♪05 嫌な記憶
嫌な記憶は、単なる過去のものじゃなくて、未来に影響を与えるものだ。だから、嫌な記憶というものは、なるべく解決しておいた方がいい。どうして嫌な思いをしたのか、しっかり考えて、時には反省もして、そうした嫌な記憶を今後残さないようにするべきだ。そんなことを誰かが言っていた気がする。
嵐が車で迎えに来てくれて、今はカラオケに向かっている。その車内には、普通に光もいる。
「光ちゃん、女性の一人旅なんてすげえな」
「別にそんな大したことじゃないよ」
嵐も光のことをあっさり受け入れた。それだけでなく、昔からの友人だったかのように仲良く話をしている。嵐は色々と人を集めて企画することも多いし、人付き合いは大の得意だろう。そんな嵐と光が合わないわけがなかった。
「でも、今日は急遽で参加させてもらってありがとう。お邪魔じゃなかったかな?」
「別に問題ねえぜ」
「それならいいんだけど、特に月ちゃんの邪魔をしちゃったかなと気になっていたんだよね」
「ああ、それは……それも問題ねえぜ」
何だか嵐は動揺した様子だった。どうやら、嵐の中で何かしらかの誤算があったんだろう。
ただ、こうしたことは日常茶飯事というか、嵐は基本的に先を考えずにその場の思い付きで物事を決めてしまう。今回も、あまり深く考えることなく、気が合いそうな光という女性がカラオケに行きたいと言ってきたから、それをあっさり受け入れたといった感じだろう。
今考えてみると、そうしたことは予想できたわけだし、何かしらか対策して、あまり光とかかわらないで済む方向に行けたかもしれない。ただ、今更それを考えても遅いし、そんな無駄なことに頭を使うのはやめておいた。
「そうだ。後で連絡先交換しようよ」
嵐も話題を変えて自然な感じになっているし、僕が何かする必要はやっぱりないようだ。
「ごめん、スマホ持っていないの。それに、私は彼氏がいるからナンパしても無駄だよ?」
「彼氏がいるのに、一人旅をするなんて、彼氏に不満があるんじゃねえの?」
「そんなことないよ。今はただ、私自身が成長するため、一人になることを選択しただけだから」
光の口調は特に変わらないというか、明るい感じでそんなことを言った。ただ、それが本当だとしたら深いというか、自分自身のために何かしらか努力しているんだろうなってことは十分感じた。同時に、僕は今何をしているのかと改めて考えそうになって、思考を止めた。
「でも、スマホを持ってねえってのは流石に嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。あんな使いづらい欠陥品なんて、持っていても無駄だよ」
「それ、空ちゃんも同じこと言ってたね」
嵐は言った直後、わかりやすいほど動揺した様子を見せた。さっきもそうだけど、嵐は動揺した時に鼻の穴を膨らませるから、見るだけですぐわかる。だから、ここは僕がフォローしておこう。
「空ちゃんって、誰のこと?」
「昔、一緒にいた古い友人だよ。光と同じで、スマホは使いづらい欠陥品だから持たないなんて言っていたんだ。今は遠くに行って、どうしているかわからないけどな」
「……その空ちゃんとは気が合いそうだね。いつか会えると嬉しいかな」
「まあ、縁があれば会えると思うよ」
嵐だけでなく、月も深刻な表情になっているし、光は何か感付いたかもしれない。でも、僕に合わせて詮索しないでくれたので、それに合わせた。
そんな感じで途中、微妙な空気になりつつもカラオケに到着した。嵐は予約もしていたようで、すぐ部屋に案内された。
まず、曲を予約したのは嵐で、ハイテンションな感じの流行曲を歌い始めた。とりあえず、僕は基本的に歌わない聞き専になるつもりで、曲を予約しないでいた。そして、月と光も僕と同じで曲を予約しなかった。
誰が先に曲を予約するかという、謎のチキンレースが始まったけど、僕は絶対に動かないと決めた。そうこうしているうちに嵐の曲が終わって、妙な空気になってしまった。
「おい、みんな曲入れようぜ!」
「悪いけど、僕は喉の調子が悪いから……」
「次は絶対、太陽君が歌って」
僕の言葉を遮るように、光はそんなことを言ってきた。
「何でだよ?」
「レディーファーストだよ」
「いや、それならそっちが先に……」
「いいから、歌ってみてよ」
光から強く言われたけど、すぐには受け入れることができなかった。僕は基本的に周りに合わせて、こうした変な感じにならないようにしているつもりだ。でも、いざ歌えと言われた今、周りからどう思われようと受け入れられない自分がいた。
「僕は音痴で上手く音が合わせられないし、それで周りが変に気を使って拍手とかしてくれるのが嫌なんだ。だから、今日は歌わないで、みんなの歌を聞くのに専念するよ」
