静止した万物は月の光に耳を澄ます 1
たぶん信じてもらえないだろうけど、三年ぐらい前、世界中の時間が止まったことがある。
投げたボールは空中に静止し、音も風も無くなった世界で、不思議なことに、僕は自由に動けたし、それは彼女も同じだった。
あの子について、知っていることは多くない。
名前もクラスも、彼女に関することは何一つとして知らなかった。
共通点といえば、同じ学校に通っているということぐらいで、特段彼女を意識したことは無かったし、僕以外の生徒もそれは同じだったのだろう。
しかしながら、時間が止まった世界で二人きりとなると話が違ってくる。
すべては偶然で、もっといえば、あれはきっと夢の中の出来事だったのかもしれない。
その日、僕は友達とおどけながら階段を下っていた。なんでもない、いつも通りの放課後。
友人の住吉がふざけて僕の肩に小突いたのが、いけなかった。よろけた拍子に階段をかけ下りていた隣のクラスの男子にタックルをくらってしまったのだ。
あ、まずい。
と思った瞬間、視界が明滅し、コンマ数秒後に衝撃とともに暗転した。辛うじて受け身が取れたので、痛む右手をさすりながら起き上がると、何もかもが一変していた。
僕にタックルを食らわせた三組の相沢は数センチ浮いていたし、住吉は口をあんぐりとあけたままピクリともしなくなっていた。
どうにも様子が変だ。
声をかけてみたが誰一人として返事が無かった。
シンと静まり返った黄昏時。
昔の人はおうまが時と表現した時間帯に僕は恐怖を感じていた。
助けを求めてみても誰からも返事はない。
空中に浮いたままの相沢くんを掴んで床に引きずり下ろすが、お礼を言われることも無かった。
周囲を見渡してみると、廊下を行く生徒たちはみんなマネキンのように動くことは無かった。辺り一帯、突発的にパントマイムが流行りだしたのだろうか。
射し込む夕陽。空は茜色、というよりも、日没近くになり、どちらかというと紫色っぽい。
このままずっと日が沈むこともないのだろうか。
ポケットの携帯を取り出して、画面を見ようとしたが、真っ暗なままで時刻が表示されることもなかった。
住吉の左手に留められている腕時計を覗きこむように眺めてみると、長針も短針も前に進むことはなかった。
壊れてしまったのは僕か、それとも時計の方か。
ため息をついて、「おーい」と声をあげながら、とりあえず無事な人がいないか探すことにした。
廊下を抜けて、エントランスから校庭に移動する。風は凪ぎ完全な無音状態だった。世界は死んだように眠りについている。
野球部が練習試合をしていた。みんな、途中で放り出された人形みたいにポーズを決めて立っている。
校庭を照らすライトが眩しく、羽虫はヘリコプターがホバリングしているみたいに止まっている。
音は一切ない。外部刺激がないと、人は狂うと何かで読んだことがある。
もしかしたら僕は狂人の入り口に立っているのかもしれない。
ピッチャーが投げたボールは糸もないのに空中にあった。重力すら存在しないらしい。
見たことのない光景がそこかしこに溢れていた。
ためしに地面の砂を手のひらに集めて、相撲の土俵入りのように投げてみたが、数秒、砂煙を起こしただけで、すぐにピタリと動きをとめた。
僕が触ると少しだけ時間が動くらしい。
不可解な現象の糸口が見えた気がした。
校門に立っていた体育の沢口先生の肩をポンと叩いてみたが、特に変化は無かった。生き物は例外らしい。
「はぁ」
とため息をついた瞬間、
ポーン、とビアノの音がした。
「え」
振り返り、校舎を睨み付けるように眺める。
静止画のように止まった世界で、澄んだピアノの音色だけが断続的に響いていた。
僕以外に、誰かいるらしい。
ゆっくりと、元来た道を引き返す。
お世辞にも、うまいとは言えない演奏だった。
途切れ途切れにメロディが奏でられている。どこかで聞いたことのある曲だと思うが、喉から上に上がってくることはなかった。
ストレートにいってしまうと、下手だ。もどかしくて仕方なかった。
止まった世界でピアノを弾く謎の怪人。
怪しさ満点の奏者だが、この際、誰でもよかった。世にも奇妙な物語から僕を救いだしてくれるなら、悪魔にだって頭を下げる。
校舎に戻る。演奏が響いている。人影はあるのに、誰一人として声をあげない廊下。薄暗闇とともに歪な音符が跳ねている。
音は上階に通じる階段の方から聞こえてきた。この先にあるのは音楽室で、ビアノが置いてあるのはそこぐらいだ。
もし、時間を止める能力に、巻き込まれたのだとしたら、元に戻してほしいと乞う必要がある。下手くそなピアノの腕前を上達させたいから、時間を止めた、とかだろうか。ぼんやりと理由を想定する。
階段の踊り場のロッカーからホウキを手に持って、音楽室の前に立つ。
もし、扉の先にヤバいやつがいたとしても、この棒っきれが武器になるとは思えないが、なにもないよりはいいだろう。
ノックをしようかと一瞬悩んだが、無駄に警戒させる必要はないな、と思い直し、「ええい、ままよ」とドアノブをひねる。
ビアノを弾いていたのは、ピンク色のパジャマを着た女の子だった。
