脳天に霹靂(三十と一夜の短篇第28回)
夏休みにはいって数日。とある高校の理科室で、セーラー服すがたの生徒がひとり、入りぐちに背をむけてすわっていた。
朝はやくから学校にやってきた彼女は、大量の本を抱えて理科室のとびらを開いた。正確には、彼女が所属する科学部の顧問教員にたのんで、部室として登録されている部屋のカギをあけてもらったのだ。
「ぼくがいうのもなんだけど、羽方さん、あなた変わってるねえ。ほかの部員なんて、ほとんどが幽霊部員で学期中さえ来やしないのに。まあ、例外はいるけどさ」
そういいながら、両手が本でふさがった生徒、羽方のためにとびらをあけてくれた教員に、羽方は困ったように笑う。
「いえ。わたしは化学の基礎知識がないので、そこの勉強からしなくちゃいけないから……」
「ああ、そうね。羽方さんは文系志望で入学したんだっけね。ぼくは理系担当だからなあ。惜しいなあ。やる気がある生徒に教えるのってぼくとしても気合がはいるのに、授業では会えないんだねえ」
ざんねん、ざんねん、と首をふる教員は、わからないことがあればすぐ聞きにおいで、と羽方に告げて職員室に戻っていった。
「……そげん、立派な生徒やなか」
だれもいなくなった廊下でちいさくつぶやいた羽方は、いっしゅん浮かべていた申し訳なさそうな顔をすぐに引きしめて、理科室のなかへと足をすすめた。
それから数時間。
羽方は理科室でぶ厚い本をいくつもひろげ、ひとりでうなっていた。
といっても、実験の段取りで悩んでいるわけではない。教員が言ったとおり、文系コースを希望して高校に入学した羽方は、化学の成績はからっきしだ。実験を組むことさえできやしない。
それはわかっていたけれども科学部に入りたかったし、どうしても作りたいものがあった。
せっせと運んできた本はそのために知りたいことを調べるために借りてきたものなのだけれど、すこしも読めない。いや、ひらがなと漢字、それからときおりカタカナで書かれた本だから読めるはずなのに、読んでも読んでも目がすべる。どの本をひらいても羽方の知らない単語ばかりがならんでいて、はじめのページからすすむことができないでいた。
自分に知識がないことはわかっていたけれど、目当ての本を読むため、いっしょに借りてきた辞典に書かれた説明さえ理解できない現実に、羽方はあたまをかかえた。
やっぱり、文系の自分がこんなことに手を出そうとするのはまちがっているのか。あきらめるべきなのだろうか。羽方がそう考えて、泣きたいきもちでページをうらめしく見つめていたとき。
「ナノツくん、どうしたんです」
ふいに名前を呼ばれて、羽方はびくりと肩をふるわせた。
ひとが来たことに気がつかなかった。手に負えない本を相手に集中しすぎて、足音を聞きのがしたのだ。
入りぐちに背を向けていたのもわるかったのだろう。言いわけをするなら、夏やすみだからと油断していたのだ。自由参加の科学部で、熱心に活動する生徒は限られているからと、はいってすぐの席に荷物をひろげていた。
けれども、ひとが来てしまった。
しかも、羽方がいちばん見られたくないひとの声だ。ふりむかなくてもわかる。耳がおぼえている。
羽方の名を呼んだひとは三年生の先輩。大学受験にむけて、部活ではなく夏季講習に参加するものとばかり思っていた。夏やすみが終わるまで会えないと、学期最後の部活おわりにしょげたばかりだったのに。
羽方は、おどろきとうれしさで混乱して、返事もできず背中をまるめてしまう。そんなことをしたらせっかく声をかけてくれた先輩が行ってしまう、と羽方の胸にあせりがつのる。
けれども、あせればあせるほど顔は下をむき、くちは動かなくなる。
「やすみの日に出てきて、なにを熱心に読んでいるんですか」
うつむいてぷるぷる震えるばかりの羽方に、先輩はもういちど声をかけてくれた。
こんな奇跡は二度とない、今度こそこたえねば、と意気込むけれど、ことばは出てこない。ふつうに話そうとするあまり、羽方は声が出せなくなってしまう。
