靴下
賢次は奇妙な夢を見る。
酔っていたとはいえ。ちゃんと一戸建ての自分の実家へと辿り着き、車庫幅に従い後ろ向きで駐車を終えた後。普通に車から降り、普通に手には忘れず鞄などの荷物を持ち、普通にドアを閉めてロックして、普通に玄関から入って帰宅した。
普通に……着替えず靴下だけ暑いからと脱ぎ捨てて寝室のベッドに倒れ込んで寝てしまう。
そして奇妙な夢へと誘われる。……
「はあ、はあ、はあ……」
なにも見えない。見えない。見えない、『何か』に追いかけられて。
「はあ、はあ、はあ……」
息苦しい。自分は走っている。ここは何処だ。何処なんだ。迷路、迷路なのか。スレートグレー、セピア色の壁が自分を挟み続いている。たったったったったった。靴の音が響く……。
「は、あ……はあは……」
やがて足も腕も肩も背骨も呼吸も、疲れに疲れて限界を察知した。
まだ行き止まらない続く道には申し訳ないがと、横の壁に体を許して倒れ込んだ。
ばん、そしてズルズルと、肩を引きずって沈む。足の格好など ぐちゃぐちゃだ。スルリと伸びた細長い両の足がスカートから……。
「……?」
頭の中が真っ白と化す。足の次に両手を自分の方に向けて見た。
血色薄い白い手が、両の目の視界に入った。手術用の手袋でも被ったかのような細く、美しい汚れの無い綺麗な5本ずつの指……内に侵食して広がる違和感。
そして胸。衝撃を浴びた。
どうやら青の半袖シャツとキャミソールを着ているらしい自分の胸が ふっくらと膨らんでいる。おかしい。何故だ。不思議が全身を包んでいる。好奇で まず触れて……押し揉むと確かに柔らかく『ついて』いる。
女だ。
女に なっているんだ。何故だ? 何故、女なんかに。
疑問は次へと送られた。
コッ。
黒エナメルの革靴と黒のスラックスを履いた足が影と一緒に自分の前へと現れる。
紳士 男物の革靴を履いた足は つま先を軽く広げて止まり、こちらが顔を上げるのを待ってくれていた。
暗い世界のなか両壁に挟まれ、さらに人物の影のなかへと隠れた こちらを見下ろし、相手は……その『相手』は……。
男。
恐れを感じた。「……」
黒の山高帽、黒のピーコート、黒のネクタイ、黒の……。
黒の……顔。
顔は?
顔が無い。
でも男だ。それだけは わかる。
しかし男の『白い』手が、こちらに向かって伸びてきた。「え?」
浮かび上がる手は、自分の頬や肌を優しく撫でるのかと思えた。思いたかった。だが。
ぐじゅる。
一瞬、何が行われたのかを理解 出来なかった。それが『眼』だと認識するに至るまで、恐らくは13秒の経過。
次に『見え』た世界は違ったものだった。
あれ? さっきの奴は何処へ消え……。
代わりに自分の目の前に居たのは、女。薄いピンクのシフォンのスカート、靴の片方が脱げ 白で こしらえたペディキュアの ついた素足が見えていて、前開きにしたブルーのシャツの内からはキャミソールを着た隆起した胸が見える。手足をダランと曲げ伸ばし、力無く壁に背中を寝預けて首が据わっている。
何処かで見た覚えが。それも そのはず。つい今まで自分が見た、自分が していたと思わしき服装では なかったか。
何故 視界に あなたが映る。自分は誰、何。
今の自分は。
女の髪に隠れて見づらかった表情を見ようと関心を向けた。そして驚き叫びを。
うわあああああ! ……あれ? 声が。
そう。声は発しない。発せられるはずがない。
何故なら自分は『眼』だけになってしまったのだから。
女は片眼を奪われている。
自分が眼だ。あなたの眼は自分で自分は あなたを。
やがて自分という『眼』は女に近づき、近づき……女の顔は色濃く その『片眼の無い顔』は脳裏に刻み込まれていった。ポッカリと空いた眼の穴には漆黒の闇が詰まっている。残された もう片眼が自分を見つめている。その充分に交感神経を刺激された丸い瞳孔は散瞳され対象を捕らえて離さない。対象?
