仕事と変化3
「それじゃ桃子、お疲れー」
「うん、お疲れ」
勤務時間が過ぎ、外はすっかり真っ暗になった頃。
偶然同じタイミングで仕事を終えた夏美と、最寄りの駅まで歩いた私は、うちとは逆方向の電車に乗る夏美を、向かい側のホームで見送った。
プルルルルという音が鳴り、間も無くしてドアが閉まる。
ガラス越しに笑顔で手を振る夏美につられ、私も小さく手を振り返した。
——はぁ、今日はちょっと疲れたかも。
いつもよりも早い退勤のはずなのに、なぜかすごく疲れた気がする。
まだ木曜日だから明日も仕事があるし。
今日うちに着いたらご飯を食べてお風呂に入ってすぐに寝よう。
『まもなく電車が参ります——』
そうこう考えているうちに、私が乗る電車も来るみたい。
いつもは帰宅ラッシュで身動き取れないくらい人がいるけど、どうしてか今日はあまり人がいないように感じられる。
まあそれでも十分電車は混んじゃうけど。
もしかしたら座れるかもしれないし、ちょっと期待しておこう。
『ガタンゴトンガタンゴトン』
夏美に遅れること約3分。
ようやくうち方面の電車が到着した。
プシューという音と共にドアが開かれ、ホームで待っていた人が一気になだれ込んで行く。
すっからかんだったはずの電車は、みるみるうちに人に染まり、気づけば軽い満員状態。
もちろん私が座れる席なんて一つも開いてはいない。
うちの最寄りまでは30分くらいだけど、その間にこの状況が変わることはまずないと思う。
大体の人は千葉まで帰るから、東京の外れで降りる私にとって、この人の数はただの苦痛でしかない。
——早く着かないかなぁ……。
いつも車内に表示されてる残りの駅数を数えるけど。
数えれば数えるだけ時間が長く感じちゃう。
『次は御茶ノ水。御茶ノ水です』
御茶ノ水ってことは、まだ乗ってから10分くらいしか経ってないんだ。
でも御茶ノ水は乗り換えをする人が結構いたりするから。
その時にもしかしたら椅子が開くかもしれない。
『御茶ノ水。お出口は右側です』
電車が減速し始めたのと同じくして、車内では降りる人たちがソワソワとドアの方へと移動を始める。
それを悟った私は、椅子が開かないかどうかを目を凝らして見張っていた。
すると——。
——あっ、ひと席空いた。
私が立っていた場所のすぐ目の前。
そこに座っていた男の人が偶然にも立ち上がり、ドアの方へと向かった。
——これ、私座っていいよね?
場所的に、座るなら私か隣の人以外に考えられない。
でも隣の人はサラリーマンらしきおじさんだし。
多分このままいくと私に席を譲ってくれると思う。
『どうぞ』
あ、今目が合ったけど、やっぱり席を譲ってくれるみたい。
他に座りたそうにしている人も特にいないし。
ここは素直に座らせてもらおうかな。
そう思った私は肩にかけていた荷物を取り。
膝に乗せられるように胸元に抱えた。
そして有り難く空いた椅子に座ろうとした時。
「電車、混んでますねぇ」
「そうだねぇ」
私の視界の一片に、おじいさんとおばあさんの姿が映った。
しかもそのおじいさんとおばあさんは、溢れる人の波に流され、私がいる方へど徐々に徐々に近づいてくる。
「ばあさん。足は大丈夫かい」
「ええ、これくらいなんてことないですよ」
2人で手を取り支え合っているおじいさんとおばあさん。
そのおばあさんの方は、手に松葉杖のようなものを持っていた。
それを見る限り、多分少し足が悪いんだと思う。
「15分くらいだからなんとか頑張ろうねぇ」
そう言っておじいさんは、おばあさんの手をぎゅっと握る。
そしてまもなくして、扉が閉まり電車が動き出した。
——あれ……何で誰も……。
その時私が抱いたのは、決して小さくはない不信感。
目の前で2人が大変そうにしているというのに、なんで誰も席を譲ろうとしないんだろうという疑問。
——みんなケータイばっかり……。
見渡す限り、椅子に座っている人たちはケータイばかりを見ている。
それで自分の世界に入り込んで、一切周りを見ようとしていない。
おばあさんがあんなにも大変そうにしているのに。
なんで誰も席を譲ってあげないんだろう——。
「あ、あの……座らないんですか?」
空いた席の目の前で、色々考え込んでいた私。
そんな私を不思議に思ってか、隣にいたおじさんが一声かけてきた。
「えっと、この席取っておいてもらっていいですか」
「は、はい……わかりました」
なぜか心が落ち着かない私は、おじさんにそう告げ2人の元へ。
人の壁に挟まれたまま辛そうにしているおばあさんに声をかけた。
「あの、もし良かったら席空いてるので」
「あら、悪いですよ」
「いえ、混んでますし。それに転んだりすると危ないですから」
私はそう言って、空いた椅子の方を指し示す。
するとおばあさんは、おじいさんと顔を見合わせ、
「ありがとう。それじゃあ座らせてもらうわね」
笑顔を浮かべて、空いた椅子へと座ってくれた。
それを見た私は、なんだか一安心。
でもおじいさんも一緒に座れないのは、ちょっと申し訳ない。
「わざわざありがとうねぇ」
「いえ、これくらい」
「ばあさんは足が悪いから、本当に助かったよ」
おばあさんが座る椅子の前。
そこに私と並んで立っているおじいさんは、嬉しそうにそう言ってくれた。
「でもひと席しか空いてなくて……」
「私はいいんだ。まだ身体も元気だしね」
「でも……」
本当はおじいさんも一緒に座らせてあげたかった。
それだけが私の心残りでならない。
もうひと席空いていればいいんだけど。
あいにく今日も満員で、おじいさんが座れそうな席はどこにも……。
