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黄昏せまれば  作者: 上葵
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消失レインカーネーション


 通学手段に自転車を選んだ生徒はそんなに多くない。

 雨や雪の日のことを考えたら、自転車を交通手段にするのはリスキーだからだ。

 でも僕は自転車を漕いでいる時の風を切る感覚がとても好きで、少しぐらいの小雨なら気にせずペダルを漕ぐほどだった。

 ただ一点めんどくさいのが、帰る途中に長く急勾配な坂道があることで、その日も肩を揺すりながら漕いでいると、突然の雨に襲われた。最近はほんとうにゲリラ豪雨が多い。幸い坂の途中には陸橋がかけられており、その下で雨宿りすることにした。


「雨、すごいですね」

 先客がいたらしい。長い黒髪の女の子だった。

「ええ、ほんとに」

 自転車のスタンドをたて、橋脚にもたれながら、安全地帯より豪雨を眺める。暗くなった景色に、雨の匂い。辺りは一気に涼しくなる。

「あの」

 弾ける雨粒の音が大きすぎて、彼女が僕に話しかけてきたのか一瞬迷う。返事を躊躇いながら、目を合わせると、少女は少しだけ緊張した面持ちで続けた。

「私の戯れ言をきいてくれませんか?」


「戯れ言、ですか?」

「はい。戯れ言です。たわごとと書いてざれごとと読みます。どちらも冗談半分な話という意味です」

「はあ。どうぞ」

「ありがとうございます」

 少女はにっこりと微笑んだ。


「私は同じ時間を二百回繰り返しています」

 神経症的な印象を覚える黒い瞳。美人だが、中学生独特な妄想症にとりつかれていそうだった。



 一瞬なにを言っているのか理解できなかったし、しばらくたって言葉を飲み込んでみても、やっぱり意味がわからなかった。

「はあ。そうですか」

「その目は信じていませんね? でもいいです。聞いていただけるだけで……」

 少女は無表情のまま口を開いた。

「私は九月二日から四日までの三日間を二百回繰り返してきました」

「ループしてる、ってことですか?」

「ループ、そうか、その言葉を使えばよかったんですね! はい。その通りです。私はループに捕らわれています」

 語気を荒らげて彼女は僕を見た。

「そう、なんですか」

 正直ドン引きだ。

 SF映画は好きだけど、現実として起こり得るはずがない。

「繰り返しの三日間を知覚できるのは私だけでした。周りは時間が繰り返していることにさえ気がついていません」

「それは、また、大変ですね。今もループしてるんですか?」

「はい。非常に退屈な日常です。だってどんなに頑張って九月五日が来ることはないんですもの。絵を描いても、小説を描いても、全部が全部、九月五日を迎えることなくリセットされてしまうのです」

「にわかには信じがたい話ですね」

「ええ。私も他人がそんな四方山話をしたら、頭が可笑しい狂人の戯れ言と思って聞き流すでしょう」

 彼女は残念そうに両目を閉じてうつ向いた。

 表情で適当に聞き流そうとしていたのがバレたらしい。

「……信じろというほうが難しいかと」

「ごもっともです」

「その、あまりにも非現実的で……。なんでそんなことになったんですか?」

「説明するのが難しいのですが、大雑把にいうと呪いなんだと思います」

「呪い?」

「はい。呪い」

 吹き荒ぶ雨粒が頬にあたる。

 夏を忘れさせるほど、辺りは冷えていく。もし彼女が同じ時間を何度も繰り返しているというなら、今日この瞬間の雨も予め知っていたというのだろうか。

「呪いって」

 間の空白を埋めるように、僕は辛うじて喉を震わせた。

「なんの、呪い、ですか?」

「どうか私に幻滅しないでください……」

「え?」

「私の行いを知れば、なにも知らないあなたは失望するかもしれません」

「そう、ですか」

「私に失望しないと約束してくださるのなら、私の所業をお教えします」

 長いまつげに夜を象徴するような黒い瞳。すがるような、媚びるような上目遣いが真っ直ぐに僕を居抜く。

「約束しますよ。どんな行いであろうと幻滅しません」

「ありがとうございます」

 お礼を言ってから彼女は意を決したように続けた。

「自分で自分を殺したから、時間の環に囚われたのです」


「それって……」

 自分殺し?

