家庭科は大丈夫でしょうか。パニックにならないか心配ですが」と聞いてきたが
「とりあえずスタートさせてみて修正を加えていったらどうでしょうか。小学校の5,6年生の時は交流学級でいっしょに学習してきたわけですから、きっと大丈夫だと思いますよ。」と言うと納得はしてくれた。
暫くすると、健太と吉川先生が戻ってきた。
「特別支援学級へ行ったら今度3年生になる良助くんが部活動の途中で来てくれたから、顔合わせができたのよ。2人ともこれから一緒に勉強するからご挨拶という事で、挨拶できたからよかったわ。1年2組の教室では健太君の座席も確認できたし、体育館では座る椅子の場所も確認して、入場で歩く道も実際に歩いてみましたから、明後日の入学式はばっちりよね。」と吉川先生が健太のほうを見て合図を送ると健太はにこにこ笑って頷いた。その様子を見て両親は来た甲斐があったと喜んで表情を崩した。木村はほんのしばらくの時間で健太と両親の心をつかんでしまった吉川の力量にさすがベテランと感激した。
「今度来るときは入学式の日ね。朝は遅れないように早めに登校してくださいね。」木村の言葉に親子3人が頷いて答えてくれた。3人とも満足した雰囲気で帰っていった。
3人を見送って職員室に戻った木村と吉川は健太君について話し合った。
「あの子、どんな印象を持ちましたか。」と吉川が聞くと
「小学校からの申し送りでは突発的に暴力的になり、指導困難な生徒という事だったけど、そこまでではない気がしました。」
「私もそう思ったわ。しっかりと話を聞いてあげて、こっちもほかの生徒と同じように合わせることを強要しなければ、感情を爆発させることもないように思ったわ。私思うんだけど、発達障害というのは障害と言う言葉がネガティブな意味合いを作ってしまうけど、特別な能力と考えるとポジティブに考えられるよね。周りのみんなの考えていることを想像することは苦手かもしれないけど、その分、興味を持ったことには集中できるわけでしょ。人間は生まれ持った能力にはさほど差がなくて、どこかが劣っていたらどこかが優れているのよ。でも、健太君たちの場合は、どこか劣っているところばかりが目に付いているけど、優れている部分を見つけてあげて延ばしてあげるのは周りの大人の仕事なんじゃないかな。」
「そうですね。世界を動かしてきた偉人たちは多くが多かれ少なかれ発達障害傾向があったと言われていますね。」
「そうなのよ。よく学力を可視化するために正六角形のグラフの面積で表す表があるでしょ。すべての要素が平均的で中ぐらいの大きさの六角形になっているのは凡人の典型なんだけど、言語表現力とか空間認識力は極端に低いけど、文章読解力と記憶力だけが極端に優れているとか言うのは天才としての可能性があるわけ。エジソンだってアインシュタインだって最近で言えばアップルの創業者のスティーブ・ジョブズも発達障害を抱えていたと自ら告白しているわ。凡人は天才の敷いてくれたレールを突っ走ることはできるけど、レールを敷いて世界の方向性を決めるのは天才にしかできないのかもしれない。そんなふうに思うのよ。だから私たちの仕事は大切なんじゃないかな。ヘレンケラーはすばらしいけど、サリバン先生がいたからその能力が開花したわけでしょ。」
木村は吉川の言葉に特別支援教育の意義を再認識した。
3,入学式
福井市では中学校の入学式は4月6日の午後行われる。午前中は小学校で入学式が行われ、市長や市長代理や市会議員たちが両方出られるようにと言う配慮からだ。高島中学校では午前中に入学式準備が行われ、新3年生は朝から登校して、玄関や体育館、1年生教室の準備をしている。木村先生も特別支援クラスの3年生と一緒に特別支援教室の飾りつけをして健太君の受け入れ準備をしていた。健太君の投稿は1時ごろのはずだった。
木村が3年生の太一君と教室の黒板に絵をかいて、紙のバラをつけていると教室のドアを開けて健太君が入ってきた。
「健太君、もう来たの。まだ11時だよ。お昼ご飯は食べたの。」と聞くと
「さっき、朝ごはん食べたよ。大丈夫」と言ってケロッとしている。
「もう来たんだったら、いっしょに飾りつけしようか。」と言って主人公にも手伝ってもらうことにした。
「健太君、玄関の下足箱はわかりましたか。」と問いかけると
「玄関で3年生が紫の幕を準備していたけど空いているところに靴を入れてきたよ。」と言っている。木村はきっと空いている1年生用の場所に適当に入れてきたんだろうと思い、あとで一緒に行って入れなおそうと思った。
「ところで、お母さんやお父さんは後で来るの?」と聞いた。すると
「まだ家にいるけど、後で来ると思うよ。」という事だった。きっと家ではまだ時間あるからもう少し待ちなさいという母の声を聴く耳を持たない健太がさっさと出て来てしまったのだろう。早く行きたいと思うと待つことが出来ないのも発達障害傾向の子の特徴だ。
12時近くになって3年生たちは持ってきたお弁当を食べ、先生たちもお弁当を食べなくてはいけない。木村は特別支援教室にお弁当を持ってきて、良助君と健太君と一緒に食べることにした。健太君にはサンドイッチを少し分けてあげるつもりだった。
特別支援教室で入学式を前にしてすでに集まってしまった3人で机を合わせて食事をすることにしたが、入学生の健太君はすでに食事を済ませている。木村先生が「サンドイッチ一つあげるよ。」と言うと首を横に振っていらないと意思表示した。子供と言うのは保守的で危険を冒さない。食べたことのないものはなかなか口にしない。自分の身を守るための動物的本能が大人よりも残っているという事なのだろう。まだ、知り合って日が浅い木村のことを信用しきってはいないのかもしれない。動物的本能は普通の子供よりも発達障害傾向の子はさらに強いかもしれない。木村はそんな風に考えていた。
とりあえず2人は食事を終え、1人はそれを眺めながら1時30分の入学式開始を待っていた。健太君の緊張感は徐々に増してきた。普通教室は新入生であふれてきている。健太君を連れて木村先生は普通教室に行き、最後列にある健太君の席に座らせて、担任の先生の話を聞くように言い聞かせて後ろで見ていた。担任は入学式の簡単な説明をして廊下に並ぶように指示した。
廊下に生徒たちがクラスごとに並び始めた。健太君も2日前に吉川先生から教えてもらっていた場所に並ぼうとした。その場所は教室の後ろに近い柱の少し前だった。しかし、普通クラスの生徒たちが間隔を予想よりも開けて並んでしまい、一番後ろの生徒が健太君の立っている場所につっかえてしまい、後ろに向けて押してきた。健太君は自分の場所を必死に守ろうとして立ちふさがった。それでも押してくるので、健太君は大きな声を出して訴えた。「押さないで。僕の場所だ。」木村先生も近くにいたが間に合わなかった。健太君はパニックを起こし、押してきた生徒を押し返して突き飛ばしてしまった。幸いその生徒は小学校でも同じクラスだったので、健太君のことをよく知っていて反撃はしなかったが、違う小学校の出身の子だったら大騒ぎになっていただろう。驚いて近寄った木村先生が仲を取り持って仲裁し、健太君をなだめておさまったが、眼を離せない状況であった。入学式が始まる前からの騒動に先が思いやられる気がしたが、怪我がなくてよかった。
入学式が始まると予定通りに進んだので、健太君にとっては想定の範囲内で順調にこなせた。自閉症の子にとって想定外のことは弱いが、予定通りの事にはうまくやっていける。新入生点呼も順番通りだったので、大きな声で返事ができた。
入学式後教室に入り、特別支援教室で保護者と健太君と木村先生で今後の話をした。お父さんもお母さんも時間までに体育館に入って待っていたようだ。朝の家庭での様子を話してくれたが、相当早くに起きてしまい暗いうちに朝ご飯を食べ、10時ごろにはお昼ご飯を食べ、まだ早いからテレビでも見て待っていなさいと言うのに言う事を聞かず、自分一人でさっさと家を出てしまったそうだ。
しばらくすると生徒は体育館でオリエンテーション、保護者は担任の先生と話し合いだ。健太君を一人で出しておくわけにはいかず、吉川学年主任が健太君についてくれた。お父さんお母さんと木村先生は翌日からの授業について詳しく話した。
国数英社理のいわゆる5教科は特別支援教室で学習だが、19時間のうち3時間は生活単元としてソーシャルスキルの習得のための学習に充てるということをお願いした。相手の気持ちを類推するのが苦手な健太君には、こんな場合には相手はこんな風に思っているからこんなことはしてはいけないとか、こんな風に対処しようというような基本的なことを教えてあげないと、生活する中で周りの人たちとトラブルになり、まわりの子供たちがストレスを感じてしまうといじめに発展することも考えられる。そうなると抱えている障害とは別の2次障害という形でいじめられて大きなストレスを抱えて、自分が持っている能力を発揮できないままに終わってしまうことになる。だから、まわりにストレスを感じさせず、穏やかに過ごしていくためにもソーシャルスキルを身に着けることは大切だと保護者にわかってもらった。この話の内容は吉川先生から教えてもらった中身だったが、木村は自分が勉強して話しているように表現した。
30分ほどして保護者にも体育館に出てもらって記念撮影をしてその日は下校になった。
4,特別支援学級デビュー
翌日はいよいよ特別支援学級のスタートの日だ。健太が所属する学級はあすなろ学級と言う名前で呼ばれていた。情緒障害学級というカテゴリーでそのほかには知的学級と肢体不自由学級がある。この学校では情緒障害のクラスだけが設置されている。特別支援教育以前の特殊教育と言われていた時代には知的学級しかなかった。新学習指導要領でアメリカからspecial support educationが日本に導入され一気に広がった。
情緒障害クラスは知的に劣るわけではないが、自閉症スペクトラムのように広汎性発達障害のためパニックを起こしたり人間関係の形成が苦手なために普通クラスではうまく適応できない生徒のために設けられたクラスだが、実際にはいろいろな障害を併発している例が多く、知的にも支援することが必要なケースが多い。
健太君は登校するとすぐにあすなろ教室に入り、同じ教室で勉強する3年生の良助くんと朝の会が始まるまでおしゃべりをしていた。2人は入学式前に既に顔合わせは済んでいた。朝の会では今日一日の予定を確認する。普通学級の生徒ならば大したことはないが、この教室の2人には重要な作業で、自閉症やADHDの生徒にはあらかじめ予定を立てていることは大切で、予定通りの事ならば少々のことではパニックは起こさない。2人は別々に今日の予定を確認した。1限目から3限目までは全校オリエンテーションが続く。1限目が生徒指導部と教育相談部の話で、守らなければいけない規則や本校の伝統について、そして教育相談部からはカウンセリングの話があった。2限目は掃除について、3限目は給食指導についてだ。4時間目からようやく教室での活動になり、あすなろ教室では2人の役割分担などを担任の木村先生と2人の生徒で話した。
「あすなろ教室での生活のルールについてみんなで決めていきましょう。最初に学級委員長は3年生の良助君でいいわね。日直は2人で交代交代ね。早速明日は良助君からよ。朝の会の進行は日直がすること。授業の最初と最後のあいさつの号令は日直、でも2人がそろわず1人で授業の時はその人が号令をかける。ここまで良いかな。」
「朝の会の進行はどんな内容ですか。」健太君が質問した。
「どんな内容にするかも3人で考えますか。最初は朝の挨拶でしょ。その次は健康観察かな。その後は何をするといいかな」
「1日の授業の予定の確認をしてください。」良助君が提案してくれた。
「わかったわ。3番目が予定の確認ね。じゃあ、その次は?」
「今日の楽しみって言うのはどうですか?」健太君がかわったことを提案し、発言を続けた。
「毎日、つまらないことも多いけど、給食でもいいし、体育の授業でもいいので楽しみにして考えることで、前向きに考えれるようになるんじゃないかなと思います。何かひとつ、楽しみにしていることを発表するというのはどうでしょうか。」
「それは良いわね。やりましょう。給食のデザートでもいいし、授業の内容でこんなことをするのが楽しみと言うのでもいいし、放課後の部活動でやる事でもいいわね。5番目は先生からの連絡の時間をくださいね。」
4限目の学級の時間は朝の会、帰りの会の活動についての話し合いで終わった。
給食はそれぞれの交流学級でとることになっている。3年生の良太君はもう慣れているが、新入生の健太くんは中学校で初めての給食である。同じ学校の同じ学級から進学してきた生徒はほぼ健太君のことを理解しているのでトラブルは少ないが、違う学校や同じ学校でも違う学級からの新入生にとって健太くんと一緒に食べる給食ははじめてだ。授業の時間と違い給食の時間は勉強ができるとか運動が得意とかそんな観点は関係のない世界である。明確なルールをしっかりと作っておかないとトラブルが絶えない時間である。学級担任の力量が最も試される時間でもある。
健太君は1年2組が交流学級なので1年2組の教室へ木村先生と一緒に行って、一番後ろの席に座って待つことになった。健太君にとって最も不安があるのも給食だった。発達障害を持つ生徒たちは好き嫌いが多いのもその傾向の一つだ。我慢するとか耐えると言ったことが苦手な彼らにとって、残さず食べることは苦痛以外の何物でもない。小さいころから母親が残さず食べるように激しく訓練してきた。口の中に野菜を押し込まれたこともあるし、食べ終わるまで遊ぶことを許されなかったことも度々であった。しかし、発達障害の診断が出てどんなに食べさせようと努力しても無駄だということを悟ってからは、母親は好きなものをたくさん食べることに重きを置くようになってきた。しかし、学校では担任の先生がかわったり、クラス替えがあったりするたびに、新しく表れた先生が一から給食指導に力を入れる。健太にも残さず食べることを強要してくるのだ。4月から始まって7月いっぱいくらいまで毎回同じことの繰り返しになる。中学校に入って新しい仲間と給食を食べる楽しみよりも、残さず食べることを強要されることの方が勝ってしまい、憂鬱に配膳の時間を待っていた。
「この教室は先生は最後まで残さず食べることを強く言うのかな。」おぼろげに考えこんでいたが、給食当番が準備できたので、順番に取りに来るように言ったので、周りの生徒の動きを見て立ち上がり、給食を取りに行った。今日の献立は学期の初めの恒例のカレーライスとサラダと牛乳である。新学期最初の給食で教室で配膳がしやすく、給食室でも調理が簡単なメニューが採用されたのだろう。多くの生徒は喜んでいる。そんな中、健太は人知れず悩んでいた。カレーライスは好きだがどうして毎回ニンジンが入っているのか。家のカレーライスはニンジンなんか入っていない。幼いころ入っていた記憶があるが、お母さんはニンジンをいれなくなった。正しくはお母さんはニンジンを入れることを諦めたのだ。サラダはどうかというと野菜類は何とか食べられそうだが、ポテトサラダにグリーンピースが入っている。健太はこの世の中でグリーンピースが最も苦手である。
