川風通ル。朝ガ来ル。 1
九月十日の始まりは穏やかな金色をしていた。
水面に反射した夏の陽射しはキラキラと輝いていて、誘蛾灯に誘われる羽虫が如く、僕はぼんやりとした眠気を引きずりながらふらふらと河川敷を歩いていた。
菜津市を分断するように流れる一級河川、珠川。
毎朝六時に起きて、入学祝に買って貰ったロードバイクに跨がり、なんとなく川を眺めてから学校に行く、それが僕の日課だった。
誰もいない河川敷は孤独感を浮き彫りにしてくれる。
雨の日は京田線の高架下で、晴れの日はグラウンドの芝生に腰かけ、気分がいいときは水際ギリギリまで行ってガマの葉っぱに触れてみたりした。
暇潰しだ。
空気はわずかに夜気を含み、暑さを感じさせない涼しさを保っていた。
セミはまだ鳴りをひそめて、来たるべく日中の日差しに気合いをためているようだ。
パシャリ、と魚が跳ねた音がした。
環境破壊に明け暮れた二十世紀の穴埋めを、エコロジーという言葉に託してひたすら叫んだゼロ年代。
失われた自然はわずかだが回復しつつあった。回遊魚の帰還も努力の賜物だろう。
眩しく乱反射する水面に目を細めて、音がしたほうに顔を向ける。
女の子が川の真ん中に立っていた。
白い肌に柔らかそうな頬、眉の辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪が風を受けてふわりと浮かび上がった。
「おはよぉ」
彼女はぷっくりとした薄ピンク色の唇を開いた。
川の真ん中に、濡れることも厭わず立っている少女は異様だった。白いシャツに赤いズボン、裸足だがズボンの裾は水に浸されている。
「おはよう、ございます」
僕よりは年下だろう。小学生か、はたまた中学生か。初対面の人と挨拶を交わすのはずいぶんと久しぶりだ。
「なぁにしてんの?」
少女はにっこり笑って、ばしゃばしゃと近づいてきた。
「川を眺めてたんだ」
「そぉなんだ」
少女は僕を下から覗きこむように前屈みになった。真っ黒で大きな瞳をしている。ギリシャ神話のメデューサみたいだ。
「君は、こんな朝早くに」
こんなところで、なにしてるの?
「キミじゃないのよん。セオリなのよん」
「え」
僕の質問は遮られ、彼女の笑顔に塗りつぶされた。
「セオリだよーん。よろしーく」
一瞬なにを言っているのかわからなくなったが、細く白い人差し指で自らの顔を指差している。自己紹介だとすぐに理解できた。
「あなたの名前は?」
「……菅野平太」
「ヘータ? おー、ヘータねー。あなたはヘータ。セオリはセオリ。よろしくね」
間延びさせて呼ぶのはやめてくれと、とお願いするのがいつもの僕だが、彼女には一切の悪気が感じられなかった。
好きなように呼べばいい、たぶん二度と会わないだろうし。
口には出さず呟いてから、宙に浮かんだ疑問の解決に乗り出すことにした。
「君はこんな朝早く川の真ん中でなにしてたの?」
「セオリだってばー、キミじゃなくてセオリはセオリ」
「……セオリはこんな朝早くになにしてんの?」
ヌフフと気味の悪い笑い声をあげたあと彼女はうってかわって明るく言った。
「セオリはねー、川からでちゃいけないのよ」
「え?」
「そーゆー約束なのね」
「約束って、誰との?」
「んー、わかんない」
あどけない表情のまま、にっこりと微笑む。
「ゲームかなにか?」
「そうじゃないのね」
にんまりと半月状につり上がったセオリの唇はなんだかわからないけど不気味に感じた。
「それはそーと、ヘータ昨日もいたのね」
「……」
「昨日も一昨日も先一昨日もいたのね」
「……まあね」
見られていたのか。
少なからず僕は、誰もいない孤独の時間を楽しんでいたつもりだった。
たまにすれ違うのは犬の散歩かジョギングに精をだすサラリーマンで、制服姿で川を眺める僕に注目する人なんて誰もいないはずだったのに。
「ヘータ川が好きなの?」
「わからない。わからないけど、なんだかずっと見ていたいんだ」
「わかんないのに見てたいの? どーして?」
「飽きないんだ。やることないから」
