嬉々
消え入りそうな か細い声音は賢次の胸で呟かれる。賢次は始め この先どうして よいのか全く見当が つかなかった。
しかし それも一瞬の、片時の間の事。
賢次の方が大人では あったのだ。悲しくも、すぐに答えは見つかる……。
「悪いけど……」
賢次の腕は2本あっても、片腕さえ広美に まわされる事は なかった。
悪いけど、付き合えない。
……。
……無言の時間は過ぎていく。広美の小さな両肩が賢次の胸元で震え出すまで。
「どうして……?」
俯いたままで一向に顔を上げず、広美は精一杯の小声で訴えてみた。しかし賢次の下した判断が変わる未来など存在しない。
賢次は、黙っていた。疲れも あってか神経が麻痺していたのかもしれなかった。
「どうしてって……」
差し当たって理由が あるわけでは なかった。返答に詰まる。
賢次が、この まだ世の汚れも知らない幼き少女に どう言い繕い傷つけず、事なきを得ようかと鈍い頭の中で試行錯誤の思案を続けていると。
リン。
(え?)
足元の白い猫を見下ろした。
今に聞いたのは、鈴の音。しかし猫に着いていたわけでは ない。
では、何なのだ。
「賢兄ぃ……」
広美は香りの よい毛髪の中から顔を覗かせた。
血の涙を流し。「ぎゃぁぁあああ!」
つう、と両眼から一筋ずつ、速さを違えアゴまで伝い模様のように鮮やかに。
伝わった血は、広美から離れて地面へ――猫へと降りかかる。ポタ。ポタ。
「にゃあー、ご……」
猫の眼光は賢次に向けられていた。「離せぇ!」
賢次が強引に広美を突き放し飛ばした。もんどりを打つぐらいの勢いは あった。広美はフェンスへ。賢次は腰が抜けたような格好に なった。
フェンスへと背中を打ちつけた広美はズズズ……と、膝を曲げて沈みかける。
「何で……?」
ざわざわと……生ぬるい風は広美の髪を顔に絡めた。
そして変貌……する。
広美の小柄な全身から もじゃもじゃ……もじゃ……毛穴という毛穴から、噴き出た毛は全て『白』かった……光沢が あり、繊維で例えるなら絹糸か。広美は くね……り、くね、り と丸みを帯びた体をくねらせ遅く、立ち上がった……。
「何故 逃げるの……」
賢次はガタガタと震え歯と歯をガチガチと鳴らす。
「ねえ……」
5秒ずつ くらいの時間をかけて、賢次は首を右へ左へと……ゆっくりと、振った。
「こんなに あなたを アイ シ テ る のに……」
赤く開き切り血光る眼は確実に賢次から逸らす事は なく捉え縛り、今度は体を、屈折するには従い反らせ小さな指と指どうしで粉をいじるように頬から落ちる血を触り擦り遊んだ。
飛沫が服では斑点模様に なり体毛の白を赤に染め……これが愉快だ痛快だと少女は高笑いをする。「ひゃははははは」
「や、やめろ……来るな……」
毛の生えた少女の ちんまりとした赤い指は、口元で ぺろりと舐められた。
すると唾液で光った指と指から大きな爪が鈍黒く ぞわりと生えてきて、それも また愉快だ、はははは楽だと……悦楽を。
満足ながら賢次に近づいて。
へたり込んだまま大きくは動けない賢次に体を屈ませて寄って、耳元で吐息を吹きかけるように そ、っと……
あなたの香り、あなたの手触り、あなたの声……
変貌した少女の顔や頭は、何故か突然 濡れ出した。水滴が、髪や顔じゅうから発生してポタポタと。
本当に中学生なのか、だが しかし少女の表情は大人びていく。濡れている。賢次の上に水が赤混じりに降りかかる。
毛深い白い赤い顔は血の涙をまだまだだと流して舌なめずりを。
におい、触感、音……ああ……
ねえ、あなたを舐めても いいかしら……?
唾液の付いた手は賢次の唇に。「うわああああああ!」
渾身の力で賢次は立ち上がった。訳の わからない事を叫びながら、夜の道をどたばたと行儀の悪い玩具のように走りまわる。
何故?