配膳台の向こう側で給食当番がカレー皿にご飯を盛り、次の人がカレールウを豪快に真ん中からかけている。大きなニンジンが入らないことを祈っていたが、神は苦手な人には試練を与えるもので、大きめに乱切りされたニンジンが2つほど目に付いた。いくつか並べられたものから選べるならよかったのに、給食当番が出来上がったカレーライスを健太の目の前に差し出してきた。もらわないわけにはいかず手を出して受け取り、お盆に乗せた。サラダは小皿に盛り付けられたいくつかの物が並べられていた。出来ればグリーンピースがないものが良いに決まっている。短時間で必死に見極め、出来るだけ少なくて緑色の小さな球体が入っていなさそうなものを選んだ。最後に牛乳とお箸をうけとり、座席に戻った。目の前の席には木村先生が座っていた。先生も配膳された給食を持ってきていた。カレーが好きなのか笑顔で健太の方を見つめている。12歳の健太から見れば30歳の木村先生は若くはない。でも、こんなに近くで見つめられるのは今日が初めてで、意外と美人なことはびっくりしたが、そんな場合ではない。ニンジンとグリーンピース問題をどう解決するか。今はその問題が先だ。いただきますがすんでみんな食べ始めたが、健太君は食が進まなかった。もじもじしながらスプーンでカレーをもじもじしている。みかねた木村先生が「健太君、どうしたの」と声をかけた。健太はなかなか言葉を発しない。しばらくしてようやく発した言葉は「先生、ニンジン食べられる?」だった。木村は小学校の先生から好き嫌いが多く給食は苦手だと聞いていたことを思い出した。「健太君、ニンジン苦手なの、無理しなくていいよ。残してもいいんだよ。」と声をかけた。すると「ポテトサラダの中にグリーンピースがあるけど、これも残していい?」と甘えた声で聞いてきた。木村先生は「無理することはないんだよ。食べられるものを食べてください。気にしないで。」と優しい眼差しで答えた。周りの生徒は怪訝に感じたかもしれない。僕だってレタス嫌いだよとか言いたそうな子もいた。しかし、健太君が周りのみんなとは少し違うという事は理解してくれたようだ。健太君は皿の端にニンジンを寄せ、サラダの中からはグリーンピースを探し出し、少し笑顔になって満足げに食べ終わった。
入学式翌日は給食を食べて下校になった。放課後、木村は今日一日の健太君のことを思い出しながら支援ノートを書いていた。1年生の先生たちは学年会を始めたので、学年主任の吉川先生は会議中だ。相談したいなと思っていたが会議中だから仕方ないと思って記録をつけていたのだが、教頭の大橋先生が声をかけてくれた。「健太君の様子はどうでしたか?」
「4時間目に朝の会や帰りの会の進行の仕方を考えたんですけど、健太君が今日一日で楽しみにしている事を発表するというコーナーを作ろうと提案してくれました。これってすごくいいですよね。素敵な考えだと思ってすぐに賛成しました。」
「そうだね、普通の生徒でも学校は辛いところだし、嫌なことが多いところだと思うけど、発達障害を持っているいる生徒にはもっとつらいところだと思うね。だから普通は持って生まれた障害以外に不適応から2次障害を起こしてs舞うことが多いけど、そうならないように学校を肯定的にポジティブに感じるためにも毎日ひとつずつ楽しみにしていることを持つことは有意義だね。楽しく過ごせるように気を配ってあげてね。」大橋教頭の言葉に大きく共感した木村だった。
5,衝突
3日目、朝の会のために木村はあすなろ教室に入った。生徒は2人きり。1年生の健太と3年生の良助。今日から朝の会が始まった。司会は日直の良助がつとめた。朝の挨拶は号令が良助。元気よく「おはようございます」と発声した。健康観察は係が健太君。2人しかいないからすぐ終わる。次はいよいよ楽しみにしていることだ。司会の良助が「今日の楽しみにしていることを発表してください。健太君」というと健太が立ち上がり「今日から教科の授業が始まり、中学校で初めての英語の授業が楽しみです。」としっかりと話した。司会の良助は「では僕も発表します。僕は今日の給食で揚げパンが出るのが楽しみです。」と満面の笑みで話した。最後に担任の木村先生が2人の今日一日の時間割と教室の確認を行い、2人がホワイトボードに書き込んで終わった。楽しみにしていることを発表することは2人にとってこれからも大きな励みになる感じがしていた。
3限目は1年2組は体育の時間、健太君も2組の生徒たちと体育館の更衣室へ向かった。更衣室は体育館のフロアに面した1階にあり、中は教室の半分のほどの広さだが、奥の壁には正方形の棚が立てに4段、横に10列、40人分が作られていて着替えた制服をいれておくことが出来るようになっている。健太君は混みあった部屋に入ることは苦手な領域だったので、みんなが着替え終わって出てくるのを外でしばらく待ってから入った。あいている棚を見つけてカバンを中に入ようとした。。その時、着替え終わった別の生徒が制服をカバンに入れて、同じ棚に入れようと手を伸ばしてきた。どうもその生徒はしばらく前からそこに入れるつもりで着替えていたらしい。「ここ、僕が使おうとしてたんだけど。ほら靴下が入っているだろ。」先に小物を入れて占有する意思を示していたようだ。しかし、健太君も納得がいかない。先にカバンを入れたのは自分だという思いがある。空いている棚は端の方の下の段しかない。この棚はちょうどいい高さの3段目。譲るわけにはいかない。そんな思いからかカバンを引こうとしなかった。相手の生徒も引く気配がない。相手の生徒は健太とは違う学校出身の生徒のようで健太のことをあまり知らなかった。とうとう健太が手を出してしまった。相手の生徒の胸を突き飛ばしてしまった。相手の子も負けじと応戦してきた。取っ組み合いになったが健太君は奇声を上げながら感情表現をするので、体育館にいる生徒たちも事件が起きたことに気づき、みんな更衣室に集まってしまった。程なく体育の先生がやってきて怪我無く終わったが、健太は興奮が収まらず、保健室で1時間を過ごした。楽しみにしていた英語の時間は4時間目だったのに。
4時間目の英語は担任の木村先生と良助君と3人での授業だった。1年生と3年生なので複式のような授業だった。健太は保健室で気持ちを落ち着かせ保健の先生と中学校の印象や小学校の出の出来事などを話していたので、前の更衣室での出来事は引きずっていなかった。木村先生は3年生の良助君には今日やるレッスン1の本文を書き写すことを支持して、健太君の英語から始めることにした。
「健太君。小学校では英会話の基礎をやっているけど、中学校では文字で書くことが始まります。まずはアルファベットから始めましょう。大文字と小文字、それにゴシック体と筆記体、いろいろあるから頑張ってね」と楽しませながら学習は開始された。初めて学習する英語の文字に知的好奇心をくすぐられ、好奇心いっぱいで学習に臨んだ。健太君は学びに満足していた。
英語学習はかつては中学校から始まっていた。しかし、2010年代の学習指導要領の改訂で小学校高学年に英語活動が導入され、次の改訂では4年生から英語活動が導入された。コミュニケーションが中心で文字を書いたり長文を読んだりすることはない。いわゆる楽しい英語を小学校でやり始めたのである。しかし、5,6年生で書くことの基礎を入れ始めると、途端に詰め込み式の学習をする小学校が表れ、成果を出す一方で英語嫌いの児童をたくさん作ってしまう弊害も現れてきた。
ともかく、最初の英語の授業は健太君は楽しんだ。体育の時間の事件はあったが、英語の授業で気分を回復し、家に帰る足取りは軽やかだった。家に帰っても英語の文字を練習し、アルファベットの文字を使った多くの単語を自主的に勉強し始めた。興味関心は学習の基礎であり、原動力である。
6,2次障害
興味関心の高い学習に対しての集中力は高いのだが、興味が薄い学習に対する集中力のなさも彼の特徴である。教え方にもよると思うが、社会科は興味関心が薄い教科だった。社会科の授業は週3時間のうち1時間は専門の先生だが、2時間は本来英語が専門の木村先生との学習である。教科書を読んでノートにまとめていく形態の学習が続き、彼の知的好奇心を満足させるレベルではなかった。
つまらない学習に対する彼の反応は素直で、つまらないという事を正直に態度に表す。木村先生が教科書の内容をまとめて黒板に書いているときに1対1で学習しているにもかかわらず机に頭を埋め、スースーと寝息を書きながら寝てしまっていた。黒板に文字を書いていた木村先生が振り返り、健太君が寝ていることに気づくと「健太君。なんで寝ているの。起きなさい。」と大声を上げた。健太君は何が起きたのかもわからず、眠気眼を木村先生に向けながら、なぜ寝ているのと聞かれたことに正直に答える。「つまらないから寝てしまいました。」この場合のなぜはその理由を聞いているのではなく、寝てはいけないよと言うことを示している。反語的表現と言ったところだろう。しかし、健太君にはそういう表現は通用しない。素直にその意味をとらえよかろうと思って答えたことが相手の気持ちをさかなでる。相手が木村先生だったから大きな事件にはならなかったが、同じ年頃の生徒同士だと許してもらえない場合が多い。
体育の時間、ペアで運動することは多い。バレーボールの授業でオーバーハンドパスの練習をするとき、健太君はよく似た体格の誠二くんとペアになった。健太君は運動が苦手だ。体育の先生がボールを両手の指10本で優しく包んでキャッチしてから逆に押し返すやり方を教えてくれたが、誠二君が投げてくれたボールを額の上で10本の指でキャッチしようとすると、ボールが額にあたって痛い思いをした。2度ほどボールが当たると健太君はやる気をなくしてしまい、怒りをボールにぶつけてボールを別の方向に投げて、体育館を出ていってしまった。ペアだった誠二君は健太がいきなり怒り出したから、何に怒っているのかわからなかったが、自分に起こっているような気がして「健太、ボール何処へ投げてんだ。ふざけるな。」と大声を上げた。背中でその声を聴いた健太は売り言葉に買い言葉で「うるせえな。だまれ。おまえなんか、関係ねえ。」と捨て台詞をはいてしまった。そこからは頭に血が上った誠二君がダッシュして健太君に飛び蹴りをくらわし、健太君は体育館の端に倒れこみ、大声で泣き出してしまった。
小学校時代から一緒だった生徒たちはよく見かけた光景だったのでさほど驚かなかったが、中学校で初めて同級生になった生徒たちの驚きは半端なかった。極力こういう衝突がないように小中連絡会や保護者との連絡会もしてきたが、早速大きな衝突を起こしてしまった。周りの生徒たちは健太に対してあまり関わってはいけない存在のように感じてしまったようで、関わり合いを持つとトラブルになり、喧嘩になったり虐めているように見られてしまうのではないか。そんとってな思いから少しづつ彼のことを避けるようになっていった。
いじめとは言えないかもしれないが、みんなが避けている。健太君に一番大切なのは人との関係を構築する訓練なのに、そのチャンスが失われていってしまった。何とかしなくてはと思い木村先生は健太と話し合って切れたらだめだという事を諭した。健太もそのことはわかって入る。しかし、それが出来るなら健常者だ。発達障害があるからこうなってしまうんだし、これが健太なのだ。
この事態に担任の木村先生は職員室で学年主任の吉川先生と相談した。
「健太君と周りの生徒たちが時々トラブルがあっても交流を深めていけるようにするにはどうしたらいいんですかね。」と聞くと
「そう簡単にはわからないわ。みんな症状が違うから、健太君には健太君に合った方法を考えないとね。」と言ってくれた。続けて
「でもね、時々切れちゃうけどそんな健太君を丸ごと認めてもらわないと問題は解決しないわよね。」と話していると、教頭の大橋先生も話に加わってきた。
「丸ごと認めてもらうという考え方は素晴らしいね。最近、近くの学校の校長先生に聞いたんだけどリスペクトという話が印象に残っているよ。」
「尊敬ってことですか。」
「日本語の尊敬というのは全人格を含めて尊敬するという感じだけど、英語ではリスペクトというのは同級生でも下級生でも、先生から生徒に対してでも人格の中の一部に対して尊重するという意味合いが強いというんだ。野球選手なんかでも新人選手の剛速球にベテランバッターがまだ粗削りだけどあのスピードボールはリスペクトしているというふうに言うだろ。これを中西健太君に当てはめてみると健太君は人の考えていることがよくわからないし、感情的に切れてしまうことが多い。でもね、集中力がすごいから長時間同じ作業を続けることが出来る。勉強でも得意分野はものすごい成果を出すし、記憶力は素晴らしいよね。誰にも負けないくらいのすばらしさがあるんだからその素晴らしいところをポジティブにとらえ、その部分をみんなが認めることでリスペクト出来るんじゃないかな。この考え方って全部の生徒に言えることだよね。すべての生徒が得意分野があり苦手分野があるけど、苦手分野には目をつぶり、得意な分野に注目してその人を評価し、リスペクトすればいじめだってなくなるんじゃないかな。」
大橋教頭の話を聞いて2人とも大いに感心して、入学式前に吉川先生が話してくれたことを思い出した。
「吉川先生も『人間は生まれ持った能力にはさほど差がなくて、どこかが劣っていたらどこかが優れているのよ。でも、健太君たちの場合は、どこか劣っているところばかりが目に付いているけど、優れている部分を見つけてあげて延ばしてあげるのは周りの大人の仕事なんじゃないかな。』ってお話ししていただきましたよね。あのお話も心に響いていて中学校で高校入試に向けて5教科総合で点数を競う事なんて無意味だなって思うようになったんです。結局、得意分野で仕事すればいいんだから」木村先生が感想を述べると大橋教頭は
「そうだね。どんな生徒でも得意分野があると思って指導することが大切だよね。だからこそ、その大切な得意分野を伸ばすためにもいじめや無視で2次障害を起こさないことは重要になってきます。彼が今後も楽しく学校に来れるようにサポートしていきましょう」と同調してくれた。
7,先輩から学べ
