無題
私には愛している人がいる。
あの人は隣町で働いている、出稼ぎだからいつも一緒に居られない。
私はこの町で働いている、たまにお使いで隣町へ行けるのが今の仕事を選んだ理由。
あの人が働いている隣町…
朝早くに家を出て昼前に隣町に着く、お使いを済まして急いで帰れば日が沈む前には家に戻れる、そんな距離。
もう少し隣町が近ければ…あの人は毎日私の元に帰ってこれるのに…
あの人が働く隣町、にぎやかで、人が多くて…
あの人のことを考える、いつもいつもいつもいつも。苦しい、人の多い町…あの人は大丈夫かな、苦しい。
今日はあの人が帰ってくる日。
私は豪華な手料理を作って、いいお酒を用意して待っている。
待っている時間は永い。外を見る。日が沈まないんじゃないかって思うほど…時間は進まない。
扉を叩く音。
『ただいま』
あの人の胸に飛び込む、私の頭を優しく撫でる、幸せ。待ってた時間が無くなる位に何もかも考えられないくらいにあの人が私を充たす。
『今日も豪華にして、もっと普通でも十分に君の料理はおいしいのに』
あの人はいつも言う、私としてはもっともっとしてあげたい。でも、あの人はそれを好まない。これでも十分我慢しているのに、でもそんな言葉も気にならない、だって私の手の中にあの人が居るのだから。
私はあの人と食事を食べる、あの人はいつもおいしそうに私の料理を食べてくれる。
おいしいって表情が言葉にしなくても私にその感想を伝えてくれる。
そして夜はあの人と一緒になる。
朝は嫌い…あの人のかわいい寝顔は大好きだけれど、朝は嫌い。
あの人がすぐ傍にいるのに朝食を用意しながら涙が出てくる。
『寂しい思いをさせて、ごめん』
いつの間にか起きてきたあの人に後ろから抱きしめられる。
あの人はお金があればって言う…違うの、ただ傍に居たいの。それでもその言葉はいつも私の口から出て行くことは無かった。
あの人が一生懸命お金を貯めようとがんばっているから…
時間は不公平だと思う。あの人をなかなか返してくれないのに、奪うときはあっという間に連れ去ってしまう。
隣町に行ってしまうあの人、きっといろんな人が良くしてくれると思う、私が大好きなあの人だからきっとみんなほっとかない。
あの人は私を愛してるって言う、でも不安…素敵なあの人なら私より素敵な人が寄ってくる。
私はあの人の言葉に縋る…あの人が動けなくなれば…こんなことを考える自分は嫌い。あの人に纏わりつく人はもっと嫌い。
それでも、あの人を愛してる。私にはそれしかない。
あの人が怪我をした。私が望んだせい…
あの人は左腕を失った、隣町の病院に居るあの人のところにはたくさんの人がお見舞いに来たらしい。
私はお使いの合間の短い時間に少し話しをするだけ。
あの人は私の傍に居てくれない。気が狂いそう、あの人に逢える時間がまた減っていく…
あの人はいつも笑顔で短い時間をいっぱい使って私を楽しませてくれる。あの人の気持ちが嬉しい、でも苦しいのよ。
私が居なくても平気なんじゃないかって、そうなるんじゃないかって。
僕には愛している人がいる。
隣町に出稼ぎしている僕はその人を町に残して働いている。
本当はずっと傍に居たい、でも僕にはお金が無い、一緒に暮らすにもお金がいる。
その人は『無理しなくても』っていつも言ってくれる。
仕事の手を止めるとき、いつも思うのはその人のこと…
もう少し町が近ければ毎日帰ることができるのに…
それでも僕にできる仕事はこっちの町にしかない…
僕の愛するその人は僕の心配ばかりする、そのわりに自分のことは大丈夫っていう。
僕がどれだけ心配しているか解っていないと思う…
愛するその人は仕事でまれに僕が働く町へやってくる、顔が見れるのはとても嬉しい。
それと同じくらいまた心配する、町から町の行き帰り、それにこの町は人が多い、その人の仕事先にだって人はいっぱいいる…
それでも、『大丈夫だから、心配いらない』なんて笑っている。
たまに帰れるときは朝から浮かれてしまう、昼まで仕事をして急いで帰る。