何故、あの娘が あんな。
賢次はガムシャラに ただ ひた走った。
大通りに出て、わずかにジーンズショップや電気屋といった商店が並ぶ道をも滑走し続けて止まらず突き進んだ。
賢次が通り過ぎた電気屋のテレビは、アナウンサーが報道を流している。
『女子大生 水死殺害事件の犯人の似顔絵を公開!』
そして公開された犯人の想像スケッチ絵の人物は、面影が迷惑にも賢次に酷似していた。
まだ別件が ある。
今朝から今夜に かけて。少女が ひとり、行方不明だと。
写真も公開され、捜索に有力な手がかりを民間に求めている。誰か、誰か、誰か……。
少女の名前は広美という。
……
賢次は走って、走って、走って。……止まる。
「はあ、は、は、はあ……」
不規則で不器用な呼吸を整えようと。賢次は立ち止まった傍らの長い階段の石段の下段に、すがりつくように倒れ込んだ。後ろを気にかけ、誰も かれも追っては来ないのだと確認して やっと安心というものを手中に入れた。
呼吸リズムが定まってくると、徐々に先ほどの光景が鮮明に思い出されてくる。あれは何なのだと。「……」
夢の続きなのか。疲れのせいか?
そう思う事で、見たはずの現実をねじ曲げようとしていた。そんな賢次の頭上……階段の上段から、気分を壊す明るい声が聞こえた。「こんばんは」
神経質に なっていた賢次は、激しくドキリとして すぐに声の方へと顔を上げた。
上から自分を見下ろしていたのは……朝にも挨拶した、巫女。片手には、身長くらいの長さの竹ボウキを持って。
「これは これは……巫女さん」
そこで初めて気がついたのだが、賢次の居る場所は朝に通りがかった森下神社だった。
「はい。これ どうぞ。貸してさし上げます」
「え?」
立ち上がった賢次に、巫女の持っていたホウキが手渡される。意図が さっぱり わからなかった。
「来ましたね。やっつけて下さい」
そう言って巫女の見つめる視線の先を、賢次も追うと、だ……。
「あれは何だ……」
賢次が ぼやくのも無理は ない。
万人が万人、必ずや認めるはずだ。あれは異形だと。賢次の見たものは……。
体毛、毛深く白と鼠色で全身を包む。人の形だが、家の屋根に手が届きそうなくらいの大柄だった。しかし乳房が揺れて女、雌にも見える。頭部には1つ、2つと、もうひとつは、猫の頭だった。
体毛に紛れて人か けもの の顔は幾つも埋め込まれて全身に ついている。眼をえぐりとられた顔も多く悲壮な表情を浮かべていた。
手、足爪が長く黒く。蛇が数匹絡みつき、ハエが たかり、鴉か羽や足が、体肉に突き刺さるように生えている。……
あれは何という名の異形だ。名づけようのない化け物が、再び賢次を求めて やってくる。
何故に賢次なのか。
「あなたは、動物を一匹 殺しましたね」
巫女の音調子を下げた落ち着く声が賢次に問いかける。「どうぶ……」
賢次はイタチを瞬時に思い出す。あれが どうしたと? 巫女に目で問うた。
「その動物は あなたのせいで成仏 出来ず、仲間を求め、無関係なものまで引き寄せて……こうして恨みは形と なって生まれた。あなたに責任が あります。あなたのせいで」
俺の……せいだ……と? そんなバカな。
巫女の視線が痛く突き刺さる。いや、そう見えただけだ。巫女は笑いも怒りも していない。そりゃそうだ? 何故 俺が怒られる? ……賢次は終いには大笑いをし出してしまった。
「ははははは! ……アホらしい。たかだか動物一匹 死んだくらいで何が責任だ。俺の知った事かよ! なあ巫女サン。責任っつったって どうとれっつうの? 教えろよ なあ?」
賢次の本性が見え始める。迫り来る化け物……無論、このままには しておけず。巫女は賢次に指図した。
「死にたくなければ、それで奴らを倒して下さい。そのホウキで」
ホウキ? と賢次は さっき巫女に渡され握っていた竹ボウキを見た。
「あなたが刀と思えば刀に なります。さあ どうぞ。死にたくなかったら」
……
夜は昼間に見えたものを覆い隠す……
賢次の両の手に握り締められるホウキは穂先を空に。始め、ぶるぶると震えて。睨みつけるは真正面の敵だった。
賢次を捜して さ迷うのだろう、世には居るはずのない者どもの塊よ。埋め込まれた顔の中にイタチも居るぞ、そら賢次、お前が殺した けものが あの中だ、ひひ……
時折 吹く風は賢次に向かって そう唄う。とても意地悪に。救わない。
『異形』の生えた毛の腕は、爪を立て武器に賢次に襲いかかってきた――ひゅん。
賢次は横へと素早く避けた。爪は鋭く地面に刺さり舗装をひび砕く。だが賢次の方が小柄な分、身は素早く動けるそうだ。反対に、異形の方は動作が遅く重く鈍い。
それに賢次が気がついた時に。賢次の顔や様相がガラリと変わった。
試しとホウキを上に高く掲げて、異形めがけて一撃を振り落としたのだ。
ばしんっ。
キャワンッ。
何と高い声で吠えた。
ホウキの一撃は、異形の腹部と思わしき あたりに入った。防御する事など はなから考えても いなかった異形は、賢次の攻撃を全て受ける事に なる。これから……
ばしんっ。
ギャオッ。
低い声。
ばしっ。
キュワワンッ。
高い声。
犬のような鳴き方だ。
見間違いでは なく。味をしめた賢次の度重なるホウキ叩きの連続した攻撃は、異形の大きさを縮小させていった。叩かれるごとに わずかだが、小さく、小さく、と。
何だ こいつ。弱えじゃん? ……ひゃは。
賢次の全毛体毛はゾクゾクとする快感で逆立っている。何もかもが吹っ切れて。もはや自分がホウキの巧手だと。
さあ何処に容れて欲しい? 望みのままに従い必ず ご期待に答えますよ お客人。
ここか? ここか? それとも ここなのか? どの肉だ叩いて欲しいのは。言ってみろよオラ。オラ、オラ、オラ。オラぁ!