健太君のトラブル以来、木村先生の危機感は大きくなり、研修に行く回数も増えてきた。特別支援教室の担任が集まる会議で今年の保護者の集いについて提案があった。「今年の保護者の集いですが特別支援教育が始まってずいぶん経ちますが、卒業生たちの中から在校生にお話をしてくれるような人に来てもらうのはどうでしょうか。」という提案が司会者から出された。木村はそのアイデア良いなと感じた。特別支援学級だからみんな無職と言うわけではない。発達障害だけど得意分野を生かして社会で活躍している人もたくさんいるはずである。中には社会をリードしているような人もいるかもしれない。そんな人の話を聞いたり質問したりすることで、在校生は将来に希望を持ち、保護者は将来に対する不安を和らげることが出来るかもしれない。司会者からは
「反対がなければ提案通り進めたいと思いますが、誰を呼ぶかはみなさんのこれまでの人脈に寄ります。私は1人だけ候補者としてレストランでコックをしている卒業生に連絡済みです。次回の会議までにそれぞれの学校の特別支援学級の卒業生で話してくれそうな卒業生のピックアップをお願いします。」と言って会議は終了した。
高島中学校に戻りさっそくベテランの吉川先生と大橋教頭先生に目ぼしい卒業生はいないかを打診してみた。すると大橋教頭は
「それなら、大学で教鞭をとっている卒業生がいるよ。鎌田しずかって言うんだけど、立命館大学で数学を教えているって聞いたことがあるよ。15年ほど前の卒業生だから30歳くらいかな。数学だけが得意だったけど、高校で適性を見出されたみたいだね。推薦で立命館へ進み、そのまま大学の教員になったらしい。一度連絡してみるよ。」と言ってくれた。吉川先生も
「私もこの世界が長いから、たくさんいるわよ。中でも面白いのはプロ野球選手なんてどうかな。鈴木高広って言うんだけどヤクルトスワローズの選手で25歳かな。私が前の学校にいるときに特別支援学級担任だった時の生徒で、野球だけが得意な生徒だったの。勉強は苦手だったけど野球の推薦で私立高校へ進学して、甲子園は行けなかったんだけど東京の東洋大学に進学して大学でも野球をして22歳でプロになって今4年目、ようやく1軍の試合にも出るようになったみたい。彼なら電話番号も聞いているから連絡できるわよ。シーズンオフなら帰ってきていろいろ話を聞けると思うわ。連絡してみるね」と言ってくれた。
木村先生は自分はまだ未熟だが、先輩たちのように経験を積み多くの卒業生が宝物になるように頑張りたいと思っていた。そして2人の名前を次の会議で報告できることをうれしく感じていた。
保護者の会は11月25日、日曜日に福井市フェニックスプラザで行われた。福井地区の各中学校から多くの生徒と保護者が参加した。ゲストの卒業生たちは10人ほど集まった。開始式が大ホールで行われ、セレモニーの後、卒業生を代表して最も有名なプロ野球選手として吉川先生の教え子の鈴木高広さんが全参加者に対してお話をしてくれた。
「ご紹介を頂きましたヤクルトスワローズの鈴木です。特別支援学級に在籍する生徒の皆さんと保護者の皆さんが来てくれると聞いて、僕が中学校時代にお世話になったことやその後の人生で経験したことをお話ししたいと思います。口下手なのでうまく話せるか心配ですがお付き合いください。まず、今の僕があるのは中学校でお世話になった吉川先生のお陰です。一生忘れることのできない御恩を受けたと思います。勉強がまるっきりできなかったんです。みなさんの中にもいるんじゃないかと思うんですが、学習障害、LDという障害とADHDを持ち合わせてしまったので文章を読むことが苦手だし、落ち着いて椅子に座っていることが苦手でした。国語の時間に順番に教科書を読むときには、順番が来る前にお腹が痛くなって保健室に行きました。(会場に笑い)わざとじゃなくて本当に痛くなるんです。そんな僕のことを見捨てずに最後まで信じてくれたのが吉川先生でした。どうしたら読めるようになるか一緒に試行錯誤してくれました。白い紙に黒い文字の教科書では白い紙の色が反射してしまって文字が見えなかったことに気が付いてくれて、教科書を少し灰色の紙にコピーしてくれました。文字も明朝体ではなくゴシック体だと読みやすいという事を発見してくれたのも吉川先生でした。でも、勉強ができるようになったかと言うとそう変わりませんでした。すぐにできるようになるものではなかったんです。でも、足が速くて肩が強くて野球が大好きだった僕を信じてくれて、高校でも野球をすることを勧めてくれて、スポーツ推薦に出してくれました。高校では僕と同じくらい勉強が苦手な生徒は何人もいて、そんなに苦になりませんでした。思いきって野球に打ち込むことが出来ました。甲子園こそいけませんでしたが首都大学リーグで野球に打ち込みプロ野球まで続けてこれました。吉川先生から教わったのは得意なことをとことん伸ばすことが大切だという事です。挫折することもあるかもしれませんが、へこたれず頑張ってください。」という講演に会場の親子は涙を流しながら拍手を送った。吉川先生も会場に座って立派になった教え子の姿に感激していた。立場が人を成長させると言うが、プロ選手としてインタビューにもこたえる中でこんなに話すことが得意になるなんて思いもよらなかった。今の生徒たちにも諦めることなく接していこう、そんな思いを強くさせた。
次は3つの会場に分かれて1会場に3人ずつ講演者が別れて、参加者も興味がありそうな人がいる部屋に分かれていった。木村先生と大橋教頭と吉川先生は鎌田しずかのいる第2研修室へ入った。講演を終えた鈴木高広も吉川先生と共にその部屋に入った。
2人目に講演に立った鎌田は「立命館大学で数学科の助教をしています鎌田しずかです。私には数学しかなかったんです。国語も英語も理科も社会も全然できないんです。数学だけは問題文が短いからやれたんです。私は今でも話すことが苦手だし、文章を読むことも苦手です。大学では学生と話し合う事もしなくてはいけないんですが、聞き役の方が多いと思います。そんな私でも、周りの皆さんがわかってくれて、苦手なことを強要してくることはありません。問題を解いたり問題を作ったりすることは得意なので、その分野で仕事させてもらってます。話はこれくらいにして質問コーナーに移ります。」とぼそぼそと呟くように原稿を見ながらマイクに向かって話し、質問を受けることになった。最前列のお母さんが「数学しかできなかったと言ってもその程度がわかりません。ほとんど満点だったのか、80点くらいだったのか、中学時代の数学の得点がどれくらいだったのか教えてください。」と発言した。鎌田さんは口ごもってしまった。数学的才能と中学時代の数学の得点とに相関関係を見出すことは難しいからだ。かろうじて答えたのは
「満点を取ったことはないと思います。60点から80点くらいかな。他の教科に比べたらできたほうかなという感じです。」と謙虚に答えた。その時大橋教頭が「僕は彼女が中学時代に担任した教師です。彼女の中学時代の数学の得点を具体的にお示しすることはデータがないし、個人的なプライバシーの問題なので公表はできませんが、数学的なセンスは素晴らしかった、何よりも数学が大好きだったことを覚えています。数学の時間になると生き生きしていました。彼女から昔聞いたことがあるんですが、どうして数学が好きなのと聞いたら答えが0とか1とかきれいな数字になった瞬間が好きだって言ってました。」と発言した。
それからもいろいろな人から様々な質問が出たが、自閉症の彼女が明確に答えることは難しかったが、ぼそぼそと答える答えに参加者は納得して将来に対するおぼろげな不安からもしかしたらうちの子も可能性があるのではないかと言う希望を見出していった。
8,良いところを伸ばそう
特別支援教育研究会主催の保護者の集いを終え、木村先生はますます特別支援教育に興味が増してきた。大橋教頭が言っていたどんな人もどこかに得意分野があるというのを見つけられたら発達障害がある健太君など特別支援を必要とする生徒たちも社会に貢献できるかもしれない。保護者たちにとっては切実な問題が親たちが死んだあと、子供たちが一人で生きていけるかどうか、自立させられるかどうかなのである。周りの人たちから認められて自立するためにも得意な分野を見つけられるかどうか。そのためには周りの大人たちの役割が大きいと感じるようになっていた。さらに発達障害と言われるが障害と言う言葉でネガティブにとらえられているが、弱い部分がある反面強い部分があるのだからポジティブにとらえるには特殊能力ではないか、一部の分野ではサポートを必要とするが、一部の分野では人類に貢献する能力がある人なのかもしれない、社会のお荷物ではなく社会の宝、社会を変えていく力を秘めている、そう考えることが大切だと考えた。
ある日、回ってきた書類の中に特別支援教育の講演会のチラシが入っていた。福井県特別支援教育研究会の講演会で東京から大学の先生が来るらしい。プロフィールにはアメリカの大学で研究をして最近日本に帰ってきたらしい。最新の情勢を話してくれるらしかった。すぐに吉川先生や大橋教頭に相談すると是非行って来いと言われた。すぐに電話で申し込んだ。
当日は木曜日の午後で、健太君たちの授業は大橋教頭が補欠に入ってくれたので、安心して研修に臨めた。会場は福井県教育研究所大研修室だった。大きな会場に福井県内から多くの先生たちが集まった。講師は筑波大学教育学部特別支援教育学教授、谷口和弘氏アメリカUCLAでスペシャルサポートエデュケーションを研究してきたらしい。特殊教育と言われてきたものが特別支援教育に代わったのはアメリカの研究の成果であり、自閉症などの子供たちの特別な能力に気が付いたからだろう。
講演は歴史上の人物や現代の有名人などの話から始まった。
「みなさんはエジソンをご存じですね。電球を発明したり録音機、映画など多くの発明を成し遂げ、現在の続くゼネラルエレクトリック社の創業者です。彼の子供時代はどんな子供だったか、偉人伝などで書かれているのは興味がある事にはとことんのめり込み、寝食を忘れてしまう事や機械仕掛けのおもちゃに興味を持ち多くのおもちゃを分解したり組み立てたりを繰り返したなど、多くの逸話があります。
長嶋茂雄は大人になっても不思議な行動が有名です。チャンスで打席に入るとき集中しすぎてバットを逆に持ったまま打席に入っても気が付かなかったとか。アインシュタインもモーツァルトも子供の頃の行動は奇怪で、普通ではありませんでした。彼らに共通することは時代が現代だったら発達障害の診断が下されていただろうという事です。時代を大きく動かす役割を果たしてきた多くの偉人の中には、発達障害の人たちが含まれています。現代で言えばアップル社の創業者、スティーブジョブス、マイクロソフト社のビルゲイツなども自ら発達障害であることを告白しています。発達障害の人たちがいたからこそ社会は大きく変化してきたのかもしれません。最近の流行の言葉で言えばイノベーションを起こしてきたのは発達障害の人たちなのです。この人たちを大活躍させたのは周りにいた大人たちがその才能に気づき、活躍を助けたこと、それこそが特別支援なんです。
僕は発達障害と言う言葉が嫌いです。障害と言う言葉は劣っている一面を指していますが、その反面、特に優れている面の特殊能力です。劣っている面を指し示す言葉ではなく優れている一面を指す言葉に変えれば、社会の見方は大きく変わるでしょう。・・・」と言う感じで講演はスタートして現代の最新の研究についてお話をしてくれた。後半の部分は診断名が研究が進むにつれて変わっていったことなどが続いた。自閉症、アスペルガー症候群、広汎性発達障害などいろいろと変わってきたが、一人一人違うので類型化すること時代が難しいという話だった。しかし、木村先生が一番頭に残ったのは、序盤の偉人たちの話だった。中西健太君もその才能を見つけ出してあげることが出来れば、周りのみんなも彼のことを認めてくれるし、社会が彼を必要としてくれるかもしれない。そのためには私たち周りの大人が彼をよく観察して優れた能力を見つけてあげなくてはいけない。そんな思いを新たにした。
9,観察
講演会を聞き終えて翌日の勤務から木村先生は観察日誌をつけることにした。支援記録や支援計画は保護者と一緒に記録をまとめ変化を確かめ評価したうえでそこから先の支援目標を立てるものだが、彼女が付け始める観察日誌は健太君の得意な分野を見つけるために、彼の好きなこと、興味を持ったこと、得意なこと、やってて楽しいことなどを記録して見つけようというものだ。毎日一緒に生活しているとその変化に気が付かないものだ。たまに来た親戚が「大きくなったわね」とその変化に驚いたりするが、毎日一緒にいる親は大きくなったことに気が付かないようなものだ。記録さえあれば後で見返した時、その変化に気が付くことがあるだろうという考えだ。
毎日の朝の会で続けている「今日の楽しみなこと」は彼が好きなことを知るうえで貢献してくれた。健太君と良助君の2人が発表する楽しみなことを木村先生は観察記録に書いていくことにした。今日の健太君の楽しみなことは美術の時間のデッサンだそうだ。絵を描くことは好きみたいだけど、どんな絵を描くのか、どんな描き方をするのか見てみたいと思い、3時間目の美術の時間を観察に行くことにした。
美術の時間は美術専攻の鷲田先生が受け持っている。今日は自分の手のデッサンだそうだ。鷲田先生は「最初に全体をつかむんだけどスケッチブックにできるだけ大きく形をとらえて、それから部分を詳細に書いていきなさい。全体を書き終えたら陰をつけて陰影をつけます。時間いっぱい静かに集中して書きなさい。」と言って作業を開始した。
みんな先生の言った通り全体の構図をとらえてから書き始めたが、健太君はやや違っていた。左手を机の上に手のひらを上にして置くとスケッチブックに右手に持った鉛筆で親指から描き始めた。木村先生は鷲田先生と一緒に机間巡視をしながらみんなの様子を見ているふりをしながら健太君の様子をじっくりと眺めていた。確かによく見ている。置かれた左手の親指だけを詳細に丁寧に書き、本物と見間違えるほどの形の捉え方である。しわの一つ一つから爪の輝き具合、指紋まで描いている。驚くことに左手を見ながら描くはずなのだが時々しか目線を手に向けていない。一度見るとある程度は頭に入ってしまうのか、一度見るとしばらく描き続ける。親指を描き終えたのはほぼ30分が経過していた。つぎにとりかかったのは手のひらの部分である。親指からつながった親指の付け根の部分を詳細に書き始めた。美術の時間50分はあっという間に終わってしまった。彼のスケッチブックはほんの一部分しか使われていなくて、そこには手のひらの中の親指とその付け根部分だけが描かれている。不気味な感じがする。
今日の観察記録には次のように記録した。