「そんなに見つめられると川も照れちゃうのねー」
「そうかもね」
「ウフフ」
満足そうに深く頷いてから、彼女はばしゃばしゃ水音をたて、その場で両手を広げて一回転してみせた。
「見てみてーキラキラー」
「え?」
「お日さま、ゆらゆらー。セオリの宝物みたいー」
セオリが動く度に水面に反射する朝日は形を変えた。それを面白がっているらしい。
「……」
この子、大丈夫だろうか。
見た目は子供だが、少なくとも小学校高学年くらいはある。とてもじゃないが、川の水ではしゃぐような年齢じゃないと思う。
さきほどセオリは川から出ないのが約束といったが、もしかしたらいじめられているんじゃないだろうか。
異質物を排除するのが学校というコミュニティだ。僕はそれを体験談として聞いたことがある。
「でもね、もうすぐドロドロになるのね」
ピタリと動きを止めて、ボソリとセオリは呟いた。
「そりゃあ、はしゃげば水底の泥が浮かび上がって濁るさ」
「違うよ。もっともっと先の話」
「珠川の水質はこの近辺じゃトップだよ。川を守る会のおじさんたちが頑張ったんだ」
僕の言葉を受けてセオリはキョトンとした。
「おじさんじゃないよ。おばさんがいなくなっちゃったから、川が慰められないのよ」
「なんの話?」
「シズめないといけないの」
会話が噛み合わない。
「そうしないと持ってかれるのよん」
「なにが?」
「タマだよ」
「たま?」
僕らの間に静寂が落ちた。
その隙間を縫うように、遠くの茂みでアブラゼミが断末魔に似た鳴き声をあげた。
ジリジリと身を焦がすような太陽が雲ひとつ無い空に昇っていく。
「ねぇヘータ。お花を持ってきてほしいのね」
突拍子の無いお願いに僕の脳はフリーズしかけた。
「花? なんで……」
「慰めるために必要なのよん」
「花……」
高架橋の上を、下り急行がガタゴト音をたてて、知らない世界へ走っていった。
図書室の郷土資料のコーナーに足を踏み入れる。窓を開けて換気を行うと床に転がっていた綿ボコりがふわりと舞い上がりコピー機の方に流されていった。
夏の風にはセミの声が溶けている。
僕は本棚から一冊の本を抜き、小脇に抱えて近くの席に腰かけた。授業が始まる前の暇潰しだ。
「よぉ平太、なにしてんだ」
しばらく熱中して活字に視線を這わせていた僕を呼んだのは、図書委員の住吉だった。
「調べものをしてたんだ」
「調べもん? なに読んでたん?」
僕は黙って背表紙が見えるように本をたてた。
「珠川の歴史?」
「うん。今年の自由研究にしようと思って」
「うちの中学に自由研究はないし、夏休みならこないだ終わったばかりだろ」
住吉は肩をすくめると、僕の正面の椅子を引いてそこに腰かけた。
「で? 何かわかったん?」
眼鏡のレンズを挟んで鋭い視線をぶつけてくる。
「堤内地って知ってる? 天井川みたいなやつなんだけど」
「知らね。なにそれ」
「堤防によって洪水から守られている地域のことをそう言うんだって。今度再開発がかかる三転町らへんは堤内地に該当するらしいよ」
「そうなんだ。だから? って、感じだな」
「つまり僕らの町は、堤防が無ければ台風の度に冠水しちゃうんだよ」
「そんなバカな」
「いやほんと。珠川の治水はほんとに難しかったらしくてさ。昭和中期に入っても増水は止まらないし、なんとか堤防ができて落ち着いたのがつい最近みたいだね」
「ふぅーん、楽しそうな自由研究ですねぇー」
一切の興味を失ったらしい住吉はポケットから携帯を取り出すと、机にだれながらポチポチとメールを返し始めた。
こいつは興味を失うといつもそうだ。
僕は苦笑いを浮かべて本を閉じ、棚に戻すため立ち上がった。
「てかなんで突然そんなこと調べだしたんだ?」
住吉が一切視線を向けることなく聞いてきた。
「自分の住んでる町のことくらい把握しとかなきゃ」
「そんな殊勝な性格してたっけ、お前さん」
「ほんとはただの暇潰しだけどさ。なんとなく調べとかないといけない気がしたんだ」
「なにそれ。意味わかんね」
「町は変わっていくから、それまでにやるべきことをやっておこうと思っただけだよ」