やめろ……
声は出ていない。
自分の視界に『白い』手が映った。これは、あの『男』の手。
男の手だけが登場し女に迫る。もしや。
あああっ……!
ぐぎゅるっ……ぐ、ぐ、……ズポ……リ。
あああああっ……
たいした抵抗も出来ずに残っていた片眼まで。男は指を巧みに動かし反応の無い女から容易く えぐり抜きとった。
痛い、痛い、痛いぃぃいい!
実際に痛みは感じていなかったのだが視界から意識が離れては くれず。拷問のように感覚は縛られ全てを見る羽目となり、叫びは繋がらない。
最後に見たのは女の、両の眼を失った骸の顔。
微かに微笑……う。
なにも見えない……の、よ……
……
「はあ、はあ、はあ……」
何て最悪な目覚めだと。賢次は重い身をベッドから起こして肩で息を整えた。激しい動機と息切れは しばし治まらず、仕事机の上に置かれていた置き時計は さあ出勤しろと時間を教えてくれていた。指し示す針の動きを見た途端ガリガリと頭を掻いて。賢次は昨夜、服のまま酔っ払って寝てしまった事などを思い出し、チッ、と舌打ちした。
シャワーを浴びた後、出勤時間までには余裕で間に合いそうな時間では あったが どうも落ち着かなく。身支度を終えた後は冷蔵庫から冷えた缶コーラを1本取り出しプルタブを上げて喉へと飲料を注ぎ込んだ。
暑がった賢次が旨そうに飲んでいる間、つけていたテレビではキャスターが今入ってきたばかりのニュースを読み上げていた。
女子大生が工場の貯水タンクで水死体と なって発見されたニュース。
賢次はコーラを飲み終えるとテーブルに空きとなった缶を置き、テレビの電源を消したリモコンをソファへと放り投げて玄関へと黒の鞄を持ってズカズカと向かって行った。
外を出た途端、嫌な顔に なる。太陽光線が熱く、溶かされるなと賢次は流れてくる汗を憎らしく思った。
しかも さらに彼の機嫌を損ねる事態が。
何と、車のエンジンが かからない。
「ちきしょう!」
眉間に皺が寄せられる。何度やっても1回で すら かからない。悲運だった。
左手首で光る高級腕時計をひと睨みし、諦めて車を降りた。
怖い顔は崩さないまま、無言で車を見捨てて徒歩でと車庫を出た所で、だった。
「にゃあ」
1匹の白い猫が、車庫と賢次の前を横切ろうと現れる。
「ダメよシロちゃん。賢兄ぃは これから仕事なの」
続けて現れたのは、小花柄のチュニックワンピースを着たガーリー系の少女……近所に住む女子中学生だった。よく賢次とは朝や、夜の犬の散歩で会う事が多い。
今は夏休みの真っ最中だった。
「じゃあな広美ちゃん」
腕に抱きかかえられた猫を見て、賢次は微かに口元をほころばせて路面へと出た。少女の傍らを素っ気なく通りすぎ、容赦なく日光で覆われた住宅と住宅の間へと。歩き出そうとした その時だった。「賢兄ぃ!」
名前を呼ばれて振り向いた。
何だ? と首を傾げると、呼んだはずの少女は何故か はにかみながら上目づかいに賢次を見つめた。
「この前 賢兄ぃに もらったアイス……『 たらこドーナツアイス 』、美味しかったよ!」
照れ笑いをしながら、抱きしめている猫を もっと可愛らしく ぎゅっと抱きしめる。
「そっか。また今度もらってくるよ」
賢次は言って、手だけを振りながら前へと急いだ。また、素っ気ない。
「賢兄ぃ……」
少女の頬は ほの赤く染まる。暑いせいだけではないのは、すぐに わかる事……。
「……」