「美術の時間を観察。手のデッサンだったが彼は親指を描いただけで終わってしまった。全体をとらえることはできなかった。しかし、その表現力は秀逸。見た物を書く力は優れたものがある。得意分野の可能性あり。」
10,体育祭応援看板
健太君も順調に成長し、3年生になった。春の文化祭では美術的才能を生かし大看板作りの担当になった。高島中学校では伝統的に体育祭の時に応援席後ろに大きな応援看板を作成する。美術部の生徒や美術が好きな生徒が担当することが多かった。今年は健太君が紅組の応援看板作りの責任者になったらしい。木村先生は責任者と言うところが少し引っかかったが、頑張ってやれるように見守ることにした。
文化祭体育祭の準備の1週間は午前中は授業だが午後はせいとはみんなそれぞれの役割に分かれて応援の練習や文化祭劇の練習、応援小道具作り、大看板作りなどの作業に入る。健太君はその大看板作り担当だが、横3m経5mの大型の木枠に大きな紙を貼り、塗料で着色していく。デザイン画の作成からだが健太君が家で考えてきた。スケッチブックに体育祭のテーマである「全力疾走」に合わせて100m競争のゴール前を激しい形相で通り抜けるランナーの顔をアップで表現している。これから1週間、毎日3時間ずつくらい作業して仕上げていくことになるが、健太君以外に作業には5人がチームとして加わる。みんな絵を描くことは好きだが、コミュニケーションは苦手な生徒が多い。女子生徒も2人いる。
初日は大看板の木枠に厚手の紙を貼る作業からスタートした。5人で力を合わせながら両面テープで縦長の紙を貼り合わせて、横幅2m20cm縦5m20cmの紙を作り画びょうを使って張り合わせていった。スケッチブックサイズの絵を大看板サイズにするには写真にとってプロジェクターで投影して写し取る方法が一般的だが、紅組は健太君が鉛筆で直接描く方法を取った。床に看板を置いて、時々上から眺めながら形をとっていった。健太君はここでも美術的才能を発揮して見事に輪郭を鉛筆で描き切った。
2日目以降は着色作業に入った。5人で分担して着色するが、色は健太が指示した色を使っていった。細かい作業なので根気がいる作業だったので他の子は30分作業すると疲れてしまい、根気が続かない。しかし健太君は3時間続けて作業しても疲れることはなかった。木村先生が「健太君、少し休みながらやった方がいいんじゃないの」と声をかけても集中していると聞こえないみたいで、返事もせずに黙々と作業を続けた。まわりのみんなも健太の集中力におどろき、健太への見る目がかわっていた。リーダーとして作業する背中でみんなを指導していた。こんな作業が5日間続き、体育祭本番前日を迎えた。大看板は何とか完成したように木村先生には見えた。他の作業員たちも完成したと喜んでいた。しかし、健太君だけは違っていた。少し離れて作品を眺め、仕上げの作業に入念に取り組んだ。遠くから見るときれいに塗ったはずの線がまだ筆の跡が目立ったり、曲がっていたりしたところを責任者の健太君が修正を加えた。最終日の下校時間になったがまだやめようとしない健太君に「もう、完成でいいんじゃない。」と木村先生が声をかけたが納得しない。仕方なく他の生徒たちは下校させ、健太君の家には連絡を入れて終わったら迎えに来てもらう事をにした。結局納得して完成したのは夜9時を回ってしまった。生徒玄関まで迎えに来た健太君のお父さんは木村先生に「遅くまでご指導ありがとうございました。健太は毎日よく頑張ったと思います。」と言って連れて帰った。
その日の木村先生の観察日誌には「ただ絵を描いただけではなかった。完璧を目指して何時間も修正を加え、何回も何回も塗りなおし、根気強い健太君の姿を見せてくれた。絵を描く才能も素晴らしいが、一つのことをやり続ける根気強さが人並外れていると感じた。これも彼の才能だと思う。」と記した。
体育祭当日は登校後すぐに大看板をグランドに出して、応援席後ろのサッカーゴールに固定した。どの色の看板も力作で甲乙つけがたい。しかし、健太の赤組の作品はゴール前で鬼のような形相をした選手の顔が必死な感じで、ほかの色の看板がアニメチックな感じなのに対して絵画的で芸術性を感じることのできる作品に仕上がっていることは誰の目にも明らかだった。
出来上がった看板を見て健太君が満足げな表情を見せたところを木村先生は見逃さなかった。
11,越前漆器との出会い
9月に学校祭が終わり、学校行事も残り少なくなってきた10月、3年生にとって楽しみは秋の遠足だけだった。今年の3年生は越前漆器の里の鯖江市河和田地区のラフォーレ河和田で一人一人がピザを焼いて食べる体験型の遠足になった。バスで漆器の里公園に行き、芝生の広場で遊んだ後、隣接するラフォーレ河和田と言う施設で指導員さんに教えてもらいながら、一人一人が自分用のピザを製作して、出来た人から大きな窯で焼きあげてもらった。持って行ったお弁当と出来上がったピザを交互に食べながら、みんな笑顔で楽しんでいた。健太君も絵を描く才能をみんなに認められてからはそれなりに居場所を得たようで、みんなと一緒に笑顔を振りまいている。
昼食を食べ終わると河和田漆器会館と言う施設で河和田漆器の歴史や製作工程を見学した。河和田漆器は山間の河和田地区にとって冬場の農閑期の仕事として始まったが、漆器の原料の漆はこの地区の山だけでは足りず、漆を調達する仕事の人は東北方面まで出向いて山に入り、漆を集めたそうだ。その時、武生で仕入れた越前打ち刃物の鎌や鍬を担いでいって、東北の山間の村で売り歩くことも下らしい。そんな歴史を持つ越前漆器の里では、古来お椀や重箱などを作ってきたが、貴族や大名家で使っていた高級品を貨幣経済の発展と共に豪商の家でも使うようになり、沈金や蒔絵と言った華やかな装飾を凝らした作品が作られるようになってきた。それと同時にそれらの技術を専門とする職人たちも出て来て、今では伝統工芸師として無形重要文化財になる人もいるほどだ。この越前漆器会館には有名な伝統工芸士たちの作品が展示してあるとともに、何人かの職人が目の前で作業を見せてくれている。
木村先生が会館内をみてまわっていると健太君が一人の職人の前で、職人の作業する様子を凝視していることに気が付いた。「健太君、どうしたの。」と問いかけても返事がない。集中してしまった時のいつもの状態である。しかたなく、木村先生もいっしょにその作業を見ていた。コーナーの説明書きには「蒔絵師、清水仁左衛門」と書いてあった。どうやら蒔絵を専門とする職人さんのようである。美しく黒い漆が塗られたお椀を左手に持ち、右手は赤い漆を染み込ませた筆を持っている。細い筆で花や木、模様を描いている。描き終わると漆が乾かないうちに金粉や銀粉などを振りまき漆を接着剤にして金や銀の模様を出していく。さらにその上から漆を塗り、乾いてから磨いて再び模様を出せば絵柄だけが盛り上がらず、平面に仕上がる。江戸時代に出来上がった技術だと説明してあった。
あまりにも健太君が熱心に見つめるので、職人の清水さんが健太君に話しかけた。
「君は絵が好きなのかい。」
「はい。大好きです。」
「おじさんは嫌いだったんだけど、父親がやれっていうからやり始めたんだけど、今ではやってきてよかったと思ってるよ。君は絵が好きなら、蒔絵をやってみるといいね。」と蒔絵職人になることを勧めてくれた。
「清水さんは何年くらいこの仕事をやっていらっしゃるんですか。」木村先生も口をはさんだ。
「そうだね、かれこれ60年になるかな。15歳から始めたんだ。」
「75歳ですか。後継者の方はいらっしゃるんですか。」
「それがね、うちの息子たちはみんな出ていってしまったんだ。学校の先生と警察官だ」
木村先生は健太君の将来はこんな仕事もいいかなと感じたのでその日の観察記録にはこの遠足の越前漆器との出会いを記録しておいた。
12,特別な存在 進路
11月になり、3年生は進学先を考えるシーズンになった。保護者も入れた3者相談の前に担任の木村先生と健太君の間だ何回か話した。
「健太君はどんな進路を考えているの。」
「よくわからないんです。絵を描くのは好きだけど、お父さんたちはどっか高校行きなさいって言うんだけど」
「将来的に絵を描く仕事に就くとすると、絵そのものを製作する画家、絵を描いて何かを仕上げるならば遠足の時の蒔絵師、いろいろあるけど画家になりたいなら大学で芸術系の大学を選ぶといいかもね。」
「蒔絵師になるにはどうしたらいいんですか。」
「高校で教えてくれるところはないから、親方のところに弟子入りすることになるのかな。」
「高校へは行かなくてもいいという事ですか。」
「そう言うことになるのかな。」
高校へ行くなと言っているわけではない。そんな道もあるという事を話しただけである。数日後の保護者を交えた三者懇談で驚かされることになった。
数日後のあすなろ教室に中西健太と母の中西香織の姿があった。机をはさんで木村先生が話し合っている。
「お母さんはどうお考えですか。」
「はい、私は高校だけは言っておいた方がいいと思うので普通科高校へ行ってくれたらと考えています。主人も同じ考えです。」
「健太君はどう考えているの。」
「僕はどうして良いかわからないんだけど、普通科高校へ行っても英語や数学、国語なんかの勉強をまだ続けなくちゃいけないんでしょ。他の学校からくる生徒と一緒に教室にいなくちゃいけないし、普通科高校へ行くくらいなら絵を描く仕事に早く着きたい。遠足で行った河和田の清水さんに弟子入りしたい。」
「健太君は中学校卒業と同時に河和田塗の蒔絵の世界に入りたいと思っているのね。これは困りましたね。」中西母と木村先生は頭を抱えてしまった。しかし、健太君のいう事も一理あると考えもした。彼が力を発揮できる世界を見つけてあげることが周りの大人の役割なのである。そのことは講演会でも研修でもよく聞いてきた。
「お母さん、フェニックスプラザで親子の集いに行きましたよね。あの時に特別支援学級に在籍していたけど活躍している卒業生たちの話を聞きましたね。結局、一人一人の子供たちが持っている才能に気づいてあげて力を発揮できる世界に送り込んであげることが、親をはじめとする周りの大人の役割だと思うんですけど、どうでしょうか。」
「そのことはよくわかっています。あの研修会でいろいろな人の話を聞いて、いつかこの子も私たちの手から独立するので、力を発揮できる世界に導いてあげなくてはいけないと思っています。ただ、まだ中学生ですから。思い切りがつかないんです。」
「では、保留してお父さんともしっかり話し合ってきてください。」その場は保留と言うことになった。
次の土曜日、中西親子は3人で河和田の清水さんの家を訪れていた。父の隆一は前日に河和田の清水仁左衛門さんに電話で訪問することを伝えてあった。車で30分ほどで着いた。待ち合わせは河和田漆器会館で10時だった。10時10分前に駐車場に着き、会館内に着くと清水氏は既に来ていた。簡単な挨拶を済ませると隆一は
「息子の健太が遠足で清水さんの作業を見て、弟子入りしたいと言い出しました。今日は弟子入りするとどんな仕事をしてどんなに辛いかを体験させてもらえないかと思いまして寄せていただきました。よろしくお願いいたします。」
「電話でお話は伺いましたのでわかっております。最近は後継者不足でこの越前漆器の里も高齢化が進んでいます。若い人のチャレンジは大歓迎です。ただ、毎年数人はやってみたいと都会から来る人もいるんですが、みんな長続きしません。今日は健太君に1日体験をしてもらって、出来そうかどうかを見てもらいたいと思います。」といって奥の作業展示室に案内してくれた。ここは健太が清水氏の作業を固唾をのんで見つめていた場所だ。
「さあ、台の上に上がって、どんなことをやるか、まずは説明するよ」といって小机の上に白い紙を置いて、「まずは下書きを描きます」と言って鉛筆で書き始めた。斜めに曲線を描き、途中からまた曲線を続け、線の先には丸い花びらをつけた。どうやら梅の木らしい。その横には同様に梅の木をもう1本、最後に色付けをして白い花と赤い花、紅梅白梅図である。数分で下絵を仕上げて見せた。
「やって見るかい。」清水氏が健太に声をかけ、鉛筆を渡した。健太は小机に正対して座り、清水氏の描いたお手本を見ながら同じように紅梅白梅図を描いてみた。集中して書き写す健太の目は真剣そのもの。一筆一筆描く線は生きていた。
「すごいえね。絵の描き方はどこかで習っているんですか。」清水氏が驚きの声を上げた。
「特にどこかで習うことはしていません。小さい時から絵を描き始めると他の物が目に入らなくなって、何時間も書き続けるんです。ただ、この子は発達障害がありまして自閉症と言う病気で、集中力は高いんですが対人関係をうまく作れません。その点が心配なんです。」
隆一は心配な点をはじめから清水氏に打ち明けた。清水氏は
「この世界は一人で作業に打ち込む仕事ですから、人付き合いは2の次です。一日中集中していい作品を作り続ける根気、そして同じ作品をいくつも作れる再現性が重要なんです。腕が上がると新しい作品作りをしますから創造力も必要になります。でも、健太君の腕は素晴らしい。今度は筆で絵付けをしましょう。健太君、鉛筆の下絵はうまいのがわかったから、今度は筆で描くよ。」と言って漆が塗られた丸いお盆と筆を出した。
「私がこのお盆にさっきの梅の木を描いてみるから見ていてくださいね。」清水氏はさっきの下絵を時々見ながら黒漆が塗られたお盆に赤い漆を染み込ませた筆で丁寧に絵を描き始めた。見る見るうちに美しい紅梅白梅図が出来ていく。さすがは一流の職人である。描き上げると乾かないうちに金粉を蒔いた。
「漆は糊のような成分も含まれるので、漆で描いただけでは漆器を使っているうちに漆が剥げてしまうけど、蒔絵にして余分な金粉はそぎ落とし、さらに磨いて保護することで、どんなに使っても絵柄が変わらないいつまでも使える漆器になるんだよ。」と教えてくれた。
次は健太の番である。渡された筆は学校で使っていた小筆よりも極端に細い繊細な筆である。この筆を赤い漆が入れられたさらに付け、漆を含ませて丸いお盆に筆を下ろした。下書きの絵を見ながら丁寧に筆を進めた。輪郭を描いた後はその中を塗りつぶしていぅ。繊細な作業で息をのんでいたが、周りで見ている父の隆一と母の香織は自分たちの息子がここまでできるとは思ってもいなかったのでびっくりしている。
「それじゃ、金粉を蒔いてみようか。丁寧に蒔くんだよ。」と言ってさらに入れた金粉を渡してくれた。健太君は皿を受け取り、親指と人差し指で金粉をつまみ、丁寧に少しづつ漆の線に沿って蒔いた。金粉は落下すると漆の上にくっつき、漆に触れることのできなかった金粉はその周りに分散した。蒔き終えるとお盆を持ち上げ、お皿の上で余った金粉を落として戻した。ここからはしばらく干さなくてはいけない。漆が固まって金粉が落ち着くまで2,3日かかる。