バシィィイイインッ!
ギュワアアァッ……ァ! ア……
血が遠くへ飛んだ。
飛んだのは体も、だった。2・3メートルは軽く飛ぶ。「け、賢兄ぃい……」
懐かしい声が異形から発せられ充分に聞こえたはずなのだが、賢次の耳に聞こえては。
バシィッ!
ホウキの穂先は容赦なく責め続け、
バシィッ!
もはや正しさも先に来るものも訳は わからなくなってくる。
バシィッ!
「ぎゃは……」
声を漏らした男は悦と楽を選び溺れ、
バシィッ!
自分を見失う。「もっと吠えろよ……」
バ……
キャィ……
「なあ……?」
傷だらけに なっていく異形は、白から赤へ、そして黒へ。刺激を受ける度に縮み。ハッと気がつけば黒い塊だ小山だ、即ち弱きものだった。それでも賢次は最期まではと遂げるため。止めようとは微塵も思っていない。
ホウキは巫女が言った通りか、刀へと姿を変えていた。化けていた。
叩くのではなく、斬る。
「何が責任だよ、なあ? 俺が一体 何をした……?」
イタチを殺した。それだけだ。
「なあ! なあ! なあ!?」
ぎゅるりと締めすぎて壊れそうなほど柄を固く、握り締めて刀を。足元に転がる たった直径1メートル程度に まで丸まった『成れの果て』に、そろそろお別れが近づこうとしていた。
ブシュ、ザシュ、ぐじゅる。
賢次は刀を存分に振るう。黒い毛玉と化したものの反撃など蚊の攻撃か、もう効きはしない。賢次という名の悪魔は相手をとことんと痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、痛めつけ、――これは苛めだ。
「あひはははははああははあ!」
巫女は止めない。止めた所で異形が世に出ては困るからと。
――嘆くだけ。
「哀れな人間よ……」
あなたは それで救われるか。その塊と化した弱き 物の怪を前に して。
本当に救われるのか。思い込んでは いまいか。真に救われたいと もし つまみにでも思うのならば――
「隠さない事です。始めから」
残念だが、巫女の肉声も賢次には決して届かなかった。
夜に浮かぶ月は闇を照らしても光り行き届く範囲には限度が ある。
ああ……
なにも見えない。
夜は明けて……数日 経つ。
行方不明だった広美は、家の近所の公園で無残な姿で発見された。犯人は調べて すぐに割り出されて捕まった……暑い さなか、ムシャクシャしていたらしい。動機など、つまらぬものだった。犯人の男は身を隠さずテレビカメラの前で堂々と警察官や刑事に手錠をかけられ連行されていった。
被害者と なった広美の発見現場や詳細なども隠さず放送されている。
一方。
朝に。賢次は修理に出されて返ってきた車で出勤する。
排気ガスを撒き散らし、神社の前を駆けて行く。階段に居た巫女はホウキで掃き掃除をしていて、通過した車を運転していた者が――賢次だと わかった。
道の傍ら、そよ風に揺れる野花の所まで歩み出て しゃがみ、花を誰かにと例えて話し掛けた。
「あなたには見えない」
賢次の肩にはイタチが のっている。
しかし彼には自覚が ない。見 え て い な い のだから。
恐らくは一生、とり憑かれたままなのだろう。肩に のせて。そして また異形へと。
ずっと一緒に居る。嬉々として戯れ一緒に。未来永劫、来世まで。
彼が真に心から弔う日まで。
ずっと居る。
ずっと……ひ、ひ、ひ。
なん で ころ し た の
《END》
【あとがき】
見えないラジオパーソナリティー = 作者という隠れオチ。
It's M〜y L〜ife 〜♪
やっぱりツッコんでしまうんだなあ(ポリポリ)。
さてさて……
目次ページ・平(片)仮名 変換・並べてタテ読み。
ここまでのご読了、ありがとうございました。