何度もCDで聞いたのに、その音に上手く合わせられないで、メチャクチャな音程で歌った記憶なんて、数え切れないほどある。その度に、周りが変な気を使ってくれて、僕はただただ申し訳ない気持ちを持つだけだった。そんな感じで、僕はカラオケというか、歌うことに対して嫌な記憶しかない。
「それじゃあ……」
「でしたら、私が歌います!」
光が何か言おうとしたけど、月はそう言うと、リモコンの操作に戸惑いながら、曲を入れた。その曲は、小学校か中学校の合唱で歌うような曲だった。
月は歌い慣れていないようで、声も震えているし、ほとんど音程から外れていた。でも、精一杯歌っている姿を見て、僕の中によくわからない感情が生まれていた。
月は歌い終わると、礼儀正しく、お辞儀をした。それから僕の方を見ると、笑顔を見せた。
「太陽さん、その拍手はどういった意味の拍手ですか?」
「は?」
言われるまで、僕は気付かなかった。僕は月の歌を聞き終わって、拍手を送っていた。
「いや、一生懸命な感じだったし、月の声はキレイだと思ったから……」
月が傷付かないようにと思いながら、言葉を伝えたけど、伝えてから変なことを伝えたと気付いた。
「いや、何か変な感じになったけど……」
「ありがとうございます。太陽さんの言葉、嬉しいです」
「……何で顔が赤いんだ?」
「え? あ、その……そんなことないです」
月の顔は明らかに真っ赤だったけど、それより喜んでいるような表情で、僕は間違ったことを伝えたわけじゃないと感じた。
「私……勇気を出しました。太陽さんも勇気を出してくれませんか?」
月が僕にどうしてほしいか、はっきりとわかった。この状況で、それを断るなんて選択は、流石にできない。
「わかった」
僕はリモコンを操作して、一番好きな曲を予約した。この曲は何度もカラオケで歌っている。そして、一度も満足に歌えたことがない曲だ。
どう歌っても、自分の声を音程に合わせることができなくて、その度に周りの人が微妙な反応をしていた。人によっては、僕の歌を聞くのをやめてスマホをいじり出すぐらいだ。そんなことがあったから、僕はカラオケというか、人前で歌うことが嫌いになった。
でも、月は歌が苦手なのに、歌ってくれた。だから、僕も歌うことを選択した。
そうして歌い始めてみたけど、歌い出しから音程が合っていないことはすぐわかった。この音程で歌いたいと思っているのに、そうならない。やっぱり、僕は歌うことが嫌いだ。
「予想通り、キーが合っていないみたいだね」
「は?」
急に光が声を挟んできたから、僕は歌を止めた。それから光はリモコンを操作した。すると、聞こえてくる音がさっきより低くなった。
「これで歌ってみてよ」
「……わかった」
タイミングを合わせるため、サビに入るところで歌を再開した。その瞬間、僕は今までしたことのない経験をした。合わせたい音程の声が自分から出ていて、それがスピーカーから聞こえてくる音に合わさっていくような、とにかく気持ちのいい感覚だった。
そうして歌い終えて、月と嵐が拍手をしてくれた。
「やっぱり、私は太陽さんの歌が好きです!」
「太陽、いい感じだったぜ」
二人は演技をしている感じでもなく、本心で言ってくれているようだった。でも、僕は今まで歌うことが苦手で、嫌いなものとしていた。歌うことに関して嫌な記憶は山ほどある。そんな僕にとって、今の状況をどう受け入れるべきか、悩んでしまった。
「太陽君は、自分の音域がわかっていないみたいだね」
「は?」
「人によって、出しやすい音とか、合わせやすい音って違うの。だから、自分以外の他人が作った曲って、基本的に合わなくて当然なんだよ。まあ、私は天才だから、誰が作った曲にも合わせられるけどね」
最後の一言を除いて、光の言葉は思うところが色々とあった。
「太陽君、自分のことを音痴だなんて言ったよね? でも、音痴を自覚している人って、自分の声が本来出したい音程に合っていないと認識できる人でもあるの。つまり、自分の声を本来出したい音程に合わせられるように曲を変えてしまえば、太陽君は音痴じゃないってことだよ」
これまで、僕の歌に対して、そんなことを言ってくれる人はいなかった。だからこそ、光からもっと僕の歌について様々なことを言ってほしいと思った。
「他にも歌いたい曲があるんだけど、光に聞いてもらっていいかな?」
「何か楽しくなってきたじゃねえか! じゃあ、今日は太陽を特訓しようぜ!」
「いや、嵐も歌いたい曲があるなら……」
「俺が歌うより、太陽の特訓の方が楽しいって!」
嵐がそう言ったので、それからは僕のボイストレーニングみたいになってしまった。でも、月に嵐、それと光も嫌な顔一つせず、僕に付き合ってくれた。
僕は歌うことが嫌いだ。それは、カラオケなどで歌った時、嫌な記憶しかないからだ。でも、そんな嫌な記憶は今日、完全にではないけど、少し解決できた気がした。