③ 百道健芯の驚きー2
健芯は、そう言うのが精一杯だった。こんなことを考えては不謹慎かもしれないが、兄貴がこの世界からいなくなったことで、かえって好転したこともあるかもしれない。
いや、兄貴の死を乗り越えて、ポッカリと空いた穴を埋めるためには、一人一人が前に進むしかないし、無理やりでも好転させるしかないのだ。もちろん、誰一人として、兄の死を喜ぶものなどいない。
しかし、残された者は残された者同士で、手を取り合って前に進むしかない。そこには現状維持なんて答えはないと健芯は思った。急に父が、
「まあ、そう言うことだ。これまでいろいろあったけど、これから、家族三人で仲良くやっていこう。志恩の分まで…」
と言ったので、母の独断でなく、二人でよく話し合って進めたことであることに健芯は気付かされた。
ふと、週末に職場の同僚から紹介された美野島美鈴と言う女性と、会う約束をしていたことを健芯は思い出した。健芯自身も、何かが変わるきっかけを喉の奥から手が出るほど求めていた。
もう一つ、大きく変わったことと言えば、二十数年ぶりに篠栗のおっちゃんが我が家へ遊びに来たことである。
父は当然喜んで迎えるものとしても、母が喜んで迎える姿を見て、初めは目の錯覚ではないかと思ったほどだ。室見川の見立てでは、母は出世をあきらめた父に失望しているのではなかったか?
副社長まで登りつめたおっちゃんに、母は父が出世の座を奪われていると思っているのではなかったか?
ところが、母は子どもの頃と同じように、おっちゃんのためにおいしい料理を作った。これは一体どう言うことか? 健芯にはさっぱり分からなかった。
「篠栗君は、来年四月から片江商事の社長になることが内定した」
「まあ、おめでとうございます」
健芯は持っているビールグラスを、思わず落としそうになった。あの母がおっちゃんに対して、素直におめでとう…なんて言うのだ。驚かない方がどうかしている…。
「百道さん、まだ内緒ですよ…」
篠栗は右の人差し指を口の前に立てる。それを見て、伸一は篠栗のマネをした。それを見て、笑う桃子。頭が?だらけの健芯。
「大丈夫だよ。もう、定年を迎えた人が、どこで、このことをしゃべると言うのだ。こう見えても、元は人事課だ。口は堅い」
「まあ、それもそうですね」
「篠栗さんは、主人の直属の部下だったお方ですから、社長まで登りつめて、当然ですよ。主人も病気さえしなければ、きっと出世できたはず…と最近まで思っていたんです。でも、そうじゃなくて、主人はもともと出世に向いていなくて、篠栗さんは出世に向いていると、ようやく気付きました…」
健芯は思わず、箸を落としてしまった。それを見て、一同が失笑するので、健芯も笑って応える。それから、流しに向かって箸を洗う。
きっと、このことも二人の間で話がついていたのだろう。父と母の二人は、きっと今まで夫婦の話をしてこなかったのだろう。だから、今すごい勢いでたくさんのことを話して、たくさんのことを取り戻そうとしている。
しかし、兄貴のいた世界でこのようなことが起きただろうか…。いけないと分かっていても、健芯はその考えを取り消すことなどできないだろう…と思った。




