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黄昏せまれば  作者: 上葵
3/37

静寂の街に鈴の音響く3

 203号室に高石さんは住んでいた。

 空白のプレートがついたドアの前に立つ。

 ノブを握り静かにひねると、蝶番が軋んで、ゆっくり開いていった。隣の少女は無表情だった。

 視界に収まる景色は殺風景の一言だった。

 部屋に家具等は一切ない。

 七畳の部屋は所々日焼けしていて、残された生活感が妙な落ち着き与えてくれる。奥は狭いキッチンがあるだけでこれといって特徴的な設備もなかった。

「なんにもないね」

 いっちゃ悪いが空き家だ。

 どう考えたって思い出の源泉があるはずがない。

 高石さんは無表情のまま、静かに涙を流していた。

「……大丈夫?」

 生活の痕跡が、なにもない。

 母と子の思い出は、なくなった。

 それがどんなに悲しいことか、いまの僕にはわからない。

 高石さんは僕の声にコクコクと頷くが、どう見ても大丈夫じゃなかった。

 ポケットで丸くなったハンカチを取り出して彼女に渡す。

「……」

 僕にできることなんてたかが知れていた。


 結局鈴の音の正体は休憩室にかけられた風鈴で、高石さんが失った声を取り戻す事もなかった。

 現実なんてそんなもんだ。

 失声症は心の病だけど、治らないわけじゃない。時間がすべてを解決してくれるだろう。

「帰る前に少し休もうか」

 僕は肩を震わせ無言で泣き続ける高石さんにそっと声をかけた。高石さんは顔をくしゃくしゃにしながら頷いた。

「窓開けるね。暑いからさ」

 こもった空気にじっとりした脂汗が出てきたので、網戸にしてから窓を開けた。室内に初夏の爽やかな風が吹き抜ける。

 風には遠くアブラゼミの鳴き声が混じり、すぐそこにまで迫った夏の到来を知らせていた。

 今年も暑くなりそうだ。

 一年ぶりに聞いたセミの声は懐かしさを感じるよりも先に、ああ今年も夏が来るのか、という何でもない感想をもたらした。

 窓辺から背後を振り返ると、耐えられなくなったのか、高石さんはうずくまって膝を抱えていた。

 僕は彼女の横で、所在無くボンヤリと天井の染みでも眺めることしかできなかった。

 ちりん。

「……」

 高石さんが顔をあげた。

 僕も思わず口を開けてしまう。

「鈴の音!?」

 今確かに鈴の音が近くからした。

 少なくとも203号室内から音がした。

「今の音、聞いたよね?」

 僕の問いかけに高石さんはコクコクと力強く頷いた。

「どこだ、どこからしたんだ。たしかにこの部屋のなかだと思うんだけど……」

 僕は立ち上がり全身の神経を耳に集中させる。

 音が再びすることはなかったが、代わりに僕の袖を高石さんが引っ張った。

「なに?」

 彼女は真剣な面持ちで押し入れの横のドアを指差していた。すりガラスの先がぼんやりと見える。

 ドアを開けるとトイレとバスタブがあった。

 バスルームをグルリと一周、なにも見逃さない探偵のような集中力で見渡す。

 特になにもない。

 僕は高石さんに意見を求めるように見た。

『上の方から音がしました』

「上?」

 ノートの文字に促され、天井を確認した。

「あ、外れそうだ」

 バスタブに足をかけ、思いっきり腕を伸ばし、天井についた四角い板を外す。

 どうやら換気扇の通路を点検するための穴らしい。中を見ようとするが、身長が足りなくてうまくいかない。

 僕がバスタブの上で途方に暮れていると、高石さんなにか閃いた顔をして突然駆け出した。

「あっ、ちょっと、どこいくの!?」

 僕の声に返事をすることなく、彼女は去っていった。

 さっきまでボロボロ泣いていた人とは思えないアクティブな動きだ。

 先に帰ることにしたのだろうか。薄情だ。

 突飛な行動に僕は首を捻り、仕方ないので板を元に戻すなどの後片付けを行うことにした。

 全部の処理が終わり、頭にかかった埃をはたきながら、203号室をあとにしようと玄関口で靴を履いていたときだ。

「……」