道先で姿が完全に消えるまで、少女は賢次の汗ばんだ背中を見つめていた。「にゃあ?」何も知らない猫は眠そうに、クリクリとした目で少女の様子を窺っている。
「……おつかい行こ、シロちゃん」
「にゃあご」
やがて、少女も歩き出す。賢次が向かった先とは反対の方向の、高台と なった坂道へと。少し進むと、開拓も利用も されていない山が見えてくるだろう。……
少女の背後に、派手な柄のシャツと短いパンツにサンダルを履いた……ひとりの男が ついて行った。
見せた白い歯は、並びが悪い。
……
片側に田畑、片側に家屋が並ぶアスファルトの狭い道路をつまらなそうに歩く賢次。蛙とセミが野の あちこちで自由気ままに独唱を。草は砂と土に交じって その生命を輝かせる。
かつては歩き慣れていた道だった。車の免許をとってからは、徒歩が少なくなっているのが当たり前。何年ぶりかの徒行に新鮮さ まで感じてしまうというのは奇妙な感覚が した。
「暑ぃな……」
地面は太陽の光の施しを反射する。熱を与えられて冷たさなど忘れた。
賢次が あまりの汗の量に嘆いていると、ふと。足を止めた。
「……」
神社が あった。
小さな頃、よく友達と来て遊んだ思い出が多くある。
石段が長く上まで ずうっと続いていて辿り着くと赤い鳥居が大きくあるのだ。『森下神社』と鳥居の中央に書いてあった。
足を止めたのは、恐らく鳥居の横に あった お稲荷様の像が目に入ったからだろう。
そして深夜のイタチの死に様が記憶に鮮明に残っていた。消えてはくれない。
「ハ……」
軽く息を吐いた時だった。
「こんにちは」
後ろから、声を掛けられた。「ど、どうも」
慌てて振り向くと、居たのは巫女の格好をして具材の詰まったスーパーの袋を1つ提げていた成人女性だった。長い黒髪は、後ろに まとめている。
「あなた、つかれてますねえ」
巫女は ふふ、と笑って腰に手を当てた。楽しそうに賢次を見ていた。
心の中でコホン、と咳払いをして、この巫女にスマイルを向ける事にした賢次。
「まあね。アイスも今が売れ時ですから。おかげで仕事は残業が毎日と多くなってしまいましてね……じゃあ」
よく笑う賢次は言うだけ言って、とっとと立ち去った。世間話など している暇など ないと、周囲は思うかもしれない気忙しい人間、質を持った男。賢次とは。
遠く小さくなっていった賢次に、巫女は立てた指を振りながら数を数え出していった。
「何人の女に『憑かれ』てんだろう。女が ひとり、女が ひとり、女が ひと……」
ひい、ふう、みいと数えていって。あれ、……と首を捻る巫女。そして こう言った。
「けものが ひとつ……」
会社にて。賢次は夕方の5時を過ぎても残業を覚悟し、机の上のパソコンに向かって書類と画面を交互に目を配らせ没頭していた。クーラーの効いた室内では、他の社員達が我も我もと立ち上がり身辺を片付けて去っていく。
その中の ひとりが机で固まっている賢次に話し掛けた。
「私も残りますよ、よかったら」
肩を叩かれて顔を向けた賢次は首を振る。
「いや。結構だ。女性を夜遅くまで引き止めるわけにも いかないから」
また机の上へと意識は返ってしまった。
女性社員達は賢次の見えない所で きゃあ きゃあ騒いでいる。賢次の株は着実に少しずつ上がっていった。
……
そして誰も居なくなって、手がけていた作業が一段落した頃。「さてと……」
本日は歩きと交通機関を利用しての出勤だった。ああ そういえば そうだっけと会社の窓から見える夜の黒とビル窓の照明の光をぼんやりと見た。