開いたスペースを指で押し広げ、本を差し込む。
「あ、そうそう珠川の珠はタマシイのタマって説があること知ってっか?」
背後から声をかけられた。
振り向くと住吉は目だけをこちらにむけていた。
「洪水の度に犠牲者を出た。だからタマシイを取る川。なんか怖いよな」
「嘘だよね?」
「うん。てきとー言ってみた」
「なんだそりゃ」
住吉は気だるそうに携帯をしまうと眼鏡を外して机に突っ伏した。
図書委員のこいつは貸出し係としてカウンターに立たなきゃいけないはずなのに、仕事を全部相方に任せて、本人はこうしてサボっているのだ。
川を眺めてから学校に行っても、ホームルームまでの時間がかなり余ってしまう。それまでの時間潰しを図書室で行う僕は、いつしか彼と仲良くなっていた。
「住吉」
「うん?」
「なんか花ちょうだい」
だから、彼の実家が花屋だということを僕は知っていた。
住吉には季節の花束を安価で売ってくれる約束を取り付けた。
退屈な授業を適当なノートテイクで誤魔化し、ようやく迎えた放課後、今朝のこともあったから、とりあえず川に寄ってから帰ることにした。
吹き出す汗を手首で拭い、自転車を停め、川沿いをしばらく歩いた先で大勢のボランティアがゴミ拾いしている姿を見つけた。
「あの、すみません」
みなさん『川を守る会』の緑色の腕章を腕につけている。
僕に声をかけられて、白髪混じりの男性が振り向いた。
「なんだ?」
「小さな女の子を見ませんでしたか? 赤いズボンをはいた子なんですけど」
「見てないねぇ……」
「そうですか」
今朝、セオリは別れ際「お花がねぇ、手に入ったらよんでほしいのよん」と僕に声をかけてきた。なんでも川に行けばすぐに会えるらしい。よくわからないが、彼女がそう言うならそうなのだろう。
ひとまず手に入る見込みができた報告をしようと思ったが、いないなら仕方ない。お礼を行って立ち去ろうとした僕をおじさんが呼び止めた。
「迷子か?」
迷子って答えたら絶対めんどくさいことになるな、と静かに悟った僕は嘘でごまかすことにした。
「いえ、……妹と待ち合わせしてて」
「そうかい。いくら緩やかな流れとはいえ川は川だからよ。気を付けい」
「はい」
おじさんはトングで地面に転がったタバコの吸い殻を足元の袋に素早い動きで入れ始めた。
「たく、後始末くらいちゃんとしろってんだ……」
おじさんの独り言は河川敷のセミたちによってかき消された。
「あの、いつも掃除してるんですか?」
「ん? 一週間に一回だ。何かあったとき以外はね」
「なにかって……」
「花火のあととかな。川を大事にしてる人の気持ちを考えてほしいもんだ」
あ、この話長くなるな。
「あの、僕そろそろ……」
「とはいえ大事にしすぎるのも問題だが。例えば灯籠流しってあんだろ? ああいうのは下流で灯籠を回収しなくちゃ川の汚染に繋がんだ。
お年寄りだと昔の風習を大事にするあまり、川に花や人形を流したりする人がまだいっからよ。
ほら、あんたも小さいころ空に風船とか飛ばしたろ? いまああいう風船はほとんが水で溶ける環境に優しいものになってんだよ」
「そうですね、はい。あ、じゃあ、この辺で」
「最近じゃ夜になると人気が無くなるから、わざわざ県をまたいで不法投棄しにくる連中までいやがる。警察も取り締まりを強化せんし、仕方なしに有志を募って自警団めいたことを行ってるんよ。よかったらアンタもどうか」
「あぁ、えっと、最近受験勉強とかで忙しいんで、……あ、すみません、僕、ちょっと……」
「おお、悪いね。引き留めてしまって。妹さんを探さないといけないんだろ? 気を付けいよ」
「はい」
おじさんに小さくお辞儀してから、僕は土手の石段に足をかけた。
自転車を走らせると、風を受けたシャツがヨットの帆のように膨らんだ。
傾き始めた太陽は光線を橙色に変え、僕の影を徐々に長くしている。
もうすぐ黄昏がやってくる。
日が沈み、夜の戸張が降りれば、待っているのは熱帯夜。河川敷は涼しいし、夕涼みの散歩にはうってつけだ。