「——あの、もし良かったらかけてください」
私が悩んでいた時、聞こえてきた声。
その声は、おばあさんが座るすぐ隣の男性のものだった。
まだ若くて、私と同い年か少し上かくらいだと思う。
でもその立ち振る舞いを見る限り、結構しっかりしてそうな人だ。
「そんな、悪いですよ」
「いえいえ、僕は間も無くおりますので。良かったら」
「あらそうですか。本当にありがとうございます」
紳士的な対応の男性は、素早く席を立ち上がった。
そしてその空いた席に、おじいさんがゆっくりと腰を下ろす。
「優しい人で良かったですねぇ」
「そうだねぇ」
そして2人は、お互いに笑顔を交わす。
その光景はなんだか暖かくて。
ずっと見ていたいような、そんな気持ちにさえなる。
——私、席譲った。
あまり実感はないけど、私は初めて席を譲った。
今までだったら、誰かがやってくれるだろうとか。
周りの人に任せてばかりいたけど。
でも——。
なんだか今日は自分がやってみようって思えた。
そしたら上手くいって、おじいさんたちにも感謝されて。
——うん、なんだか悪くないかも。
何かをして褒められたりするのはすごく良い。
それはきっと今までの私だったら思いもしなかったことだと思う。
同居人の彼と暮らし始めてから。
そこから私の何かが変わった。
そしてそれを変えてくれたのは紛れもなく彼。
だからこそ私はいつかこの気持ちを彼に伝えたい。
あとどれくらい一緒にいれるかわからないけど。
それでも私は伝えたいんだ。
この”ありがとう”って思いを——。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
突然ですが。
皆さんは”ありがとう”という言葉の対義語を知っていますか?
もちろんこの後書きを読んでくれている方の中には、ご存知の方もいるかと思います。
もし「ありがとうの対義語かぁ……ンンン……」と悩んでいる方は、ぜひこの機会に覚えていただけたら幸いです。
これを知らない人に「ありがとうの対義語は?」と質問すると大体の確率で「ごめんなさいでしょ?」と返ってきます。
もしかしたら皆さんの中にも、ありがとうの対義語がごめんなさいだと思った方はいるかもしれません。
ですがそれは間違いです。
ありがとうの対義語はごめんなさいではなく”当たり前”です。
そもそもありがとうとは、漢字で書くと”有り難う”と書きます。
つまりは『有るのが難しいこと』という意味です。
それを踏まえると『有るのが当然』という意味の当たり前が、ありがとうの対義語になるわけです。
ではなぜこんな話をしたかと言いますと。
理由は今回の電車の話にあります。
今回蓮見さんは、自分が椅子に座りたいのをぐっと我慢して老夫婦に席を譲りました。
老夫婦は足腰が悪く、社会の常識で言えば蓮見さんの行動は当たり前の行動だと思います。
ですが今回、その当たり前を他の乗客がしようとしなかった。
席を譲るという常識を他の人に任せてしまったわけです。
もちろん蓮見さんも一度は周りを頼ろうとしました。
ですが勇気を振り絞っておばあさんに席を譲ってあげました。
何度でも言いますが、これはごくごく当たり前のことです。
足腰の悪い老人がいれば、席をゆずるのは当然です。
しかし席を譲られた側からしたらどうでしょう。
「ありがたいな」とか「親切な人だな」とか、普通なら思うはずです。
今回の話の中でも、蓮見さんが席を譲った際に老夫婦は感謝をしています。
蓮見さんに向けて「ありがとう」と一言お礼を述べています。
つまりこれが、当たり前と有り難うの対関係というわけです。
自分が当たり前だと思ってしたことも、相手にとっては有り難いことである。
自分が有り難いなと思ったことでも、相手にとってはごく当たり前のことである。
今回は電車が例ですが、これはどこにいても成り立つものです。
コンビニのレジもそう。
客は当たり前だと思ってその店の商品を買う。
でもそれはお店側にとって、とても有り難いこと。
利益になるのだから当然です。
しかし逆はどうでしょう。
店員さんは当たり前のように商品を数え、袋に入れてくれます。
ではそれをお客さん側は、有り難いことだと思うことができているでしょうか?
お会計が終わった際に、「ありがとう」の一言を言えているでしょうか?
感謝できないどうこう言うつもりはありません。
ですが最近外出をしている際に、ありがとうの一言を言えないお客さんが増えてきているのかなと感じていたりします。
飲食店で料理を持ってきてもらったら「ありがとう」。
そして食べ終わったら「ごちそうさま」。
雑貨屋で何かを買って袋に包んでもらったら「ありがとう」。
他のお店でもそう。
店員さんが当たり前だと思って接客していることに対し感謝を述べる。
もしかしたらこれをおかしいと思う方もいるかもしれません。
ですが私は、ぜひこれを読んでくれた皆さんに、当たり前の裏の有り難うを伝えて欲しい。
そして有り難うの裏の当たり前ができるような人になって欲しい。
そういう願いを込めて、この話、そして後書きを書かせていただきました。
長文にはなってしまいましたが、もしこれを読んで何か感じることがあれば、今すぐ実践して欲しいと思います。
そしてありがとうが溢れる優しい世界に、自分を住まわせてあげてくれたら嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この作品は残り2話で完結となります。
また次回もよろしくお願い申し上げます。