涙色キャットウォーク 3
足を引きずるように、一抹の疲労感を持って帰宅する。
ネネとは会えなかった。
小さな笑顔に会うことは、もう二度とないような、そんな予感がする。
「ただいま」
家の玄関ドアを開けて、靴を脱ぐ。
「ん?」
タタキに見知らぬ靴が並べてあった。
「おかえり、お兄ちゃん」
「あ、うん。誰か来てるの?」
「倉田のおばさん」
自分の部屋に行こうと通りすがった妹が僕に教えてくれた。目を赤くして、それ以上なにも言わず、彼女は二階へ上がっていった。
倉田のおばさんはネネの母親だ。僕の母さんと仲良しで、昔はよくウチに飲みに来ていた。昼間から酒をアオるダメな大人たちの横で、僕とネネはごっこ遊びに夢中になった。
「おっきくなったね」
倉田のおばさんは僕を見ると、娘そっくりのエクボを作って微笑んだ。
「お久しぶりです」
「いやぁ、ネネと同い年の平太くんがこんなに大きくなると、アタシも年取ったなぁ、っておもうのよ」
「はは……」
大人の軽口にはいまだに慣れず、受け答えの仕方がさっぱりわからない。
「ほんと、大きくなったねぇ。ほんとに……」
続きの言葉が出ないのだろう、おばさんは遠くを見るような目線を僕に送った。
「そう、ね。なんて言えばいいのか……」
おばさんは髪を耳にかけた。
「平太、落ち着いて聞きなさい」
正面に座る母さんがいつになく真剣な口調で言った。
なんだろう。
いや、予感はある。
でも、聞きたくない。
今すぐ、今すぐにでも、また、あの頃と同じ情熱を持って、駆け出したい。
「ネネはね」
おばさんが口を開いた。
耳を塞ごうか、おばさんの口を塞ごうか。
わかってる。
そんなことしたって、現実は変わらない。
だけど、それを聞いてしまったら、僕のなかで確実なものになってしまいそうで、
ああ、ネネ! 頼むから、神様、
「ネネが昨日死んだわ」
「……っ」
なにか言おうと口を開けたけど、渇いた喉が震えることはなかった。
「嘘、だ」
だって、さっきまで。
「ううん、ほんとうのことよ。こんなこといきなり言われたって信じられないでしょうけど……」
「なんで、ですか。意味がわからない。交通事故、とか……」
「病気よ」
「病気? そんな馬鹿な! だって、彼女はいつも元気で!」
「前々から良くなかったの。一年くらい前にね、ネネの体力が著しく低下したのよ。それで入院したら……。……あの子は、未熟児でね、生まれつき体調が悪かったのよ。おばさん達が引っ越したのもネネにちゃんとした治療を受けさせるためだったの。あなた達は仲良しだったから、最期まで悩んだんだけど」
「でも、ネネは、僕の前では、元気で。最近は会ってなかったけど、でも! さっき」
「よく我慢をする子だったから。……色々あって夫と別れたときも、あの子は涙も見せなかった。アタシの前で、あの子が涙を見せたことは一度も……」
言葉を詰まらせたおばさんの目に涙が滲んだ。
「ごめん、なさいね」
浅く深呼吸をしたおばさんは涙をぬぐい椅子の横に置いてあった鞄の口を開いてなにかを取り出した。
「これ。平太くんに見せておきたくて」
茶色い封筒を渡された。
「それはね、あの子の枕に……、いえ、なんでもないわ。見てくれたら分かるから」
頭がぐわんぐわんしてなにも考えられないのに、いきなり渡されたって意味がわからない。
「あとで見てちょうだい。平太くんはネネの唯一といっていいくらいの友達だったから、あの子と最期のお別れをしてほしいの」
「最期だなんて、お別れって、そんな……」
「突然言われても困るわよね。でも親らしいことなんにもやってこれなかったから、最期くらいあの子のお願いを叶えてあげたくて」
おばさんはそこまで言うとやおら立ち上がり、頭を下げた。
「お願いします」
大人から、はじめて頭を下げられた僕は、なにも言えず、なにもできず、ぼうと突っ立ていた。フローリングの床がふわふわ浮いて、なんだか現実感が薄れていく。
「平太」
母さんが僕の頭を無理矢理つかんで提げさせた。