そんな日に限って急な仕事はあるもので、でもほかってもおけない…
みんなで協力して昼過ぎには終わった。急ぐ僕を馬に乗った人が追い越していく…お金があれば…
とにかく急ぐ、心臓が煽る、苦しい、それでも足を止めない。
いつもより少し遅くなった、荒い息を深呼吸で静める。
『ただいま』
愛するその人を胸で受け止め髪を撫でる。充たされる。
走ってきた疲れなど始めから無かったようにいい気持ちだ。
僕が帰る日はいつも豪華な食事が用意されている。普通に作ってもとってもおいしいのに、無理をさせているんじゃないかと不安になる。
『今日も豪華にして、もっと普通でも十分に君の料理はおいしいのに』
つい言ってしまう。
僕にはもったいない人だ、わかっているのかな。
幸せな気持ちを確かめ合いながら夜がその色を濃くしていく…
朝は嫌いだ、その人が朝食の準備をしている。その音を聞きながら幸せをかみ締める、そのうちすすり泣く声が聞こえる…
『寂しい思いをさせて、ごめん』
僕のせいだ、誤ってもどうにかなることじゃない、でも誤るしかない。不甲斐ない自分が嫌になる。いつか愛想を尽かされるのではないか、不安が、時間の減少と共にあせりに替わる。
傍に居たい、それをできなくしているのは自分…時間は来てしまう…
後ろ髪を引かれながら重い足を前に進める。僕がいない間に何かあったら…それでも働かなければ…
同じ時間なのになぜこんなにも違うのだろう、夢のような時間は夢のようにあっという間。
怪我をした、利き腕を失った。
仕事場の人はみんな良くしてくれる、治療代も出してくれる、いろんな人が僕を助けてくれる。
ありがたい…
でも僕はこんな姿になったことで愛する人が離れていくのではないか、そんなことばかり考える。上の空の僕をみんなが心配してくれる、そんなことはどうでもいい…
愛するその人と逢える時間は仕事でこの町に来る時だけになってしまった。僕は必死で短い時間を使って楽しんでもらおうと必死になった。心配かけないように自然な笑顔をして見捨てられないように弱い部分を見せないように。
でも帰り際に見せる沈んだ顔に恐怖する。僕に対する落胆ではないかって…
利き腕を失った僕にも出来る仕事があると僕を使ってくれていた人が勧めてくれた。
だけれど今よりももっと遠い町で住み込みで一年に一回くらいしか帰れないらしい。
考えさせてほしいと待ってもらった。
愛するあの人怪我がだいぶ良くなったある日、いつもとは違った真剣な表情のあの人がいた。
『僕にもできる仕事があるらしい』
その内容を聞いて私は泣いた。
いっそ死んでしまいたいくらい、私の心はバラバラになってしまいそう。
私は泣きながら今までどんな気持ちでいたか利き腕を失ったあの人の胸に飛び込んで喚き散らした。
あの人は身体を震わせて。
大声で泣き出した。
愛するあの人が退院する日、多くの人が見送りに来てくれた、女の人も多くいたけれど私はもう気にならない…うそ、ちょっともやもやする。でも大丈夫だって…
僕が退院する日、仕事関係の人が見送りに来てくれた。最後まで心配してくれる人、仕事の話をもう一度考えないかといってくれる人、僕を心配してくれる人の気持ちは嬉しかったけれど、もう決めている。
今まで住んでいた家も手放して森の入り口の小さな山小屋を買った。
小さな小さな山小屋、村長さんにも許可を貰った。
ここで森の獣を見張り、採取をしたり、小さな畑を耕したりして2人で暮らす、2人だけで…
夢のよう、あの人と2人きり、朝も昼も夜も…
一緒に森で採取して、畑を耕して、時たま村に買い物に行くのも森のものを売りに行くのも一緒。
生活は苦しい、食べ物が十分取れない日だってよくある。
でも、幸せ。
片腕は失った。それでも一番の願いは叶った。
生活は苦しい、それはできる範囲でがんばっていけばいい、僕は一人ではないから。
幸せだ。
かなりの月日が経った冬のある日。
森の入り口にある小さな小さな山小屋の老夫婦が亡くなっているのが見つかった。
その顔は安らぎに満ちて、握った手は離すことができなかったそうです。