 自殺ってこと?

「ところで」

 少女は続けた。

「ところでシュレディンガーの猫というのをご存じですか?」

 僕の脳を埋めつくす文字が、彼女の一言で洗い流される。

 範疇外からの質問。

 僕は慌ててシュレディンガーの猫を、自分のデータベースに検索をかける。

「聞いたことはあるけど、詳しくは……」

「量子力学に出てくる逆説のことです」

 彼女は人差し指を一本たてて、説明し始めた。

「箱の中にはネコと一個の粒子性原子が入っていて、この粒子性原子の半減期は一時間とします。つまり一時間後に粒子性原子が放射線を放出する可能性は五十パーセントというわけです。箱の中には放射線を感知するガイガーカウンターがあり、ガイガーカウンターには青酸ガスが発生する装置が仕組まれています」

「あの、よくわからないんですが……」

「簡単にいうと、ガイガーカウンターが放射線を感知したら、毒ガスが流れて猫は死ぬというわけです」

「なんか恐ろしい実験ですね」

「ここからが本題です。さて、あなたが一時間後ふたを開けた時、生きているネコを発見する可能性は何パーセントでしょうか?」

「……え? 放射線が出る確率が五十なら、猫が生きるか死ぬかも五十パーセントなんじゃないんですか?」

「それも間違いではありません。通常であれば確率は五十パーセントです。ですが観測前は『実在』と『非実在』が混在していると考えるのが、コペンハーゲン解釈における『重なりあった状態』というわけです」

「あの、ちんぷんかんぷんすぎて……」

「ネットに弾かれたボールはどっちに落ちるのかわかりません。一般的な考え方によると、箱の中にあるのは、生きているネコと死んでいるネコ、どちらかに決まっているはずです。ですが、そう考えない量子力学です」

 猫か。

 なんか、最近は猫に縁がある気がする。

「箱の中には非実在の生きてるネコと死んでいるネコがいて、箱を開けた瞬間にどちらかのネコが実現化し、もう片方は消滅してしまう。つまり誰かが箱を開けてネコを観察した瞬間にどちらかに決まるという、そういう考え方です」

「なんか哲学みたいですね」

「哲学ではなく量子力学です。量子力学では同じように人に見られていないとき、素粒子は波のカタチをしていて、誰かに観察されたとき粒子になると考えられています」

 雨足がどんどん強くなってきた。少しだけ、彼女の話はおもしろい。雨宿りの時間潰しにはもってこいだ。

「これが波動関数の収束とよばれる量子過程。この過程は逆転しないとされています。つまり確定事項は揺らがないということです。一度確認してしまえば、箱の蓋を閉めてもネコが生き返らないのと同じように」

 少女の言いたいことが理解できない僕は静かに首を捻った。

「あの、すごく興味深い話ですが、それが、同じ時間を繰り返していることに関係あるんですか?」

「大いに有りです。原因は結果に先んじらない、この法則を逆転できるのですから」

 曲げた人差し指を顎に当てると、彼女は物憂げな瞳で僕を見つめた。

「例えば私は同じ三日間を繰り返し、はじめのうちはなんとか脱出法を見いだそうと努力しましたが、上手くいくことはなくただ絶望の日々を繰り返していました。シュレディンガーの猫のことを教えてくれた人に出会うまで」

 彼女は小さく息を飲み、口を薄く開いた。

「その人も私と同じように繰り返していたのです」



「それは、すごいドラマチックですね」

 ようやく出た感想は酷くチープな一言だった。

 だって、そうだろ?

 あまりに荒唐無稽すぎて信じろって方が無理だ。

 それに彼女も言ってたじゃないか、聞いてくれるだけでいいって。

 だから僕はただひたすら少女の語る小説の粗筋を聞く聴衆に徹すればいい。

「自分でもそう思います」

 彼女はにっこりと微笑んだ。


「私とその人が出会った時、彼は私に、物事にはいくつもの分岐点がある、ということを教えてくれました」

「それはどういう意味ですか?」

「例えば二股に道が別れていたとして、右に行く可能性と左に行った可能性とで、未来は二つに分岐します。右に行った未来の横には左に行った未来が同じように進んでいるのです」