「倉田さん、わざわざスミマセン。お通夜には、必ず」
「よろしくお願いします」
母さんも泣いていた。
この場でただ一人、僕だけが、現実を受けとめられなくて、涙を流していなかった。
「落ち着いたら、また飲みにいきましょうね」
「ええ」
母さんと玄関先で言葉を交わして、おばさんは帰っていった。
現実感を失った僕は覚束ない足取りで二階の自室に向かおうと階段に足をかける。
「平太、しっかりしなさい」
母さんが僕の背中に声をかけたけど、そんな気力は残されていなかった。
ネネとよく遊んだ子供部屋について、だけど、あの頃とは違って、たくさん模様替えしちゃったから、思い出のかけらなんて、全然なくて。
「なんで」
力が一気に抜けて崩れ落ちるよくにベッドに倒れる。
つかれた。
そりゃそうだ、プールでへとへとになるまで泳いだあと、ネネと付き合って遊んだんだから……。
「遊んだ?」
そうだ。
たしかに、僕は髪を染めたネネと遊んだんだ。
死んだなんて嘘だ。
殺しても死なないような性格をしているのに、ネネが死ぬはずないじゃないか。
「そうだよ、生きて……」
にゃあ。
鼓膜にこびりついた鳴き声がリフレインする。
猫。
ネネは、猫に。
「……それこそ、嘘だよ」
ネネは猫に、生まれ変わったのかな。
「……ああ、くそ」
心が折れた。
受けとめられない現実に僕は異常に空しくなって、このまま、窓から外へ飛び出したい衝動にかられる。
刺激がない世界で、ネネがいない世界で、このままダラダラ歳をとるくらいなら、いっそのこと、
うつ伏せになって世界の終わりを想像したって、なにも変わりはしないんだ、それだったら、僕が僕と呼べるうちに自分で最後を決めるのもアリなんじゃないか?
一日でいっぱい人が死ぬんだ。
ネネもその数字に含まれただけなんだ。
だったら僕も……!
顔を上げたら、ドアの前でさっき落とした封筒に目がついた。
あれはなんだ?
おばさんから渡された、封筒。
力なく、立ち上がって、僕は封筒を開けた。
ミミズがのたくったような悪筆で、解読するのでさえ、骨がおれそうな文字が、文字列が、全部で十個ならんでいる。
「これは……」
しわくちゃな紙面に引かれたボールペンの線。
死ぬまでに叶えたい十のこと。
汚い字で、たしかにそう綴られている。
「まさか、ネネの」
1、おしゃれがしたい。
2、泳ぎたい。
3、大人になりたい。
4、恋がしたい。
5、デートがしたい。
そこまで見て、僕は膝から崩れ落ち た。
最悪、だったに違いない。
彼女はまともな恋がしたかったはずなのに、中学二年生らしく、世の十四才の女の子のように、恋をして、青春をして、過ごしたかったはずなのに、なんでよりにもよって、最期の、真夏の蜃気楼のような願い事の相手に僕を指名してしまったんだ。
もっとまともに、彼女がきちんとした人生を歩めば、べつの、べつの良い人と会うこともできたはずなのに!
6、走りたい。
7、学校に行きたい。
8、みんなにお礼が言いたい。
ああ、あれが本当にネネだったら、
僕の夢じゃなくて、本当にネネの思いが形になっていたとしたら、
真剣に願いを叶えられていたのだろうか!
9、会いたい
「あ……」
僕はその文字を見て、嗚咽が止まらなくなった。
「ああ、あ……」
9、会いたい、平太に、もう一度、会いたい。
「本当に……」
本当に……、
「僕でよかったの……?」
会えて嬉しかったよ。
ネネの笑顔をもう一度、見れて、僕はとても嬉しかったよ。
会えてよかった。
白昼夢でも構わない。妄想でも、蜃気楼でも、僕らはたしかにあの公園で、最期にカクレンボをやったんだ。返事がなくなったって、日が暮れるまで遊んだ記憶は無くならない。
そうだよ、
「ネネ……」
もういいかい、なんて二度と聞かない。
ネネがよくするように僕は君の事情なんて無視して、探しにいってやる。だって、君の最期の願いは……、
10、生きたい。
震える手で、僕はソレを胸に抱いた。
僕も、死ぬまで生き続けよう、そう思った。