「健太君、素晴らしい作業だったと。それじゃ、今度はうちの作業場でもう少しやって見ようか。」と言って家に来るように誘ってくれた。親子3人は言われるままについて行った。初めは仕事の辛さを教えてもらって、諦めさせよう思っていたのに、息子の作業を見て親たちも好きな道に進ませることがこの子のためなのかなと考えるようになってきた。
清水氏の家兼作業場は漆器会館から歩いて2分ほどだった。狭い地区なので歩いて回ってもさほどない。乗ってきた車は漆器会館の駐車場に置いたまま、4人で歩いて行った。清水氏は伝統工芸師として会館内で実演も行う人であるが、工房はいたって狭かった。家の一部が工房になっていて、常に1人で作業してきたので、工房内には8畳ほどの部屋しかなかった。部屋の中は壁一面に大きな棚があり、そこには蒔絵に必要な道具や材料となる漆を入れた容器など、所狭しと置いてある。部屋の中央には小机があり、座布団が引いてあるので座布団に座って作業するのだろう。「ではここでは一から作業準備をやって見よう。漆を塗った漆器は塗師の工房から買うので、いいとして、ここで使う漆をとくことからやって見よう。まず私がやって見るからね。漆は扱いを気をつけないと肌にくっつくとかぶれて皮膚が腫れるから気を付ける事。いいかい、こうやって漆壺から原液の漆をスプーンですくいます。赤い色図家をするために塗料をひとすくい混ぜます。あとはスプーンで十分に混ぜて均一な状態になるまで溶きます。こんな感じになるまでです。わかったかな。ではやって見よう。」初心者にはかなり危険を伴う作業だが就職試験だと思ってやらせてみることにしたらしい。健太君は言われたままに漆壺から原液の漆をすくい、塗料と混ぜ合わせた。手にはビニール手袋をさせてもらっていた。緊張で額に汗をかいている。混ぜ合わせる手が震えているのがわかる。「それくらいでいいと思いますよ。」清水氏の指導でまで合わせを終えた。
「今度は何でもいいから好きな物を書いてごらん。」と言って下書きの紙を出してくれた。健太君はしばらく考えて「この絵はどんなお皿に描くんですか。」と質問した。「そうだね、煮つけの蓋つきお椀の蓋に描くことにしようか。」と清水氏は答えてくれた。するとひらめいたのか「それでは野菜を描きます。」と言って下書き用紙に白菜とねぎとジャガイモを描きだした。現物を見ながら描いていないのでやや写実性はかけているかもしれないが、見事な出来栄えである。清水さんも驚いて、「これはすごいね。さっそくこの煮物椀の蓋に描いてみてください。」といって蓋と筆を渡してくれた。そこからは約2時間、息を殺しての集中した作業が続いた。赤い漆で描き上げた作品は初めて作った作品とは思えないような出来栄えであった。集中して書いた健太君は疲れたのか放心状態である。「しばらく休んでいいよ。」と言って清水氏は隆一に少し離れた茶の間に来るように手招きした。
「あの子の才能は並外れているね。上手に絵を描くだけならいくらもいます。日本画の画家たちもみんな上手です。でも、集中力があそこまで続く人はそうはいません。この世界は年齢や経験も大事ですが、才能は如何ともしがたい。私なんかより数段上でしょう。是非、4月から私のところで預からせてもらえませんか。私は後継者もなく、この工房を〆ようと思っていました。是非一緒にやってほしい。4月を待たなくても毎週遊びに来てください。漆器会館で私と一緒に観光客の前で作業をしましょう。あの才能を埋もれさせてはいけません」と勧誘をしていただいた。「では家内とも相談して来週お返事させていただきます。」といってその場は保留して帰った。
家に帰り、3人で相談したが父も母も健太の才能にびっくりしてしまい、才能を伸ばすことも大切だとはわかったが、中学校の先生たちとも相談したくて、水曜日の放課後、木村先生や吉川先生と面談することにした。
水曜日の放課後、学校に足を運んだ母香織と父隆一は相談室で2人の先生と面談した。
「実は土曜日に河和田の漆器会館で清水さんと言う伝統工芸士に会ってきたんですが、その方が言うには健太の才能は埋もれさせてはいけない。蒔絵をさせるならば清水さんのところで弟子入りさせてほしいと言われました。まだ中学生なのに就職なんて大丈夫でしょうか。」と切り出した。すると吉川先生が
「そうですか、行ってきたんですか。本人はどんな感触でしたか。」と聞いてくれた。
「本人は絵を描くことを仕事に出来るならばうれしいし、小さな工房で静かな環境だったので良かったみたいです。」と香織が答えた。吉川先生は
「何より本人がどう思うかです。無理やり高校へ行かせても、人間関係を構築するのが苦手ですから不適応を起こして退学したり、いじめにあって不登校になったりという例は多いです。伝統工芸師の清水さんが健太君の発達障害も含めて受け入れていただけるのならばそれもいいんじゃないですか。」と答えた。
「高校に行かないというのはとても心配ですが、定時制の高校なんかは何年か後でも行けますしね。本人が行きたいと言う方向で進めていけばいいですよね。立派な伝統工芸士になることを夢見たいと思います。」と隆一が答えて面談は終わった。
翌週から土曜日ごとに香織が車で河和田まで送っていくことになった。お試し期間ということで夕方迎えに行く約束で清水さんに預けることになった。
翌週土曜日は12月に入っていた。いよいよ初めてのお試し体験会である。朝早くから健太は起きていたようだ。好きなだけ絵を描いていいと言われていたので、うれしくて眠っていられなかったようだ。12月の朝まだ暗い5時ごろから布団を抜け出し、自分の部屋でごそごそやっている。荷物を入れたリュックサックから荷物を出したりいれたりを繰り返している。香織が朝ご飯の支度を始めたのが7時ごろだったが、台所に立った時には健太は洋服に着替えて台所のテーブルに座っていた。
「健太、早かったのね。お母さん、まだ大丈夫だと思って寝ていたのよ。河和田の漆器工房の清水さんのところへ行くのは8時30分くらいよ。慌てなくて大丈夫だから。」と言って落ち着くように促したが、小さいころから特別な日はいつもこうだった。幼稚園の入園式、小学校の入学式、運動会、遠足、卒業式、いつも健太は早起きで香織の方が起こされていた。
「朝ご飯、急いで作るから待っててね。」健太はそわそわしながら座っている。しばらくすると隆一も起きてきた。
「健太、やっぱり早いな。そんな気がしていたんだ。でも蒔絵の作業場は楽しみだな。でも作業場は寒いから厚着していけよ。」と息子を気遣っていた。
「大丈夫だよ。清水さんは『暖房があるから大丈夫』って言ってたよ。」と元気に答えた。
いろいろ話をしていると食事が出来上がった。
「さあ、食べるわよ。1日、作業だからしっかり食べてね。」と言ってご飯とお味噌汁、目玉焼きとウインナーの焼いたやつをテーブルに並べた。
「いただきます。」と言って健太は食べ始めると、香織はお弁当を準備し始めた。ご飯をつめておかずは卵焼きとウインナー、朝食と代わり映えしなかったのでもう少し早く起きて気合を入れて作ってあげればよかったなと香織は反省した。
食事が終わると健太は立ち上がり、リュックサックをもって玄関に行こうとしたので、香織は「お弁当を忘れたらだめよ。」と言ってハンカチに包んだお弁当を渡し、リュックに入れさせた。隆一も食事を終え、「それじゃあ行こうか。」と言って玄関に出ると
「ハンカチは持ったの。お財布を忘れないようにね。清水さんにご挨拶をしっかりしなさいよ。」と香織が細かいことを言い始めた。
「わかってるよ。心配しないでね。」と健太が遮った。
健太と隆一が乗り込んだ車は静かに家の前から出発した。香織は自分の手元で成長を続けてきた健太を見送り、自分の手から飛び立っていってしまったような気がして、流れる涙を止められなかった。どうせ、夕方には帰ってくるのだ。しかも、3月いっぱいはお試し期間である。しかしわかっていても子供の成長は嬉しくもあり、寂しくもあり。複雑な心境である。ましてや、発達障害を抱えてほかの子よりも手がかかった子供である。感慨はひとしおであった。
河和田までの車中はドライなものだった。隆一は健太に「忘れ物はないか」とか「嫌なことがあっても切れたらあかんよ」とか注意していたが、健太は「大丈夫だよ」とあっけらかんとしていた。健太は清水さんをだいぶ信頼しているらしい。
車が清水さんの工房に着くと健太は「もう帰っていいよ。」と言ったが隆一は清水さんに挨拶しなくてはと思い工房の中まで健太を連れて一緒に入った。
「こんにちは、清水さんいらっしゃいますか。」と尋ねると
「よく来てくれました。待ってましたよ。健太君は元気ですか。」と歓待してくれた。待ってくれていた様子に安心したのか、隆一は「それでは夕方5時ごろ迎えに来ますので、よろしくお願いします。何かありましたらこの電話に」と言って名刺を渡して車で帰路に就いた。
清水さんと健太の2人きりになって清水さんは健太に「お茶の入れ方を教えるから」と言って流し台のある所に健太を連れて行った。
「君と僕は親方と弟子だ。わかるか。弟子は親方の言う事を聞いて、休憩の時はお茶をいれなくてはいけない。」と言ってやかんに水を入れてコンロに乗せるやり方をやって見せた。お茶葉の入った筒を開けて急須に適量入れ、熱いお湯を注ぎ、しばらく冷ましてから湯飲みにそそいで運ぶ。そこまでをやって見せた。
「自分でお茶をいれられるかな。火傷しないようにやらなくてはいけない。やって見よう。」と言って健太に最初からやらせてみた。健太はおどおどしながらお茶を作るやり方を見たとおりに再現してみた。
「上手にできたよ。大したもんだ。世間ではお茶の入れ方がどうとか言うけど、結局はどんなお茶葉を使っているかが大切なんであって、入れ方でそんなに変わるもんじゃない。所詮、俺はお茶の味なんてそんなにこだわりはないから、好きに入れていいから。適当にやってくれ。」と言って笑って健太を見つめた。健太も緊張していたが、笑顔がこぼれ師弟関係は少し構築されたような感じがした。
最初にお茶を飲んで和むと、次は作業に入った。
「模写からやって見ようか。」と言って棚から一流作家の作品を出してきた。清水さんの先代の作による大ぶりな蒔絵をほどこしたお盆である。縁起物の松と鶴と亀が描かれていた。繊細な筆使いで動き出しそうなほどの描写である。
「この絵を真似して正確に描いて見なさい。」と清水さんは弟子の健太に言いつけ、自分は漆を捏ねる作業をすることにした。
健太はスケッチブックの真っ白い紙のところを開け、まずお盆の絵を詳細に観察した。清水さんの父親が国の伝統工芸士の認定を受けていたころの作品である。流れるような筆使いと精密なデッサン力。見事な作品である。かなり細い筆を使っているが力強い筆圧で強い印象を受け、松も鶴も亀も今にも動き出しそうである。鶴や亀は表情が笑いかけているようだ。健太は作者が筆をどこからどのように入れているのかまで観察している。時代を越えて作者と観察者が語り合っている。
30分ほど観察し終えると健太は模写に取り掛かった。スケッチブックに鉛筆で描き始めたがしばらくすると筆に持ち代えて小皿には墨汁を入れて水墨画風に描き始めた。筆のタッチは鉛筆では再現しにくいようだ。お盆に描かれた清水さんの父親の作品と自分の作品を見比べながら進めている。親方から弟子への技術の伝承は結局、模倣することからスタートするのだろう。
2時間が過ぎてお昼になった。清水さんは漆を練る作業を終えてお昼ご飯にするために健太の作業を見に行った。
「健太君、お昼ご飯にするよ。手を休めなさい。」と言って健太のスケッチブックを眺めると息をのんだ。すでに松と鶴と亀のセットが2組出来上がっていて3組目を描いていた。最初は一番小さいサイズで見本のお盆の絵とほぼ同じ大きさに、2組目は少し大きく精密に描かれていて、3組目は1枚のスケッチブックのサイズいっぱいに大きく描かれていた。
「健太君、すごいな。良く描けているよ。しかも良く集中して描けたね。」清水さんは描かれた松や鶴や亀の出来栄えもさることながら、2時間集中して描けたことを驚いているようだ。
「とりあえず、お昼ご飯にしようね。お茶を入れてくれないかい。」健太は朝一番に教えてもらったお茶の入れ方を思い出して、清水さんの分と自分の分を湯飲みに準備した。お茶を飲みながら清水さんは
「健太君、筆を使ってあれだけの物を描くのはかなり熟練していないと描けないけど、15歳であれだけかけるのは素晴らしいよ。何よりも2時間休憩もしないで息を詰めて描き続けられることがすごいよ。継続できることが君の才能かも知れないね。」と孫よりも年の離れた健太に才能を感じていた。健太は
「描いてるとすごく楽しいんです。清水さんのお父さんがどんなふうに筆を入れて、どれくらいの力で筆を進めていたのかを考えるだけでワクワクします。もっと練習したいです。」と言ってお母さんが作ってくれたお弁当の蓋を開けて、食べ始めた。
食事をさっさと終えて午後も模写作業に没頭したことは言うまでもない。午後5時には父が河和田まで迎えに来て車に乗って帰っていったが、凄まじい集中力を披露した1日目だった。次の週は別の柄の絵を模写し、次の週は実物の花をデッサンした。毎週毎週対象物を変えながらデッサンを続けていくと、その実力は見る見るうちに向上していった。
3月には蒔絵にするところまで経験をしていた。
13,特別な能力 就職
3月12日は高島中学校の卒業式である。高校入試の発表は午後だが、午前中は市内各中学校は卒業式を計画している。健太も朝から卒業式のため中学校に登校していた。
午前9時、体育館は静寂に包まれ、在校生と保護者、教職員は定位置に着いた。静かな会場に案内役の校長の靴音とのスリッパの音だけが聞こえる中、来賓たちは保護者席に向けて頭を下げながら入場してきた。黒い服に身を包んだ集団が一列になって会場の中央を進んで、正面左側の来賓席に座った。司会の先生が「卒業生入場」とマイクを通して叫ぶと会場には「威風堂々」が流れ、入場門からは卒業生たちが2列になって会場に一礼して入ってくる。しっかりと手を振って行進する生徒たちは凛々しく大人びた雰囲気も感じさせる。10人ほどが入場した後に健太も入場してきた。他の生徒に比べて緊張した場面には弱いので、極端に緊張した感じが手足のバランスに現れている。手の動きと足の動きがぎこちない。しかし、健太以外のほとんどの生徒はこの日の午後高校入試の発表である。彼ら違った緊張が感じられた。推薦入試や私立高校の入試で進路を決めてしまっている生徒は卒業式に専念できるが、まだ県立の合格発表を待っている生徒にとっては、今日のメインは午後3時からの県立高校入試合格発表で会った。