生い茂った夏草は風に揺すられ、サワサワと音をたてていた。耳を澄ますと秋の虫の鳴き声が聞こえた気がした。
自転車を一級河川と書かれた青い看板の前に停め、チェーンをかける。
橋梁のうす暗闇の下にセオリの姿を見つけたのだ。
彼女は川の中ほどにある橋の土台に寝そべって空を眺めていた。
「あ、ヘータだぁ」
砂利を踏む音で気配を感じたらしい、セオリは上半身を起き上がらせて、にんまりと口角をあげた。
「お花持ってきてくれたの?」
橋の下は流れが急だ。声を張らなければ水音に飲まれてしまいそうだが、彼女の声は不思議とよく通った。
「明日のこの時間には用意できるよ。ほんとは今日中に持ってきたかったんだけど、遅くなっちゃうから、とりあえず報告だけ」
「ありがとさーん」
「明日ここにいてくれれば花を渡すから覚えておいてね」
「あいよー」
彼女はそれだけ言うとまた寝そべって、投げ出した足をプラプラさせた。
直線に並べられた丸い足場がいくつか水面からひょこり出ていたので、それを渡って、あそこに行ったのだろう。
「あんまり遅くまで遊んでると家の人が心配するよ」
「なんで?」
「なんでって、そりゃあ……」
「だぁれもいないのよん」
冷たく澄んだ声が投げ掛けられた。
「心配してくれる人はみんないなくなっちゃったの」
「どういう、こと?」
「リコちゃんもアヤメちゃんもみんないなくなっちゃったの」
「……友達?」
「うん。遠くに行っちゃった」
「引っ越した、とか?」
「うーん、わかんない」
「そっか、それはさみしいね」
「ううん」
セオリはやおら立ち上がると両手を頭上に掲げ、大きく伸びをした。ふわりと彼女の髪が広がった。
「今はヘータがいるから寂しくないよ」
白い歯を見せてセオリはにっこりと微笑んだ。
僕は無言になって彼女を見つめた。黄昏時の川面が夕陽に照らされて、歓楽街のネオンみたいだった。
そのときだ。
「あ……」
背の高い夏草が一斉に頭を垂れた。鼓膜がゴウという音で一杯になる。
突風が橋の下を吹き抜けたのだ。
それに背中を押されるカタチで彼女は小さく声をあげると、足を滑らせ、川にバシャンと音をたてて落ちてしまった。
一瞬何が起きたかわからなかった。
ぽかんと半口を開けていた僕が冷静さを取り戻したのは、水面の波紋が大きな広がりを見せてからだった。
セオリは顔を出さない。
「お、おい!」
慌てて靴を脱いで川に入る。川底の石は藻が付着していてヌメヌメしていた。
必死に水をかき、彼女が落ちた位置まで泳ごうと足掻く。プールと違って流れがあるし、服が体に貼り付いて上手く前に進めない。
がくん、と体が沈んだ。足がつかない深さになったのだ。パニックになりかけたが、冷静になって、セオリが落ちた川の中心まで泳ぐ。
こんなことになるなら、もっとちゃんと水泳の授業を受けておけばよかった!
混乱を極める僕の視線が浮かび上がる彼女を捉えることはなかった。
「セオリ!!」
叫んだ。返事はない。
口から川の水が入り込み、気分が悪くなったが、僕は叫び続けた。
これ以上は自分がヤバイ、そう脳裏で判断し、彼女が寝転んでいた橋の土台に掴まって、重たい体をアザラシように引き上げた。呼吸はきれきれで整わない。
「っはぁ、ぐ」
ゴオゴオと音をたてて流れていく川の音がパニックになりかけの僕とは対称的で、あまりの滑稽さに涙が出そうになった。
「ぐっ」
セオリはいない。
流されてしまったのだろうか。
「がはっ、げほっ」
咳き込んで、前屈みになる。
吐き出した川の水でコンクリートが黒く染まった。
「ヘータ、だいじょーぶ?」
熱さと痛みにくるまれた喉に手をあて、顔をあげると、セオリが心配そうに僕を見下ろしていた。
「な、んで?」
僕の前髪からは滴が絶えず落ち続けているが、彼女は一切濡れた様子はなかった。
「いま、落ちた……」
「んー?」
「だって、いま、僕の目の前で、そんなありえない」
「んー? なあに?」
セオリはしゃがみこむと、
「ヘータ、びしょ濡れなのね」
ニコリと微笑んで、首をかしげた。その蠱惑的な微笑みはすべてを虜にするような魅力に溢れていた。