真っ赤になって口をぱくぱくさせることしかできず、羽方はあたまのなかがまっしろになっていく。
いつもそうだ。
こんな自分がきらいでここにいるのに、けっきょく変われず、言いたいことも言えずにうつむいている。今度こそ先輩はあきれていってしまう、と羽方の目に涙がにじんだそのとき。
「ああ、ヒトの身体の運動を同期させるデバイスの研究。この論文はおれも読みました。ものがたりで描かれていたことが現実に起こり得て、実用化されれば人の役に立つ。たいへん夢のある研究です」
抑揚がすくないながらもどこか楽しそうな声で言いながら、先輩がいすに荷物を置いた。羽方のとなりのいすに。
羽方はおどろいて涙がひっこんだ。
先輩が、かまってくれている。質問をできるほどの化学に関する知識もなくて、部室で実験器具と見つめあっているすがたばかりを見てきた先輩が。
返事をしない後輩に、声をかけてくれた。それも三度も。
そして、となりのいすに荷物を置いた。部室に来るときにいつも先輩が手にしているかばんと、無造作にたたまれた白衣のセット。それを置くのは、腰を落ち着けると決めた場所だけだと、ふだんの観察から知っていた。
それを、羽方のとなりに置いた。ふたりしかいない広い理科室のなか、そこいらじゅうに空いた席があるというのに。あまつさえ、先輩が好きだと公言している実験器具はとなりの化学準備室にしまわれているというのに、そちらへむかわず羽方のとなりに腰を落ち着けると決めたその意図は。
うれしさのあまり混乱に混乱を重ねた羽方は、自分のひざから立ったままでいる先輩のうわばきへと視線をうろつかせ、あわあわと落ち着かない呼吸をくりかえす。
そのあいだにも先輩は身を乗りだして、羽方がひろげたいろいろの資料に目を通しているようだ。きちりとつめを切りそろえてある先輩の指が、うつむく羽方の視界にはいる。
それに気が付いた羽方はあわててうでをのばして資料を隠そうとするけれど。
「しかし、理工学の辞典もともにひらいてあるということは、内容把握に難儀している、と」
遅かった。
先輩の声が羽方の現状を的確に表現するのを耳にして、羽方はあたまが沸騰するかと思った。それと同時に、胸がぐうっとくるしくなる。
先輩にあきれられた、と恥ずかしく思う気持ちであたまが熱くなる。それとは反対に、胸のなかは馬鹿な自分への失望でいっばいになり、押しつぶされそうだ。
こんなだめな後輩では、先輩の眼中に入れてもらえなくなる。先輩に化学のことで質問をするのが夢だったのに、それがかなわなくなる。
もう、科学部をやめてしまおう、羽方がそう心を決めようとしたとき。
うなだれた彼女のあたまに先輩の声がふってきた。
「ナノツさん。ここには運動を同期させるデバイスや理工学辞典のほかに、医学関係の本もあります。開かれたページには、脳の神経伝達について書かれています。それに関する用語辞典もあるようです。あなたはこれらを調べて、なにを目指しているのです? なにか作りたいものでもあるのですか」
「……あ、あのっ」
先輩の問いかけに、羽方はついに声をだせた。はじめは思わぬ遭遇におどろき、つぎは返事をするよゆうがなくて、そのあとは自分が情けなくてなにも答えられなかった。
けれど、なにを作りたいのか。この質問なら答えられる。文系志望で入学してすぐ、化学部に入部したいと思ったときから、変わらない願いだから。
「ほっ、ほれ薬を、作りたいのです!」
答えてしまったから、羽方はあわてて自分の口を両手でふさぐ。いきおいで上げてしまった顔までは気が回らなくて、先輩とばっちり目が合った彼女の全身はみるみる赤く染まっていく。
「…………ほれ薬、ですか」
感情の読めない顔でつぶやく先輩に、あせった羽方はあわてて付け足す。
「いや、あの、ほれ薬なんゆうんは物語んなかん作りもんや、ゆうんはわかっとうです! やけん、そん運動同期デバイスん機能を応用して、気持ちを伝える機械のごたる作りたか思うて……!」