卒業生入場が終わると国歌斉唱、すぐに卒業証書授与である。一人一人が点呼に対して大きな声で返事をしてステージ下まで進み、自分の番になったら台上に上がって校長から証書を受け取った。健太も名前を呼ばれると大きな声で返事をしてステージ下中央まで進んだ。前の人が証書をもらうまで待っていたが、前の人が証書に手をかけるのを合図に階段を登り、前の人が証書をもらって一歩下がった場所の隣に進み、一緒に校長先生に一礼した。時間を短縮するための策として取り入れられたのであろう。しっかり練習した成果を見せている。礼を終えると一歩前に進んで演題の前に立った。目線を下げ校長先生が健太の名前を呼んでくれるのを待ち、名前を呼び終えると目線を上げ、校長先生が差し出した卒業証書に左手から手を出し最後に右手を出してつかみ、証書を受け取ると両手で大きく持ち上げ、目線よりも高くささげて直立すると一歩下がり、次の人が上がって来るのに合わせて礼をして左を向き、前進してステージ左手の階段から下りた。健太の所作は先生たちから特に心配されていた。おかしな動きはしないか。緊張してパニックを起こさないか。わからなくなって動きを止めてしないか。先生方からはいろいろな心配をされていた。しかし、健太は堂々と成し遂げ、成長した証を示した。
そこからは学校長式辞、来賓の祝辞、送辞、答辞、記念合唱そして校歌斉唱、卒業生退場と続いた。教室に入ると担任の先生から記念品を受け取り、最後のはなむけの言葉は先生がギターを持ってきて「卒業写真」を歌ってくれた。教室のみんなはほとんどの生徒が涙で目を真っ赤にして泣いていた。しかし健太にはこの涙の意味はわからず、きょとんとしていた。しかし、このような場面ではみんな感激して涙を流すものだという事はわかった。
担任の最後の言葉が終わるといよいよ教室を出て最後の見送りである。廊下に出ると保護者たちが先に教室から出て前を歩いている。よく見ると母の香織と父の隆一がいっしょに含まれていた。香織が目を赤くしているのがはっきりとわかった。健太は香織がなぜ泣いているのかが少しだけわかる気がした。
生徒玄関で内ズックから通学用の靴に履き替え外に出ると、全校生徒が並んで校門まで見送りしてくれていた。健太が高校への進学をせず伝統工芸の世界に飛び込むことを知っているのは先生たちだけだろう。最初に声をかけてきたのは校長先生だった。
「健太君、卒業おめでとう。越前漆器の世界でもかんばってください。偉大な芸術家に成長することを願っています。」と声をかけてくれた。それからというもの多くの先生たちが「健太くん、頑張れ」と声をかけてくれた。校門の前まで行くと最後に木村先生と吉川先生が待っていてくれた。吉川先生は健太を抱きしめ、
「つらくても泣かないで頑張ってね。好きな絵を続けるんだから楽しんでね。」と言ってくれた。最後に木村先生は
「健太君、親方の清水さんの言う事をよく聞いて、素直に頑張るのよ。時々この学校によって、作品を見せに来てね。」と言ってくれた。4月になったら毎週来て先生に会いたいと健太は思った。木村先生も吉川先生も泣いている。中学校3年間で2人には随分心配かけたなと感じていた健太は知らず知らずのうちにうっすらと涙が出てきたことを感じた。
「先生、ありがとう。蒔絵がかけたら見せに来ます。」と挨拶して父と母が待っているところに歩いていき、駐車場から車に乗って家に帰った。
翌日からは清水漆芸工業所での仕事が始まった。これまでの週末のお試し作業から仕事としての作業が始まったのだ。就職してのお給料をもらう作業になったのだ。週に一度の作業から毎日の仕事になったが、まだ15歳の健太は運転免許がないので、毎日お父さんに送ってもらい迎えに来てもらう事から始まった。福井銀行に勤めるお父さんの仕事が遅い時には清水さんの家で夕食を頂いて、父が来るのを待って過ごすことになった。好きなことをして時間を過ごすのは健太には得意なことだった。普通の人たちは好きなことでも仕事を勤務時間が過ぎてから2時間もやっていると嫌になる物だが、健太は何時間でも絵を描くことに没頭できる集中力があった。父の隆一は福井市内の支店に勤めていたが、4月から鯖江市内の支店を希望して鯖江東支店に異動になったので送り迎えもかなり楽になった。健太の就職は比較的スムーズに進んだ。
14,人類に貢献 才能の開花
(京都工芸美術館)
初めてのお給料は10万円だった。まだ絵を描く練習ばかりしている段階で収益につながる仕事はまだ何もしていなかった。しかし、親方は
「健太、よく頑張ったな。お給料だ。大事に使えよ。」と言って気持ちよく渡してくれた。初任給としては今どきにしては安い気もするが、中学校を卒業したばかりの子供には10万円は大金だった。しかも振り込みではなく現金支給だった。健太は父親に給料袋を渡して銀行で貯金してもらうことにしたが、
「このお金で京都の美術館に行きたい。蒔絵の国宝級の作品を見てみたい。」と懇願した。父の隆一は親方にも相談して京都工芸美術館へ行ってみることにした。京都工芸美術館は京都市の岡崎地区にある美術館で陶芸や漆器、そのほか工芸作品の芸術的な域に達したものを集めた日本屈指の美術館だった。
5月の土曜日、隆一と香織、そして健太の3人は朝7時に家を出て、自家用車で高速道路を飛ばして京都まで出かけ、10時には京都工芸美術館に到着した。美術館の駐車場は小さいので近くの公営駐車場へ駐車して徒歩で美術館に入った。香織は病院勤務で休みが不規則で夜勤もある。親子3人でのお出かけは久しぶりという事もあり、朝からはしゃいでいた。息子の健太と仲良くすることも楽しいが、夫の隆一と久しぶりのデート感覚もあるようだ。美術館の入口でチケットを買い、会場に入った。入口のロビーに会場内の見取り図があった。工芸とは材料によって陶磁、金工、漆工、木工、竹工、ガラス、染織、人形などがある。今日のお目当てはその中の漆工である。2階の第3展示室に展示してあるようだ。3人は一目散に第3展示室に向かった。目に入ったのは日本地図上に示された漆器に産地図だ。
津軽塗(青森県)秀衡塗、浄法寺地塗(岩手県)鳴子塗(宮城県)川連漆器(秋田県)会津塗(福島県)鎌倉彫、小田原漆器(神奈川県)村上木彫堆朱(新潟県)新潟漆器(新潟県)高岡漆器(富山県)輪島塗、山中漆器、金沢漆器(石川県)若狭塗、河和田塗(福井県)木曽漆器(長野県)飛騨春慶(岐阜県)京漆器(京都)紀州漆器(和歌山県)大内塗(山口県)香川漆器(香川県)琉球漆器(沖縄県)などの産地があるらしい。主に東北、北陸、中部にかたまっている。西日本では極端に少ない。昔から雪の降る北日本の農家の冬の仕事として発達してきたのだろう。雪の降らない西日本では冬でも農業を続けられたから漆器の製作をしなくてもよかったし、漆の木が暖かい地域ではなかったのかもしれない。地域ごとに分けて展示してあったが、その中でも石川県は木地の山中、塗りの輪島、蒔絵の金沢と言われその生産量も日本一だ。美しい作品が展示してあり、健太は金沢の蒔絵にくぎ付けになった。健太が目を奪われた作品は金沢蒔絵の人間国宝の作品だった。繊細な作画で描かれている対象も花鳥風月と言ったありふれたものではなく、自然の風景が描かれている。
隣のコーナーには越前漆器があり、木地づくり、塗り、加飾がそれぞれ分業制で行われており、それぞれの専門性が高く、堅牢で美しい越前漆器を生んでいると紹介していた。蒔絵や沈金の技法も伝わり、明治になるとお椀など丸いものだけでなく、お膳などいろいろな製品にもチャレンジしていると書かれていた。自分たちの産地のことを褒められ、健太は気持ちが良かった。両親も息子を就職させた産地が全国でも有数の漆塗りの産地と聞いて、少し安心した感情を持てた。作品は河和田でも有名な工芸師である清水善右衛門、親方の親戚にあたる人の作品が飾られていた。
健太は産地のことはあまりこだわらず並べられている作品の気に入ったものを手当たり次第に見て回った。全国には素晴らしい作家たちがそろっていて、その作風を競っている。健太はただ見るだけでなくその筆遣いや質感、用いられている金属粉の原料などに強い興味を持って見ていた。自分の作品に取り入れていこうとする意欲が前面に出ている感じだ。だから健太は気に入った作品の前ではかたまってしまって10分以上とどまることもあった。結局、工芸美術館には途中会館内の喫茶店で昼食も取ったが、夕方5時まで7時間滞在した。健太は充実した感じだったが両親は疲れ切ってしまっていた。家族だから我慢できたが、これが学校の遠足だったら周りの子供たちの不平が爆発して健太は浮いてしまったのだろう。帰りは高速で2時間半、一気に家まで帰った。翌月には金沢の広坂にある工芸博物館へ行ったが、母の香織は遠慮して行かなかった。遠慮なのか避けたのかは本人以外わからない。
本物に触れることは大きな成長を促すものだ。健太はそれからも全国の美術館に積極的に訪れ、本人の作風も徐々に変わってきた。最初は模写から始まった絵も優れた作品を見るにつれ、その題材は多岐にわたることを理解し、それまでの越前漆器になかったものを描くようになって、越前漆器の世界で異彩を放つ作品を出せるようになってきた。
親方の清水さんもその変化に気が付いてきた。ある日、作業場で下絵を描いている健太に親方が話しかけた。
「健太、最近、作風が変わってきたな。描いている植物や動物が生きているように見えるよ。まだ若いのに職人の域と言うレベルを超えてきた感じがするな。俺が見込んだだけのことはある。最近はどんな修行を積んでいるんだい。」すると健太は下絵を描く手を止めて親方のほうを見つめ
「そう大したことはしてないです。京都と金沢の工芸作品を見に父と一緒に行ってきましたが、お母さんが工芸作品ばっかりだとつまらないらしくて、油絵や日本画も見に行ったんです。特に僕が気に入ったのは日本画で平山郁夫の作品には心を揺さぶられました。その影響もあるんですかね。」親方の清水さんはなるほどと感心した。この子は蒔絵の領域を超えて学習している。蒔絵の新しい世界を切り開いてくれれば、漆器の世界を大きく変えてくれるかもしれない。そんな大きな展望が見えたような気がした。
漆器は伝統工芸品として海外からもその素晴らしさが認められてはいるが、日本人の生活の中からは消えつつある。高級な漆のお椀でお味噌汁を飲んでいる人がいるだろうか。遠足や花見で漆のお重箱を使っておかずを詰め込んでいる家庭があるだろうか。お正月のお節料理もプラスチックの容器に詰め込んでいるのが現状ではないだろうか。旅館の食事でも漆塗りの食器は後片付けが大変で、きれいに水気を取って乾かしてから、乾拭きまでしないと片付けられない。人件費が高騰している中、そんな手間をかけていたら経営が成り立たなくなってしまう。だから料理旅館でも高級な漆の食器は敬遠されているのが現在の状況である。漆塗りの食器に蒔絵や沈金を施した食器が素晴らしいことはよくわかるのだが、芸術品として眺めることは好きだが、家の調度品として買いそろえるかと言うと誰も買わないのである。漆器産地では売れないので生産量は減少し、収益が上がらないから後継者が不足する。どんどん高齢化が進み、産地はさびれていく。そんな状況を打破するには、健太のような新しい作家が新しいことを始めてくれることを期待しないと産業そのものが衰退してしまうのである。ベテランの職人はどうしても既成概念に縛られ、食器としての漆器しか浮かばないが、もっと違う形の漆器を作り上げていかないと、越前漆器の産地河和田に未来はないと親方は考えていた。その起爆剤と考えているのが健太なのである。
入門から1年くらいたったころには、親方はお椀の蓋に絵付けをすることは健太にさせなくなった。食器の分野で健太に描かせたのは大きな盃に描かせるくらいで、主に大きめのお盆に描かせることが多くなってきた。お盆に描く絵を試行錯誤しているうちに健太は江戸時代の浮世絵の安藤広重の東海道53次の絵から発想を得た「九頭竜川の舟橋の渡し」と言う原画を描き上げた。何回も何回も下絵を書き直し、原画完成までに2か月を費やした。大きめのお盆に蒔絵の原画を描き、金粉と銀粉とその他の色粉を蒔き磨き上げて作品を完成させたが、親方が
「この作品はなかなかいいね。コンクールに出してみようか。」と声をかけてくれた。
親方の説明では県が主催する工芸作品コンクールがあり、新人の登竜門になっているという事だった。漆器では沈金部門や蒔絵部門、漆塗り部門などがある。和紙部門でもいろいろな部門に分かれて若手作家の作品を応募し、若手の活躍の場を与えようというコンクールらしい。親方は
「おれが出しておくよ。ところでこの作品の名前はどうする?」と聞かれ健太は
「それじゃ『九頭竜川舟橋の渡し場』としておいてください。」と答えた。九頭竜川の流れは速く暴れ川だが、福井と森田を結ぶ場所に小舟を鎖でつないでその上に板を並べて橋のようにして渡し場にして、人々が渡っている様子が描かれている。広重の浮世絵を彷彿させる描写でそれまでの蒔絵とは一線を画す作品だった。
一月ほどして審査委員会から結果が入った。健太の作品は新人賞と審査委員特別賞を受賞した。親方が健太を呼んで
「健太君、審査委員特別賞だとよ。よく頑張ったな。まだ1年だけど、お前の絵は大したもんだ。これからはもっと大きな絵に取り掛かろうか。」と今後の方針を示してくれた。
3年目には健太は18歳になった。その頃には料亭用の食卓の蒔絵に取り組んでいた。注文したのは芦原温泉の老舗旅館「べにや」、数年前に火災にあい全焼してしまったが、再建して商売を再開するにあたり、皇室も宿泊する最高級の部屋の目玉に、食卓を漆塗りにした高級品を入れることにしたらしい。その漆塗りの食卓に蒔絵を施すにあたり、新進気鋭の作家が取り組むことになり、頭角を現しつつあった健太のところに注文が入った。越前漆器の世界では分業化が進んでいる。総合プロヂュースは最終商品を販売する商店が行うが、製作の過程は細かく分かれている。木工製品を作る木地職人とその木地に漆を塗る塗師が下地の作品を作る。今回の食卓もこの段階で見事な芸術作品としての食卓が健太のところに届けてくれた。そこから先は蒔絵師や沈金師の装飾の腕の見せ所となる。
健太はどんな絵を描くか随分悩んだ。各地の美術館を訪ね歩いてインスピレーションを受けた日本画や浮世絵のような画風にするか、オリジナルの風景画にするか、芦原の温泉宿という事も考慮しなくてはいけない。悩んだ挙句に健太は発注者である「べにや」を訪れることにした。18歳になった健太は車の運転免許を取得していたので、行動範囲は飛躍的に大きく素早くなった。
「こんにちは。」と玄関で挨拶すると中から「べにや」と名前が入った半纏を来た番頭風の50代くらいの男性が出てきて「お待たせいたしました。お泊りでしょうか。」と言ってきた。