「あ、聞いたことある。パラレルワールドというやつだ」

「はい。人生は選択の連続です。あらゆる選択の先には当然結果がついてきます。ですが、時間を繰り返している私はそのいくつもの可能性を三日間限定で行うことができ、波動関数は収束と発散を繰り返すのです 」

「えっと、つまり……」

「観測者は猫の死ぬ未来を生きている未来に変えることができるのです」

 箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、開けてみないとわからない。

「あれ、でも、仮に箱を開けて猫の死を確認したタイムトラベラーが過去に戻って、結果を解っている前提で箱を開けたら、猫の死は確定してるんじゃないんですか? だってその波導関数? ってやつは猫の死で帰結してるんだから」

「可能性は無限大です。空中を舞うコインが表か裏かはちょっとした影響で変わってきます。気圧天候体調時間……、ちょっとしたきっかけを与えるだけで結果はいかようにも変化するのです。有名な話でバタフライエフェクトというのがあります」

「風が吹けば桶屋が儲かる、みたいなやつでしたっけ」

「はい。一羽の蝶の羽ばたきが地球の裏側で嵐を起こす、というカオス理論です。同じ時間でも私は色んな未来を生きることができるのです。おかしな話ですよね? 本当は死んでいるのに」

 自殺したら、同じ時間を繰り返す呪いにかかるのだろうか?

 だとしたら、彼女が会ったというその人も。

「彼も自らを殺した人でした」

 雨は降りやむことなく、地面に水溜まりを作り続ける。


「だけど、彼には救いがありました。彼のループは私より一日後なのです」

「どういう意味ですか? 救いって?」

「私が長いループ生活でどうすれば脱出できるか思案した結果、ある一つの方法が浮かびました」

「そうか……!」

「原因を取り除くのです。つまり自殺をやめる」

「つまり彼の自殺を君が止めたら、彼のループはなくなるということか!」

「はい。ですがそれには一つの謎が残ります」

「謎?」

「たとえば仮に何百回とループしてきた私が原因を取り除きループから脱出できたとしたら、それまでのループの脱出に足掻いてきた私の存在はどうなるんですか?」

「え? 普通の生活に戻るだけでは?」

「考えても見てください。たとえばA君がリンゴを食べてお腹を壊したとします。A君は過去に戻って過去のA君にリンゴを食べるなと忠告します。それでお腹を壊すという未来はなくなりましたが、同時にA君が過去に戻る必要もなくなりました。それなら今過去にいる未来のA君はどうなるんですか?」

「……記憶を無くして……えーと」

「それではファンタジーです。私は実際に消滅すると考えています。自我の消滅、すなわち死です」

 ファンタジーの話をしているだから、ファンタジー解答になるのは仕方ないような気がする。

「自殺を止めることにより起こりうる消滅の可能性を彼に相談すると、彼は一つの回答を私に教えてくれました。それがシュレディンガーの猫です。多世界解釈というらしいです」

 こんがらがってきた。

「つまり色んな次元がある、ということです。自殺をした彼の横には自殺をせず生き続ける彼がいる、重なりあった状態です。だから、と彼は続けました。私に自分を救っても無駄だと」

「どういう……?」

「彼の自殺を止めたところで、結局ループは終わらず、一つの次元が増えるだけだと」

「なるほど……。救われた未来の横では、ループを繰り返す未来もある、ということか」

「彼はループは罰だと言っていました。自らを殺めた罰……」

 悲しそうに少女はうつ向いた。

「彼はなんで自殺したんですか?」

「愛する人に先立たれたから。彼女を忘れようとした罰だと」

 僕はなにも言えなかった。

 どしゃ降りの雨を切り裂いて、自動車が坂を上っていく。

「君は……」

 いくらなんでもこの質問は不躾だっただろうか……、と思ってすぐに、妄想に配慮は不要だろと思い直した。

「私の場合はシンプルですよ。イジメです」

「自殺するレベルのイジメはシンプルとは言わない」

「そうですね。すごい激しいイジメでした。男の子は知らないでしょうが女子のイジメもなかなか強烈です。女子校で男子の目がなかったからでしょうか。殴る蹴るは当たり前で、上履きの無くなった数は覚えていません。そのくせ事実を隠匿するのがうまいのです。背中の画ビョウのあととか、お嫁に行ったときのことも考えてほしいくらいです」