いきなり開いたドアに目を丸くしている。卵を握るように丸められた手は空中で動きを止め、鍵盤を叩くのも忘れて彼女は僕を見ていた。
「驚かせてごめん」
ホウキを壁にもたれさせてから、僕は彼女を見据えた。
線の細い女の子だった。髪は短いが、活発そうには見えなかった。肌は青白く、目は落ち窪んでいる。
「ただこの状況がわからないから、教えてほしくて」
恐る恐る尋ねるが、彼女は困ったように口を結んでいる。
「あの、えっと……」
気まずい沈黙が落ちる。
「時間、止まってるよね?」
念のため確認したら、こくんと頷かれた。
最低限のコミュニケーションはとれるらしい、とホッと胸を撫で下ろすが、言葉が続かなかった。
時間が止まった世界で、ようやく動ける人間に会えたのに、これではなんの意味もない。
なんとか言葉を吐き出そうと考えあぐねくが、いい台詞が思い浮かばなかった。
いっそのこと向こうから声をかけてくれたらいいのに、と思いながら少女を見つめる。
彼女の後ろの窓ガラスの向こうに、満月が輝いているのが見えた。
「あ」
思いだした。
「月の光」
先程まで彼女が一生懸命演奏していた曲名だ。ドビュッシーの月の光。
僕が呟くと同時に、少女は小さく口を開いた。
「んで」
「え?」
「なんであなたは動けるの?」
蚊の鳴くような小さな声だった。
祖先の肉体を奪った吸血鬼の影響、と軽口を叩こうかとも思ったが、滑りそうなのでやめておいた。
「なんでかは、僕も知りたいし、わからない。君が時間を止めたの?」
正直な返答を受けて、彼女は少しだけ目線をふせた。
「ぁ、ぇ、と。ちがう、けど……でも、私のせいに、なるのかな」
吃りながら彼女は小さく続けた。
「たぶん、私が、あなたを巻き込んだ、んだと思う。ごめんなさい」
「それは構わないけど」
少しだけ謎が解れて一安心だ。
「戻してくれないかな。夜に見たいドラマがあるんだ」
最終回二時間スペシャルなのだ。
「ぅん。わかった……」
彼女は悲しそうに頷いた。
よかった。なんだかわからないが思ったよりすんなりカタがつきそうだ。
「ありがとう、助かるよ」
「うん」
少女は頷いて、小さな握りこぶしを作った。ひどく寂しそうな表情で、ギュッと目をつぶった。
頬をつたって、顎の先から、ぽつんと涙がこぼれる。
滴が音楽室の布の床にシミを作った。
「待ってくれ」
痛みに耐えるような苦悶の表情に思わず僕は声をあげていた。
「……なに」
うるんだ瞳で僕を見てくる。
「元に戻す前に、理由を聞かせてくれないか?」
「理由……」
「君はなんで時間を止めたんだ? どうやって」
そもそもにして物理法則に逆らい過ぎている、すんなり受け止めるには大きすぎる問題だ。好奇心がうずかない方がおかしいだろう。
「どうやって、止めたかは、私も知らない……」
「でも君の意思で動かすことは出来るんだろ?」
「……そうだけど。私が止めたわけじゃなくて、その」
「じゃあ、誰が止めたのさ」
「きっと……きっとだけど
絞り出すような声で彼女は言った。
「神様」
普段なら一笑にふすところだが、時間が止まっている今は問答無用で信じるしか無いだろう。
「そう、なんだ……すごい、ね」
そうとしか言えない。その能力があれば、天下もとれるだろう。いまのうちに媚を売っておくべきかもしれない。
「時間を止めたいって、願ったの?」
なんで? と尋ねると「ちがう」と首を小さく横にふられた。
「え?」
「私は、生きたいって、願ったの」
「生きたい?」
「死ぬ前に、奇跡が起きたんだと、思う」
「死……」
突拍子のない発言に僕は思わず呆けてしまった。
「なんで、そんな願いを」
彼女は自嘲ぎみに微笑むだけで答えてくれなかった。
かわりに正面を向いて、ピアノの鍵盤に細い指をやった。
「久しぶりに、弾くと、指が全然動かない」
また、一から「月の光」を奏で始める。先程よりはずっとスムーズな演奏だった。楽譜は無かった、暗譜しているらしい。
「ビアノ、弾けるんだ」
「……」
無口な彼女と違い、ピアノは雄弁だった。
どこかノスタルジックな演奏に僕は近くの席の机に軽く腰かけて耳をすませた。
上手くはないけど、切ない気持ちになる。
僕は近くの椅子を引いて、腰を下ろした。
ドビュッシーの月の光。
専門家ではないので、詳しくは知らないが、ドビュッシーの性格は最悪だったらしい。それでも作りだした曲の旋律には心の美しさが反映されているように思える。
数分、彼女は指を動かし続け、キリがいいところまで弾けたのだろう。静かに天をあえいで演奏をやめた。
「死ぬ前にもう一度ピアノが弾きたかったの」
彼女はそう言って立ち上がると、椅子をしまい、僕に向かって小さくお辞儀をした。
「迷惑、かけて、ごめんなさい」
彼女は制服を着ていなかった。ピンクのパジャマ。いや、入院着だ。
僕は彼女の謝罪に答えず、椅子からゆっくり立ち上がり、音楽室のドアを開けた。
「鞄忘れてきちゃったから、ちょっと付き合ってくれないかな」
「え?」
「せっかくこんなに珍しい経験してるんだから、少しだけ散歩させてよ」
「ぅ、ぅん」
僕と彼女は音楽室を後にした。
西日と反対にある音楽室は薄暗いので
長居をすると目が悪くなりそうだったから。