「泊りではなくてお部屋の漆塗りのテーブルの注文を受けた河和田の職人です。蒔絵で装飾をさせてもらおうと思うのですが、お部屋の感じを見せていただいてどんな絵を描くか決めようと思い、来させていただきました。お部屋を見せていただけませんか。」とお願いするとその番頭らしき男性は「河和田の職人さんですか。少しお待ちください。おかみさんを呼びます。」と言って奥へ入っていった。時間的にはお昼前だったのでお客さんはチェックアウトしたばかりで、店はまだ落ち着いていた。3時ごろになると今日の泊り客が徐々に入ってきて忙しくなるのだろう。昼の温泉宿はどこか情緒があり、時が止まっているような感じがした。しばらく高級旅館の雰囲気を味わっていると明るい桜色のワンピースを着た30歳前後の女性が出てきた。
「河和田から来てくださったんですか。わざわざ有難うございます。若い蒔絵師さんですね。山田商店の社長の話では新進気鋭の蒔絵師さんと聞いていました。でもこんなに若い人とはびっくりしました。おいくつですか。」と聞いてきたので
「18歳です。中学を卒業して15歳から蒔絵をしています。」とぶっきら棒に答えた。おかみさんは愛想がない健太に
「若いのにすごい腕なんだそうで、これからが楽しみな職人さんなんでしょ。直接部屋を見て絵を考えるなんて、カッコいいわね。入ってください。」と言って中へ案内してくれた。おかみさんはまだ昼なのでワンピース姿だが、3時ごろには和服に着替え、髪を結い上げ、メイクも整えてお客さんをお迎えするのだろう。結婚してこの旅館に嫁ぎ、若女将として苦労しているだろうが、まだ30歳前後の若さがワンピースから伸びたきれいな足に現れていた。健太は階段を登りながら前を行くミニのワンピースのおかみさんに目のやり場に困りながらはにかんでいた。
2階の一番奥の日本海の間に案内された。建て替えられたばかりの建物だが、全館木造の日本家屋で、廊下は木目をそろえた美しいフローリングで、幅は3mはありそうだ。ドアは高級ホテルのような頑丈なつくりのドアでセキュリティーも万全のようだ。おかみさんが鍵を開けると「どうぞ、入ってください。」と招き入れてくれた。スリッパを脱いで真新しい畳の縁を踏まないように気をつけながら中に入った。玄関ルームは4畳半、その奥にリビングが20畳ほど、その右には寝室が2つ、今の奥には大きなガラスになっていて、畳から一段下りてエントランスがあり、ソファーが贅沢に置いてある。鏡の向こうには広々とした日本庭園が見える。池には大きな錦鯉が泳いでいる。大きな松の向こうには石川県境の山々が見える。何とも贅沢なつくりの部屋である。健太はこの部屋を見て一泊いくらなんだろうと考えたがどうせこんなところに泊まるわけはないと考え、聞くのをやめた。
「ところで、テーブルはどこに置くつもりですか。」と仕事の話をした。
「この居間の中央に置くつもりですよ。4人掛けテーブルを2つ。椅子は8脚入れるつもりです。最高級のお客様には最高級のおもてなしをするつもりなんです。その調度品は漆塗りの蒔絵が施されたテーブルと椅子、壁には有名作家の日本画を掛けるつもりです。ソファーはイタリアから輸入する段取りになっています。非日常の空間を楽しんでいただくにはそれなりの準備が必要なんです。是非、その辺の心構えを理解して作業をしていただきたいと思うんです。お願いしますね。」と若いおかみさんにしてはかなり厳しいことを言われた。健太は悩んだから現場を見てみようと思って来たのだが、発注者の思いがこんなに重いのかと思うと少し気が重くなった。しかし、この旅館が数年前火災にあい、廃業も考えたが幾多の困難を乗り越え、多くの方々の応援で営業を再開するために頑張ってきたのだと思うと、気が引き締まる思いをした。
この旅館のこの部屋はそれなりの値段で安くはないはずだ。北陸旅行の途中で寄る部屋ではなさそうだ。この部屋に泊まることを目的としてこの旅館に来るお客さんだろう。天皇陛下や皇族の方々ならば別だが、一般のお客さんの場合には一生に一度の贅沢のためにこの部屋に入るのだ。部屋に案内されて、この居間で漆塗りのテーブルの席に座るときに健太の蒔絵を見る。その時の蒔絵はどんな絵でなくてはいけないか。健太はじっと目を閉じてその風景をイメージしてみた。
老夫婦が結婚50年の金婚式を祝うためにこの部屋を訪れた。テーブルに座ると隣の部屋に泊まる息子夫婦が入ってきて、一緒に座り息子の嫁がお茶を入れてくれる。
「お父さん、お母さん、金婚式おめでとうございます。」と言いながらお茶を差し出す。老夫婦はありがとうと言いながら熱いお茶をすすりながら飲む。そんな時、テーブルの蒔絵に気が付く。
「あら、きれいな絵ね。何の絵が描いてあるのかしら。」と言って蒔絵をみんなで眺める。そんなシチュエーションだからこそこのテーブルの絵は深い意味合いを込めたものでなくてはいけない。
「どんな絵を描いてくださるの?」おかみさんは健太にそれとなく聞いてみた。健太は
「いろいろな意味合いを込めたような深い内容の絵を描きたいと思うんです。」
「それはどういう意味なの?」
「しばらく考えさせてください。でも今日部屋を見て、イメージは固まりました。」と言って部屋を出ていった。おかみは少し呆気にとられたが、さっさと健太は玄関から帰ってしまった。
翌日から健太は制作に取り掛かった。下絵描きから始めたが、準備した大きな紙に小さめの絵を描き始めた。しばらくすると場所を変えてまた小さめの絵を描き始めた。3日目には小さな絵は10か所以上になった。親方は
「健太君、この絵はどんな感じになるんだい。」と聞いてみた。
「親方、去年、お父さんとお母さんと一緒に京都国立博物館へ行ったとき、洛中洛外図屏風というのが展示されていたんです。お父さんが説明書きに書いてあることを教えてくれたんですが、京都の公家の娘が地方の大名のところに嫁に行くとき、二度と京都に戻ってこれないかもしれないという事で、ひな人形と洛中洛外図屏風が嫁入り道具の定番だったそうだ。その屏風の絵には京都の四季の行事や民衆の生活が描かれていて、その当時の様子を考える貴重な資料になっているという事だった。その洛中洛外図のように福井の風俗を描き切れないかと思っています。」と答えてくれた。親方は
「福井の風俗と言うのはどんな場面を描くんだい?」と続けて聞いてきたので
「東尋坊や永平寺、漁船がカニを獲っているところや市場でカニのセリをしているところ、芦原温泉の観光客、加越丘陵のスイカ栽培、奥越のおろし蕎麦、いろいろ書きたいことがたくさんありますが、中心は芦原温泉でお湯につかっているところにしようと思います。小さな作品の集合体だけど一つ一つの完成度を上げて描きたいと思います。」と答えた。
それからというもの健太は福井を代表する情景を描き続けた。テーブルは縦1m、横2mでそのテーブルが2つある。片方には福井の観光地を、もう一つのテーブルには農水産物などが含まれた風景を描いた。いずれの作品も細心の注意を払いながら詳細なスケッチを施し、精巧な写実性を盛り込んで完成度を上げた。作品と作品の間には大きな金の雲を表し、その金の雲のすきまから地上の様子が見えるようにした。
役花月の製作期間を経て作品が完成し、「べにや」に納品する日が来た。芸術作品として運ぶので日本通運の芸術作品運搬チームが搬送にあたった。決して傷をつけないようにすべてを養生用のビニールで包み、漆に傷をつけることがないように気を付けた。大きな2トントラックのボックスの中にテーブルが2つだけ積み込まれ、芦原に向けて出発した。健太と親方はトラックの後を自家用車でついて行った。
芦原の「べにや」の前に着くと、日本通運の業者が丁寧に運び込んだ。部屋に入ると丁寧に養生用のビニールをはがしていった。きれいにはがし終わると黒光りした漆の輝くテーブルが現れると、今の中央に丁寧に設置した。置いてみると漆の美しさが際立っている。小さなお椀でも漆の美しさが際立つが、テーブルはその大きさ、スケールが段違いである。しかも、その盤面には洛中洛外図屏風のような越前の風景画集が描かれている。その完成度は想像を絶するものがあった。
若女将と社長は旅館再生の切り札として導入したテーブルなので、営業再開の象徴として捉えている。運び込まれたテーブルを見る目が真剣そのものだ。特にテーブルの表の蒔絵はこの旅館の経営方針を示す物でなくてはならない。
2人は健太が描いた蒔絵を見て驚きの表情と感動の吐息をはいた。
「すばらしい。一つ一つの絵が生きている。鮮やかな色彩で生き生きと描かれ、雲の金は優雅さを感じさせる。素晴らしい作品をありがとう。」と社長は語り、健太の手を握った。おかみさんは「先日お話ししたこの部屋の趣旨をよく理解して、こんな素晴らしいものにしていただいたんなんて感激です。若い職人さんだったけど、すごい才能なんですね。歴史的作品になることを期待しています。」と述べてくれた。
その作品の評判は旅行業界にすぐに広がり、多くの旅行業者がこの旅館を見学に訪れたらしい。
15,思わぬ圧力
「べにや」の営業再開と蒔絵テーブルの評判はテレビでも取り上げられ、べにやの女将は度々テレビに出演した。蒔絵を描いた人物についてまでは取材は来なかったが、河和田の漆器業界では健太は時の人になった。
好意的に受け取ってくれたのは年配のベテラン職人たちが多く、伝統工芸師と持ち上げられて良いものをどんなに作っても、実際にはなかなか売れなくて、苦しい生活を強いられてきた。産地全体で食器以外の商品開発をしていかなくては生き残れないことを肌で感じていたからだ。健太の仕事場を訪れて、清水の親方と話し込み、大事に育てろと声をかけて行ってくれた。
しかし、批判的な人も多かった。伝統的な工法を守り続けていくことが大事だと頑なに信じ、大きなテーブルの表面に蒔絵をするなんて許せない、そんなのは越前塗ではないと批判してきた。しかもそういう人は若い世代の方に多かった。せっかく伝統的な産業の世界に身を投じたのに、全く新しい商品開発をすることで伝統工芸の世界を壊しかねないというのが彼らの意見だった。
今日も作業場で仕事をしていると戸を開けて入ってくる人影があった。
「清水さん、いるか?」作業着姿で30台くらいの明らかに近くの作業場から来た同業者である。健太は人づきあいが良くないし、得意でないので誰だかわからなかったので黙っていると、
「親方の清水さんがいるかって聞いているんだよ。返事くらいしろよ。」と大声を上げてきた。健太は怖くなってますます小さくなっていると彼は健太の前を通り過ぎて奥の小上りから室内に向けて
「清水の親方、いますか。」と大きな声で親方を呼んだ。奥から親方が「おー」と言って出てきて入ってきた男に「おー、繁じゃないか。どうした」と声をかけ、小さな丸椅子に座るように促した。繁と呼ばれた男はこの河和田の村で同じ蒔絵師をしている吉田繁雄という人物らしい。代々河和田で蒔絵をする家系の人物だが、若い時は漆器職人になるのが嫌で福井市内の会社に勤めていたらしい。しかし、10年ほど前に会社を辞めて、漆器の世界に入って家を継いだ。今では河和田漆器生産組合の青年部の役員もしていて河和田のお祭りなどでは大活躍しているという事だ。丸椅子に座って親方と話し始めたが
「ところで、清水の親方。この若造は大きなテーブルに蒔絵をして芦原の旅館に収めたらしいですね。親方はどういうつもりでそんな仕事をこの若造にさせているんですか。」と問いただしてきた。親方は健太の顔をちらっと見て少し笑って口を開けた。
「どんなつもりって言われても注文が入ったから作業をさせただけだよ。いい仕事ができたと思っているよ。」親方はいい仕事と言ってくれた。
「そんなこと言ってるんじゃないよ。テーブルみたいな大きな平面に蒔絵をするなんて言うのは、越前漆器では昔からやってないだろ。そんなのは越前漆器と名乗ってもらっては困るよ。今日は俺だけの考えじゃないんだ。生産組合の青年部のみんなの代表として来てるんだ。」と繁はヒートアップしてきた。そして、近くにあった漆を塗った食器を手に持つと床にたたきつけた。漆塗りの食器は大きな音を出して真っ二つに割れ、転がっていった。健太は恐ろしくなって首をすくめ、座ったまま動けなくなってしまった。繁はさらに続けて
「河和田漆器は大昔から漆塗りの食器を作ってきたんだ。食卓に並べる生活に根差したものを作り続けてきた。使ってこそ愛着がわくのが漆器だろ。いつから家具屋になってしまったんだ。家具を作るんなら河和田から出ていってくれ。この若造が入ってきてから親方も少しおかしくなってるぜ。」語気を荒げて一気にまくし立て健太の使っている机の脚を思いっきり蹴った。
その時、健太は恐怖の感情が爆発してしまった。「あああああ」大声で叫び両手で両耳をふさぎ、立ち上がるとそのまま外へ飛び出していってしまった。咄嗟のことで親方も何もできなかったが、初めて見るパニックだった。車は駐車場に止めたまま、ひたすらに外を走って行ったようだ。親方は繁に
「あいつは自閉症とかいう発達障害があるからパニックになると止められなくなるらしいんだ。中学校の先生が言ってた。まだ明るいうちに見つけてやらないと帰ってこれなくなってしまうかもしれない。一緒に探してくれるかい。」と捜索に協力をたのんだ。繁は余りのことにびっくりして立ちすくんでいたが
「清水の親方、申し訳ありません。俺が理不尽な怒り方をしたから。一緒に探します。」と言って一緒に探すことになった。そう遠くまで行ってることはないだろうという事で2手に分かれて河和田地区の中を車で探すことになった。
2人とも仕事で使う軽トラックで隈なく探すのだが1時間たっても見つからなかった。仕方がなく捜索範囲を鯖江の町近くまで広げ、繁が組合の青年部メンバー数人に声をかけて5人で探した。親方は作業場に残り、健太がふいに戻ってきた場合に備えた。
すると、夕方7時過ぎになって電話が入った。河和田から5キロほど鯖江方面に出た田んぼの中の道にうずくまっている健太を発見したという繁からの連絡だった。親方はほっと安心した。18歳になったとはいえまだ子供だ。両親から大切な子供を預かっているのだから危険な目に合わせるわけにはいかない。怪我でもしていたら大変である。繁からは無事だという連絡を受けていたので、帰ってくるまでにお湯だけでも沸かしておこうとやかんに水を入れてガスに掛けるとすぐに軽トラックが5台作業場近くに到着した。みんな健太のことを心配してくれていた仲間である。
作業場にみんなが集まり、その中に健太が涙を流しながら繁に肩を抱かれて座っている。
「すまなかったな、脅かしてしまって。堪忍しておくれ。」と繁は謝っている。親方はお湯が沸いたのでコーヒーを煎れて健太や協力してくれたみんなに渡して、暖を取らせた。