聞かれるままにしゃべったあとで、自分のうかつな口がべらべらと言ってしまった内容を遅れて理解した羽方は、どっと汗をかいた。うっかり地元の方言が出たことには気がつかず、いちばんバラしてはいけないひとに自分の目的を話してしまった、と顔を青くする。
やってしまった、ともんぜつする羽方をしばらくながめていた先輩だったが、その口から発せられたのは思わぬことばだった。
「ナノツさんは、脳がどうやって耳から音を受け取り、理解しているか知っていますか」
「みっ、みみ、ですか?」
唐突な質問にまっしろになったあたまではなにも浮かばず、羽方はちいさな声でわかりません、とつぶやく。
「耳からはいった音は、鼓膜からその内側のちいさな骨に伝わって、さらに奥にある細胞で電気信号に変換されるのです。その電気信号が神経をとおって、脳にたどりつきます」
「は、はい」
わからない、と言った羽方を馬鹿にするでもなく、先輩はとうとうと語ってくれた。耳で聞いた音がどうやって脳にたどりつくか、それはわかったが、先輩がなにを意図しているのか。それは羽方に伝わってこない。
困惑気味の羽方をまっすぐ見つめて、先輩がつづける。
「つまり、ですね。あなたの思いを声にだして、音として相手に伝えたならば、それは電気信号となって相手の脳にたどりつくわけです。これはもう、りっぱな気持ちを伝える道具だ。あなたが長い時間をかけてほれ薬に代わる機械を作るまでもない、と思いませんか。すくなくともおれは、そう思います」
「は、はあ……」
そうだろうか。すこし考えた羽方であったが、先輩は目をそらさずはっきりと言いきった。ならば、そうなのかもしれない。いや、先輩が言うのだから、きっとそうなのだ。
合わせた目をそのままに、ちいさくあたまを上下させた羽方を見て、先輩はにっこりと笑った。
「と、いうわけで。どうぞ、ナノツくん。あなたの思いを聞かせてください」
はじめて出会ったときからいままでで、いちばんいい笑顔だ。
思わず見とれていた羽方は、数拍おくれて目をみひらいた。けれども、おどろきの声をあげる前に、笑顔のままの先輩がずいっと近づいてきた。
「さあ、あなたがだれをどう思っているのか。口にだして言ってみなさい。遠慮なく」
にっこり、いい笑顔の先輩は、有無を言わせぬ迫力がある。しかもすこしずつ身をかがめているらしく、じわじわと迫ってくる笑顔、羽方はなにを考える間もなく、とにかく言われたとおりに口をひらく。
「すっ、すす、す……すいとうと! 先輩のこと、すいとうと!」
必死で伝えた羽方の思いに、先輩はきょとんとしてなにも答えない。
すこしの間をおいて、はっとした羽方はあわてて言い直す。
「あ、あの、好きです! わたし、先輩のこと、好きなんです!」
あたまから湯気がでそうなほど顔を赤くした羽方の告白に、先輩はにっこり笑う。
「あなたは入学してすぐ科学部に入部し、それ以来ずっと熱心に本をめくっていましたよね。ときどきおれが見ていたのを知っていますか」
「ええっ。いえ、いいえ。気づきませんでした!」
おどろいて、必要以上に首をよこにふる羽方にくすりと笑って、先輩は椅子においていた荷物をどけてそこに腰をおろす。真横に立って見下ろされていたときよりも視線が近く、羽方の胸はおおさわぎだ。
「いっしょうけんめいで、とても好ましいと思って見ていました。けれど、すこし顔をあげて、おれと目を合わせてくれないものか、とも思っていました」
にこにこ笑う先輩のことばに、羽方は自身のあたまが噴火したかと思った。それほどの衝撃を感じた。
先輩が自分を見ていた、しかも好意的な感情をもって……!
そのことが羽方のあたまのなかをぐるぐるまわる。うれしくて、はずかしくて、ことばがでない。もうこれ以上はおどろきようがない、限界まで赤くなっているという自信が羽方にはあったが。
「博多弁、ですか。かわいいですね」
「っ!!!!」
にこっ、と笑顔と共にはなたれた先輩のひとことが、羽方の耳と言わず脳と言わず、全身を落雷のように駆け抜けて、みごとにとどめを刺されたのだった。
すいとうと。
ただ、このひと言を聞きたくて。