「それでも、死ぬなんて」

「死んだほうがマシだ、と人は簡単に思えるのです。悪口や暴力に耐えられるほど私の精神は成熟していません」

 僕はいじめられたことないし、僕の周りでイジメはなかったと思う。追い詰められた彼女の気持ちはわからなかった。

「死んでから、ですけど……」

 彼女はなにも言えず口を結ぶ僕を慰めるような優しい口調で続けた。

「自殺なんてしなければ良かったと、思うのです」

 目の前の少女はどうみても生きていたが、彼女の言葉なぜだか重みを持っていた。

「親に迷惑かけたくないと考える前に、死ぬくらいなら逃げれば良かった。死に損ないでも、生きて戦えば、死なないで良かったと思える日がいつか来るはずだから……」

「……」

「ああ、すみません。私の話はいいのです。彼の話ですよね」

 沈んだ空気をごまかすように彼女は笑顔を振り撒いた。

「彼の自殺を止めるのは簡単でした。彼の愛する人が彼の死を望んでいないことを伝えればいいだけですから。幾度も繰り返されるループで彼も自殺したことを後悔していました」

「あれ、でも、彼の自殺を止めたところでループは終わらないんですよね? パラレルワールドが増えるだけで、彼の自我が経験するループは終わらないって」

「はい。だけど、私は可能性が見てみたいのです。救われた彼がいる世界をみてみたいのです」

「そういうことか」

「彼と会い、彼と話し、彼と笑う……彼と過ごした三日間は貴重で、久方ぶりに人間らしい感情を呼び起こしてくれました。同じ経験をした人に初めて会ったわけですから、彼に惹かれるのは当然ですし、幸せになってもらいたいと思うのに時間はかかりませんでした」

「まあ、そうですよね」

 海外で日本人に会うとすごい親近感がわくのと同じ心理だろうか。いや、それこそ次元が段違いだろうが。

「彼は不要だと言いましたが、次のループで私は彼の自殺を止めました」

「……」

「同時に彼が繰り返している世界と生き続ける世界に別れたというわけです」

「でも、よかったんですか? 唯一の理解者だったんですよね」

「説明した通りですよ。仮に私が彼の自殺を止めなくても、ループしている彼にまた会えるわけではないんですから。世界はいくつも分岐しています。私が焦がれたループしている彼が、ふたたび私と会う可能性はもともと低いのです」

「難しすぎて、自分にはさっぱり……」

「私はまた再び彼と会えることを願って待ち続けているのです」


 雨がみるみる弱くなっていく。

「苦悩を知らず生き続ける彼を見るのも私は幸せです……」

「あ」

 彼女は突然、熱に浮かされた病人のような覚束ない足取りで歩き始めた。

「だけど、同じ苦しみを分かち合うことのできる彼も愛しています。記憶を私と共有している彼を」

 橋の下から出た彼女の髪を雨が濡らし始める。

「突然変なお話をしてしまってすみませんでした。今日のことは忘れてください。もうすぐ二百四回目のループが終わります。終わりの後の世界がどうなるか私は知りませんが、どうかあなたは生き続けてください」

 僕はなにも言えず、手を伸ばしたが、雨のカーテンに遮られ、彼女に届くことはなかった。

「さようなら、ヘータさん。次の世界でもまた私と会ってください」

 雨の隙間で聞こえた少女の声が、僕の鼓膜を震わせた。


 雨があがった。

 雲が割れ、すぐにまた夏の日差しが帰ってくる。嘘のようなゲリラ豪雨に、蝉もおそるおそるといったふうに徐々に鳴き声をあげ始めている。

 少女の姿はなかった。幻でもみていた風だ。

 濡れた右手から滴が落ちる。

「僕は覚えていない……」

 でも、なぜだろうか、名乗ってもないし、教えてもらった記憶もないけど、彼女の名前を知っていた。

 別次元の僕も彼女との再会を待っているのだろうか。

「さよなら、桜」

 それこそ夢だ。

 自転車のサドルに股がり、ペダルに足をかけた。

 世迷い言と忘れるのは簡単だけど、僕の胸に去来した感情は言葉では言い表せられない。

 坂道をふたたび登り始める。

 東の空に虹が出ていた。

 隣の世界でも、空は晴れているだろうか。


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