集中力の途切れた頭は疲れたとみて、考える事を疎かにしていた。
会社から出て電車に乗るまでの間の道のりが、何と長く感じる事か。賢次は1か2度ほど、普段は優に かわせる自転車や通行人に当たりそうになってしまって何とか避けた。あまり疲れたとは本人が感じては いないが、行動には現れている。
電車に揺られ、駅に着き、さて後は歩いて家まで、と駅の改札を出た所でだ。
「賢兄ぃ!」
元気な知っている声が した。
賢次を気軽に名前で呼んでいる唯一の人物。広美は朝に会った格好、小花柄のチュニックワンピースを着ていた。同じく白い猫を抱えているが飼っている犬は居ないため、今日は散歩では ないらしい。
そう推察した賢次は、「何で ここに?」と眠そうな顔を悟られまいと押し隠して聞いた。
「そろそろ帰るかなあって。シロちゃんと一緒に来ちゃった」
エヘへ、とペロリと舌を出しながら首を傾ける。さっぱり要領を得ない賢次だったが、ため息 混じりで。
「暗いし危ないだろう? 家まで送っていくから。ほら、行こう」
「うん……」
ざわざわ、ざわ。
駅の周辺は迎えの車やバス、タクシー、人と。皆は帰り掛け先を急ぎ、賢次と広美は その中に紛れて光の少ない方へと消えた。
消えたのでは ない。夜道を並んで歩いて行く……。
線路に沿って立ち入り禁止のフェンスが先の高架の橋まで並ぶ、古い舗装の道をしばらく黙って歩いていた。雑草が端の何処にでも大きく生い茂る。恐らく刈り取られてから少し時間が経っているだろうと思えるくらいに生えていた。
鈴虫の音が小さくも大きくも聞こえてくる。立つコンクリート製の常夜灯の傍では小さな虫がブンブンと。この一帯は工場が多いからか、人気は少なかった。
もう数分 歩けば、多少は賑やかな大通りに出る。
電車が1本、フェンスの向こう側で通過した後に。広美は抱いている猫に話しかけるようで、隣に居る賢次に話を切り出した。
「あんね、今度、おじいちゃん達のトコに行くんだけどさ」
モジモジと、手と手を擦り合わせる仕草が引け目を感じさせる。しかし賢次には まるで関心は なく、勝手に予測を立てて過ごしている。
……ああ、去年に亡くなった おじいちゃんの事だな。今度の お盆の時に墓参りに行くのか。
「何か忘れてないかなあ……って考えたんだ。そうしたら、1個 思い出しちゃって」
「何?」
「賢兄ぃに、言い忘れていた事が あってさ……」
言い忘れた事……?
賢次は肩を竦めた。何だろう、と。同時に、何かが賢次の背後から忍び寄って来るような悪寒が した。無論、賢次が振り向き そのものの正体を確かめようとした所で実際には何も居は しなかった。鞄を持つ手に力が こもる。何だ、何を思ったのだ自分は、と……。
「賢兄ぃ! あのね……」
いきなり大声で呼んだので、ドキリとして自分よりも背の小さい少女……広美に注目する。何故か双方とも自然と歩みを止めて。
そして。
「……」
「……」
自然の流れは流れのままに。広美は……賢次に抱きつく。「……!」
ボト。
賢次の手から鞄は重そうに落ちた。猫も広美の手から滑り落ちて にゃあと2人を見上げている。
ガタタタン、ガタタタン、ガタタタン……
側面のフェンスを越えて数メートルも行った先の電車は慣性か惰性と言われる運動で夜のお客を運んでいく。
何だ これは……。
賢次には、予想できなかった事が起きてしまっていた。
「……ずっと好きだったよ……賢兄ぃ……」