 高石さんが息を切らせて目の前に立っていた。帰ったわけではなかったらしい。彼女の肩には脚立があった。

「あー、なるほどね」

 再びバスルームに戻り脚立を組み立てる。

 天井の四角い板を外し、今度は余裕をもって中を覗くことが出来た。


 携帯電話があれば懐中電灯代わりに辺りを照らすことができるのに、いまの僕は徒手空拳で真っ暗闇の天井裏を探すしかできなかった。

 なにかありそうだけど。

 必死に伸ばした右手は空を切るばかりで、鈴を捕まえることはなかった。

 もしかしたら一階の風鈴の音がここまで届いただけなんじゃないだろうか、と諦めがよぎったときだった。

 ちりん。

 再び鈴の音がした。近い。

 僕は暗闇に手を伸ばし、なにかを掴んで引きずり出した。

 埃がバスルームに舞う。

 僕の手に握られていたのはスーパーでもらえる薄いビニール袋だった。

「……ゴミ、か」

 天井の板を戻し、足をかけた脚立からピョンと飛び降りた。白いタイルが靴下を通してひんやりとした冷たさを届けてくれる。

「ビニール袋があったよ。ゴミかな?」

 自嘲ぎみに袋を掲げてみせる。

 彼女はそれを見て首をフルフルと横に振った。

「どうしたの?」

 ジェスチャーで袋を寄越すように促される。大人しく従うと、袋の口を開いて、なかから何かを取り出した。

「それって」

 ピンクの表紙に赤ん坊を抱えた女性のイラストが描かれている。

「母子手帳?」

 袋に入っていたのは母子手帳だった。


 ビニール袋は僕が預かり、高石さんは震える手で手帳を捲った。

 夏の音に混じって紙の擦れる音が静かな室内に響く。

 野暮と分かっていても、気になるものは仕方ない。僕はそっと彼女の横に立って手帳の中身を覗いた。

 高石さんは少しだけ可笑しそうに笑うと、僕にも見やすいように広げてくれた。

 妊娠過程や問診内容のページをゆっくり捲っていく高石さんの指が、あるページでピタリと止まった。


『15時25分、赤ちゃんが産まれた。私にとって、この子の声は希望の鐘のように聞こえた。美しい声で泣く女の子を私は凛子と名付けた。生まれてきてくれて、ありがとう』


 出産のページだった。

 出生体重などが書いてある。

 左手の腕時計を見ると、時計の針は15時30分を回ったところだった。思えば、昨日もこのくらいの時間に鈴の音が響いた気がする。

「……」

 なんて、ただの偶然だ。

 僕の手にあるビニール袋には母子手帳の他に安産祈願のお守り、そして小さな鈴が入っている。

 きっと窓を開けたときに気圧の変化で鈴が揺れただけだろう。だから、今しがた鈴の音はまったくの偶然で、超常現象の疑いはいっさい無い。

「う、うぅ、おあああああ」

 それでも高石さんは泣き出した。

 大きな声で。小さな体で空気を震わせて。

「ああああん!」

 はじめて聞いた少女の声は、生まれたての赤ん坊のように、他者を慈しませる効果を持っていた。空気がビリビリと震えている。心臓の鼓動さえ彼女の雄叫びに飲み込まれていた。

 それがなんだか妙に嬉しくなって、笑い顔を浮かべながら彼女の肩に手を軽く乗せた。


 高石さんが泣き止むまで五分以上はかかっただろう。

 彼女の声は名前の通り凜とした澄んだ鋭さを持っていて、聞いていると優しい気持ちになれる気がした。

「そろそろいこっか」

 落ち着きを取り戻した涙目の少女は、気恥ずかしそうに手をもじもじさせた。

「どうしたの?」

 じわじわと暑くなる畳の部屋の真ん中で、高石凛子は僕を正面から見据え、小さくそっと頭を下げた。

 小さなお礼の言葉を僕は聞いた気がした。



 それから二ヶ月後の二学期。

 僕らは少女の口から「おはよう」の四文字をはっきり聞いた。

 みんな意外なものでも見るように彼女を見たが、冷静に考えれば、それが普通の光景だ。

「菅野さん」

 照れ臭そうに高石さんは、夏の日差しに輝いて、いつも以上に可愛らしく微笑んだ。

「二学期もよろしくお願いします」

 小さな声だったが、確かな響きが僕に向けられた。





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