しばらくすると親方は、言葉しずかに語り始めた。その声は集まった青年部のみんなを諭すように語り掛けていた。
「みんな、漆器の食器だけ作ってこの産地は生き残っていけると思っているか。もっと外の世界を見て勉強してこい。この健太は休みの日には京都や名古屋、金沢、東京、いろいろな美術館や博物館に行って工芸品だけでなく美術品に至るまで研究しているよ。そんな研究の中で浮世絵に関心を持ったり、日本画に興味を持ったりして発想をもらっているんだ。昔の物を守り続けることも大切だが、それだけでは産地はつぶれていってしまうのさ。今の時代、漆塗りの食器で毎日食べてくれる人なんて何人いるんだ。考えたらわかるだろ。今作っている高級蒔絵の食器は使うためじゃなくて床の間に飾るための美術品になっているのさ。これじゃだめだよ。我々は芸術家じゃなくて職人なんだ。普段使いする商品を作っていかないとご飯は食べられないよ。この点はさっき繁が言ったとおりだ。でもな、この健太はそういう新しい世界を切り開いてくれる才能にあふれていると俺が見込んでいるんだ。お前もこいつと一緒に新しい世界を開発してみないか。」親方の言葉に繁は言葉を失った。20代半ばでこの世界に入ったが、暮らしは楽ではなかった。蒔絵の修行を続けていても展示用の作品が増えるばかりで、見学者は来てくれるが買ってくれる人は少ない。デパートが大量購入してくれた時代は、はるか昔であり、売れないのが実情だった。頑張って10年続けてこられたのは「伝統を継いでいかなくてはいけない。」という強い思いだけだった。
「みんな、この健太は人づきあいは苦手だ。うまくしゃべることも下手だ。今は俺が目をかけて、こいつの才能を殺さないようにこじんまりした食器の仕事はさせてないんだ。こいつがやって見たいという仕事以外はのびのびデッサンさせている。こいつを伸ばすも殺すも周りに人間たちがこいつの才能を理解してやれるかどうかにかかっているとこいつが通っていた中学校の先生が言ってたよ。みんなもこいつの絵を見たらただ者ではないのがよくわかるよ。ちょっと待ってろ。」と言って奥へ行って健太のスケッチブックと練習で作ったお盆をいくつか持ってきた。
「どうだ、このデッサン。蒔絵や沈金をやってるお前たちならわかるだろ。この才能をただの梅や桜や松と言った定番の柄を描くためだけに使うのはもったいないだろ。美術雑誌でレオナルドダビンチのデッサンをみたけど、このデッサンと似たものを感じたね。それにこのお盆の風景画。筆使いが江戸時代の浮世絵師、北斎みたいだろ。河和田の漆器産地を大きくしてくれるのはこういう天才なんだ。おれは親方と呼ばれているけど天賦の才能ではこいつにはまったくかなわない。レベルが違うんだ。こいつを世に出すことが今の俺の仕事だと思っている。どうだ、みんな、わかってくれないかい。」繁は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。そんな才能をつぶそうとこの作業場に来てしまったのか。そう考えると自分がキリストを裏切ったユダのようにさえ思えた。しかし、健太のことをよく思っていない組合員は繁以外にもたくさんいるのだ。その代表で理事の繁が来てくれたのだ。繁はそういう人たちにわかってもらう事を自分がやらねばならないと感じ、
「親方、すまない。俺もこいつの才能を信じてこいつと一緒にこの河和田の里を盛り上げていけるように頑張るよ。他の奴らも俺が何とか説き伏せるよ。」繁と他の仲間たちはこれからは健太を応援すると言って帰っていった。
健太自身は親方たちがどんな話をしていたかなんてことには興味を示さなかった。涙は収まったがひたすら美術雑誌の油絵をながめてゴッホやフェルメールの絵を研究していた。
16,京都迎賓館修復作業
健太の創作活動はその後も順調に続き、吉田繁雄のように当初は反対していた人たちも彼の才能を認め、河和田の将来を一緒に探そうと研究開発を続けてきた。
日展での工芸部門の大賞を受賞した30歳の頃には工芸作家としての確固たる地位を確立していた。蒔絵を初めて15年目の事だった。親方の清水さんは85歳になっていた。この15年、常に健太のことを見守り、健太の才能を信じて河和田塗の将来につながるような新商品開発に力を注いできた。
そんな清水工房に新しい注文が入ってきた。福井県庁の文化課からの話だった。京都御所の敷地の中に政府が所有する国立京都迎賓館の毎年の修復作業があるのだが、その修復作業に合わせて、大広間の漆塗りのテーブル縦3m横2mのもの10台、つなげると30mにもなる大型のものに蒔絵を施すことになり、蒔絵を健太に発注するために福井県庁の文化課に打診してきたのだ。海外からの賓客をもてなすために作られる迎賓館で、その中でも食事や会議で使用される大広間(藤の間)の机である。当代きっての工芸作家たちの力を結集した一大プロジェクトである。
清水工房を訪ねて来た県庁の職員は大まかな発注内容を説明するのだが、こんな仕事が福井県に発注されることは過去にも例がなく、県庁職員は説明に四苦八苦したが歴史に残るような仕事なので、2人は大喜びで仕事を引き受けた。納期は2か月後、漆塗りのテーブルを修復するのは金沢の漆塗り職人が選ばれた。それぞれ1か月の期間が割り当てら、健太のところには1か月後に入ってくる。それまでに10台のテーブルにどんな図柄の蒔絵を施すか、アイデアを文化庁と折衝しなくてはいけない。10台をそれぞれ独立させたデザインにするか、10台を一つの作品としてつなげるのか、迷うところだった。文化庁の担当者は外務省の意向なども取り交ぜながら、日本らしさを追求しなくてはいけないので、彼らとしても難しい仕事だった。電話での打ち合わせは何回も行われたが、健太にイメージがなかなか浮かばず、デザイン決定にはなかなか至らなかった。
悩んでいる健太は休みの日に父や母に頼んでまた美術館に行ってみたくなった。母の香織は健太が小さいころに連れて行った東山動物園にも行きたいと言い出し、最初に動物園に行くけどその後は名古屋の美術館という事で徳川美術館へ行くことにした。運転は健太が担当し朝7時に家を出た。高速道路で名古屋インターまで行くと東山動物園はなぎお養いに少し戻るような形にはなるが、一般道を15分ほど走ると到着した。懐かしい東山動物園は日本でも最大規模の動物園で、入場者数は上野動物園に匹敵する。3人は昔を思い出しながらゾウやキリン、ライオン、白熊などを見て、動物園をあとにした。次は德川美術館だが、名古屋市内なので車の混雑が激しい。1時間近くかかって到着した。玄関前で入場券を買い、パンフレットを見ると、この美術館の目玉の源氏物語絵巻が印刷されていた。この美術館の目玉である。小中学校の歴史の教科書にも掲載されている。父の隆一が
「この絵巻物、見たことあるよ。すごく有名だ。来た甲斐があったね。」と言うと
「私も一度見てみたかったの。絵巻物って言うのは長い絵になっているんでしょ。」と母の香織が続けた。有名な絵は絵巻物の中のほんの一部に過ぎないという事は中に入って本物を見てわかった。健太は展示されている絵巻物を見てスイッチが入ったようで
「お母さん、この絵、すごいね。巻物になってるんだ。物語の一場面を絵にして、次の場面はまた違う絵が描かれている。絵を見ながら物語を読んでいくんだね。こんな方法もあるんだね。」と感心していたが、何かつかんだような表情をしていた。
翌日、清水工房の作業場に入った健太は下絵に取り掛かった。テーブル10台を長い絵巻物に見たて、10枚の絵で日本の風景を描こうとしていた。健太が選んだのは京都の春夏秋冬、京都の花鳥風月、そして祇園祭と舞妓さんの合計10枚だった。下絵描きは5か月に及び、文化庁とは下絵を写真でとってデータを送って相談しながら続けていった。10枚の下絵は京都をモチーフにしているのでストーリーとして成立し、さながら現代版の源氏物語のように雅やかなものとなった。
金沢の漆塗りの工房から漆塗りの作業を終えたテーブルが清水工房に運ばれてきた。いよいよ清水親方と健太の出番である。親方は下絵描きに使ううるしの調合にいつもよりも気合を入れて取り掛かり、健太は使う筆を作るところから吟味した。最高級の漆に筆先までしなやかな手作りの筆、健太の手には最高の道具が供えられ1台目のテーブルに祇園祭の絵が描きこまれた。うるしが乾く前に金粉や色粉を蒔いて定着させていく。スピードが勝負のところもあるので少しずつ描いては粉を蒔き、徐々に広げていった。1台分仕上げるのに3日以上かかった。1か月の間に仕上げればいいのだが、かなりのスピードで仕上げていかなくてはいけない。しかも失敗して下塗りの漆を傷つけてしまったら金沢まで送り返して、塗りなおしてもらわなくてはならない。慎重の上にも慎重な作業が求められた。
今までは漆塗りのテーブルという事で模様は施されていなかった。それでも素晴らしいテーブルだと評判だったのである。健太が蒔絵を施して評判を下げるわけにはいかなかった。
毎日、深夜まで及ぶ作業の結果、何とか期日に間に合わせることが出来た。河和田の職人たちも心配になって何人も手伝いに来てくれた。繁雄も毎晩のように差し入れを持って来てくれて、うるしを調合する作業を手伝ってくれたり、金粉や色粉をさらに入れる作業をやってくれた。河和田職人の技術を結集して10台のテーブルを完成させた。職人たちの顔にはやりきった充実感がみなぎっていた。
翌朝、日本通運のトラックが清水工房の作業場に横付けされた。慎重な梱包作業を施して美術品運搬のプロたちが運び出してくれた。トラックを見送ると健太と清水親方は疲れから作業場横の休憩室で泥のように眠り込んでしまった。彼らが京都の現場に行くのは2日後である。
荷物の包装が解かれるのは健太たちが迎賓館に入ってからだった。金沢の漆塗り工房からも職人が来ていた。彼らにとっても一世一代の大仕事だった。トラックから降ろされたテーブルは包装用のビニールにくるまれたまま館内の倉庫に収められていた。運んできた日本通運のメンバーが来てくれていて、荷ほどきも手伝ってくれた。清水親方が指揮を執って慎重に荷解きをしていった。ビニールを少しづつ解き、テーブルが出てきた。角をぶつけないように慎重に床におろし、傷がないかチェックした。日本通運の作業員も自分たちの運搬作業に手落ちがなかったか心配だったので、点検も慎重だ。
ようやく点検を終え、異常がないことを確認するとテーブルを藤の間に運び込む。廊下は広いので運びやすいが、床にぶつけるとテーブルも傷つくが、廊下の床も職人が手掛ける一流品である。気を付けて運び、藤の間の定位置にセットすると10台のテーブルが並んだ初めての絵柄が見えてきた。健太が源氏物語絵巻からヒントを得た京都の四季蒔絵の大作である。作業に携わったすべての人と迎賓館職員全員が固唾をのんで完成品の絵柄に注目した。祇園祭の絵から始まり京都の四季、京都を代表する花鳥風月、最後が祇園の舞妓である。椅子に座ると目の前には1枚の絵が見えるが、隣のテーブルもその隣のテーブルも金粉や色粉を使った蒔絵の豪華な絵が並んでいた。一同はテーブルの周りを歩いてゆっくりと回りながら10枚のストーリーを見て回り感嘆の声を上げた。素晴らしい出来栄えである。迎賓館の館長は
「中西さん。素晴らしい出来栄えです。歴史的な偉業と言えるでしょう。何よりもこんな大きな蒔絵の作品を10枚も同時に並べるなんてなんて贅沢な空間なんでしょう。ここで食器を並べて食事をしていいんでしょうか。蒔絵が傷ついてしまうのが恐ろしいです。」と言うと中西健太が
「傷ついたらまた言ってください。直しに来ますから。テーブルも漆の食器だと考えてください。使ってこそ愛着が出てきます。飾るものではなくて日常的に使うのが漆器ですから」と越前漆器をさりげなくPRした。
京都から帰ると清水親方は祝賀会をすることを提案した。歴史的な偉業を成し遂げた健太と清水工房が支えてくれた皆さんに感謝の気持ちを伝えようと企画した。会場は清水工房の作業場を少し掃除して、作品を展示できるようにして、すぐ近くにある越前漆器会館のホールでレセプションを開いた。多くの招待客が来たが、健太は高島中学校の担任だった木村みどり先生と学年主任の吉川加奈子先生を招待してくれるように頼んだ。健太がこの漆器の世界に入ってきたのはあの時の遠足で体験させてもらったからだし、清水工房の親方のところに就職するように両親を説得してくれたのもこの2人の先生だった。先生たちが健太の持って生まれた才能に気が付いてくれなかったら、健太は人づきあいの悪い感情のコントロールができない、ただのめんどくさい変人として引き込まった生活を送っていたかもしれない。
会場に現れた木村先生はあの頃はまだ30歳の若い美人の先生だったが、今では45歳の奥様になっていた。子供ももう中学生だそうだ。吉川先生は65歳になっていてもう退職されたそうだ。
「先生たち、お久しぶりです。今日は来てくださってありがとうございます。」と言うと
「健太君、立派になったわね。迎賓館にテーブルをおさめたんですってね。素晴らしいわ。福井県の誇りね。」と木村先生が声を発した。
「ここに写真ですけど大きく引き伸ばしたものがありますから見てください。テーブルが10台なので一台一台写真を撮っておきました。絵はどうですか。」と健太が聞くと
「中学生の頃も絵がうまいと思っていたけど、あれから修行して相当腕を上げたわね。」と吉川先生が褒めてくれた。
「僕は中学生の頃に先生に褒めてほしくて一生懸命に絵を描いていました。その頃も今も何も変わっていません。木村先生と吉川先生に褒めてもらうことが一番の目標なんです。先生方、ありがとうございます。」健太の言葉は嘘偽りがなかった。
子供の心は純粋だ。そのモチベーションは誰かに認められたい。尊敬する大好きな人に褒めてもらいたい。発達障害を持つ健太はその純粋さが天才的だったのだ。いくつになってもお世話になった木村先生と吉川先生の誉め言葉が彼のモチベーションだったのだ。
彼のこれからはまだ30歳なので50年以上職人として続いていく。さらに漆器の可能性を追求する新進気鋭の芸術家として、伝統を受け継ぐ職人としてそのスキルを高めていくことだろう。
人間が持っている能力は人によってそう違いはない。学校で測れる能力は学力と称される能力に過ぎないが、その分野で能力がかけている生徒の中には他の部門で大きな能力を秘めているものが多い。その潜在的な能力の存在に気付いてあげられるかどうかが周りの大人の責任ではないだろうか。特に発達障害と診断される生徒たちの中には世界を動かすような才能を持った人たちが多い。一人一人の才能を見つけてあげることが世界にとって大切なことである。